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第七部


世界終末戦争





第二十七章
南 進(1941-1942)
(その2)



ウェーキ島 (32)

 マレーのジトラ線の戦いでの口火の小競合いの最中、連合軍はこの戦争開始以来一ヶ月間での最初の勝利をえた。12月11日の夜明け、日本軍の巡洋艦1隻、駆逐艦6隻、および輸送船2隻が、マニラ・ハワイ間、約三分の二の距離に位置する、太平洋横断便の中継地、面積わずか2.5平方マイル〔6.4km2のウェーキ環礁に錨を下ろした。40分間、日本艦隊はこの環礁に砲撃を加えた後、反撃がないのを確認し、部隊を上陸させ始めた。だが彼らが海岸線から4,500ヤード〔4110m〕に接近した時、島の450名の海兵隊を指揮するジェームス・デブリュー少佐は、配下の5インチ〔12.5cm〕砲の砲兵隊に砲撃開始を命じた。
 不意を突かれて、日本軍の艦艇は反転して射程外に脱出し始めた。海兵隊の4機のワイルドキャット戦闘機が隠されていた島をおおう藪の中から引き出され、その前の2日間に繰り返し爆撃され、あばた模様の滑走路からなんとか離陸した。日本軍機動部隊が退却する時、海兵隊の砲撃で一隻の駆逐艦が沈没した。4機のワイルドキャットは、海岸の大砲の射程外に攻撃を加え、もう一隻の駆逐艦を沈ませた。ほとんどの日本の艦艇は損傷をこうむり、日本兵の500人以上が死亡し、他方、米国側の死亡は1人だった。日本軍の司令官、梶岡定道少将は、損害の修理のため、日本の委任統治領のクウェゼリン島の基地へと引き換えした。
 梶岡は、12日後、6隻の重巡洋艦、2隻の空母、44機の航空機、そして千人をこえる上陸部隊を従え、ふたたび自分の使命に取り掛かった。再び、ウェーキ島の防衛隊はよい戦果をあげ、日本側に800名以上を死亡者をださせたが、自らは、49名の海兵隊員、3名の水兵、そして70名の民間人を失ったのみだった。しかし、12時間の戦闘が終わった時、その空軍基地に配属されていた470名の海兵隊員、水兵、飛行士、および1,146名の建設労働者と民間人が日本軍の捕虜となった。そのうちの三分の一は、解放されるまでに死亡した。


香 港
(33)

