813
 「両生空間」もくじへ
 「もくじ」へ戻る
 前回へ戻る

第七部


世界終末戦争





第二十八章
崩壊する帝国(1942-1944)
(その2)



物資補給をめぐる攻防

 ワシントンでもまた、ガダルカナル戦の犠牲の高さは、政治的困惑の原因となった。米国政府は公式に、ドイツと戦う英国に全面的支援に入っていた。しかし、ルーズベルト大統領は、アーネスト・J・キング提督に、米国の二つの艦隊の総合司令官の地位を与え、キングは、大西洋より太平洋にはるかに大きな関心を持っている人物で知られていた。彼はその地位につくと、何人かの主要政府高官を、一人ひとり、ガダルカナルの賭けに引き込んでいった。そしていまでは、彼はルーズベルト大統領の後押しをえて、繰り返し、新造の航空機や艦船を、 「ヨーロッパ十字軍」 から削減し、ガダルカナルの執拗な日本軍の守りでこうむった損失に投入していた。
 ガダルカナルの厄介な湿地や険しく無人のジャングルのおかげで、少なくとも7回の大規模海戦が行われ、日本側も、少なくとも4回の主要上陸攻勢を展開していた。こうした諸戦闘を行使してのみ、米軍はガダルカナルの海岸拠点を確保でき、さらにその島の2,400平方マイル
〔6,100kmを占領、支配することが可能となるのであった。
 サボ島海戦は、米国海軍がこうむったいくつかの敗北のうちの最初のもので、それに続いて、8月18日、ミッドウェイでの失敗以来グアム島で待機していた日本軍第28連隊による増援上陸が行われた。同連隊は、一木清直大佐に率いられていた。彼は、1933年までの宮内大臣一木喜徳郎の血族であった。一木大佐は、この戦争で初めて、米軍陣地に対し、大規模な万歳突撃
〔全滅覚悟の肉弾作戦〕をおこなった。強固な塹壕に機関銃を構えた米軍海兵隊は、米軍50名に対し日本軍は800名が死亡するという、恐ろしい規模の殺戮をもってその攻撃を撃退した。
 もうひとつの海戦は、ガダルカナルへ日本軍の増援部隊を上陸させることを確保するためのもので、「東ソロモンの戦闘」
(22)と呼ばれた。それは、8月24日から25日、日米の航空母艦艦載機によって戦われた戦闘で、米軍が数字上の勝利を収めた。日本は、1万トン級の軽空母竜驤と駆逐艦睦月を失い、米軍は、エンタープライズが三発の直撃弾と多数の戦死者で、戦線離脱を強いられた。
 だが、米軍の勝利にもかかわらず、日本軍は、フィリピンとパラオからの第18師団第35旅団のほとんどの上陸に成功し、一木の第28連隊の8千ないし9千の残留部隊に1万名以上の部隊を増強した。この増援部隊は百武晴吉
〔せいきち〕# 2――裕仁の侍従長の百武三郎海軍大将の弟――が司令官だった(23)
 百武の部隊がジャングルの中に拠点を確保しようとしている間、日本海軍は、東ソロモン戦でこうむった損失を強引に取り戻そうとした。8月28日の夕刻、米軍急降下爆撃機は 「東京急便」 を捕え、駆逐艦、朝霧に火災を起こさせ、轟沈させた。8月31日の朝食時、日本の潜水艦イ-26号が、米空母サラトガに魚雷を食わせ(24)、以後3ヶ月以上、戦列から脱退させた。9月3日および5日には、それぞれ輸送にあたっていた米軍の旧式駆逐艦カルホーンを爆撃で、そして、リットルとグレゴリーを 「東京急便」 による艦砲射撃で沈没させた。
 百武の援軍は9月12および13日の夜、銃剣を構えた突撃態勢で米海兵隊の塹壕へ突っ込んだ。記録によると、米軍59名に対し、日本軍708名が戦死した(25)。9月16日、裕仁は自ら木戸内大臣に、日本軍の反撃は不成功であったと述べた(26)
 百武は部隊を退却させ、ジャングルを抜ける長い行軍をもって再編成をはかった。同部隊は食糧も医薬品も不足したが、略奪を働く農地もなかった。ジャングルの樹皮や野草は、食糧にするには余りにひどかった。彼らは命令に従っているうちに、しだいに、銃弾で死ぬ者より多くの兵士を、マラリヤや飢餓で失っていった。
