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第七部


世界終末戦争





第二十七章
南 進(1941-1942)
(その3)



シンガポールの苦悶 (64)

 2月9日の夜明け、日本軍第5および第18師団の将兵は、シンガポール島北西海岸でオーストラリア部隊の守る鉄条網線を突破した。東京はすでに午前7時30分をまわり、皇居の森の北端の装甲板をほどこした大本営の庁舎の中で、寝不足気味の参謀将校らが心配気に、天皇への朝の作戦報告をするための準備を進めていた(65)。シンガポールの上陸拠点からの情報は断片的で錯綜していた。さらに悪いことに、通常なら裕仁の最も困難な問題をさばいてきていた服部作戦課長がフィリピンへ出かけ、天皇の叱責を本間中将に伝え、バターンとコレヒドールを征圧するための新たな作戦を立てていた。裕仁は、1921年にヨットでシンガポール島を一巡りした際の経験から、その山地や岬を思い出し、詳細をめぐる質問がだされるのは明らかだった。それに加え、彼は将来を見越し、陸軍と海軍が今後の予想に関する準備文書を手掛けているのかどうかと聞いてくだろうことも確かだった。
 5日前の2月4日、裕仁は、政府と統帥部の間
連絡会議に、南進の軍事的成功に続けて二重の努力が必要と強調していた(66)。即ち、軍事的には 「日本の占領地の拡大」 と 「勝利のための長期的攻勢の準備」であり、外交的には、連合軍内の和平派を通じ、日本側の条件で早急な講和協定を結ぶ準備を整えておく、ということだった。しかし、大本営の参謀将校の間には、こうした天皇の希望について、解釈上の違いがあった。海軍参謀らは、オーストラリアへの侵攻まで進めると望んでいた。一方、陸軍参謀らは、ひとまずの和平協定をむしろ望み、ビルマの征圧とニューギニアへの侵攻ついては、準備は整っているとしていた。
 予想の通り、裕仁は戦況報告を9日の朝早くに求め、彼によって繰り返される質問により、数時間にまで長引くこととなった
(67)。午前中に、彼は、翌日の2月10日を、日本軍のスマトラ侵攻艦隊の出航日として許可し、陸軍がビルマとニューギニア征圧の計画を立てることを承認し、かつ、米軍の太平洋艦隊の最終的壊滅と米国・オーストラリア間の補給ルートを断つ計画を進めるように求めた。
 参謀将校らにとっての試練の職務が終了した昼過ぎ、裕仁は杉山参謀総長と一対一の話し合いを持った
(68)。奇妙なことに、この私的な遣り取りが、その日全体の会話の中で唯一、公式の記録が残され、公表されているものであった。その中で、嬉々とした裕仁は、閻錫山〔えん しゃくざん〕という中国の軍閥首領を引き合いに出し、縁起でもない話に羽目を外した。
 閻将軍は、1920年代末から1930年代初めにかけ、 「山西省の模範的都督」 として知られたが、最終的には蒋介石の 「最高顧問」 との役職をもって台湾で死亡した。彼は、1909年、東京の陸軍士官学校を卒業し、日本の指導者からは、蒋介石の対抗馬に使える親日派として以前より期待されていた。1928年、蒋が最初に日本軍に背いた時、裕仁の顧問は、蒋を見捨て、代りに閻を取り上げることを一時画策したことがあった。1928年の蒋の 「北伐」 の際、裕仁の部隊が青島の租借地より干渉し、済南の町で7千人の国民党ゲリラ部隊を虐殺してをそれ遅らせたことが、閻にはひとつの理由となり、彼が〔日本への〕忠誠を考える時期となった。
(69)
 1928年、閻は中立を維持することで、地元の山西の農民たちに平和による利益をもたらしていた。彼は、日本軍が山西省に侵入した1937年秋、再び、ほぼ同じような決断を行った。毛沢東の部隊がその侵入に抵抗し、一時的だが損害をあたえていたが、平型関では日本軍に対して戦い、悲惨な戦闘となった。その戦闘の後、閻は、撤退する毛部隊の隊列に背後からの追撃を拒否し、再び、中立を主張してそれを維持した。1937年11月7日、日本の第5師団の一団は、辻正信大尉――シンガポール攻略の主要立案者――の指揮のもと、その報復に、山西の山中の閻の本拠地の住民を虐殺した。自分の部隊とともに別のところに居た閻は、山西の民衆は蒋介石と中国のために立つと断言して、その日本の報復に答えたのであった。