 ウェーキ島の日本艦隊の最初の作戦からの撤退は、例外的な出来事であった。その他の地では、日本軍はいずれにおいても前進していた。山下の戦車部隊は、マレーのジトラ線突破を足掛かりに、訓練不足の英印連合部隊が新たな防衛線を築くために後退する際、重大な犠牲を与えていた。タイでは、12月11日、マレー遠征の支援部隊がタイ政府と合意を交わし、バンコックの安全保障を誓約し、南部ビルマの英国軍空飛行場、ビクトリア・ポイントを占領しようと西にむかって移動した。
 翌12月12日、米国海軍は、残された航空機を、フィリピンからジャワに移動させ、フィリピンには、その全域を掩護するため、陸軍の33機の戦闘機のみが残された。
 連合軍司令官たちをしり目に、日本は自らの軍をあらゆる方向へ分散させ、あらゆる攻撃的原則に違反している行動をとった。しかし、あらゆる方面において、日本軍の分散作戦は戦果を挙げ続けた。英国領北ボルネオでは、小規模の日本船団の集結が確認された。12月15、16日には、その船団はサラワクとブルネイの岸部を攻撃、ほぼ一瞬のうちに、英国の二カ所の防衛拠点を占領した。そうして彼らは、当時、世界の1パーセント以上を産出していた油田をたちどころに手に入れてしまった。しかし、英国の破壊工作隊員はその後の一週間に暗躍し、その任務を続けた。彼らが火を放った地下での火災はその後一ヶ月にわたって燃え続け、煙の幕が消えた時には、油源ははるかに細ってしまっていた。
 マレー以外では、その頃の日本陸軍の主な攻勢は香港の制圧だった。日本軍第38師団第229および230連隊は、第18、51および104師団の隠密な支援のもとに、5日間で、その英国直轄植民地の本土保護領側を獲得した。C・M・モルトビー少将は、自軍を香港島――植民地政策の名所で、太陽のまぶしい海に囲まれた約24平方マイル
〔61㎞2の島で、その小高く美しい山の斜面には洒落た山荘や庭園が多い――への引上げさせ、12月13日までにそれが完了した。
 12月13日から18日までの5日間、モルトビー少将の守備隊14,500名――各々四分の一づつ、英国、カナダ、インド、および民間人、海軍、空軍よりの志願兵から構成――は、幅1マイル
〔1.6㎞〕の九竜海峡を横断する船着き場に結集した2万から3万の日本軍による猛攻撃に備えていた。この間、日本陸軍の優秀な砲兵部隊が、香港の浜辺や埠頭に砲弾の雨を降らせていた。12月18日、日本軍の砲撃により、燃え上がった島の北東角にある大型石油タンクからの黒煙に覆われた薄暗がりのもとで、3連隊、約1万名の日本軍がはしけやサンパン〔中国の小型船〕で海峡を横断し、島の浜辺に幅広く拠点を確保した。だが日本軍は、島のもっとも人の住んでいない山頂へと向かって侵攻し、英国守備隊を驚かせた。日本部隊が二日間を要し島の内部の高地――ごく最近、マニトバ平原から到着したばかりの小規模だが守備を固めたカナダ部隊が守りに着いていた――への困難な進撃をしている間、英国軍はむしろ、日本軍の拠点の海岸の脇にある重要諸施設を守ることを主眼に待機していた。
 日本軍の不可解な作戦の目的は、進撃する3連隊が、島全体に水を供給する山地の水源池に集結しはじめたことから、ようやく解明された。1921年に、裕仁が皇太子としてこの島を訪れた時、彼はこの水源池にことさらな関心をよせ、それを一見するため、観光ルートからは外れても、そこまで登ってゆくように求めた。今や彼の部隊は、それを占拠することを優先し、他方、モルトビー少将はその意味を覚り、その水源地の周囲の尾根や峠を守るため、持てるすべての予備戦力を投入した。
 その水源地をめぐる5日間の戦闘で、両軍の精鋭部隊の数千人が死亡し、英国軍はその防衛に失敗した。12月23日、日本軍は遂に主ポンプ場を掌握し、香港を守る英国主要部隊への給水は、ビクトリア市の貯水漕に残されていた二日分の水に頼るしかない事態となった。
 水源地をめぐる攻防が繰り広げられている間、裕仁の部隊は、香港の発電所へ側面から攻撃を加えた。そこは、負傷した兵士と小太りの中年ビジネスマンの一隊で守られていた。こうした市民志願兵は 「植民者」 からの代表で、彼らは、香港を植民地の模範とし、平和で秩序ある、極東の未来を表す最も繁盛する植民領地を形成していた。彼らは、まさしく 「白人の責務」 に忠実にあろうとして、その発電所を文字通り命を懸けて守っただけでなく、最後には、勇敢にも突撃をおこなって全員が死んだ。彼らの多くは、銃の扱い方をほんの一週間前に習ったにすぎなかった。彼らはみな、非戦闘員に留まることができ、日本の収容所の民間人捕虜となって、死に至る確率のもっと少ない道を選ぶこともできた人たちであった。
 12月23日から25日まで、日本軍の他の部隊が、ルソン島に武力上陸し、ビルマのラングーンを爆撃し、そして、蘭領ボルネオを占領している間、香港の攻撃部隊は、制圧した山中の水源地からしだいに、香港の主要都市、ビクトリアの干上がった大通りへと前進した。モルトビー少将は、その植民地の不死身の民間人総督、マーク・ヤングの要求を入れて、白旗に付して届けられた日本軍からの二度目の降伏勧告を拒絶した。クリスマスイブの日、日本軍の司令官の酒井隆中将は、配下の将校たちを通じ、英国人に、もし直ちに降伏しなければ、捕虜となる可能性を完全に放棄することになると通告するよう指令した。クリスマスの朝、占領された地帯の英国前哨部隊の生き残りが解放され、モルトビーに宛てたこの伝言とともに、彼の同僚の全員がどのように殺されたかを伝えた。正午までには、モルトビーは、これ以上戦いを続けるのは、自分の部下の命を無駄に失うことになると判断し、マーク・ヤング総督には、降伏の承認をとった。
 日本軍の山地部占領後孤立していた島の西半分の英国部隊と民間人義勇兵は、島の他の半分が降伏したとは信じられず、戦いを継続していた。彼らは、防御しやすい島の南東角の半島のスタンレー要塞で、強固な拠点を保っていた。水陸からの激しい砲撃も彼らの砲台を沈黙させることができず、彼らからの砲撃が日本軍に多数の死傷者を生んでいた。そこで日本軍は、彼らの降伏を早めるため、クリスマスの昼夜を通して、残虐と報復のぞっとするような見せしめを行った。午前中のまだ早いころ、日本軍は、スタンレー要塞の防壁の外側にあるセント・ステファン大学を占拠し、その構内に野戦病院が設置されているのを発見した。日本部隊は、酒井中将の命令に従い、病院占拠の手始めに、その90人強の傷病兵のうちおよそ60名を、銃剣で刺し殺した。(34)
 この後、〔本隊の〕降伏の言葉は得られても、スタンレー要塞は維持され続けていたため、日本軍は、四人の中国人と7人の英国人看護婦を一室に、そして約百名の医師、職員、そして担架係を他の一室に詰め込んだ。その日の午後、日本軍は、男の捕虜を一度に二、三人づつその部屋から連れ出し、そして一人、一人、その手足を切断した。そして、殺す前に、指を切り落とし、耳をそぎ、舌を抜き、目をえぐった。加えて、捕われた者の内の数人はスタンレー要塞に逃げ出すことを許され、何が起こっているかを守備兵に告げさせられた。もう一つの部屋では、看護婦たちが恐怖の悲鳴をあげた。彼女らは、積み上げられた死体をベッドに、その上で縛られて強姦された。
 その日の夕、四人の中国人看護婦、そして、最も若くて美しい三人の英国人看護婦が銃剣で殺された。その頃、スタンレー要塞においては、守備隊との交渉が開始され、他方、残された年長の四人の英国人看護婦が一室に閉じ込められ、放置された。その夜、スタンレー要塞は降伏し、翌朝、英国人捕虜たちが病院に連れてこられて、その処理を行わされた。彼らは、恐怖にかられた四人の看護婦を解放した。彼らは、処刑室から死体を埋葬地に運ぶ際、文字通りの地の海の中を通った。彼らはまた、錯乱状態となった英国人中尉を連れ出した。彼は、凌辱され、銃剣で刺殺された三人の英国人看護婦のうちの一人の夫だった。かくして、連合軍の最初の捕虜となった彼らにとっては、その後の数年にわたる収容所生活が始まったのであった。


ルソン (35)

