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第七部


世界終末戦争





第二十七章 (1)
南 進(1941-1942)
(その1)



空の征圧

 裕仁の最も忠実な文官顧問、内大臣の木戸侯爵が、12月8日朝7時15分に宮廷に戻った時、彼は、皇居の森の西側に通じる通用門の外で一瞬立ち止まり、夜が明けるのを見つめた。後になって、彼は日記にこう記した。
 午前7時30分、木戸が両参謀総長と話している時、はるか西方、ルソン島の140マイル〔224㎞〕北のバタン島の村バスコの岩礁の海辺は、夜が明けようとしていた。500名の日本軍部隊が、真珠のようなサンゴ礁を、水を蹴散らせながら上陸し、何の抵抗も受けず、村を占拠していた。日本によるフィリピン占領の始まりだった。
 一時間半後、日本軍機が香港島を急襲し、魚雷攻撃機3機とワルラス水陸両用機2機を持つ同空軍を壊滅させた。同時に、広東に駐屯する日本陸軍第38師団の数連隊が中国側から国境のシャム・チュン川を越え、香港の本土保護領である新開地と九竜を通り、東へ向けて進軍し始めた。
 同じ頃、山下中将は、タイ南部のシンゴラの町の家屋に、第25軍司令部を設置した(3)。その半時間ほど前、彼は第5師団の第二波部隊とともに上陸していた。予期していなかったタイの警察は、その上陸に反撃もせず、直ちに沈黙させられた。彼は、中国での数年の戦闘経験をもつ高度な機動部隊、第5師団――日本陸軍の最精鋭部隊――の大半を従えていた。同師団は、戦車部隊、砲兵大隊、および陸軍飛行中隊という、日本軍の選りすぐりで固められていた。その4個連隊のうちの一つは、そこから約20マイル
〔32㎞〕ほど南のタイ第二の都市、パタニへの上陸に成功していた。
 山下軍の第三支隊である第18師団第23旅団の増強第56連隊は、69マイル〔110km〕南のマラヤ本土のコタ・バルに上陸した(4)。7時間前、裕仁が宮廷の短波受信機で傍受したのは、この上陸の報だった。海岸線背後の木立の中に築かれたトーチカ線からの砲火は、夜明けまでは攻撃を妨げ、暗闇の中を飛行する英国航空機は、沖合に停泊する日本軍輸送船の一隻を沈め、他にも大きな損害を与えた。しかし、夜が明けると、砂の中から起き上がった一人の日本の工兵隊員が、一つのトーチカの銃眼に自ら飛び込んでふさぎ、彼が粉々になるまで撃たれる間、仲間の兵隊が手榴弾を投げ込んでそのトーチカを征圧し、そして、他のトーチカへその背後から攻撃をしかけた。山下軍は、三か所の地点のすべてで上陸に成功した。彼の頼みの綱、第5師団は、朝もまだ早いうちに、すばやく、タイのバンコックとマラヤのシンガポールとを結ぶ、半島の主要街道を前進しはじめた。
 その朝、山下がその進撃を開始している頃、はるか北東、台湾の日本軍航空基地は霧におおわれていた(5)。陸軍、海軍、いずれの航空基地でも、操縦士たちが自分の機の脇にたち、神経を苛立たせながら、霧の晴れるのを待っていた。一方、フィリピンでは、米国は35機の空飛ぶ要塞と呼ばれるB-17爆撃機を保有していた。もし、日本の爆撃機が米軍基地をたたく前に日本軍基地を攻撃することができたなら、それらは恐ろしい破壊力を持っていた。東京時間の午前7時30分ころ、マニラ時間の午前6時30分ころ、日本陸軍の操縦士は霧をついて離陸し、2時間もしない内に、フィリピンの英国連邦政府の夏季の所在地、バギオを爆撃した(6)。この空襲は、バギオのジョン・ヘイ基地にあるゴルフ場に大きな被害を与え、幾つかの離れ屋を破壊し、9人の命を奪った。バギオの米軍司令官、ジョン・ホラン中将は、マニラのマッカーサー司令部にこの被害を報告したが、どうしたわけか、日本軍がフィリピンを攻撃したとの知らせは、マッカーサーの耳には伝わらなかった。
 マッカーサーは、その朝、真珠湾空襲のニュースで5時間早く起こされた。彼は、日本と米国が一触即発状態にあることは知っていたが、ルーズベルト大統領やフィリピンの政治指導者の双方から、彼が反撃を許可する前には、フィリピンが日本の作戦の戦場に含まれたことを厳密に確認するよう断言されていた。
 1935年に米国陸軍を退役し、フィリピン陸軍の元帥の地位にあったマッカーサー、61歳は、ほんの六ヶ月前に、現役にもどったばかりであった。その後、彼は、配下に4,000の米国人と82,000のフィリピン人の新兵を徴用し、フィリピンは守りうるとの意味の声明を数限りなく表明していた。その朝の5時、7時15分、そして10時と、彼の空軍司令官のルイス・ブレリートン中将が、フィリピンのB-17を直ちに離陸させ、台湾の港や基地を急襲する許可を重ねて求めたが、マッカーサーはそれを許さず、日本の明確な意図がはっきりするまで、出動は待たねばならないと言い渡していた(7)
 ブレリートンは、空軍司令部で部下たちに、防御態勢をとるよう命じた。彼らは、最新のレーダー装置と、107機の整備されたP-40戦闘機を持ち、敵爆撃機にいつでも襲いかかれる準備を整えていた。だが、フィリピンでの最新鋭機であるB-17は、防御の難しさがあった。それらは、永遠に飛んでいるわけにはゆかず、少なくともルソン島には、マニラの北、約50マイル〔80km〕のクラーク基地――広大な滑走路と吹けば飛ぶような格納庫しかない――以外には、その安全な隠れ場所はなかった。また、手中の戦闘機はどれも不適切で、時おり着陸して給油が必要で、日本軍のゼロ戦と空中戦を戦わすには不向きだった。
 マッカーサーのフィリピンでの6年間にもかかわらず、隊員は戦時のためでなく、平和時のための訓練を受けていた。通信はフィリピンの電話回線に頼っており、頼りにならなかった。通常の戦時防御やその態勢も確立されておらず、不十分な演習しかされていなかった。マニラの空軍情報部のレーダーは新設置されたものだったが、その前で鳩の群れが翼を羽ばたかせただけで、たやすく誤作動した。
 誤りの警報に基づき、戦闘機や爆撃機が緊急発進し、午前中いっぱいを費やすこともあった。午前10時、台湾では、霧が上がって、ゼロ戦45機、一式陸上攻撃機
〔米軍コード名 「三菱ベティ」 〕53機による日本海軍航空編隊が離陸を始め、フィリピンの米国空軍を攻撃するため、南方に向かった(8)。その一時間後、マッカーサーは、防御に弱いB-17を最も有効に使うには、結局、攻撃に使うしかないと決断し、遅まきながらブレリートンに、台湾の基地への攻撃に出撃する許可を与えた。その時、B-17は、給油を受け、被害を避けるための防御態勢で飛行中だった。ブレリートンはそこで着陸を命じ、給油と爆弾を装備させた。全機はそれに応じ、大半のパイロットには、昼食をとりに食堂へゆく許可が与えられた。