 9月14日、百武が退却している間、大兄の小松侯爵の潜水艦隊は運に恵まれていた。彼らは、ガダルカナルから遠ざかっていた米戦艦のノース・キャロライナに大きな損傷を負わせ、駆逐艦オブライエンに致命傷を与え、そして、空母ワスプを轟沈させた。太平洋には、わずか2隻の空母、ホーネットとエンタープライズが航行可能のみでのこっていた(27)。米国の打撃に東京がそれを祝福している中、9月18日、フレッチャー提督は裏をかいて船団をガダルカナルに送り、ラバウルの日本軍機がそれに気づく前に、第7海兵師団全員とすべての補給物資の上陸を成功させた。
 ガダルカナルの米軍は、かくして初めて、チューンガム、煙草、土工重機、そして弾薬といった充分な物資を確保した(28)。そのうちのいくつかは、必ずしも必要物資ではなかった。たとえば、白の靴磨きなどは、すぐに海兵隊の交換市場にあふれた。その一方、中にはただ持っているだけで士気を高めるものもあり、第7海兵隊が上陸して数日後、その島にいる誰もに、朝食とともに、コンドーム3個が支給された。その際の喜びの歓声は、ラバウルにも届かんばかりであった。たちまち、空想家は、看護婦や婦人部隊が島に到着する日を話題にし、現実家は、その新しい配給容器が、湿地を行く時、キャンデーがしけらないように入れておくのに便利だと国への手紙に書いた。9月13日、海兵隊司令官のアレキサンダー・バンデグリフト准将は、島の東端の日本軍支配地に、最初の本格的攻撃を加えた。しかし、日本軍の頑強な塹壕に効果的に配置された機関銃により、67名の海兵隊員がなぎ倒された時、彼は即座にその攻撃を中止した。
 十日後、東条首相の反対をおして、裕仁は、ドーリットルとともに東京に空襲を加えて捕虜となった3名の米国人乗員への死刑判決を公けに支持した。そうすることで、日本の大衆に、死をかけた戦争状態にあることを印象付けたのであった。
 10月11日から12日への夜間、米艦隊はふたたび 「東京急便」 を待伏せし、今度はそれに成功した。米駆逐艦ダンカンは沈められたが、他方、日本の艦長たちは、重巡洋艦布古鷹、駆逐艦吹雪、叢雲、夏雲を失くした。艦艇数の限りでは、米軍は勝利を宣言することができた。だが日本の艦船が、沈没させられる前、ガダルカナル島の百武部隊に大量の物資を下していた事実はそれを傷付かせるものだった。この日本側の小さな成果はしかし、10月13日、米陸軍第164連隊の先行部隊が同島に上陸を始めた時点で、たちまちに無効となった。だが、その夜、日本の戦艦2隻がいつもの 「東京急便」 の駆逐艦とともに 「スロット海峡」 を南下してきて、ヘンダーソン基地に70分間にわたり大口径砲による砲撃を加えた。これにより、同基地にあった39機の急降下爆撃機のうちの34機と、40機のワイルドキャット戦闘機のうちの16機が、修理不能にまで破壊された。
 こうした日本海軍の消耗の一方、しだいに増強された日本地上軍による最大の攻勢が行われた。一木部隊と百武部隊の生残りに加えて、東インドシナからの第24師団が、いまひなんとかジャングルを固めようとしていた。こうした日本の連合部隊約3万は、丸山政雄中将――裕仁の二人の叔父の陸士の同窓生で、1923年時のヨーロッパでの裕仁のスパイ団の一人――に率いられていた。丸山は、一木や百武のような宮廷の血縁将官ではなく、筋金入りの職業軍人であり、確かな成果を請合っていた。彼は、部隊を整列させ、日本艦隊の主な動きと連携する三段階の攻撃に入ろうとしていた(29)