 フィリピンでは、12月22日、日本の侵攻部隊の主力、約4万名# 4は、73隻の輸送船(36)、および、補助・支援艦船からなる船団から、ルソン島北部の西側海岸、リンガエン湾の海岸に上陸を始めた。上陸部隊は、12日前、遥か北部のアパリとビガンに上陸した各約4千名の二派の分遣隊# 5と直ちに合流した。米陸軍少将ジョナサン・M・ウェインライト――ルソン島北部、延長500マイル〔800㎞〕の沿岸防備の責任者――の総指揮下のもとで、「米・比連合軍」は、海岸線での軽度の抵抗を示したのち、退却した。
 ウェインライトは、新米のフィリピン人予備兵を、上陸してくる日本軍に対して用いる一方、日本軍の上陸拠点の南の重要な道路拠点に、予備役にあった数千名の経験豊富な部隊を配置した。ルソン島北部を放棄し南方への撤退しながら、できる限り見事に、最大の力の発揮と最小の兵員の損失を示すことが彼の任務だった。(38)
 マッカーサーは、政治的理由から、フィリピン列島の2千の島と総面積11万5千平方マイル
〔29万4千kmを守ると約束していた。だが現実には、彼は、自分の26,500名の訓練された兵士と86,000名の未熟な招集兵を、そうした不可能な任務のために無駄にする積りはなかった。彼は、およそ8万の兵力――全ての職業軍人を含めて――を、北部の大きな島、ルソンに置いていた。彼はその島では、彼の部隊が最大の成果をあげべくする積りであった。
 12月5日以来、彼は備蓄されていた武器と食糧を、小さなバターン半島――ルソン島の西岸から南に突き出ており、マニラ湾の北半分を囲い込んでいる――の先端の400平方マイル
〔1,024㎞2に移動中であった。そのバターン半島で、彼は自分の海兵隊を熟練兵部隊の中核にして、日本軍に最大の損害を与える防衛戦を展開するつもりであった。バターン半島は、マニラ湾への入り口を防御するため巨費をかけて構築された要塞の島、コレヒドールへの陸路からの接近を左右することができた。この要塞はコンクリートの地下道、井戸、大口径の大砲を備えていた。
 ウェインライト少将の部隊のバターンに向けた南への撤退は、夏季のフィリピンの首都、バギオ――日本軍が上陸したヤシの繁る海岸線から東へ約30マイル
〔48㎞〕に位置し、松の木が覆うベンゲット山脈に囲まれていた――を含む、ルソン島の北半分を無防備にしてしまっていた。12月23日、日本軍は、山腹を走る曲がりくねった舗装道路への取っ掛かりを掌握した。その夜、バギオの米軍司令官、ホーラン中佐は、装甲車を土の防御壁の上に乗り上げさせ、自分の部隊を山中に送り出して、自分はゲリラ部隊の隊長となった。
 クリスマスイブの日、バギオのアメリカ人住民は、あと数時間もすれば、香港での戦闘に加わった植民住民のように、太平洋戦争で最初の連合軍民間人として捕虜収容所に入れられることになると予期していた。そこでアメリカ人住民は、自主的にある組織を作るために地元の学校に集まり、強姦や殺人を少しでも避ける一助とし、また、可能な限りその自治組織を維持しようとした。それと同時に、地元の日本人住民の 「第五部隊」
〔敵国にあってスパイ行為や裏切り行為をする民間人組織〕 は、バギオの市政を乗っ取った。
 日本軍の先遣部隊は、それから一日以上して到着し、バギオが平和で従順な市であることに遭遇した。しかし彼らは、疑い深さゆえこの好機をのがし、「アジア人のためのアジア」 とのスローガンが宣伝のためのものでしかないことを自ら立証した。そして彼ら市に来てから一週間もしない内に、バギオの市場は閑散となり、あらゆる街角には歩哨が立ち、スペイン・アメリカ系フィリピン人富裕層の住居はすべて、日本軍所有資産との張り紙で封印され、その家具は日本軍の倉庫に運び出されたのに、略奪を働いた地元の貧民はその場で射殺された。それが良い政府とは、見せかけ上でも、一ヶ月たっても出来上がらなかった。そしてその実際――商売や生活の健全な機会やその向上への希望など――がもどるのは、戦争が終了した後の、1946年ないし1947年であった。
 フィリピンの日本軍司令官、本間雅晴中将は、12月24日の朝、一隻の上陸用舟艇から降り、リンガエンの上陸地点の海岸に立った(39)。彼と同じように、1万8千名余りの日本兵が、ルソン島の反対側、ラモン湾の海岸に(40)、24隻の外洋貨物船からマニラの東部と南部に上陸していた
# 6。同部隊は、12月12日に同じ沿岸のさらに南のレガスピの町に上陸していた約8千の部隊とすみやかに合流した# 7。本間中将は、日本帝国では最も残忍な部隊、合計約7万4千名を配下に持ち、マニラに結集させようとしていた# 8。そのうちの概ね2万6千は南から進軍し、4万8千は彼と伴に北から前進した。さらに1万2千から1万5千の予備役による補充部隊、第65旅団が、彼の背後で海洋上にあり、彼の後衛を固める占領部隊となるべく派遣されていた# 9
 本間中将のリンガエンへの上陸、そして、その目前でのウェインライト少将の即座の退却は、マッカーサーに、自分の意図はバターンで戦うことを準備しているのみであると、フィリピンの指導者に明かすことを余儀なくなせた。幾度も繰り返される全ルソン島を守るとする公言をまっとうすることが不可能で、しかも、民間人には将官の機密は明かされず、ただ極めて慎重な悲観主義者のみがそれを推測していることは、彼の参謀には全て判り切っていたことであった。1941年の秋には、 「フィリピン人の士気のため」 フィリピン在住のアメリカ人の妻や子供たちを米国本国へ避難させないようにすら努められた。そうした偽装工作は、それなくしては、開戦前の最期の二ヶ月間に、8万名のフィリピン人の予備兵を彼の部隊に加えることが無理であったからだった。招集された兵士は自分の町や故郷の村を守ることを望んでいた。彼らは、フィリピンのことなぞほとんど考慮されていない米軍の世界戦略上の時間稼ぎのために、自分たちが望みのないバターンに繰り出されると知ったら、自分らは二重に犠牲とされると覚ったであろう。
 マッカーサーは、12月23日の夕、自分の決定をフィリピン共和国大統領マニュエル・ケソンに伝えた(44)。それまでに、フィリピン人予備役兵のほとんどは、すでに部隊に編入されており、よい給与、米軍上官へのもたれかかり、そして教え込まれた勝利への確信にすがって、それに満足していた。リンガエン湾への日本軍の上陸は、わずか24時間前のことだった。それは二週間前から予想され、緊急事態としては何年も前から考慮はされていたが、それを隠ぺいしようとの努力すら、すでに放棄されていた。ケソンにとっては、マッカーサーが常にバターンへと退却するよう秘かに考えていることは明らかで、彼は騙されている感じていた。マッカーサー自身は、一週間前、ある米国人警察官がリンガエンの北の前線を抜け、12月10日にビガンに上陸した日本軍の大佐にケソンからの伝言を渡そうとして逮捕されていたため、自分の旧友にいつものようには親密ではなくなっていた。