 12時30分ころ、最初の日本軍のゼロ戦がクラーク基地に現れ、22,000フィート
〔6,600m〕の高度でゆっくりと旋回を始めた。彼らは、その下、高度15,000フィート〔4,500m〕で、偵察中の米軍のP-40の小編隊が近くのイバ戦闘機基地に引揚げて行くところを発見した。歴戦を生還した数少ない日本人撃墜王の一人は、後に、 「馬鹿げたやつらだ」 とその光景を思ったと語った。彼とその僚機は、10分間、一式陸上攻撃機が到着するのを巡航速度で飛びながら待ち、その先導に備えた。彼の眼下には、滑走路に60機ほどの航空機が翼を輝かせて整列していた。その中には、フィリピンの米国空軍の総攻撃力をなす空飛ぶ要塞B-17の35機のうちの21機が含まれていた。また、通信の不備が、マニラのレーダー所からクラーク基地に、上空でハゲタカが群がっていると警告することを妨げてしまった。12時45分ころ、日本の撃墜王、坂井三郎は、自軍の爆撃機が接近してきたのを北方に確認し、彼らはただちに爆撃態勢に入った。(9)
 日本の爆撃手の高度な爆撃技量に匹敵したのは、クラーク基地に機銃掃射を加え、爆撃後、離陸を試みた米軍戦闘機を撃墜させた日本の戦闘機の操縦士の技量だけだった。一時間――真珠湾惨劇から10時間後――にわたり、日本軍機は引き続いて同基地を破壊し続けていた。イバ基地とニコラス基地の戦闘機も同じ目にあっていた。空襲が終わった時、ルソンの21機のB-17のうちの18機、ルソンの107機の戦闘機のうちの53機、他の30機の米軍機のうちの25機が破壊されていた。マッカーサーの35機のB-17のうち14機が、600マイル〔960㎞〕南のミンダナオ島のデル・モンテ基地にいたため、破壊からまぬがれた。この14機は後に、オランダ領東インドで、坂井とその飛行士を悩ませることとなった。46日後、ボルネオ上空で、坂井は、日本が獲得し、マッカーサーがクラーク基地で失ったものへ、顕著な返礼をさせられていた。曰く、
 開戦初日、クラーク基地の地上で18機のB-17を破壊し、さらに、クラーク基地地域で78機の他の米軍機を破壊するために、日本軍は一機の爆撃機も失わず、わずか7機のゼロ戦を失っただけだった。考えられないような戦果だった。日本軍の操縦士は、台湾に帰還して、44機と他の4機もおそらく使えなくさせたと、控え目に報告した。その夜、彼らは英雄としてもてはやされた。また、失った7機のゼロ戦は、日本側もアメリカ側も、その成果に比べて微々たる損失とした。撃墜された7機はすべて、中国での何年もの経験をつんだ飛行士が操縦していた。ゼロ戦は優秀な戦闘機だった。それは、重い装甲板や火器を備えた米戦闘機の周囲を、まるでダンスを舞うように旋回した。しかし、ゼロ戦は、充分に訓練を積んだ、アクロバット飛行のできる操縦士を必要としていた。12月8日、クラーク基地上空で戦死した7人の熟練ゼロ戦操縦士の消耗は、日本が、いつかは、操縦士の訓練が愛国心より重要となる時の来ることを物語っていた。
 その日の午後、シンガポール時間の4時、東京時間の5時30分、北マレーの英国・インド部隊は、コタ・バル飛行場を放棄した。日本軍航空機はただちにその使用を開始した。最初は、海軍のゼロ戦と参謀機、そして、翌朝までに、陸軍の一式陸上攻撃機が飛来した。その前、すべての日本軍機は、インドシナの基地や、インドシナ沖の島々の飛行場から、各々の航続距離の範囲内を飛んでいた。だがいまや、タイの飛行場を経由して、コタ・バルへと搬入され、基地にもどって給油をしないで、前線上空で数時間飛んでいることができるようになった。日本軍は、翌2月9日の夜明けまでに、北マレーの制空権を握った。
 こうして、戦争の第一日目は、裕仁にとって完璧な勝利に終わった。米軍の戦艦が真珠湾で沈められた。米軍の長距離爆撃機がマニラ郊外の地上で破壊された。そして、シンガポールの英国の要塞へと通じる幹線道路の他端が日本陸軍の最精鋭部隊によって武力制圧された。上海の外国人租界は、流血の事態とならずに、完全に征圧された。東京から南西へ2,000マイル
〔3,200km〕の日本に最も近い極東の夷狄〔いてき〕の要塞、香港は、増援される望みもなく、強力な攻撃にさらされていた。かくして、孝明天皇――裕仁の大祖父――の悲願は、いまにも、その報いを得ようとしているかのようであった。夷狄は、まだ東洋から放逐されていなかったが、枢軸国の国民を除き、彼らはすべて、収容所に入れられようとしていた。
 東京では、寒い12月の快晴の夕空が一握の雲を浮かべている頃、北ボルネオの英国人は、攻落が避けられないと覚り、ルトンの滑走路を破壊し、ミリの製油所を使えなくし、そして、セリアの油田に火を放っていた(12)。それは、それがその開戦の理由である資源を日本に渡すまいとする、最初の大地を焼くような火災の始まりだった(13)。一方裕仁は、終日の会議や宣言発布の一日を終わらせて、宮廷の 「格子戸」 の背後の寝室に満足感とともに身を休ませた。足を棒のようにした彼の兵卒たちに、彼以上に安らかに眠りにつけたものは、そう多くはなかっただろう。
 翌12月9日の早朝、皇居神社の白い玉石を敷き詰めた境内での特別祈祷において、最高司祭たる裕仁は、皇祖へ戦争の成功裏の開始を報告した。その日は、国を挙げての祈りと祝賀の日であり、悪天候に首を垂れ、降雨を予期する日であり、そして、かっての戦勝の日を想起し、今後のさらなる偉業へと心を決する日であった。
 東京時間の12月10日、午前1時ころ、400名の陸戦隊は、マリアナ諸島の米国領、グアム島――香港・ハワイ間を飛ぶパンナム機の航路を東へ三分の一ほど行った寄港地――に上陸した。およそ3時間半の戦闘の後、島に駐屯していた430名の米軍海兵隊と海軍軍属は、180名の島の警備隊とともに降伏した。(14)
 それから間もなくして、フィリピン、ルソン島の北部海岸の夜が明けるころ、日本軍第48師団の第2台湾連隊から選り抜かれた約4,000名の部隊が、アパリ――滑走路をもつ北岸の町――に上陸した。この町に駐留する200名のフィリピン人新兵を率いる米軍中尉は、機転を利かして機関銃をたたみ、いったん南方の山地内へと撤退した。
 同時に、ルソン島北西端の付近の、中国側に面したヴィガンの町の浜辺に、日本軍第48師団の別の分遣隊が無抵抗のまま上陸し、ルソン北部に第二の滑走路を確保した。2日前にはミンダナオにおり、クラーク基地での悲劇から脱出した空飛ぶ要塞B-17の5機は、ヴィガンの機動部隊を爆撃するために出撃した。5機は悠然と対空砲火を無視し、掩護に当たる日本の戦闘機を撃退したが、乗組員の経験不足のため、爆撃による充分な打撃を与えることはできなかった。彼らは3隻の輸送船を燃え上がらせ、基地に帰還した。(15)