 だが、ジャングルが支障となった連絡の不通と遅れにより、日本軍の多大な努力は、湿った導火線のように、四日間にわたって散発的になってしまった。戦車の攻撃は、その司令官が24時間の延期を聞き落とし、一日早い10月23日に実行してしまった。その結果、9台の戦車と6百名の歩兵が無駄に失った。10月24日、丸山の主要部隊の銃剣を構えた突撃攻撃は、海兵隊の塹壕を突破できずに失敗し、2千名の戦死者を出した。その二日後の夜、ジャングルの中に留まっていた日本軍連隊が木々の間から万歳攻撃をかけたが、全滅した。こうして、2千名以上の日本軍兵が戦死したのに対し、米軍の海兵隊は塹壕に守られ、2百名以下の損失ですんだ。ある海兵隊司令官の言葉によれば、丸山の部隊は、 「性急、尊大、作戦的硬直」 の犠牲となった。
 10月25日、地上で作戦が繰り広げられている間、日米の空母艦隊は、地上での部隊への空からの支援を確保しようと、互いの攻撃圏内まで接近し、サンタ・クルス島付近で戦闘を繰り広げた。日本の機動部隊は、空母の瑞鳳と翔鶴および重巡洋艦筑摩が大破し、軽巡洋艦の由良が沈没し、撤退した。しかし、米軍側は、駆逐艦ポーターと空母ホーネットの就役を永遠に奪われたが、太平洋で唯一のエンタープライズは就役を続けたものの、この無敵空母も、44名の乗員の犠牲を含む甚大な損傷をこうむっていた。


飢えと孤立

 10月27日、裕仁は木戸に、 「第二波の攻撃は失敗した。次の攻撃に入る」 とその落胆を表した(30)。木戸は、和平派という隠密の組織を確立させ、敗戦の事態に備える繕い策を準備させるため、一週間を費やして同派への下工作を行ってきていた。10月21日、彼は東大付属病院で近衛と会い、11月初め、和平派の主要構成者を集め、和平課題を整理し、それぞれの使命を割り当てる秘密会議の開催を決めた。 「第二波攻撃」 の失敗を認めた後の10月28日、裕仁は、新任のローマ駐在大使、日高俊六に自ら指示を出し、もし和平が成立するなら、日本軍は中国から撤退する用意があり、東南アジアでの特権国家としての日本の要求は最小限となることをバチカンに確約する権限を彼に与えた。
 フランクリン・D・ルーズベルト大統領もまた神経を昂ぶらせていた。1942年の上院議員選挙の前夜、海軍力信奉者かつ元海軍次官補として、ガダルカナル海域から米国空母が姿を消し、残された海兵隊員たちが空軍の支援を断たれた状態に、彼は危機感を抱いていた。サンタ・クルス島海戦で空母ホーネットが沈没した数分後、彼は参謀長たちに、 「ガダルカナルを保持するため、同地域に可能な限りの戦力を投入できるようにせよ」 との指令を出した。
 このルーズベルト指令に応えて、10月30日、米軍海兵隊は、ガダルカナルの端の日本軍掌握区域に、二度目の攻撃をかけ、またしても、71名を失って撃退された。攻撃された日本軍掌握区域は、百武大将の部隊が守っていた。丸山大将と一木大将の双方の部隊は、島の内部の掌握を失い、一週間前の悲惨な失態の後、後退と、飢えと、部隊の立て直しを強いられていた。
 この米軍部隊の選挙前攻撃の間、百武大将は、弱体化した自分の部隊への援軍を求める緊急電を打った。11月の第一週、東インドシナの第38師団の2大隊、約5千名が、なんとか間に合って 「東京急便」 で上陸し、その飢えた部隊に加った。
 11月8日、選挙の終了とともに、米海軍南太平洋司令官のウィリアム・ハルゼイ中将は、自らガダルカナルを訪れ、戦況をその目で視察した。その最初の夜、彼は、 「東京急便」 による砲撃と、 「洗濯機チャーリー」 ――沖の駆逐艦に砲撃目標を与えるため、ヘンダーソン基地に閃光弾と250ポンド
〔100㎏〕爆弾を投下した一人の巧みな日本軍機夜間操縦士――による爆撃をみまわれた。ハルゼイは記者会見を開き、戦勝を鼓舞する有名な訓令、 「ジャップ〔日本人〕を殺せ、殺せ、殺し続けよ」 を表した。(31)