 その夕、大統領のマラカナン宮殿で、一種の誘拐事件が発生した。というのは、ケソンがマッカーサーの参謀の事実上の捕虜となることに同意し、マッカーサーはその代わりに政治的約束を与えたからだった。後年、ケソンが結核でアメリカの病院で死んだ時、マッカーサーはその約束を果たし、ケソンの幕僚のうち、その後に日本軍の甘言につられて裏切り者となった者らについてまでも、審判から除外されるほどとなった(45)
 12月23、24日間の夜、新たに徴兵されたフィリピン兵――マッカーサーが自分の112,500の兵力に加えようと望んでいた9,000名――が、新兵用キャンプから集団脱走した。
 翌朝、ケソン大統領は、自分の閣僚たちと会い、彼の言葉で、 「マッカーサー将軍との合意を明かした」。ケソンが後に説明しているように、 「市の破壊を避け、市民を日本軍機の無差別爆撃と包囲砲撃から救うため、マニラは無防備であることを宣言すべきであった。」
 ケソンの閣僚たちの大半は、こうした政治的説得に満足して大統領に付き添い、その日の午後、米国の海兵隊儀仗兵とともに、コレヒドールへとおもむいた。日本軍が威力を示してルソン島に上陸してわずか48時間後、バターン半島先端の要塞の島の地下壕で、米国の保護のもとで、フィリピン政府は亡命政権を設立した。その政権はただちにワシントンへと移され、そこでの亡命がその後3年以上にわたり続くこととなった。
 自分の困難な政治的問題の決着に都合の良い時期となる緊急時を待ち構えてきたマッカーサーは、今やさらに困難な軍事的問題に直面していた。即ち、4万8千の良く組織され機動性の高い日本軍の熟練兵部隊が彼の北側の脇腹へと120マイル〔192㎞〕を前進し、およそ8万のほとんど訓練不足の自分の兵力の撤退を敗走へとさせる前に、片側一車線ずつの舗装道路一本を経て、バターンへと引き上げさせなければならなかった。南東海岸で2万6千の日本の上陸部隊と戦っている、マッカーサーの精鋭部隊のいくつかは、バターンの取っ付きに到着するだけでも、200マイル
〔320㎞〕以上を進まねばならなかった。それに最悪であったことは、マッカーサーは、フィリピン兵の士気の低下をおそれ、バターンには、わずかな武器と食糧の貯蔵しか置いていないことだった。防衛戦のためのこうした必須条件は、ごった返す多数の部隊とともに、その半島に直ちに結集されねばならなかった。
 バターン半島への撤退をやり遂げるには、マッカーサーは天運が必要だった。秩序のとれた撤退は、たとえ老練な部隊であっても、常に困難なことであった。二十世紀にあって、機動的火力が主力である時、熱帯地帯においてはことに、道路か鉄道によってのみ移動が可能であった。自軍のトラック部隊への空からの掩護なしに、また、その行動を促進させる幅の広い幹線道路なしには、マッカーサーのバターンへの撤退は望み薄い冒険であった。しかし、9日後の1942年1月1日までに、ほとんどのマッカーサーの将兵はバターンへ到着し、そして14日後の1月6日までには、彼の勇敢で強固な後衛部隊でさえも、その背後で橋を爆破しつつ、無事にバターン周辺へと到達しようとしていた。
 こうした奇跡の原因は、一部は、撤退中に日本軍を寄せ付けなかった有能な将校と兵士の業績がゆえであり、他の一部は、マッカーサーの敵手、本間中将にあった。もし、マッカーサーが、マレーの虎こと山下のような卓抜な将軍を相手としていたなら、バターンへの引上げは惨事へと転じていたかもしれない。しかし、本間は、その指令官としての地位を、7年間の英国陸軍との連絡および諜報参謀――赤鼻の外国通――として、また、6年間の裕仁の弟の秩父親王への侍従武官として、そして、1932年には、国際連盟へのリットン報告の翻訳を一夜にして完成して天皇に提示するといったことで得ていた。彼は、実戦司令官としての経験は、1938年の秋、漢口へと揚子江沿いに前進した短い間のものだけであった。
 本間がそのフィリピンへの日本軍の派遣の任を得たのは、第82部隊の辻大佐の周辺の参謀たちによってその計画が完成した後のことであった。その時、杉山陸軍参謀総長は、ただ本間よ呼びつけ、その計画を命令として渡しただけであった(46)。本間はこの異例な扱いに難色を示し、個人としての研究とフィリピン状況の判断に時間を求めた。 「もし、貴殿がこの任務を好まないなら、他の者に与えるだけだ」、と杉山はどなった。本間はすぐに礼をしたがそれはぎこちなく、それ以来、彼はただ命令に自動的に従ったのみだった。
 その計画は本間に、マニラを一月半ばまでに占領するように求めていた。彼は右や左をよく見るることなく自分の作戦を実行した。彼の右側には、〔敵の〕ゲリラ部隊が山中での交戦法を見出そうと姿を隠していた。また左側では、 「バターンのしぶとい奴ら」が、バターンへ通じる街道に架かる二つの主要な橋の両側に何キロにも伸びる渋滞の中で、運転手を怒鳴り散らし、落伍者を蹴飛ばしていた。(47)
 日本機の操縦士は、長く伸びた我慢がならぬまでに苛立つ車列の上を飛び、その光景を報告した。しかし、本間は、彼のところに上がってきた現地の情報のそれぞれを無視した。彼は、マッカーサーがわずか2万から3万の正規に訓練された部隊しか持っていないことを知っており、バターンにそれくらいの小規模な兵力が腰を据えることを、彼は大きな危険とはみなさなかった。たとえその最も狭い部分でも、その半島は14マイル
〔22㎞〕の幅があり、その長い前線に、集中した爆撃と、2万3千の兵士による決意を固めた銃剣突撃、そして水陸両面からの側面攻撃を加えれば、それを維持することは不可能と見ていた。時間をかけて、飢えと包囲される恐怖感を与えれば、アメリカ人はたやすい餌食となるだろう。マニラの抵抗のない街路を占拠し、必要な時に、彼の側からその棘を抜いてやればよい、というのが本間の計画だった。元宮廷侍従武官として、本間は、自分の過ちが、自らの履歴を台無しにするだけでなく、その精鋭の部隊の少なくとも1万5千を犠牲にしてしまうこととなることを、よく知っておくべきだった。