海の征圧
(16)

 日本が制空権を獲得し、戦略的飛行場を掌握している間、猫とネズミの緊迫した争いが、マラヤの海岸にそって演じられていた。その争いの重要性は象徴的なもので、その勝者は、七大洋に君臨する女王として長く不動の地位を誇ってきた大英帝国から、その地位をはぎとるかもしれなかったからだ。
 最新型の英国戦艦、プリンス・オブ・ウェールズ、3万5千トンは、12月8日、北マレーへの上陸をうかがう日本軍の輸送船団を奇襲するため、シンガポールを出撃した。同艦は、敵航空機に対する95門の最新鋭対空機関砲と、32門の自動高射砲、および、一連の通常対空砲火を装備していた。それらが一斉に火をふけば、一分間に6万発の砲弾を発射することができると言われていた。その口径14インチ
〔35.6cm〕の主砲は、一トンの砲弾を、日本の戦艦最大の18インチ〔45cm〕の砲弾より遠い距離を飛ばせる能力を持っていた。同艦はまさに、英国艦隊の誇りであった。
 チャーチルとルーズベルトは、その夏、このプリンス・オブ・ウェールズ艦上で、大西洋憲章を締結したが、チャーチルは、提督の反対を押して、11月に、日本の攻勢をたたくために、彼の判断で、同艦を東洋へと派遣していた。新造空母インドミタブルは、同艦を護衛するはずであったが、同空母はまだ試運転航海中であったため、チャーチルはプリンス・オブ・ウェールズを単独で極東海域へと送り出した。彼は、 「最新鋭の主要艦の所在位置が不明という一種の不気味な威圧は、敵の海軍上のあらゆる計算に負荷を課す効果がある」 と、同艦に期待していた。彼は、同艦の使命を、その 「出現あるいは消滅が、相手に対し、即座の対応とろうばいをうながす」 難攻不落の進撃艦となると期待していた。彼はスターリンに、同艦は、 「日本のどの艦船だろうと、捕え、沈めることができる」 と雄弁に語っていた。
 歴戦の戦士となるべきと感じたプリンス・オブ・ウェールズの乗組員は、親しさを込めて自艦を 「チャーチルのヨット」 (17) と呼んでいた。彼らが敬愛する67歳の首相は、英国戦線〔での空軍の活躍〕にも拘わらず、マッカーサー将軍ほどは航空機戦の威力を認識していなかった。チャーチルは、昔の武勇な騎士の法則――最も重い鎧をつけた騎士は、忠実な馬丁と弓射手の助けなしではなにもできず、敵の馬丁と弓射手だけで倒される――を明らかに忘れていた。
 だが、プリンス・オブ・ウェールズの乗組員は、航空母艦の代わりに、4隻の駆逐艦と3万2千トンの重巡洋艦リパルスが護衛に付けられたため、落胆はしていなかった。リパルスは、艦体は古かったものの、1930年代末に大改修を行い、今では小型戦艦に匹敵するものとなっていた。リパルスは15インチ
〔37.5cm〕砲と29ノットの速度を誇り、その対空砲火はプリンス・オブ・ウェールズに劣らなかった。実際、リパルスはプリンス・オブ・ウェールズより55フィート〔16.5m〕長く、細身で操船性はいくらか上回っていた。
 裕仁と、海軍将官の弟、高松親王の二人は、チャーチルのプリンス・オブ・ウェールズへの愛着に通ずるものを持っていた。彼らは海軍艦艇の目を見張る存在感に共鳴し、また、個人的にも海洋競技に関与していた。一週間前、プリンス・オブ・ウェールズがアフリカよりシンガポールに到着して以来、大本営の若手海軍将校たちは、同艦を海に誘い出すか、それとも、重火器で守られたシンガポール港境界内に係留されているところで沈めるか、その策に思案をめぐらせていた。だが、プリンス・オブ・ウェールズが自ら出航を決め、12月8日、シンガポールの日本の諜報員が暮れなずむ港から秘かにすべり出てゆくところを目撃した時、大本営はほぼ同時に、その情報をえていた。宮廷の海軍航空武官たちは大いに喜んだ。裕仁の許可を得て、彼らはただちにその英国の超弩級艦を待ち伏せ、沈没させることに総力をあげるよう命令を出した。海軍航空隊の百名の精鋭操縦士――霞ヶ浦飛行訓練基地の選りすぐりの卒業生たち――は、南インドシナの各航空基地で待機するよう命じられた。シャム湾南半分海域のすべての潜水艦は、警戒態勢に入った。サイゴンから偵察機が飛び立ち、プリンス・オブ・ウェールズとリパルスが、北マレー海岸へ向かうために取られる最も可能性の高い進路を空より探索し始めた。
 海軍提督トーマス( 「親指トム」 )・フィリップス卿は、プリンス・オブ・ウェールズの艦橋に一人たたずんでいた。彼は、英国海軍の極東全域の司令官で、以前は英国海軍省の副参謀長だった。小柄で、きびきびし、そして英才な彼は、海軍省では長く、航空戦力の提唱者であり、空母をのぞく大型軍艦の削減論者として不人気な役割を演じてきていた。その彼が、いまや、航空力の何らの掩護もなく、二隻の立派な大型軍艦のみを与えられて、保守的命運が彼に返礼せんとするかの結末に直面していた。
 親指トム・フィリップスは、気付かれないようシンガポールから忍び出るため、できる限りの対策をとった。彼は、自信過剰で平和時しか想定していないシンガポールの英国海軍広報事務所に、秘密を保つ小細工に協力をえることに成功した。そして、シンガポール駐在の記者たちには、事前には、「重要かつわくわくさせられるもの」 という以外には何の説明もない、「4-5日間」 の目隠し取材旅行が提供された。ニューヨークタイムスと共同通信の記者たちを含む彼らのほとんどは、当然に、その提供を断った。しかし、ロンドンのデイリー・エキスプレスのO・D・ガラハーは、それには同港の英国の新造戦艦が含まれるだろうと信じ、コロンビア放送網のアメリカ人の友人をさそい、その賭けをした。その二人の記者はやがて、予期せぬことに、重巡洋艦リパルスの狭苦しく息詰まるような船室に案内されることとなった。
 シンガポールでの防備には何らの期待も置かず、フィリップス提督は、12月8、9日と、昼夜を通し、全速力でボルネオへ向って東進した。そして、その出発を日本の参謀が聞きつけた時に命じるであろう航空偵察の範囲外と計算される、アナンバス諸島に夜明けまでに到着した。天気予報の通り、一度、12月9日の朝日は出たが、空は雲におおわれはじめ、シャム湾の彼方には、視界でもレーダー上でも、スコール状の雨が観測され、隠密行動をとるには上出来な天候となっていた。
 アナンバス諸島を回って、フィリップスは進路を北に変え、インドシナの航空基地に向けて突き進んた。彼は、自艦を捜索して日本軍機が離陸しているだろうことは承知の上だったし、それは、考え抜かれた進路だった。日本軍機は彼を捜していたが、それは、シンガポールと日本軍が上陸した海岸とを直線で結んだ、もっと岸に近い区域だった。