 日本側の努力は、その一週間後、第38師団の残りの1万7千名余りがラバウルより艦隊の護衛で輸送されてきた時、その最高潮に達し、ハルゼイの料理法に提供される最もふさわしい食材――つまり、砲撃の餌食――も最高点に到達した。その後のガダルカナルでの海戦は、ふたたび、日本艦隊の砲撃の正確さと巧みな操船能力が、米艦隊のレーダーによる探知力や夜間視準の有利さを上まわった。その戦闘は三夜にわたって繰り広げられた。そしてそれが終了した時、米国艦隊は駆逐艦7隻、巡洋艦2隻を沈没させられ、修理可能だが大破していた艦船3隻、2隻の巡洋艦が大損傷、戦艦1隻も手ひどい損傷を受けた。他方の日本側は、戦艦2隻と駆逐艦2隻を失っただけだったが、11隻の輸送船と第38師団の十分の一以上の将兵を失った。生き残った日本軍歩兵は、大半が駆逐艦でラバウルへ送り返されたが、その一部は、エスぺランス岬沖で海に飛び込み、陸地へと泳ぎ着いて、ガダルカナルの遠征軍に合流した。
(32)
 米海軍は、またしても恥辱的な敗北をきっしたが、日本海軍も、完全武装の師団をガダルカナルに上陸させることに失敗した。米国はすでに、 「カナル」
〔ガダルカナル島の米側の別称らしい〕に二個師団を持っており、その各々は火力において、そして二つ合わせて日本の一個師団の戦力に匹敵していた。日本軍は同島に依然、一個師団分以上の部隊を保有していたが、それらを強壮な部隊とするには、武器、食料、そして医薬が不足していた。
 11月16日の早朝、海軍の最後の勝利でありながら、〔上陸〕失敗の知らせが東京に届いた。東条は、直ちに、予定していたマニラと南方々面への訪問を取り止めた。裕仁は、昔の体操教師で大兄の小松大将に、ガダルカナルの将兵を飢えから救うため、彼の潜水艦隊を物資供給の目的に使うよう、様々な方法をこうじるよう命じた
(33)。木戸内大臣は、翌11月17日の夕、おそまきにもその戦闘のニュースの抜粋を聞いた。それは彼が、ドイツ音楽界の巨匠フェリックス・ワインガルトナーの送別コンサートにおいて、彼の指揮する交響国 「神々の黄昏」 の山場を聞いている時だった(34)。その二日後の19日、裕仁は木戸に、伊勢神宮を参拝するため、ただちに京都の歴代天皇陵への公式訪問の準備にかかるよう求めた。
 小松大将の潜水艦隊は、数週間にわたり、魚雷を用いて水密性の缶に詰めた米を発射する実験を行った。その試験が進行中、ガダルカナルの3万の日本軍将兵は、木の根の汁や古びてカビの生えた魚の干物で生き延びていた。11月末までには、前線の日本軍の塹壕に配置されている兵士でも、充分に歩き回れるのは少数だった。残りのものは、脚気でくるぶしがぶよぶよに膨れ、よろめくのがやっとだった。東京急便の駆逐艦は、エスぺランス岬沖に補給のドラム缶を夜間投下し続けたが、米軍の魚雷艇が、その投下を岸の近くで行わせず、大半のドラム缶は浜辺の飢えた日本軍によって回収されることはなかった。
 その月の末には、日本軍は、東京急便の艦隊の甲板に食糧物資を山積みにし、また、駆逐艦の魚雷には米や醤油が詰められるまでに至った。11月30日の深夜、ハルゼイの部隊は、そうした補給艦隊を、6隻の駆逐艦と4隻の重巡洋艦で待伏せしていた。田中頼三中将―― 「カナル」 の海兵隊員の間では 「東京急便の不屈の田中」 として知られていた――はその夜、8隻の駆逐艦を率いているのみで、しかも、その内の6隻は、輸送目的のために改装され、その武装を一部、撤去していた。田中は、彼の優秀な砲員の正確で幸運な砲撃をたよりに、警戒することなくその米軍の罠に入り込んで行った。その後に生じた〔米軍側の〕大敗北は、これまで充分に説明されたことはない。ともあれ、米軍の艦船は、日本軍もそうしたように、確かに砲撃を行っていたはずである。その夜、田中は物資投下は行なわなかったが、その魚雷はすべて費やし、一隻の駆逐艦の損失のみで、ブーゲンビル島へと引き上げた。だがその背後に、彼は大惨劇を残していた。重巡洋艦ノースハンプトンは沈没、重巡洋艦ミネアポリスは2発の魚雷を受け、重巡洋艦ニューオーリンズは、艦の5分の一を超える艦首の120フィート