マニラ

 12月27日、マッカーサーが、バターンへの退却に成功したようだと感じ始めたころ、彼は、マニラの防衛はしないという決定を公表し、無防備都市にすることを宣言した。数時間後の東京では、木戸内大臣は、天皇に代わって、元憲兵隊司令官の田中静壱中将と会談した# 10。その結果、本間が可能な限りすみやかに掃討作戦を終わらせるとし、田中がフィリピンの軍政総監兼日本軍総司令官に任命されることとなった(48)。だが事態の〔予想外の遅れの〕結果、田中のその地位への就任は1942年8月となる。
 裕仁は、マッカーサーの無防備都市の宣言を、フィリピンでの作戦が成功裏に収まりつつあるとの意味にとった。そこで杉山陸軍参謀総長に、南進作戦の予定を6週間早め、蘭領東インドへの侵略を一気に進めるよう求めた(49)。その前年夏の計画によれば、蘭領東インドの島の数と実面積は、前線部隊の増強3師団の派遣と後背地区の警察および警備任務を担う熟練部隊を必要としていた。そのため、北日本の仙台からの優秀な第2師団が、香港を占領したばかりの第38師団と本間がフィリピンではもう使わないはずの第48師団の支援を得ることとされた。
 本間の参謀は、数ヶ月前の戦略検討の段階にあっても、コレヒドールの米国要塞の鎮圧までは、第48師団は保持されねばならないと固持していた(50)。そこで、その〔引き抜きの〕代わりに、彼らは、コレヒドールを急襲では攻落せず、飢えさせて降伏させることを認めると約束した。だが落ち度があって、裕仁はこうした経緯を知らされていなかった。もし彼がそれを知っていたなら、それを許さなかったろう。日本軍の進撃を背後に、放置されて孤立した連合軍部隊は、軍事上の重要性はもはやないとしても、抵抗は維持しており、しかも、その無検閲のラジオ放送は、敵に与える計り切れない宣伝効果をもち、征服された住民の姿勢や米英が日本の停戦協定を受入れる態度にも影響を及ぼそうとしていた。
 本間中将は、12月の末、従来の計画より早く第48師団が引き抜かれようとしていることを知り、直ちに、陸軍大将寺内伯爵に異議を申し出た。寺内は、陸軍清軍派の高齢な厳密主義者で、サイゴンにおいて南方軍総司令官として全戦線を指揮し、関連する諸部隊の調整に当たっていた。寺内は、調査の後、本間に対してこう伝えた。すなわち、本間は実際に第48師団を断念すべきであるが、しばらくの間、バターンの米軍は、コレヒドールの防備軍とみなされ、宮中では、 「池の中の鯉」――捕えるのは何時でも、特に飢えの最中なら、より容易―― として扱われようと伝えた(51)
 寺内はこの返答を、サイゴンの参謀副長で第40師団長の青木せいいち〔青木重誠の誤りか〕中将を通じ、口頭で伝えた。青木は、日本軍のマニラへの公式入場――凱旋祝賀行進が1月5日に予定されていた――の際、寺内の代理としてマニラに飛ぶ機会があったため、その使いの役をした。また、裕仁もこの祝賀に代理――先の11月、サイゴンで行われた南方方面調整会議に出席した従弟の竹田親王――を送った(52)。青木中将と竹田親王は、祝賀行進の前日の1月4日、マニラに到着した。青木は直ちに本間中将に報告を伝えた。竹田は、数人の参謀と会談し、 「フィリピンの実情」 を聴取した(53)。その夜、彼は調べた結果を裕仁に――電話ないしは電報で――通知した。
 翌朝、祝砲とファンファーレの鳴り響く中を、騎馬上で正装した本間中将が、フィリピンのマラカナン大統領宮殿前を先導して過ぎようとしていた時、副官が彼に一通の電報を目立たぬよう渡した。それには大本営参謀総長、杉山の署名があった。それは次のように簡明に告げていた。
 本間中将は急いでこの電報をポケットに入れたが、行進の後の祝賀会で、彼は竹田親王と密談し、悪いニュースの全貌を知ることとなった(54)。天皇の見解では、彼はフィリピンの占領をし損ねたというものだった。コレヒドールは飢えを深めているかも知れないが、もし、フィリピンの米軍主力部隊を最初に壊滅していれば、「池の中の鯉」 はとるに足らぬものであったろう。しかし、現実は、バターンは無視できぬ状態であるばかりか、本間のへまをつくろうために、第48師団を支援に引き抜くこともできなくなっていた。
 本間は静かに陛下の意志に服したが、奈良晃中将率いる第65旅団をバターン攻略の前衛部隊に投入することで、自らの憤懣を表した。奈良は、1921年から1933年にわたり裕仁に軍事知識をさずけた奈良武治前侍従武官長の近親者であった(55)。奈良の1万2千名余りの第65旅団は、背後地域を占領して、定守備的役割を果たすはずの中年の予備役兵達であった。それでも、前線部隊として有用であることを証明すべく彼らの意気は高く、また奈良は、本間を気の弱い苦労性の人物と見て、その任務に就くことを幸いとしていた。