 1937年以来、日本は閻の支援を得るための交渉を時に応じて行っていた。幕僚本部の一事務官が閻の関係書類を保管していた
(70)。諜報部の十数名の野心ある将官たちが、入れ代わり立ち代わり、 「支那事変を決着する」 ためにと、閻を利用しようともくろんだ。中国の日本領土の傀儡首席、汪兆銘は閻に数えきれない手紙――全て役に立たなかった――を書き、古い級友として、彼の立場を再考するようにと求めた。
 1941年には、閻を必要とする日本軍のもくろみはもはや一種の名目に等しいものとなり、第二次世界大戦計画において、彼の名前は、東南アジアの 「講和」 をもたらす必要性として、何らかのテロ、虐殺、あるいは報復のための符牒と化していた
(71)。この新たな意味は、華僑問題についての幕僚本部の議論のなかで、閻の名前に対して与えられたものだった。シンガポール、マニラ、バタビア、そしてスラバヤの海外在住中国商人たちは、長く、蒋介石の資金と影響力の後ろ盾となっており、〔日本の〕共栄圏が樹立された場合でも、破壊的役割をなし続けるものと予想された。ある匿名の参謀将官〔訳注〕は、彼らに都合に合わせて 「閻錫山処理」と称して閻の名前を拡大利用することは、南進と関連して目立つようになったすべての報復措置を覆い隠してくれることになる、とほのめかした(72)。つまり、西洋諸国の植民地のいたる所において、現地住民の眼の前で西洋の面子が失われるよう、実例が示されなければならない、との必要があるというものだった。それはまた、住民自身も脅威にさらされなければならない、ということでもあった。
 1942年2月9日の早朝からの延々とした戦況報告の後、裕仁が杉山参謀総長を引き留まらせた時、裕仁の内密裏な見解は、こうした脈略に反するものであったため、杉山にとっては、ことに意味深く受け止められるものとなった(73)
 裕仁は、 「重慶政府は弱体化しているようだ。そろそろ閻錫山が我々の側に付く時ではないかね。その作戦はその後、どうなっているのか」、と尋ねた。
 杉山陸軍参謀総長とは、ほかならぬ 「湯殿のガラス戸」であり、言質を与えぬ物言いを得意とし、そして、つぶやいたり間を入れたりしながら、今、彼は慎重に言葉を選んで言った。
  「閻錫山作戦は、継続し、繰り返されております。歴史をふり返れば、閻のような者は、中国式に、時間を稼ぎ、風向きをはかり、そして、我々から最大の利得を得ようとしてきております。畏れながら総じて、そうした作戦はその当初から余りに急いで計画されがちの恨みがあります。そのため、閻は我々に対して優位に立ち、彼の立場を有利にすらしているかの感があります。しかし、現時点以降は、全体状況は我が側に有利となることが予想され、閻の側が先手を取ることはありえないと考えられます。我々は、閻錫山作戦を、かような観点で取り扱うよう計画しております。」
# 13
  「そうか」 と天皇は答え、慶州――満州事変直前の数ヶ月に、この朝鮮の町の中国人地区で虐殺があった――での作戦についての質問に移った。杉山は、 「慶州作戦」は、中国南部に駐屯する日本部隊によって扱われていると返答することで、天皇の認識の通りに自分も沿っていることを明瞭に表した。こうした会話をただ聞いただけでは解らないが、そこには普通ではないものがあった。と言うのも、杉山は、自分のメモには、以下のような異例な書き込みを残していた。曰く、 「陛下が事態の先を素早く把握され、詳細をお尋ねになるので、副次的な発展についても、質問に即座に応えられるよう、いっそう準備しておかねばならない。」
 閻錫山作戦についての間接的だがそれとなく指摘する天皇の質問は、杉山を乱させ、その分野の参謀将官を混乱に陥れ、そして遂には、何千人もの中国人、インド人、英国人、オーストラリア人、フィリピン人そしてアメリカ人に苦痛と恐怖をもたらした。天皇による指摘は、バターンでの作戦失敗への彼の不満の反映であり、戦争を予定通りに進めるにあたって、最大限の方策が取られることを彼が期待していることを意味していた。当初の計画において、陸軍は、シンガポールを2月11日の紀元節(建国記念日)までに獲得すると公約していた。最高司祭としての裕仁にとって、その日に、皇祖にその旨を報告することは重要なことだった。しかし、紀元節まで残すところ二日しかないにも拘わらず、シンガポールの海岸拠点の日本軍は、じりじりと前進できているにすぎず、計画通りに英国の要塞が陥落することはありえなかった。