〔36m〕を失い、かろうじて沈没をのがれ、5ノットの低速でなんとか自力帰還していった。重巡洋艦ペンサコラは、後部機関室に火災をおこし、12時間にわたり燃え盛った。かく、その待伏せは完璧に失敗に終わり、それは、米軍の艦長たちにとって、夜間作戦にレーダーを用いる際、それに頼り切るなとのよい教訓となった。(35)
 田中の目を見張る戦果ではあったが、それは、ガダルカナルの3万余名の日本軍部隊の飢えに関する裕仁の心配を何ら軽減しなかった。彼はいくらか辛辣に、小松大将――彼の不注意がミッドウェイの敗北の重大な原因だった――に、米軍の防衛線を突破するあたり、部下のエリート潜水艦隊員をおしむな、と命じた。不満気な部下の艦長らをよそに、小松は11隻の潜水艦をただちにガダルカナルの任務につけ、それ以上の数の潜水艦を乾ドックに入れ、水面下輸送を果たせるよう改造に入った。1月初めまでに、20隻のイ号潜水艦に、 「貨物缶」 の運搬装置が装備された
(36)。それは二つの魚雷で推進するいかだで、大きな舵をもち、一人のふんどし姿の乗組員がそれを操舵した。その奇妙な仕掛けが、潜望鏡深度から発艦した後、水面に浮上し、2トンの食糧を2.5マイル〔4㎞〕までの距離、海岸まで運ぶものであった。1月末までに、水面下のいかだとその勇敢な操舵手は、ガダルカナルの飢餓状態の3万人の防衛隊に、一人当たり一日10オンス〔280g=約2合〕の米を届けた。しかし、その供給作戦の中で、小松大将は、彼の艦隊から2隻――12月9日にイ-3号、1月29日にイ-1号――の潜水艦を失った。


大戦一周年

 ガダルカナルの海岸拠点上で、米軍の司令官たちは、飢えとマラリアが、日本軍の将兵たちを弱らせてゆくのを待っていた。今や米軍は、4個師団とともに2個海兵師団からなる陣容を構えていた。12月7日、真珠湾から一年を記念する日、海兵隊バンデグリフト大将は、その指令を陸軍のアレキサンダー・パッチ少将に委ね、自分の第1海兵師団の疲労と病気の残存将兵を引き連れ、休養と元気回復のためにオーストラリアに移動した。まだ塹壕に留まれる状態のものは、そのうちの3分の2に満たぬ者だった。乗船の日、その多くは、貨物ネットをつたって船腹よじ登ることが困難であるほど弱っていることが分かり、吊り上げられて乗船するしまつだった。そうした弱り切っている海兵隊員でも、ガダルカナル島が水平線の彼方に消えてゆくのを見ながら、それぞれに、うらみ、つらみを口にしていた。
 翌日の12月8日、裕仁は、ヒットラーとムッソリーニと、儀礼に祝電を交わして、開戦の一周年を祝った。だが、日本軍の空母艦隊はミッドウェイで失われて、霞ヶ浦出身の名操縦士の生残りも、ハンダーソン基地上空で、一人ひとりと消されていっていた。陸軍の歩兵部隊も、その自慢してきた精神的果敢さを、米軍歩兵部隊に見せつけることができないでいた。日本の戦士たちの手に残されていたものといえば、明治天皇時代に前面に出しえた、伝統的艦隊行動の卓越さのみであった。
 裕仁の胸を満たす苦難は、母親の節子皇太后によって、いっそう重いものとなっていた。真珠湾攻撃の三日前、皇太后は東京を去り、沼津の別荘にこもってしまっていた。そこで彼女は、戦争反対の意思表示をこめて、故西園寺親王の友人たちとともに、隠遁生活を送っていた。裕仁は、彼女の愛国心の足りなさに苦言を表していたが、ついに9月18日、皇后良子を沼津に送り、異例なほどの謙遜と誠実さをもって、母に忠告を表した。その愛らしい58歳の皇太后は、良子の嘆願を断ることはできず、自ら課した追放の年の区切りともなる12月5日に東京に戻ることを約束した。彼女はその約束どおり、12月8日、本来ならそこに居るべき東京の宮廷に戻った。しかし、裕仁は、彼女をまだ沼津に留まらせておくべきだったと望む結果となった。というのは、彼女は、その居住を始めるとすぐ、数ヶ月先に東京の人々が味わうだろう苦難を伴にするために戻ってきたと友人たちに告げ始めたからだった(37)