バターン防衛

 1942年1月11日午後11時の夜間攻撃を口火に、奈良中将は、バターンの米軍陣地の前衛、アバケイ線へと自分の予備役部隊を突撃させた。14日間にわたる絶え間ない攻撃の後、彼は米比合同部隊を第二の防衛戦、バギャック・オリオン線まで、10マイル〔16㎞〕後退させた。そこで、本間中将は、総力をあげた突破をはかるため、南京強奪に当たった残忍な第16師団の第9および10連隊を増援に加えた。その新たな2連隊のほぼ半分の部隊は舟艇で米軍の防衛戦の背後に侵入し、その後1週間、米比部隊の塹壕を掩護するフィリピン人斥候、米軍機および海兵隊と、必死の 「孤立も辞さない尖鋭戦」 を展開した。戦闘が終わった時、進入した部隊のたった一人が捕虜となっただけで、他の全員は死亡した。(56)
 バギャック・オリオン線は破られる気配はなく、2月2日、本間中将は、屈辱的な敗北をこうむっていることを認めざるをえなかった。彼は、残りの部隊を退却させるため、彼の第33師団の第6かつ最後の連隊を掩護に投入した。彼らは惨憺たる状態で後方の野戦病院にたどりついた。5個連隊のうちのひとつ、第20連隊は、兵力の34パーセントと3名の大隊長の全員を失っていた。
 本間の指揮のもとで、全戦闘部隊の三分の一以上が作戦で戦死し
# 11、残りの三分の二は、病気、負傷、あるいは疲労のため行動不能の状態だった。戦後になっての本間自身の陳述によれば、彼は 「3千名の実戦力」 を残していた# 12。それに対し、敵兵は、小銃の撃ち方を訓練中の徴兵されたフィリピン人新兵も含め、そのほとんどが塹壕内に残り、はるかに軽微な損害をこうむっていただけだった。
 戦況を調査した結果、本間中将は、公式報告書に自分の敗北を認めた。さっそく、東京より、参謀の代表団が派遣されてきた。それは、柔らかい物腰の参謀本部作戦部作戦課長の服部卓四郎大佐に率いられていた。代表団には、新任参謀総長の和知鷹二少将――狂信的強硬派の台湾植民地軍の参謀長――が含まれていた。代表団は、2月8日のうだるような午後、戦線から150マイル〔240㎞〕離れたサン・フェルナンドの司令部で、本間中将に会った(57)
 服部作戦課長は、大本営から一通の文書を持参していた。それには裕仁の印が押され、彼がその内容を読み、許可したことを表していた。だがそれには、本間中将の目に焼付く一文が含まれていた。曰く、 「天皇はバターンについて痛く案じておられる」。本間は両手で頭をかかえこみ、そして涙を流した。東京からの使者は彼が余りに疲れ果て、感情をたかぶらせているのを見て当惑し、彼の面子を救うためにその後の数週間、彼らの最善をつくした。それと同時に、彼らは本間の指揮を実質的に肩代わりしてフィリピン作戦を天皇の直轄に置くことにし、本間を名目上の地位に降格した。そして本国に、本間が公式に援軍の必要を認めたと報告した。
 服部大佐は、東京より数人の心理戦の専門家を連れてきていた。まず 「バターンのしぶとい奴ら」が、フィリピンの日本軍の指揮が新たな方針に転じていることに気が付いた。日本軍の心理作戦家はだれもが、バターンのフィリピン兵士たちが、日本の大アジア主義の宣伝にもかかわらず、 「植民地主義の米国人主人」 の側に立ち、死んで行くのに驚かされた。現地調査では、フィリピン人は一般的に、アメリカの植民地主義より、はるかに日本に対し敵意を抱いていた。その結果、フィリピン兵を米国人将校から引き離す工作は重点から外され、むしろ、いっそう基本的な心理戦略が採用された。つまり、バターンにまかれるビラは、もう理念的な主張ではなく、生活の単純な楽しみ――フィリピンの風景、御馳走山盛りの食卓、そしてベッドの中の美女――が描かれることとなった。
 次の攻撃の前に、バターンは窮乏と飢えで地ならしされている必要があった。日本軍は、自らのバターンの経験から、ジャングルと蚊が、火薬以上の犠牲を生むことを知っていた。彼らはまた、その 「しぶとい奴ら」 が、元旦より半分の食糧しか与えられていないことも知っていた。従って、勝敗は時間の問題だった。つまりは、「大きな池の中の年老いた鯉は、辛抱すれば、容易に釣れる」(58) とでも言えたろう。
 1942年2月と3月の二ヶ月間、バターンの戦線での戦闘行動は中断され、その間、飢えと病気が広がっていた。3月までに、週当たり千人の米・比兵士が病気のために戦線から脱落した。3月末には、バターン南部の米軍の野戦病院は12,500名の患者を収容し、満杯となっていた。一方、作戦課長の服部は、新しい作戦計画を作成し、それを実行する部隊が、他の日本軍の戦場から派遣されてくるのを待った。
 マッカーサーは、援軍と弾薬と、そして少なくとも食糧を、繰り返して本国に要請した。彼は、太平洋艦隊が、フィリピンにわずかな船団を護送しえないほどに弱体化しているとは信じられなかった。彼は、ワシントンが彼の112,500の全戦力を帳消しにしうるだろうとなぞ信じられなかった。第一次大戦の全期間で死んだ米国の兵員数より、それは6,000名も上回っていた。ルーズベルト大統領が第二次大戦をそうした損失をもって開始することなど――大西洋を越えて英国に軍事支援を送っている間でもないのに――、政治的にも不可能と思えた。
 マッカーサーは、米国はフィリピンを守ると公言してきた。彼は、そうした偽の約束の洪水で、フィリピン人の士気と忠誠を高めてきていた。それが今や、彼は、本間と全く同じくように面目を失う目に会わされている自分に遭遇していた。彼の以前の参謀、ドワイト・D・アイゼンハワー准将は、ワシントンの参謀総長のジョージ・C・マーシャルに注意を払っていた。アイゼンハワー自身の見方によれば、 「マッカーサーのワシントンでの5年間とフィリピンでの4年間から、演技法を学び取った」という(59)。アイゼンハワーは、マッカーサーの司令官としての政治的手腕に着目してはいなかったが、アジアでの米国人の関与についての冷徹な東海岸人の見方については買っていた。アイゼンハワーにとって、日章旗より、カギ十字による脅威の方が身に迫っていたのだった。
 戦争が開始された当時、アイゼンハワーはマーシャル大将のために、米国の総体的戦争目的と優先性についての参謀による研究を統括していた(60)。その報告の中でアイゼンハワーは、バターンの将兵を支援するのはすでに遅く、もしドイツが早々に敗北するようであるなら、少なくとも1943年まで、東南アジアへの米軍の実質的軍事圧力を加えることはない、と結論していた。直ちになされるべき最大のことは、オーストラリアを保持することである。米国海軍の参謀も同意見であった。彼らは、数隻の潜水艦積載の医療物資をバターンとコレヒドールに送ったが、それは軍隊や弾丸や食料の船団ではなかった。
 それはつまり、 「バターンのしぶとい奴ら」 が死ぬのを放置することであった。日本軍の捕虜収容所の死の独房の壁に書かれた本国への呪いを見た感傷的な者のみが、彼らを犠牲にする決定についての論理に疑問をなげかけることができた。それとも、彼らの命は、オーストラリアにもっと近いような補給の行き届いた防衛戦でなら、犠牲にはされなかったと言い張るのも、誰にとっても難しいことだっただろう。