 日本軍との接触のありうる危険区域に入った後、フィリップスは、 「我々は、困難に立ち向かうためにやってきた」 (18) との通告を艦内のあらゆる報知板に張り出し、乗組員に彼の意図を知らせた。曰く、天候の悪いうちに、沿岸にそって 「北へ向けた突破」を試み、もし日没までに発見されなかったら、 岸に向けて方向を変え、そして、タイ南部の山下軍がその主力を上陸させた拠点へ向けて夜間の突進をするつもりである、と説明した。 「夜明けに、日本軍の上陸地点であるシンゴラとパタニの海域に達する。・・・見つけられる可能性があるのは、潜水艦と敵機 “のみ” だろう」 と彼は述べていた (19)
 この 「のみ」 というのは余りに的確な言葉だった。つまりその意味は、フィリップス提督は、日本軍機によって迎えられることを予期していたということだった。それまで数年間の彼の受けの悪い議論を知っているものは誰でも、プリンス・オブ・ウェールズとリパルスは、その一語によって、〔航空機により〕沈められるのがほぼ確実であることを意味していることを覚った。
 しかしながら、12月9日の夜明けの一時間前、フィリップス提督は幸運に恵まれた。日本軍の偵察機は、彼の艦の実際の進路の西方を捜索し、何も発見できないでいた。午後2時10分、日本軍潜水艦は、インドシナの南端の100マイル
〔160㎞〕以内に彼の艦を目視したと報告し、混乱をきわめていた。その時、彼は実際には、約140マイル〔224㎞〕も南東にいた。彼はその時、さらに東へと動こうと、方向を少し変えたところで、まっすぐに、サイゴンへと向かっていた。
 だが、日没までおよそ一時間の午後5時すぎ、フィリップスはの運は尽き果てていた。天候が回復し、三機の日本軍偵察機が水平線上に見え、彼は発見されたことを覚った。彼はその時、コタ・バルの海岸より、むしろインドシナの日本軍の航空基地に近いところに位置していた。彼は、その二隻の大型艦が致命的危険に瀕していることを知った。暗くなる前、偵察機がいまだ監視しているのを知りつつ、彼は西方へと反転し、タイの日本軍橋頭堡――全速で約11時間の距離にある――に直進するかに見せかけて高速で向かい始めた。
 日本の偵察機は、確かに彼の艦を発見しており、サイゴン近くの日本軍航空基地では、シンガポールへの夜明けの空襲に備えて装備していた日本海軍爆撃機は、大型戦艦に対する攻撃に備え、魚雷を装備し直した。4機の日本軍偵察機は、夜を通してフィリップスの艦を追尾しようと夕暮れの中を離陸し、さらに45分後、18機の爆撃機と14機の雷撃機が、偵察機を追って、夜間攻撃のために南へと向かった。
 一方、フィリップスは、士官らと協議し、日本軍をあざむくだけでなく、自艦の若輩水兵を落ち着かせるための策を練った。午後5時58分、彼は、いかにも今にも攻撃されるかに振舞いつつ、レーダー上では、日本軍機の大きな編隊はまだ接近していないのを確認し、彼は砲撃手たちに、警戒度を一級から三級へと下げて、彼らの緊張を和らげた。それと同時に、最も旧式駆逐艦テネドスを分離させ、シンガポールへ艦隊が引き返す航路につかせた。公式には、テネドスはエンジンに故障を起こし、「給油を必要とした」 とされた。だが実際は、テネドスの艦長は、おとり、すなわち、主艦隊から離脱し、シンガポールへ 「フィリップス発」 の無線通信を送り始めるという、微妙な役目を負っていたのであった。彼はこの役目を首尾よくこなし、その夜、老体テネドスは日本の潜水艦の、また翌朝には、9機の日本軍爆撃機
# 1の攻撃を引き付けることに成功したのであった。
 午後8時少々過ぎ、完全に夜のとばりが降り、タイに向けて高速で一時間以上の陽動行動をとっていた時、フィリップスは突然に陽動行動を中止し、急旋回して南西に向きを変えた。サイゴンから派遣された日本軍の夜間偵察機と爆撃機は、タイの海岸に向かってそのまま進んで同艦を見失い、ほぼ真夜中、失意のうちに基地へと戻った。フィリップスの反対側、約50マイル〔80km〕東では、おとりのテネドスは無線沈黙を破り、用心しつつ発信を始めた。
 フィリップスは、部下の乗組員たちには、自分が演じている目くらましや見せかけの危険なゲームについては何も言わなかった。午後9時5分、彼は大佐を集め、全乗組員に、艦隊は発見され、使命は中止となり、我々は帰還中であると伝えるように命じた。それから少々した12月10日、午前0時45分、彼は再び航路を変えた。その時、同艦は、マレーのコタ・バルの日本軍の上陸拠点から、およそ200マイル
〔320㎞〕あるかないのい地点にいた。その瞬間、無線室は偶然に、コタ・バルの飛行場が日本軍の手に落ちて24時間以上たち、日本軍機が飛行可能となって12時間以上経過したと報じるシンガポールからの通信を受信した。この通信はおそらく、その少し前に、おとりの駆逐艦テネドスが発した問合わせの送信への返答だった。
 北より追撃され、フィリップスはいま、彼らが休息を入れており、給油地点もすぐ西にあることを知っていた。もし全速力でシンガポールへと向かったなら、彼は翌日の昼までには入港できそうだった。だが彼は、彼がそう行動するだろうことを予想する日本海軍機が同艦をその前に捕え、沈めるだろうことをまさに恐れていた。他方、もし、彼がそこでコタ・バル方向へと舵を切り、全速力で進めば、彼の艦は、日本軍の橋頭堡の沖に、太陽を背にして現れ、捜索する日本軍機が攻撃を集中する前に、30分かそれ以上、その新たな日本軍拠点に砲撃を加えられそうだった。いずれを採るとしても、日本軍の追撃隊が充分に準備しているはずであることは確かだった。そこで、彼の判断にかかっているその二隻の立派だが時宜に適さない戦争装置に最後の最大限の働きを与えるため、彼は、第三の道をとることを決定した。それは、対決とその賭けを少々長引かせ、彼が追求してきた攻撃法、つまり、奇襲攻撃を可能とさせるかも知れない策だった。

 フィリップスは自艦をやや南に向け、シンガポールとコタ・バルの間のマレー中部の港、クアンタンを目ざした。夜明け、艦は約60マイル〔96㎞〕沖にさしかかり、そこで彼は乗組員に、日本軍はクアンタンに上陸中との報告があり、日本の輸送船団を砲撃するため、岸へと向かうと告げさせた。実際、夜の間に、そういう不確かな情報が、他の混乱した断片的情報と共に、彼にはもたらされていた。従って、彼がそれを確信していたとは怪しいものの、それもありうることだった。