 1942年12月9日、開戦二年目の初日、裕仁は新たな出発とすべく、気分も新たに起き上がった。10時30分、古式蒼然とした宮廷行事を見守りながら、彼がもっとも信頼する宮廷人に、彼の衣服類や記念品を授けると、10時35分、てきぱきと木戸内大臣との一時間におよぶ対話に入った。木戸は彼に、道理に背くようなことはせず、国家の諸資源を大事にし、可能なかぎり長期に戦い、そして、何らかの有利な終結に到達しうるよう、彼の政治顧問たちに最大の機会を与えるよう、強く懇願した(38)
 裕仁は、続いて、内閣々僚と両参謀総長との連絡会議を行い、時間をかけた議論の後、何とも奇妙な国家行動への許可が彼に推奨された(39)。それは、以降、天皇は、それまでの15ヶ月間と同じく、連絡会議には自由に参加できるが、彼の参加があっても、それでその場が自動的に宮廷議事録上の御前会議へとは移行しないというものであった。それに代わり、そうした会議は、「御前における政府・大本営連絡会議」 として扱われることとなった。そして、この会議の議事録は、宮廷の記録には含まれないこととなった。そこで述べられた発言はもはや、皇位への報告として公式に編纂されることはなく、誰かがその名誉や生涯をかけて発言したとしても、それは単なる見解とされ、それ以上のものではなくなった。
 東条首相は、非公式に臨席している裕仁の面前で非公式に発言し、天皇執務室において公式に、その決定の目的について裕仁に説明することを約束した。すなわち、裕仁は、 「帝国の国家事象や戦争遂行に関し、頻繁に、彼の決定を大臣たちに」 伝えることができるようになり、 「戦争を最後まで遂行してゆくために、裕仁のために職務をつくす政府首脳や最高司令官の重要な意思決定を確認するという」 彼の必要を満たせるようになり、そして最終的に、 「陛下との頻繁な会議が、複雑な手続きや制限抜きに持てることが」 初めて行われることとなるというものであった。
 裕仁は納得してうなずき、外宮の天皇執務室へと向かった。そこでは、東条首相が、宮中の大本営でおこなわれてきたその会議の報告を行った。こうしてついに、この国家的危急に際し、裕仁は、自分の考えを拘束する皇祖や天照大神に対して負う責任に縛られることなく、自由に自らの権威を発揮できることとなった。そうした形式的儀式はかくして終了し、今後は、日本の大衆と、もし米国が勝利したならその米国への対面のみが考慮されることとなった。
 36時間後の1942年12月11日、金曜日、午前7時50分、裕仁は威厳をたづさえて皇居の二重橋から姿を現し、警察のサイレンの音とタイヤのきしる音ともに予定通りに東京駅に到着し、そして菊の紋章を付けた御用列車は、午前8時きっかりに発車した。御用列車は、午後4時10分、京都駅に到着した。その15分後、彼はロールス・ロイスから下車し、祖先の宮殿の地に降り立った
# 3
 翌日、同様な急送と警護をもって、裕仁は京都から南の伊勢半島の天照大神の神社へと鉄道支線をたどった。樹木におおわれた山に囲まれた伊勢駅から、彼の車の列は聖なる五十鈴川に向かい、聖域への入り口を意味する大きな鳥居をくぐり、巡礼者が仮泊する広場を横切った。彼は、清めの泉で止まって、伝統に従い、その水を口に含んだ。そこからは徒歩で、裕仁と随行者たちは、最も聖なる部分を取り囲む杉の巨木のなす森に入って行った。彼らは、それより先へは一般人は立ち入れない柵のところで一旦立ち止まり、そして、 神殿の境内に入った。穀物の女神をまつる外宮で、裕仁は、司祭として、豊作が続き人々が繁栄するよう祈りをささげた。