 杉山は天皇との謁見より退出し、その夜、自分の参謀たちと状況を分析した
(74)。翌2月10日の朝、彼は、サイゴンの南方方面の総司令官の寺内大将に、こうした天皇の胸中を説明するために、一人の参謀将校を空路で派遣した。寺内は電話を通じて山下中将と相談し、天皇は紀元節において、かくのように皇祖に報告できると東京に連絡を入れた。すなわち、シンガポール島中央の高地で、裕仁が20年前にそこに立って水源池を一望し、その防衛上の弱点をほしいままにしうるブキテマをその日までに奪取し、その祝福を祖先に報告できるというものだった。翌朝、裕仁は、予定通り、皇居の森の白玉石を敷き詰めた神社境内におもむき、シンガポールの獲得は確実であると皇祖に公に報告した。
 数時間前、予告の通りに日本部隊は、ブキテマ高地の雨林の頂上を攻撃して、徹夜の侵攻を完成させた。偵察兵が高い木によじ登り、かなたの3カ所のシンガポールの水源地の回りの英国軍陣地への砲撃の指示を行った。水源地の向こうには、20年前に裕仁が散策した植物園の歩道が曲がりくねっており、80年前にはそこで、A・R・ウォレスが進化論を構想していた。
 その日の昼間に、日本軍は水源地の西側を占領し、山下中将は、それ以上の抵抗は、それがいかに英雄的行為であろうと無駄なことであると宣告した29箱分のビラを撒いた。だがパシーバル中将は反撃を命じた。彼と山下は、自軍の残った最強部隊を互いに投入し、その水源地の周囲において、それから36時間にわたる激烈な白兵戦が展開された。繰り返される砲弾の炸裂や爆風は耳をつんざき、神経を麻痺させた。高温高湿度の天候は軍服をぐしょ濡れにし、汚れまみれにした。無煙火薬の刺激臭と死体の甘い臭いのみが、あたりに漂う汗の酸っぱい臭いを消していた。燃え上がった石油タンクから立ち上る煙が、島と空の間をおおっていた。
 2月12日の日暮れ後、水源地をめぐる戦闘の勝敗がまだ決していない中で、日本軍の師団参謀将校は、前線から数百ヤード後方の前線司令部で、山下中将と合議した。全員が天皇の苛立ちについて聞かされが、全員が天皇へ充分な満足を与えようとの努力に疲れ切っていた。その多くは負傷しており、自らの意志に反してこっくりし、居眠りを始めていた。しかし、その作戦の計画者の辻大佐のみは、取り憑かれたような鋭さをむしろかってなく維持していた。彼は誰もが全力を出し尽くすことを命じ、それは、裕仁の弟、三笠親王からの直接の奨励を彼がそう伝えているかのように告げた。辻は後になってその著書(75)に、彼がその時に見た状況を次のように述べている。 
 翌2月13日の朝、辻大佐は、60時間におよぶ不眠不休の行動を開始した。明け方、パシーバル中将のキャニング要塞の司令部に、露骨だが不明瞭な英語でつづられた新たな文書を届けた。それは、降伏を求め、寛大な取扱いを約束し、拒否した場合には報復すると脅していた。パシーバルが返答をしないでいると、その午後、辻は砲弾の跡が散在する道を、第18師団の前線司令部へとおもむいた。この師団は、四年前、中国の盧溝橋で戦争に口火を付けた牟田口廉也中将――意気を同じくする忠臣――によって率いられていた。その意図を理解した牟田口中将は、辻を信頼のおける戦闘部隊に入れ、前線を越えて侵入できるように手を打った。数時間後、この戦闘部隊はアレキサンドリア兵営病院――シンガポールに残されたまだ機能中の二つの医療施設のひとつ――の背後の森から現れ、323名の病院関係者を銃剣で刺殺した。その中には、まだベッド中の、あるいは、手術台の上の230名の患者も含まれていた(77)
 2月14日の朝までに、辻は、アレキサンドリア兵営病院の虐殺の生存者が、英国軍前線に戻ってゆくのを見届けた。 彼らは、もしパシーバルがただちに降伏しない場合、シンガポールの一人ひとりに何が生じるのかを伝えるためであった。パシーバルは、自分の配下に、十万人の戦闘員と、百万人以上の民間人をかかえていた。その日の午後、彼はその伝言を受け取り、その夜を過ごし、翌日曜日の早朝、イギリス国教会の聖餐式に参列した後、残された可能性を議論するため、配下の部隊司令官を招集した。わずか5日前、パシーバルは同じ部下たちに、断固とした次のような激励命令を出したところであった。