 午前8時、プリンス・オブ・ウェールズとリパルスは、クアンタン沖に到着し、フィリップス提督は、駆逐艦イクスプレスを港内に入れさせ、その外見と同様、内部も平穏かどうかを確認させた。数艘のはしけが北へと引かれているのが見られたので、彼はためしに、その方向に進んだ。彼は日本軍がいる海岸線に沿ってはうように進み、明らかに、あわよくばそうしてすり抜け、コタ・バル地域で繰り広げられている戦闘にその大砲を撃ちこむことを目論んでいるようであった。しかし、それまでには、百機以上の日本軍機が捜索に繰り出され、彼の眼の前のレーダー上のコタ・バル飛行場は、クマ蜂の巣のようにごった返していた。彼は、捜索して南部を飛ぶ捜索機がもうほとんど燃料が尽きかけており、その点では、最適な機会をつかんでいた。
 午前10時、おとりのテネドスが、南東海域で爆撃機による爆撃を受けたと聞き、フィリップスは、コタ・バルへのひそかな接近を断念し、もはやこの場におよんでは不可避となった敵機との遭遇のための最大の操艦水域を確保するため、洋上へと動き出した。彼にとって、牙をむく機会は失われていた。過去の航空戦力に対する艦隊の行動実績によれば、彼には、日本軍機が燃料切れで基地に引き返すまで持ちこたえられる可能性はあった。その場合、敵機が引き返してくるまでには、約7時間あり、それは、次の夜陰に逃げ込むには十分な時間だった。この7時間に、彼にその機会を与えないためには、日本軍は、北マレーの前線で必要とされていた航空機を緊急に回してこなければならなかった。そうした様々な読み――過去の経験に立つ限り当然であった――が、一つの予期できない要因をめぐって、その後の3時間の判断を左右した。その要因とは、フィリップスを捜索する日本の操縦士は、過去に英国艦隊に遭遇した西洋の操縦士より、優れているのかどうか、ということだった。
 午前10時15分、シャム湾南半分に分散して捜索する百機余りの日本軍爆撃機の一機がフィリップ艦隊を発見し、ただちに、他の捜索機に通報した。またたくうちに、高性能爆弾を装備した27機の一式陸上攻撃機と、魚雷を装備した61機の同型機が、その発見地点へと機首を向けた。各機は、霞ヶ浦の最も優秀な飛行士たちが操縦していた。
 英国艦隊への最初の攻撃は、一年前、その爆撃の高い正確性で山本連合艦隊賞を受けた9機によって、午前11時17分に開始された。その9人の受賞者は、眼下の二隻の大型戦艦のうち、長い方をその標的にえらび、重巡洋戦艦リパルスの上空、1万から1万2千フィー
ト〔3千から3千6百メートル〕の高度をとっていた。リパルスの乗組員の多くは、地中海でドイツやイタリア軍の編隊による高高度爆撃を経験しており、日本のそうした接近には何ら心配はしていなかった。そうした場合、標的から千フィート〔300m〕の外れは通常であり、リパルスの対空砲火隊員は、あたかも魚雷攻撃をするかのように低空飛行をしてくる2機の日本軍機に砲撃を集中するように命じられた。
 西洋の爆撃手は、独、英、伊のいずれであろうが、この戦争以前に日本が実施した爆撃手の訓練と選抜過程ほどのものを受けてはいなかった。霞ヶ浦の飛行訓練基地では、日本の実践的訓練の技法は完璧で、習字を習うように、知的訓練というより、身体を通して修得するもので、それが徹底して仕込まれたものであった。爆撃技法がその開発の初期段階にあるこの時代、手、目、風、高度そして速度を瞬時に合算させる神業のような感性を磨いていた。
 9発の爆弾が9機の爆撃機より高度1万メートルから、航行しているレパルスに向け投下され、英国軍乗組員は落下してくる爆弾を見上げるる時間があり、それが爆発する前に、その落下が驚くほど正確であることを見出していた。9発のすべてが、動く艦体の100フィート
〔30m〕以内に着弾し、艦は水柱をかぶり、その瞬間、パニックに陥った。そして、そのうちの一弾は艦の甲板に命中した。それは、リパルスの中央のカタパルト装置――4機の偵察用水上機を発進させる――に着弾した。しかもその爆弾はカタパルトの支柱内を貫通し、その下の格納庫の甲板上で爆発した。それにより、リパルスの偵察能力は破壊され、深刻な火災が発生し、1,309名の乗組員のうち50名を死傷させた。
 その最初の爆弾は、次に何が到来するかのまさに前兆となった。そのほんの数時間前、英国の将校は、コロンビア放送網の特派員セシル・ブラウンに、日本の操縦士は、体質的な視力欠陥と、不適切に設計され不適正に整備された航空機により、まともには働けないと語っていたが、今、そうした観測を修正せざるを得なかった。ブラウンはまた、砲手のつぶやきを聞いた。曰く、 「ぶったまげるような一撃だった」 (20)。もう一人の特派員、ロンドンのデイリー・エキスプレスのO・D・ガラハ―は、北海や地中海での経験をもつ将校らから、ドイツ空軍でも英国空軍でもこんな爆撃は見たことがないと語るのを聞いた(21)。後に、日本の操縦士たちは、訓練の時でも、あれ以上の爆撃の模範は示したことがない、と語った。
 リパルスの乗組員が炎と飛び散った破片と闘っている間、日本の爆撃機の第二波の5機の魚雷爆撃機がプリンス・オブ・ウェールズに襲いかかり、五つの違った方向から、狙いを定め、正確に進行する5発の魚雷を投下した。操舵将校はそのうち3発をかわすことには成功した。しかし、1発は船尾に命中し、艦の舵を破壊し、航行速度を30ノットから15ノットへと落とさせた。もう1発は通信室に浸水させ、その後の行動の間を終始通信不能とさせ、フィリップス提督をして、のろく信頼性を欠く、回光通信、手旗信号、あるいはマスト旗信号に頼るしかない状態に陥らせた。
 傾きかつある決まった円を描き続けるよう運命付けられて――後にある詩人の乗組員が 「死のワルツを舞う乙女」と表現したように ――、その英国艦隊の誇りの主は、その対空砲火の餌食にならないかと案じる日本軍機操縦士にすらも、たやすい標的となり果てた。だが、同艦のあらゆる砲台と対空砲は火を放ち続け、同艦を沈めることが容易でないことを示していた。日本軍の編隊隊長の壱岐春記大尉は、自分のものと、他の3機の魚雷を未使用のまま、上空で旋回しながら、戦況を観察していた。
 15分後の正午、壱岐大尉は、他の18機の参加を得て、まず、リパルスへの魚雷攻撃に着手した。4分後、リパルスの艦長、ウィリアム・G・テナント大佐は、片輪となった旗艦プリンス・オブ・ウェールズに、リパルスはまだ深刻には打撃を受けておらず、少なくとも19発の魚雷の航跡をかわすことに成功した、と誇らしげに信号を送った。壱岐大尉は、攻撃の中止を命じ、再び、戦況の観察を始めた。空中にある爆撃機の持つ61発の魚雷のうち、24発はすでに使っていた。英国の二隻の超弩級戦艦は、一隻はたやすい標的と化していたが、それでもまだ沈没していなかった。壱岐が待っている間に、リパルスと4隻の駆逐艦が、打撃を受けたプリンス・オブ・ウェールズの回りの集まり、対空砲火の弾幕をいっそう密にしたが、逆にリパルスは操船の余地を減らしていた。