 日本の天皇は、そこで俗界の従者を残し、一人で、森の奥深く、天照大御神を祀る内宮へと入っていった。それは極めて質素な建物で、裕仁の遠い先祖が、二千年前、まだアジア東南部に住んでいた頃の、建築様式を残しているものであった。それは、素肌のままのヒノキ――太陽の木
〔その音からそう解釈したか〕――で造られ、ヒノキの皮で屋根が葺かれていた。内部から突き出た切妻の垂木は組合って交差し、屋根の両端から角のようにそびえていた。軒と門柱には赤銅の装飾がかぶされていた。入口には白絹の帳がそよ風に揺れ、両側には、神の木である、生きた榊――古代英国のドルイド教が用いたヤドリキ(クレイエラ・オークナシア)と同じ意味――の枝が置かれていた。
 内宮の外で、裕仁は、遠い親戚である神宮の宮司より軽い昼食をふるまわれた。彼はその時までに、伊勢神宮の神事には精通しており、自分の高い司祭の役割に当惑することはなかった。彼は、1921年にヨーロッパ歴訪のため日本を出る数日前に、彼の最初の同神社への参拝をしていた。1924年には、自分の結婚の報告をしに、1928年には自分の即位の際、そしてその後も、戦勝祈願で数回、参拝している。かくして彼は、彼が敬愛する明治天皇――時宜に応じた振舞い上手――を含むかってののどの天皇より頻繁に巡礼を行っていた。
 裕仁は、添えられた米飯をゆっくりと咀嚼しながら、そびえる杉の木立を見つめていた。そこで彼は、宮司を下がらせ、一人で、天照大神の神鏡が祀られた社である内宮の奥所へ入って行った。彼はそこで、ほとんど一時間、祈りをささげた。その間、ほど近い外宮のお付の者たちは、その敬虔な静かさの中で、そぞろ歩きをしていた。(40)
 木戸は日記にこう記している。


前進たる後退

 自らの一族とその力の源泉に触れえて蘇生して、その翌日、裕仁は大いに安堵し、同時に、陣容を固め、さらに戦いを進めるため、東京に戻った。その後の二週間、彼の侍従長の弟の百武大将は、たいした困難なく、ガダルカナルの第三波の米軍の攻勢を撃退した。攻防の激しい戦場では、その数フィート毎に、一人の日本軍の古参兵に対し、最近増強されたばかりの米陸軍兵の5人が戦死した。数百人の犠牲を生んだ後、米軍側が撤退した。しかし、百武大将は、彼の背後で、将兵が病気と飢えで不面目に死に続けている限り、その戦勝を喜んではいれなかった。大本営の参謀は、日本側の攻勢を強く求めたが、百武は、それに乗り出すには余りに衰弱していると返答した。裕仁は、伊勢において達した冷静な認識に立って、自らと陸軍の誇りを飲み込み、ガダルカナルの総崩れからできる限り多くの将兵を救うことを決心した。
 ガダルカナル撤退との天皇の決断は、12月31日の朝、皇居の森の装甲分厚い大本営での会議において、裕仁によって公式に申し渡された。会議後、裕仁は杉山陸軍参謀総長にこう語った。(41)
 一週間後、ガダルカナルの百武および他の日本軍司令官らは、正式に天皇からの賛辞を受け取った。なかには、這ってでも前進し死ぬまで戦いたかった、とつぶやくものもいた。またあるものは、あらゆる苦しみが終わる万歳突撃を率いることができないのなら、そうするためにと前線へと出てゆく者もいた。だが、塹壕の将兵たちは衰弱の余りに動けず、彼らの士官たちも、協同した行動を組織するにも、それほどのエネルギーを残していなかった。
 機転とあざむきの極致を示して、1月15日、東京急便によって、東インドシナの第38師団からの新たな大隊が、日本軍の新たな攻勢の先鋒を付ける目的をもって、ガダルカナルに上陸した。前線の日本軍部隊は、最後の勝利の闘いに再配置されると確約されて、蛸壺壕や密林の材木の掩蔽壕から引っ張り出された。日本の艦隊は、ソロモン諸島北方のキャロライン群島のトラック島の主要基地から大挙して出発し、南下を始めた。(42)