 この命令が出されても、日本軍は、その劣勢にも拘わらず、前進を続けていた。パシーバル中将の司令官たちは、彼ら自身やその兵隊たちも、もはや自分たちが、彼らに向かって突進してくるしたたかな歴戦の兵士たちの不気味な威力には匹敵しないと認識していた。訓練、士気、鋭気心、相互連携、武器操作、そして決断性のいずれにおいても、山下の精鋭部隊は彼らに勝っていた。いま降伏しなかったなら、来たる一週間に、シンガポールのすべての守備部隊と民間人は、渇きか銃剣で殺されるのは明らかだった。
 もし英国軍が戦って死ぬことを決意していたなら、疲労、大量の戦死、武器弾薬の不足により、日本軍の進撃を一時的なり食い止められたかも知れない。しかし、経験によれば、守勢に立った日本部隊は、訓練を積んだ補充部隊の注入によって、生気を取り返すのが常であった。タイから700マイル
〔1,120km〕の全行程を、一歩、一歩と前進を遂げながら、強さを失うことなく、しかも効率を保ってきたのが日本部隊であった。それに較べ、英国部隊の質はしだいに失われていた。あと一日か二日の消耗戦は、生まれつきの闘士か、それとも、脱走者か、あるいはゲリラか、あるいは無法者か、あるいは孤独な個人となること以外には、生き残る道はなかっただろう。
 パーシバルの将校たちは断念することに同意した。その午後、パシーバル中将自身が白旗をかかげ、ブキテマの斜面を登った。そして、山下中将によってフォードの工場が、大英帝国が自らの極東海軍基地を明け渡す場に選ばれた。パシーバルはシャツと半ズボン姿で、山下は関東軍の軍服、脛当て、長靴姿で、それぞれ机の前の席についた。パシーバルは降伏に条件を付けようとした。だが山下は無条件以外に選択はないと一喝した。パシーバルは頭を垂れ、無条件との言葉をつぶいた。しばしば描写されたこのシーンは、午後7時50分のことだった。40分後には、すべての銃声が止んだ。
 自然愛好家は、その静けさは余りに完璧であって不自然であったと表現した。シンガポールの豊かな鳥の群棲は、その戦場から飛び去ってしまっており、そのさえずりさえ、二日後の夜明けになるまでその島には戻らなかった。また歴史家は、鳥が姿を消している間に、この島の西洋植民地主義――アレキサンダー大王に始まり、英国王リチャード一世
〔ライオン王〕、バズコ・ダ・ガマ、コロンブス、マゼラン、タスマン、クック、ラーレー、クライブ、そして、ラッフルに至る――が、ついにここに終焉した、と宣言した。
 シンガポールとマレーの約6万の日本軍前線部隊は、13万以上の英国軍将兵――約1万5千のオーストラリア軍、3万5千のスコットランドとイングランド軍、6万5千のインド軍、そして、大半がマラヤ人の現地徴集兵――を捕虜にした。その大量の捕虜たちは、収容所や刑務所に収容され、三年以上もの間、侮辱され、酷使、隷属、飢餓のもとにさらされた。有刺鉄線の背後に収められると、彼らには、〔西洋人の面子を地に落とすという〕 「閻錫山作戦」 の残された部分がただちに実施された。日本の憲兵は、シンガポールの華僑人口を総洗いし、一ヶ月にわたる大量だが粗末な捜査を通じ、5千から7千人が、他の者たちへの見せしめとして選び出された。そうした人質のうち、重要とされたものは、憲兵隊自身によって、ありうるあらゆる段階の屈辱、恐怖、拷問をもって殺された。また重要度が低いとされたものは、陸軍の処刑班にゆだねられ、銃剣の刺殺訓練、試し切り、そして兵隊のなぶり者の標的とされた。


東インド諸島の甘美な香り

 シンガポールでの 「中国人虐殺」 が首尾よく終わるとすぐ、裕仁のお気に入りの参謀将校、辻大佐は、第5師団とともにフィリピンに移り、そこで、今度はアメリカ人を相手に、 「閻錫山作戦」 をさらに実行した。その一方、東京と宮廷では、シンガポール占領の祝賀にわいていた。
 天皇の気性をよく知る木戸内大臣は、シンガポール陥落の10日前の2月5日の段階で、裕仁に、祝賀ムードに飲み込まれないようにとの忠告を与えていた
(78)。彼はこう助言した。 「大東亜戦争は、これをもって、たやすくは終わりません。最終的分析では、和平のためには唯一の道しかなく、それは戦争を完璧に戦い抜くことであり、そこには、闘いの後の再興の過程も含むことです」。木戸の日記によれば、天皇は木戸の この用意周到さに感銘をうけ、「その心中を皇后にもらされた」 という。