 12時20分、16分間の静寂の後、壱岐大尉は、自ら14機の魚雷爆撃機を率いて、リパルスを沈めようと弾幕の中に突っ込んでいった。15機はそれぞれ別の方向から同時に攻撃にかかり、テナント艦長に、 「〔魚雷の〕航跡の間をすり抜け」 たり、接近する白い航跡の束を舷側へとかわすことを不可能にさせた。日本側の観測によると、15発の魚雷のうち、少なくとも14発が標的をとらえた。テナント艦長は、そのうちの1発である20発目をかわしたが、他には捕えられた。攻撃が開始されて15分後には、テナントは艦を放棄することを命じた。8分後、艦は沈没した。その8分間の衝撃的で信じがたい静寂と秩序により、796名の将校と水兵が艦を脱出し、油の覆った水上で生き延びた。他の513名の下士官や水兵は、艦体と共に、あるいは、掩護の駆逐艦によって救助されるのを待っている間に水死した。
 テナント艦長自身は、リパルスが転覆しながら沈む時、海中に放り出された。彼は水中深く吸い込まれたが、水面に浮上して救助された。司令塔の主マストの上にいた一人の水兵は、170フィー
ト〔51m〕の高さから飛び込んで、泳ぎきって生き延びた。彼に続いた仲間は、甲板を越すことができなかった。もう一人の同僚は、艦の煙突の中に落ち込んだ。12人の海兵隊員は、安全のためにと遠く船尾に飛び込み、まだ回転中のスクリューに巻き込まれて寸断された。機関室の42人の水兵は、偽装の煙突の口までよじのぼったが、行く手を遮る網を切ろうとしているところまでは目撃されたがそれまでだった。
 リパルスが姿を消した時、まだ爆弾を残した日本軍機の20機強は、こんどは目標を傷ついたプリンス・オブ・ウェールズに転じた。5発以上の魚雷が同艦に打ち込まれ、少なくとも2発の爆弾が命中するのが確認された。午後1時15分、同艦は沈没した。リパルスの42分後であった。その最後の沈没までには時間があったので、1,612名の乗組員のうち、わずか327名が脱出に失敗したのみで、あとは浮いているところを救助された。
 フィリップス提督は、生き残りになることを選ばなかった。彼は、艦橋から出ることすら拒否し、他の者を押し出した後は再びもどって、最後まで戦い、自艦と運命を伴にした。二日間にわたり、彼は日本海軍航空隊の精鋭の半数を相手に奔走させ、奇襲攻撃を仕掛けるため、日本軍上陸拠点の沖一時間以内の距離に二度にわたって接近していた。自らの責任において、彼は、自分の部下をすらあざむき、最大の努力を傾け、見過ごされかねない二隻の大型戦艦に、何がしかの評価を残した。だが敗退しながらも、生きてその査問にさらされることは望まず、まして、老提督や政治家たちの愚かさの餌食にされるのは堪らなかった。そして、大型戦艦は航空戦力には劣るとの彼のかねてからの持論を、そうして自ら証明して、苦い満足を達成したのであった。
 水の中で油まみれになり、漂流物につかまって生還し、回復中の二人の新聞記者の一人によると、一機の日本軍機が、護衛の駆逐艦バンパイアに、 「我々は任務を完了。貴下の続行を祈る」 (22) との伝文を投下したという。それは、裕仁の霞ヶ浦のエリート飛行士の花形の一人が託した、日本人の持つ高貴さの最上部を示したものであった。その対空砲火を誇る二隻の戦艦により、撃ち落とされた日本軍機は3機のみであったが、彼らのような熟達した操縦士はもう再びは見られなかった。彼らは、手動による飛行と空中戦の操縦技量を極致にまで磨き上げており、まもなく、電子照準爆撃装置やレーダー、そしてコンピュータ化した砲火技術がそれにとって代わるまで、その水準は二度と凌駕されることはなかった。
 日本軍機は、駆逐艦のために残されていた爆弾や魚雷を使い切り、駆逐艦に救助された生存者に掃射する機関銃弾も残さずに使って、飛び去っていった。数分して、シンガポールより、速度の遅いアメリカ製のバッファロー機が到着し、残骸を捜索し、救助活動を空から支援した。
 日本軍機の操縦士は、北東方向へと帰還の途につき、到着に先立って、その信じ難い勝利の報を無線で知らせた。東京時間では午後3時、マレー時間では午後1時30分、その知らせは裕仁に届いた(23)。プリンス・オブ・ウェールズが水面下に没した時から、ちょうど15分後であった。木戸内大臣は、その報が電話で伝達された時、一人の外交官と対話中だった。彼はその受話器に向かい、いかにも英国風アクセントで叫んだ。 「ハップ、ハップ、フレー(万歳、万歳)」(24)
 日本は、3機の機体と3人の操縦士を失った。英国は、2隻の軍艦と840名の乗組員を失った。だが、より重要であったことは、連合軍は、12月8日をもって制空権を失い、12月10日をもって、東南アジア海域の制海権を維持する望みも失ったことであった。その地域の連合軍の陸上戦力は、今後、日本軍がその望みに応じて、空襲と上陸輸送船を送り込んでくることを予期せねばならなかった。 彼らは、空からの掩護や背後からの増援は、もはや望みえなくなっていた。
 チャーチルは、プリンス・オブ・ウェールズ沈没の知らせを、裕仁がそれを知って一時間以内に受け取った。それは、ロンドンがまだ午前7時になる前で、その英国首相はまだベッドの中で文書送付箱を開けているところだった。彼は後にこう書いた。 「この戦争のどの時にも、これ以上に強烈な衝撃を受けたことはなかった。・・・ベッドの中で幾度も寝返りをうちながら、沈没のニュースのもつ真の恐ろしさが私にしみわたってきていた。」


陸の征圧

 開戦後三日間で、連合軍は、空からの反撃力をクラーク基地で、そして海からのそれを真珠湾とクアンタン港で失ってしまっていた。しかし、連合軍は地上軍をまだ維持しており、作戦図上では、まだまだ強力に見えた。マレーのA.E.パシーバル中将は、10万の兵力――インド軍3個師団、英国軍1個師団、オーストラリア軍1個師団――を指揮していた。作戦途中では、彼の陸軍は、3万の英国部隊、7千のインド部隊の増強がされた。彼のこの13万7千の総戦力は、空と戦車の支援を欠いていたが、豊富なトラック、装甲車、砲火、そして弾薬を持っていた。
 フィリピンでは、マッカーサーがおよそ11万2500の兵力――新招集のフィリピン予備兵82,000、訓練されたフィリピン斥候兵12,000、米国正規兵11,000、米国増援新兵約4,000、米国海兵隊と海軍要員約3,500――を保持していた。
 オランダ領東インドには、約2万の兵士と、約4万の志願兵による取るに足らぬ兵力が、広大な領土に散在する小規模な偵察駐屯所に分散していた。