マレーからの撤退 (61)

 バターンの守備部隊が、砲撃での闘いには勝利しつつある一方、病気や飢えとの闘いの敗北が見え始めた頃、他の裕仁の部隊は、独自の闘いのみで、確実な足場を固めつつあった。1月23日、日本の水陸両用部隊がボルネオ島の南東部のバリクパパンに上陸し、少なくとも、ボルネオの油田地帯を掌握した。それまでの数週間で、タラカン、クチン、ルトン、ミリ、ソシテセリアの油田は火を付けられ、それらのやぐらは爆破されていた。それらを消火し、再び石油を汲み上げるまでには数ヶ月を要すると見込まれた。しかし、バリクパパンを手に入れ、かくしてボルネオ島とセレベス島の主要な港が、みな日本の手に落ちたことで、インドネシアの中心地帯に巨大なくさびを打ち込んだこととなり、南フィリピンからオーストラリアとの間のほぼ半分を達成し、西側のジャワ島とスマトラ島を、東側のニューギニアとを分離させた。
 同じ日の1月23日、南雲大将の真珠湾機動部隊からの空母に支援された日本の陸戦隊が、オーストラリア領土のニューギニアの太平洋沿岸に上陸し、台湾と同じほどの大きさのニュー・ブリテン島東端の戦略港、ラバウルを占領した。ラバウルから東南へは、点在する島々――ソロモン、ニュー・ヘブリスそしてニュージーランド――が短刀状に伸び、アメリカ軍の船団がオーストラリアに向かうには、それらを横切らねばならなかった(62)。実際、日本軍に「空飛ぶ要塞」のような長距離爆撃機を欠くことのみが、オーストラリアへの海路をただちに切断することを困難にしていたのみだった。ラバウルへの上陸は、少数のオーストラリア兵の抵抗を見たが、すぐに、日本軍の建設部隊はラバウルの滑走路の延長に取り掛かった。数週間後、彼らはラバウルをひとつの要塞へ仕上げた。その要塞は、アメリカの侵攻部隊がそれを迂回して放置し、天皇の威力の最大圏をマークしたその地を、飢えた孤立拠点とさせた。
 ふたたび、同じ運命の日の1月23日、英国のバシーバル中将は、マレーを放棄し、シンガポール島へと退却せねばならないことを決断していた。辻大佐の率いる機動部隊や自転車部隊が、六週間前に、マレー北部のジトラ線に突破口を開けて以来、繰り返される新たな防衛線は、英国軍にとっては、失意の毎週の出来事となった。後ろ向きの行軍の中で、マレー北部の前線に配置されていたパシーバルの2万名のインド人部隊は、孤立して放置され、降伏した。南部マレーでは、パシーバルは、彼のオーストラリア人師団を投入して、戦線を固めた。
 そうしたオーストラリア兵はよく闘った。彼らは攻勢に出、侵攻し、待ち伏せし、そして、日本軍はジャングルを根城に奇怪で人間離れしているといった語り草を追い払った。最後の十日間で、オーストラリア軍は、それまでにこうむった、またその後にこうむった損害以上のものを山下の部隊に負わせた。オーストラリア軍と同等に果敢な他の一個師団とともに、食糧が尽き、足を痛め、病人も出し始めた日本軍のため、パシーバルは防衛線に踏みとどまりそうであった。しかし、オーストラリア部隊と日本軍との間には、すでに南へと400マイル〔640㎞〕を追撃されてきたインド部隊が埋めていた。だがそのインド軍の踏ん張りが崩れ、パシーバルはもはやシンガポールへと退却するしかなかった。
 オーストラリア部隊のほとんどは、いまだに意気盛んで日本軍に優っていたがゆえ、落胆させられた。だがそれでも、彼らは退却し、英国とスコットランド歩兵中隊の支援を受け、マレー半島の南端を横断する最後の防衛線を作ることに成功した。英国歩兵諸中隊のいくつかは、途中で抵抗を強化するために度々投入され、他の中隊は、前線に出るのは初めてのものたちであった。この新たな防備線の背後で、疲れ切ったインド部隊は、石造りの橋を渡って、シンガポール島へと退却した。ゴムの木の間にまぎれて闘っていたオーストラリア部隊も、その後に続いた。後衛を受け持つ栄誉を得たのは、スコットランド部隊のアーガイル州兵の生き残りの90名で、2月1日、バグパイプの音楽、 「ハイラン・ラディ」 や 「赤毛のジェニー」 を奏でながら引き揚げてきた。午前8時、シンガポールとマレーを結ぶ70フィート
〔21m〕幅の石橋の半島側が、ダイナマイトで爆破された。
 それまで、〔シンガポールの〕英国海軍基地は、自給自足可能の要塞のはずであった。しかし、その石橋の300フィート
〔90m〕の破壊部と水路によって、マレー本土からは切り離されてしまった。その海岸線は、塹壕と鉄条網のみで守られているだけで、後にチャーチルが苦言を述べたように(63)、要塞の大砲はすべて海へと南に向けられており、日本軍の攻撃に対しては逆向きだった。