 5日後の2月10日、金曜、紀元節の皇祖への報告の前日、裕仁は、次第に高まる以下のような疑念を東条首相に伝えた。
 1942年2月15日、シンガポールはついに陥落した。周到な木戸は、天皇に謁見せず、すでに前日、東条首相からの木戸への電話で、山下中将からの勝利の電報を読んでいた。しかし、翌朝、裕仁は木戸と、午前10時50分から11時までの短い会見をもち、戦争を終わらせるため、東条首相がバチカンに特使の派遣を考えていると知らせた。裕仁は木戸に、そうした特使は宗教上やその他の地位を持つべきであり、ふさわしい人物を探すようにと指示した(80)。木戸は最善を尽くすことを約束し、天皇に 「シンガポールの勝利への格別のお祝い」 を表した。
 木戸の日記によれば、裕仁は、 「たいへんなお喜びようで、私にこう言われた。 『木戸、そちは私が同じことばかりを言っていると思うだろう。私はしかし、再び言うが、我らが幾度も望んだ最高の戦争の成果とは、神の御意志のお陰のように見えるかもしれないが、それはまさしく、我らが計画に際して行った我ら自身の先見と完璧な研究の結果であると言うのが私が心底信じることなのだ』 」。
 木戸は、その栄誉の言葉に感涙にむせび、大仰ほどにも声を詰まらせ、頭をたれて謁見の場を後にした。
 その後の数日間は、 「偉大な戦勝」――それは小粒な征服者らの頭を狂わせるに充分なものだった――一色の日々だった。長年の鍛錬をくぐり、思慮深い助言者らのみが、裕仁の足を地につけさせていた。
 2月7日、裕仁は、最近編成された落下傘部隊が人口過疎で防衛の薄いオランダ領セレベス島への侵攻に投入されたことを報じるニュース映画を見た
(81)。フィルムを見た後、彼は落下傘部隊を人口稠密なスマトラ島の占領に、大量に使うことに許可を与えた。そして2月16日、その落下傘部隊は成功を見せた。南部スマトラのパレンバン近くのオランダ戦線の背後に連隊規模で投下される二日前、スマトラのオランダおよび英国の全部隊は、すでにその時点で、その巨大な島からスンダを海峡渡って、オランダ領東インドの中心の島で統治の拠点であるジャワ島へと引揚げつつあった。スマトラ島はカリフォルニア州より広く、二倍の人口があった。この島が、〔日本軍の〕1万名の部隊によって占領された。
 陸軍がスマトラ島の掃討を行う間、海軍はオーストラリアの北部沿岸へと、インドネシアを貫通するくさびを打ち込もうとしていた。2月19日、陸戦隊は、ジャワ島の東端沖のバリ島――愛すべきのんびりとした南国の小島――に、ほとんど抵抗なく上陸した。その付近では、東ジャワの都市、スラバヤをめぐって、霞ヶ浦出身の23名のゼロ戦名操縦士が、約50機のP-40、P-36および連合軍の旧式迎撃機と目覚ましい空中戦を行い、蘭領東インド上空の制空権を獲得していた。そしてその700マイル
〔1,120㎞〕東方では、他の海軍部隊が、オーストラリア沿岸からわずか300マイル〔480㎞〕しか離れていない半ポルトガル、半オランダ領の島、チモール――コネチカット州とマサチューセット州を合わせたほどの広さ――の海岸に拠点を築きつつあった。
 同じ2月19日、南雲大将の真珠湾機動部隊は、チモール沖にあって、オーストラリア北部の都市、ダーウィンに、壊滅的空襲を開始した。航続距離ぎりぎりを飛んで、霞ヶ浦出身の189機の優秀な爆撃部隊は、ダーウィン港の米軍駆逐艦1隻、同輸送船4隻、英国軍油送船1隻、そしてオーストラリアの貨物船4隻を沈没させ、23機の連合軍航空機に攻撃を加え、そのうち10機は修理不能となり、さらに、ダーウィン市の際立ったビルを破壊し、238名のオーストラリア人を死亡させ、およそ300人に傷を負わせた。その交戦の際、日本軍が失ったのは5機のみだった。他の184機はその使命を果たして帰還し、爆弾および燃料のもっとも効率のよい使用記録を作った。オーストラリアは、その後の恐怖の一週間に、奮起して侵略に備えた。オーストラリア陸軍はすでに、英国、アフリカ、インド、そして大英帝国の極東の滅びゆく要塞に兵を送ってきていた。だが本国には闘える正規部隊はわずか7,000名で、この数は、降伏したシンガポールでの数にして半分以下だった。オーストラリアの男、女、子供の全人口は、アメリカの6分の5の広さに分散し、その数は、日本の訓練済み総兵員数の5倍にすぎなかった。