 日本軍は、こうした植民地軍のすべてを、数ヶ月のうちに片づけるとしていた。すなわち、 「難攻不落シンガポールの要塞」 を10週間で、オランダ軍を13週間で、そして、マッカーサーの 「米比あいのこ軍」 を21週間、というものであった。戦後の日本人の見方では、それぞれの凱旋は、1対2の戦力上の劣勢さを押して獲得されたとしているが、それは疑わしい。軍事教科書はどれも、敵陣上陸には少なくとも2対1の優勢と定め、日本軍の司令官もそうした原則は心得ていた。
 出版された日本の記録における矛盾は、南進に用いられた部隊は、公表兵員数であったのではなく、その二倍、あるいは三倍に増強されていたことを示唆している。たとえば、マレー作戦のある時点で、第18師団第114連隊――5,000名の兵力と公表されていた――は、少なくとも550台のトラックを要求し、 「寿司詰めに満載し」 前線まで輸送したとある(25)。日本のトラックに満載された兵士を見たことのある者なら、その時、第114連隊は11,000から16,500の兵力を持っており、公表の2ないし3倍の兵力を擁していたと断定するに違いない。
 いまさら、軍事的数字ゲームに興じてみても無益だが、日本の歴史家は、ただ前線の部隊規模をあげているのみで、ほぼ同数の待機中の予備軍や、後方での補給部隊を勘定に入れていないように思われる。戦争の初期の段階では、すべての前線において、おおむね、一人の日本兵に対し一人の連合軍兵が対峙していたと言っても、日本軍の軍事的勇敢さを傷付けることにはなるまい。しかも日本軍は、海岸に上陸し、目的とする地点へと侵攻したにもかかわらず、いたるところで勝利をあげていた。彼らは経験を積んでおり、日本陸軍の精鋭部隊であり、そして空からの掩護を受けていた。マレーでは、最初で、最大で、最も重大な侵入勢力である、日本軍の3個師団――第5、第18および第2近衛の各師団の総計6万人の前線兵力――が、ジャングルを抜ける二本の幹線道路を経ながら、600マイル
〔960㎞〕を前進し、13万7千の英国軍からの戦闘部隊を、たびたび、後退させていた。そうした道路の行方には、幅1マイル〔1.6㎞〕の海峡があって、その先に、世界有数の海軍基地のひとつ、シンガポールが陣取っていた。
 この目を見張る軍事的達成には、多分に、その立案者である第82軍の辻政信中佐――前年夏に台湾において南進部隊の訓練を仕上げた――の手柄によるものであった。辻は、1941年8月、東京を短期訪問した際、他の一般参謀将官の妨害を乗り切って、その計画を押し通した。同僚将校がいうように、彼は、 「偉大かつ不思議な影響力を持つ人物」 であった。彼らは、その経歴を、鈴木貞一 ――現在内閣企画院総裁で、日本経済の事実上の独裁者である予備役中将――のそれと較べた。鈴木と同様、辻は、無名の家柄の出身で、常に上級将校へ並々ならぬ威勢を発揮し、実務能力にあふれ、皇室と密接に結びついていた。
 陸軍士官学校および陸軍大学を首席で卒業後、1934年、辻は、裕仁の秀才の末弟、三笠親王の教育係となった。真珠湾の時、若干26歳の三笠親王は、1941年11月30日の開戦への最終決定の際、裕仁から相談を受け、運命を伴にすることとなった。1945年8月14日の夜、三笠の親しい友人たちや、そしておそらく彼自身も、挫折したが有効な宮廷革命――裕仁は軍部に脅されて操られていると連合軍の諜報将校を信じさせようとした――に参加するはずであった。
 辻大尉は、1934年にはすでに三笠親王の後ろ盾をえ、1936年の 「士官学校事件」 ――陸軍内での奇妙な面子づくりの叛乱と裕仁の個人支配下に陸軍を置くことを地均しするもので、北進派の計画――では、その手際の良い措置によって、裕仁の注目をえることに成功した。それ以来、辻は、自身の評判はかんばしくないものの、少佐そして大佐として、裕仁の唱えるアジアのためのアジア構想の、日本陸軍内での活発な推進者となった。彼への皇室の信頼にもし誰かが疑いをはさんだ時、彼は、三笠親王からの14花弁の菊の御紋を形取ったカフスボタンや、天皇自身の備品である16花弁の菊の御紋を浮き彫りにした酒杯といった、彼が所有する信用の証拠品を示した(26)
 シンガポール攻略の辻の計画は優れたものであったが、それは、他の陸軍および海軍とその航空隊の司令官たちの並々ならぬ協力なくては、成しえないものであった。裕仁は、1941年11月中にサイゴンで行われた南進共調最終会議に、彼の最年長従弟(32歳)である竹田恒徳
〔つねよし〕親王# 2を送り込んで、その協力態勢を可能にさせた(27)
 辻大佐は、選抜された部隊を他の師団より借りる力を、天皇裕仁より竹田親王と三笠親王を通じて獲得し、マレーとフィリピンに配置される5個師団を、かってのいかなる日本軍師団より強大なものとさせた。ことに、彼自身のマレー戦線に辻は、ほとんどの日本の戦車部隊、精鋭の砲兵部隊、迫撃砲・機関銃部隊、そして多くの補助部隊――小型艇、ジャングル特殊部隊、自転車部隊、あらゆる種類の橋梁・鉄道技師、通信線技師、野戦医療班など――を徴用した。辻が南進軍の装備を完了させた時、日本軍の他の53個師団――16個師団が日本、13個師団が満州と朝鮮、19個師団は中国、そして、5個師団はインドシナと台湾に配属――は、攻撃力をことごとくはぎ取られていた。それらの古参および補助部隊までも、前線の各師団に徴用されていた。残されたかかしのようなこけおどしの戦力は、ゲリラ活動に備えた機動警察部隊ほどのものにすぎなかった# 3。将校団のうちの不機嫌な北進分派も、こうした戦力の削減にも抗議をせずに従った。それも、シンガポール作戦の指揮をとる、 「マレーの虎」 こと山下中将に敬意を払っていたからであった。
 日本の南方方面軍は、武装の面でも戦歴の面でも、プロ水準の高さを持ち、ほとんど狂信的なほどの熱意にも達していた。日本は犠牲者であるとし、それを、歩兵の一人ひとりが肝に命じていた。彼らは国を後にする前、 『一読必勝』 との勇ましい題名の手引きを渡されていた。それは、誰をもたじろがせ、歴戦の闘士をさらにつわ者にする現実感覚をもって結ばれていた。
 祖先の霊にとりつかれた日本人は、このもの寂しい詩を胸に焼き付けて戦いにのぞみ、あたかも鬼にように考え、闘った。日本軍は、わずかの食糧や睡眠でもって、長距離を行軍し、不意を突かれた連合軍の塹壕に、自らの命をかえりみずに襲いかかった。飢え、疲れ果て、多くを失おうとも、彼らは突破するまで攻撃を続けた。彼らは掃討戦にあって、失った命以上の命を奪わなければ、それは天皇に恥辱を働くことと教えられていたため、ほとんど捕虜にしなかった。
 それに比べ、連合軍部隊――ことにマレーの英国部隊――は、自分たちは生来の優越者と思い違いのもとに闘った。彼らが、加えたものよりより多くの死傷者を出し始めた時、自身の無能力意識にとらわれ始め、それに合わせて、部隊としての集団の士気も失われていった。