 包囲された島にあって、英国軍はいまだ、最近に到着した増援部隊を含め、10万以上の部隊を維持し、燃料も弾薬も、日本の陸海軍双方と数ヶ月にわたって戦うにも充分なものだった。それに加え、その島は、住民と避難民で満たされていた。パシーバル中将は、理論的には、侵攻しようとする日本軍を追い返すに充分は力は持っていた。だが実際においては、彼は、これらの大きすぎる数量が障害となることに面することとなった。
 その一方、山下中将は、前線には6万の兵力しかなく、砲撃によってシンガポールを征圧するには、重火器と砲弾を欠いていた。もし彼が間髪を入れずに攻撃しない限り、英国軍の士気は回復し、その力の可能性に気付き始めるかも知れなかった。〔もしそうなれば〕それまでの日本の目を見張る作戦も、高い犠牲を払い、長引く陣地戦に引きずり込まれることになったろう。
 山下は、配下の技術および兵站将校から、驚異的な力を引き出した。背後のジャングルに残されたあらゆる兵力と使用可能な砲火を、砲撃で穴だらけの道路や半壊した橋を通させてマレーとシンガポールの間のジョホール水道の岸辺に結集させた。英国軍がその石橋を渡って撤退を完了してわずか4日後、山下は、連続砲撃を開始するため、マレー半島の先端部に、充分な大砲と弾薬を集積させた。必要な砲弾と、数基の大口径の列車砲までも、バンコック・シンガポール鉄道の路線を緊急に修復しt持ち込まれた。日本海軍の航空隊は、前線のわずか十数マイル〔約20㎞〕後方に新たに奪取した滑走路から支援に飛来し、何の反撃を受けることなく、シンガポールを爆撃および機銃掃射した。
 山下中将は自ら、各砲撃の効果が双眼鏡で容易に確認できるガラスのドーム状の塔の上から、目的地の街路に威嚇の砲撃を指揮した。その塔は、水道の北側脇にひときわ高くそびえ、南側の英国砲兵によって簡単に破壊できうるものだった。しかし、その塔はジョホールのサルタンの所有するもので、サルタンの宮殿に設けられた私設の天文台だった。そのサルタンは、世界でも最も裕福な富豪のひとりだった。彼は、英国人のように装い、英国人のように話し、そして、その直前までの数週間、英国軍の野戦病院にもっとも寛大な支援を与えたいた。英国部隊の将官のどの一人といえども、その宮殿を砲撃する可能性など頭になかった。また、そのどの将官といえども、大谷伯爵――裕仁の母親の娘婿かつ徳川男爵の義弟で、裕仁の1930年代初期の雌雄を決した政治的陰謀への資金提供者――がサルタンと親しい知己関係にあることを知っていた。山下中将とその参謀は、辻大佐――その前年夏、台湾で南進作戦をまとめている際、大谷伯爵とともに働いていた――の主張を入れて、その目立った宮殿に彼らの司令部をすえた。
 実は、山下は、サルタン自身からその宮殿を使うよう、第三者経由の奨めを得ていた。日本軍の参謀将校は、宮殿内のかまどに火を入れるとかしてその存在が気付かれないように気を配った。彼らには、外のゴム園から冷たくなった握り飯が持ち込まれた。砲弾が飛び交い、ゴムの樹液が飛び散ったが、宮殿の庭は、混乱をもたらさないよう、英国の砲弾は奇妙なほどに几帳面に避けてられいた。
 山下中将は、ガラスドームの天文台に腰をすえ、握り飯で腹を持たしながら、シンガポール島のマレー側での出来事を、海側の英国の司令部にいる指揮官らより、いっそうつぶさに知ることができた。彼と辻は、日本軍の砲兵に、英国部隊の塹壕より、彼ら同士を結ぶ幾何学模様状の電話線を狙うよう、電話で指示した。2月8日までには、多くの英国部隊は孤立し、英国部隊の将校や技師は、司令部のパシーバルと連絡を取ろうと無駄な努力を重ねていた。
 2月8日の日没のすぐ後、小型艇に乗った日本軍部隊がジョホール水道を横断し始めた。パシーバル中将は、水道に燃えた油を流すことも可能だったが、日本の攻撃がさほどに早いとは予測しておらず、彼の技師たちの準備は整っていなかった。夜明けまでに、数千人の日本兵が島に上陸し、敵陣を突破し、彼らを捕虜とした。
 上陸して、日本軍部隊はオーストラリア人部隊の防御地帯を突破し、ブキ・テマ高地
、そして、裕仁が20年前に視察した、シンガポールの命の源泉の貯水池を奪取した。かくして、香港の物語が再び、しかも、もっと大規模に繰り返されようとしていた。


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