(82)
 真珠湾の英雄、山本司令官は、人口希薄なオーストラリア北岸に遠征隊を上陸させ、一個師団か二個師団で、この亜大陸を威嚇しようとしていた。またシンガポールの英雄、山下中将は、山本を支持し、自からこの侵攻を率いることを申し出た。オーストラリアの広大な距離にもかかわらず、彼は、ダーウィンに直ちに上陸し、南北を結ぶ鉄道と道路を用い、南海岸のアデレードやメルボルンへと激しくかつ迅速に突破することが可能と考えていた。彼の計画では、その後、別の一個師団を東海岸に投入し、港から港へと、飛び石状に、シドニーへと迫れると思っていた。オーストラリア国民は容易ではないとは考えていたが、それでも、訓練された部隊の敵ではないはずだった。さらに、清潔で衛生観念の強い日本の兵隊には、ビルマやニューギニアの病原菌のうようよしているジャングルより、オーストラリアの無菌な荒野の方が、はるかに行動しやすいと踏んでいた。
 東条首相と熟練幕僚参謀のほとんどは、山本・山下計画に反対した。南雲中将のダーウィン空襲は、一回限りの見せ場を作ることには成功したが、全面的侵攻はまた別の問題だった。幕僚参謀は、そうした作戦を、付随的計画の内には考慮していなかった。オーストラリアの不毛地にあっては、日本軍は全面的に後方からの物資補給に頼るしかなかった。だが日本の商船船団は、すでの過大すぎるほどの負担が課されており、新たな割当ては不可能だった。そして、もし、米国が警戒してシドニーに 「空飛ぶ要塞」 を投入してきたなら、制空権の維持は困難に面することになったろう。オーストラリアの荒れ地にあっては、日本軍の長く伸びた隊列は、長距離・高度爆撃には格好の餌食となるものだった。
 裕仁は、双方からの議論を聞き取り、オーストラリアへの侵攻は、ビルマの占領が終わった後に延期すると決定した。世界戦略の上で、世界をヒットラーと二分する観点において、インドおよび中東方面への侵攻は、オーストラリアの一端の掌握より優先されることだった。
 2月23日、裕仁は、大本営庁舎で行われた連絡会議で、彼独特の遠回しな言い方で、彼の決定を表した
(83)。すなわち、コレヒドールの無線通信の日本側での傍受を通し、彼はおそらく、ルーズベルト大統領がその前日、マッカーサーにコレヒドールから撤退し、連合軍の指揮をオーストラリアで始めるよう指令していたことを知っていただろう。また、ビルマのほぼ2万の英国軍部隊が、ラングーンへと通じる道路のシタン橋での戦闘で、ちょうど降伏したところか、さもなくば、包囲されていたことを、裕仁は知っていただろう。そうした彼が、最近になってその頻度を増しているように、裕仁は連絡会議に予告なく出席し、列席者に何の用意もなく彼の面前での答弁を強いて、彼の代理人たちを困惑させていた。そうした彼は、議論を聞く代わりに、オーストラリア遠征という目下の問題を露骨に無視し、あえて、重要でもない二次的問題へのことさらに二つの質問を行って、他の件への彼の無関心を表わしていた。
 その第一の質問とは、東チモールの中立のポルトガル領についてだった。彼によれば、ポルトガルは、和平交渉を追究する日本の努力を仲介するチャンネルとして行動してくれる可能性があり、その友好関係を維持しておきたいというものであった。彼の第二の質問とは、日本の占領地の急速な拡大で、通貨をなんとか安定化させねばならないというものだった。それは、新たな侵略に乗り出す前に、すでに獲得した領地を統合させておきたいとの狙いを表していた。そうした質問に対し、連絡会議は、チモールのポルトガルとは良好な関係を維持し、また、フィリピン、マラヤ、インドネシアをインフレの高騰から救う、それぞれの方法を見つけることを約束する、との返答であった。
# 14
 2月23日の連絡会議の後の12日間、裕仁は閣僚たちとは会わなかった。この間、南アジアの島々の散在する日本の上陸地は融合して、その帝国につ一つの広大な領土を付加するものとなった。その日本の新規な領土境界は、オーストラリアへの容易な飛行範囲内にまでにも達し、その境界線から1,600マイル〔2,560㎞〕内側のバターンとコレヒドールの米国軍を別にして、その境界内には、抵抗する孤立したゲリラ地帯のみがあるだけだった。そうした広大な付加領土の要石は、人口稠密なインドネシアの行政中心地、ジャワ島であった。