 後の敗戦分析のなかで、連合軍司令官たちは、主にこの独りよがりの責任を問われた。彼らは、日本軍が蒋介石のろくに訓練も行き届いていない部隊に最終的に勝てないゆえ、日本軍を見下していた。彼らは、日本の空軍と海軍を、対中国戦の日本から判断して、優秀な飛行機や軍艦を作る金がないと過小評価していた。彼らは、報道陣には根拠のない楽観を流し、下士官には日本人の近視、模倣癖、そして個人の自発性の欠如につての馬鹿ばかしい話を広げた。その結果、参謀による極めて適正な計画も、厳しい戦いへの心理的準備を欠いていた部隊によって骨抜きとされてしまったのであった。



マレーのジトラ戦線(30)

 辻大佐は、山下中将の第5師団の前衛部隊に自ら同行して、タイ国境を越え、バンコックとシンガポールを結ぶ長い舗装道路を南へむけて進んだ。英印連合歩兵中隊との小競り合いの後、日本軍の先進部隊は、国境の約13マイル〔21㎞〕南で、マレー半島の唯一の準備された防衛拠点、「ジトラ線」 の駐屯地へと突入した。
 辻は、約500名の兵力と30両の軽および中型戦車をもって、防衛線に向っていた。開戦後三日目の12月11日、午後4時、彼はグルカ兵の前哨地点に奇襲攻撃をしかけた。兵隊たちは、いつもの午後の強雨を避けて、道路脇のゴムの木の下で雨宿りをしており、砲火は無人だった。日本軍はグルカ兵の銃砲と装甲車を奪い、そのまま南進して、寸前で橋が爆破された地点まで進んだ。辻とその部隊はそれに合流し、橋の修理がされる間、その防衛に当たった。そうして、彼の戦車部隊が、日本と英国の双方の歩兵線を突破し、次の橋をそれが爆破される前に掌握した。いま、2万人以上の英印連合部隊を擁するジトラ線はその中央部が破られ、夜を通して、両側の連合軍部隊は、日本軍の突入地点を奪還しようと移動してきた。翌12月12日朝、辻の500名の部隊は、1万の勢力とより多くの戦車をもった増強部隊によって支援されるまで、そこに留まっていた。
 その夜、英国軍前線と600マイル
〔960㎞〕南のシンガポールにある英国司令部との間でのおびただしい電話通話の後、そのジトラ線は放棄され、その地雷原、鉄条網、塹壕、食糧や武器の貯蔵所、そして大量の火器、トラック、装甲車が日本軍の手に渡ることとなった。防衛に当たる兵士の半分はインド兵で、彼らはそれまで、戦車を見たこともなかった。そうした装甲車はみな、ロールス・ロイス社製の頑丈な一次大戦時の残余品だった。マレー半島にはその先、防衛線に相当するものはなかった。はるか南の河川では、英国・印度・豪州部隊が有利な展開ができただろうが、それまでに、日本軍の歩兵部隊が無抵抗で到達できた。日本部隊は、不慣れな熱帯の環境への不安や白人兵への畏れを克服していた。彼らの気勢は、奪取した食糧、ガソリン、トラック、そして武器によって膨れ上がっていた。インド人捕虜は、彼らが知るその先の軍備配置をすべてしゃべった。かくして、素早い回転の攻勢―前進、突破、追撃、結集――が、もはや日常的展開となった。
 辻大佐は、ジトラ線にあって彼が展開した作戦は、その後の作戦全体にも有用なものと考えていた。つまり、歩兵隊が川を渡渉して進入し、技術部隊が破壊された橋を修理するのを可能とさせ、そして、〔その橋を通って〕戦車が前進し、その先の橋のない川まで進撃する。日本の歩兵部隊は、戦車部隊と速度を合わせ、さらに、次の川を越えてその侵入部を確保するために、折りたたみ式の自転車に乗り、川を渡る時には、それをかついで渡った。こうした自転車部隊は、充分早く移動し、撤退する英国部隊の背後に回り込んで圧力を加え、再結集する余裕も与えず、背後に残す橋を爆破することもままならなくさせた。また、道路要所で激しい戦闘があり、放棄された日本軍や英国軍の装甲車両が道路をふさいでいても、自転車部隊なら、棄てられた車両を人力で道路から脇のジャングルに片づけて進めた。自転車部隊の考えは、裕仁のお気に入りであった。日本は、安価な自転車の世界有数の生産国で、それを用いてロールス・ロイスの車両を追跡するとの考えは、天皇の想像力を強く刺激したのであった。(31)
 辻は、こうした直撃突破作戦で、日本軍はシンガポールまでの主要道路を走破できると考えた。だが山下中将は、そうした中央突破部隊は、両脇の部隊で補強されなければならないと主張した。ジャングル戦を叩き込まれた部隊が通過不可能とされた地域を通り抜けることで、英国の防衛線をゆさぶり、 「小型艇部隊」 がジャングルにおおわれたマレー西岸を南下し、そして、英国の防衛線の背後に深く侵入することで、彼らに恐怖感を与えねばならないと説いた。
 辻大佐は、そうした冒険に大きな損失を予想した。山下中将は、英国軍のバランスを狂わす可能性のあるいかなる手段も、その放棄を拒否した。おそらく、辻の考えが正しく、そうしたこれまでに試されたことのない日本型電撃作戦が行われなかったら、多くの命が救われたであろう。しかし、山下中将は自ずからの道をとり、チャーチル首相は後に、小型艇やジャングルを通しての神経を苛立たせる脇腹での動きが、英国部隊の度重なる撤退を強い、幹線道路を行く中央突破の動きと合わせて、包囲される恐怖をもたらしたと、マレーでの日本の成功に大きな評価を与えたのであった。
 辻大佐と彼の元後援者の山下中将との間の作戦上のわずかな見解の相違は、しかし、重大な結果をもたらす深刻な争いに成長した。山下は最初、小型艇部隊と西岸南下の脇腹作戦に関して辻を凌駕して同僚の参謀たちの前で彼の面子を失なわせた。さらに辻は、西岸のペナン島において無許可で残虐行為をおこなった日本軍部隊の側に立って、それを再び山下が却下した。そこで辻は機嫌をそこねて辞職を申し出た。山下はその辞職の受理を断ったが、不和が解かれることはなかった。
 マレー作戦が半分も終わっていない時、辻は自分の司令官にたいする中傷宣伝を始め、それは東京において、政治的下心をもつ東条首相によって妬みをもって追求され、そして、裕仁の弟で辻の後ろ盾であり上司でもある三笠親王によって、同情をもって宮廷に伝えられた。その結果、二ヶ月後にシンガポールが陥落した時、裕仁は自分のもっとも有能な将官に背を向け、山下の凱旋帰国を拒否し、彼をもとの赴任地である満州に直接復帰させた。さらに重要なことは、戦争の帰趨を変えることになったかもしれない山下が唱えていた大胆不敵な計画に、裕仁が耳をかさなかったことである。それは、直ちにオーストラリアに侵攻するという計画であった。


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