 海と陸からの神風攻撃を予想して、米軍の司令官たちは、大規模な殺戮にそなえて覚悟を固めていた。だがそれに代わって、南方のレンネル島沖で小規模な海戦が生じ、1943年2月1日から7日までそれが戦われている間、東京急便は、毎夜、ガダルカナルから千名から三千名の日本軍を引揚げさせていた。その8日間に、少なくとも1万1千名の強壮な日本兵の脱出作戦が完了した。残りの2万1千名は、米軍によって、遺体として発見された。ほとんど1万名が、行方不明者として兵籍簿から抹殺された。
 東京の宣伝担当者は、その脱出を大きな勝利であり、困難な作戦展開として誇り、それを 「転進」 と名付けた。しかし、日本の市民はそれにだまされず、その 「後方前進」 の効用についての冗談が面白おかしく広げられた。米軍の司令官たちも余り大得意ではいられなかった。というのは、彼らはうまくやった生きた犠牲者だとされ、また、死体安置所を片づけるために残されたからであった。さらには、米海軍にとって、レンネル島沖海域の日本軍のおとり艦隊との交戦は、最悪のものとなった。交戦の結果、日本の艦船は数カ所の砲撃の傷跡で帰還したのに対し、米国の駆逐艦は、沈められた重巡洋艦シカゴの乗組員を救助せねばならなかった。
 しめて、ガダルカナルでは、7つの海戦――サボ島、東ソロモン群島、エスぺランス岬、サンタ・クルズ諸島、ガダルカナル海戦、タサファロンガ、そしてレンネル島――が行われた。それらの海戦で、米海軍は、戦線についていた駆逐艦が11から6に、重艦船が6から3に、そして空母が2から1に、減少していた。しかし、米軍潜水艦と航空機は、損傷を受けた日本の戦艦が、長い距離を半分の速度で基地へと戻る際、総計として米軍のそれに匹敵する戦果をあげた。全体として、米艦隊は、大型空母2隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦15隻、そして、大型人員輸送船プレジデント・クーリッジ1隻を失った。また、ドック入りの修理が必要とされたのは、大型空母1隻、戦艦2隻、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦3隻、そして駆逐艦8隻であった。
 これに対し、山本長官は軽空母1隻、戦艦2隻、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦1隻、そして駆逐艦11隻、大小の部隊輸送船16隻、潜水艦5隻であった
# 4。重い損傷を受けて港に帰還しえた艦船はなかったが、彼はまだ自分の手に、損傷を受けながらも母国の造船所へと帰ることができた、重空母2隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦1隻、そして駆逐艦1隻を所有していた。
 日本は、ガダルカナルでの海軍の勝利を主張でき、同島からの撤退に成功したことで、小規模ながら作戦上の利点をえた。しかし、陸上と空では、日本は壊滅的だった。日本は、5千名の米軍水兵を、3千名の損失で失わせた
# 5。しかし、日本は約2千名の航空士を、米軍の6百名以下の損失で、失った。そして、地上部隊では、日本は、10対1以上の割合で失った。日本兵の2万名以上が、2千名以下の米軍の海兵隊と陸軍兵の損失と引き換えに失われた。米国から見ると、ガダルカナルは、海軍作戦であり、海軍の敗戦であった。裕仁から見れば、それは、大きな海軍と貴族階級の成功であり、それに、陸軍の下層兵士と、霞ヶ浦の熟練の下士官と飛行士のにとって重大な生命の損失をともなっていた。


 つづき
 「両生空間」もくじへ
 「もくじ」へ戻る

               Copyright(C),2013,HajimeMatsuzakiこの文書、画像の無断使用は厳禁いたします