 2月25日、英国の陸軍元帥、アーチボールド・ウェーベル卿――インドネシアの英米蘭連合軍を指揮していた――は、もはや無用としてその指揮を解き、その司令部をインドへと引き上げた。大半の英国および米国部隊は、彼とともに退却した。シンガポールの防衛のために自国の船や航空機を使用していたオランダは、ほぼ一国のみで、苦い戦闘を続けていた。海上では、オランダは、米国の重巡洋艦ヒューストン、英国の重巡洋艦エクスター、オーストラリアの軽巡洋艦パース、3隻の英国駆逐艦、そして、4隻の旧式4本煙突の駆逐艦を指揮することが許されていた。それらに、オランダの2隻の軽巡洋艦と2隻の駆逐艦を加え、合計14隻の艦隊がジャワの防衛に当った。二人の日本の侵攻艦隊長官は、それぞれ、41隻と56隻からなる艦隊を率い、それに掩護の艦艇をしたがえ、ジャワ海を横切り、北方よりその島に接近していた。
 オランダ軍司令官、カレル・ドーマン少将は、その日本艦隊の小規模の方を迎え撃つため、自らの艦隊を率いて出航した。2月27日、彼は戦闘を開始し、7時間の海戦の後、2隻の巡洋艦、3隻の駆逐艦、そして自らの命を失った。翌日、彼の艦隊の残りの艦船は、ジャワ島の東西両端のロンボクとスンダ海峡を通って、オーストラリアへと逃げようとした。だが、日本の航空機に付きまとわれ、海上艦艇に追撃されて、生き残りの3隻の連合軍の巡洋艦と2隻の駆逐艦は、待ち伏せされて沈没させられた。それでも、4隻の4本煙突の駆逐艦のみが逃げ延びることができた。こうして、ユトランド以来の最大の海戦であった悪夢のようなこのジャワ海での海戦は終決した。連合艦隊は5隻の巡洋艦、5隻の駆逐艦、そして3,000人以上の命を失った。一方、日本の艦艇は、軽微な損傷――海上で修理が可能――以上の打撃は受けたものは、一隻もなかった。
 この海戦に続いて、日本軍の第2および第38師団の部隊が西ジャワに、そして、第48および第56旅団の部隊が東ジャワに上陸した。彼らは、ジャワの守備に当たる1万5千の連合軍の正規軍、4万強の予備役軍および志願兵部隊と短い交戦を行った。一週間ほどの混乱した小競合いの後、3月8日、オランダの東インド総督は、第16軍司令官、今村均中将に降伏した。正式な降伏文書へのオランダの署名は、四日後に行われた。
 同じ3月8日、ビルマの首都、ラングーンも陥落した。北部のマンダレーへ向け、必死な避難民を満載した列車が、南部より最初の日本軍兵士が市に抵抗もなく進入してくる中、出発していった。ラングーンは、ビルマの中でただひとつの主要港であっただけに、そこに駐留していた5万ほどの英国陸軍の英国人およびインド人は、こうして中国を除き、外からの実質的な支援から閉ざされることとなった。蒋介石は、彼らを救うために、3個師団を送り、その後の2カ月半、 「ビルマ部隊」 は、インドあるいは中国との前線ヘ向かって、ジャングルの小道や河の土手沿いに戦いながら後退していた。1万3千人の英国軍の将兵が、その途上で死亡した。2個師団と約3万5千からなる日本の第15軍も、5千人を失った。
 オランダとラングーンの降伏の前日の3月7日、東京の連絡会議は、 「今後の作戦の大綱」 と称する計画を公式に採択した
(85)。この計画は、この戦争は果敢に追求されるべきであり、かつ、日本は過大に拡大されるべきではなく、すでに獲得した領土の統合を忘れてはならない、という裕仁の考えに呼応するものであった。ことに、陸軍には、インド占領の可能性を視野に入れたさらなる前進を、陸・海軍には、太平洋の供給線の遮断とオーストラリアの孤立を狙った、ニューギニア・ソロモン地域でのさらなる探求を、そして中部太平洋における米国艦隊を相手とした山本長官によるさらなる行動を求めていた。
 オランダとラングーンの降伏の翌日の3月9日の午前中、裕仁は、それまでの48時間、彼が文官顧問団と接していなかったことに気付いた。彼はまず、外宮にある宮内省の自室にいる木戸内大臣に電話を入れ、宮廷の森の皇居図書館に、話しにくるように伝えた。彼はそれに応えて急いでかけつけた。そしてその後、以下のように日記に記録した。
 裕仁が満足するのも当然なことであった。計画より一ヶ月以上も早く、彼のミュルミドン 〔ギリシャ神話の勇猛な手下のこと〕 たちは、達成すると約束し、裕仁がきっとそれを成すだろうと信じたそのをすべて成し遂げていた。彼の42歳の誕生日から一ヶ月早く、彼の青年時代の目標が突然にして実現し、それを目の当りにしていた。彼が再び足を地に戻し、皇祖が彼に望むものはそれで終わっていないことを認識するまでに、彼はあと数週間の高揚した幸福感と疲労感とを過ごす必要があった。


バターン攻落

 裕仁が木戸に軍事的満足感を表してから二日後の3月11日、マッカーサー夫妻は、4歳の息子アーサーを連れ、夜陰にまぎれて高速魚雷艇に乗り込み、包囲されて孤立していたたバターンとコレヒドールから脱出した# 15。マッカーサーは乗り込む前、後に残される全員に、自分は不本意ながら大統領命令に従うと、苦痛ながらに告げた。 「私は戻ってくる (I shall return.)」 と彼は言った。この約束の言葉は、その後の三年間、彼の標語となった。
 避難中のマッカーサーのために用意された彼の身の置き場は、充分安全というわけではなかった。彼には潜水艦に収容される方法がありえた。実際この方法は、そのほぼ二ヶ月後、コレヒドールの従軍看護婦の一団に用いられた。あるものが言うには、彼はその演劇的理由から高速魚雷艇を自ら選び、あるものは、彼が途上で消されることを望んでいる者が兵站部に居て、それしか手配をしなかったのだと言った。いずれにせよ、敵の前線を波をけ立てて突破するのは、62歳の男にはまさに冒険だった。マッカーサーとその家族が、北部フィリピンのルソン島から南部フィリピンのミンダナオ島のデル・モンテまでの600マイル〔960㎞〕を航海するには、64時間を要した。その航路のほとんどは、敵が陣取る海岸に沿い、あるいは、敵が支配する海域や、敵機の飛び交う空のもとであった。また、その高速魚雷艇は、突風を受け、15フィート〔4.5m〕高の波を切り抜け、日本軍の巡洋艦の視界内を通過して走った。その艇長は、その航海の大半を、ほぼ夜間に行っていた。
 マッカーサーが、疲れ切ってミンナダオに上陸しても、彼はさらにもう一日、オーストラリアから送られてくる4機のB-17「空飛ぶ要塞」 を待たねばならなかった。だが、その4機のうち、2機はエンジン故障で引き換えし、1機は洋上に墜落し、到着したのは1機のみだった。しかも、ようやくに飛んできたその機も、三ヶ月の爆撃作戦をこなしてきた歴戦機で、機体は傷だらけだった。おまけに、ブレーキは効かず、ターボチャージャーも働いていなかった。彼はその機に乗るのを拒否し、ワシントンとシドニーに怒りの電報を打った。そして、オーストラリアから彼にふさわしい新品の3機のB-17が飛んでくるまで、もう二日間待つこととなった。そうして3月16日から17日の夜間、彼とその家族および彼の部下は、日本の制空権の中の1,400マイル
〔2,240㎞〕を、北オーストラリアへと飛んだ。マッカーサーは、到着するとすぐ、記者会見を開いてこう記者たちに述べた。
 この宣言――彼の生涯の中でもっとも明瞭で正直なもの――の中で、こうして鍛錬されたマッカーサーは、置き去りにしてきた将兵たちに、過去の過ちを謝罪し、報復を彼らに約束した。しかし、その将兵らは、捕虜収容所に収容され、飢え、恥辱をうけ、不潔で、熱く、拷問され、絶望する中で、マッカーサーとルーズベルトを呪うこととなる。そうした呪いの言葉は、3年後、その収容所が解放された時、その死の独房の壁に刻まれているのが発見されることとなる# 16
 3月10日、マッカーサーがその私的遠征に出る数時間前、英国外相のアンソニー・イーデン卿は英国議会の下院で、日本軍は香港において、いまわしい残虐行為を大規模に行ったと、世界に向けて暴露し抗議する演説を行った。イーデンはおそらく、蒋介石の諜報員――日本軍の強奪がシンガポールでも続いていると重慶政府に報告した――によってそう演説するよう動かされたのだろう。5千人の中国人がみせしめとして処刑された。シンガポールから小型船でかろうじて脱出した女子供も、日本軍機に機銃掃射され、日本海軍の魚雷艇や潜水艦による魚雷攻撃を受けた。スマトラ沿岸のバンカ島沖では、64名のオーストラリア看護婦と傷病兵を満載した船が沈められた。そのうち、なんとか浜まで泳ぎついた傷病兵も、そこで銃剣で刺殺された。そのうちの22名の看護婦が救命ボートで浜に着いたが、波打ち際で機関銃の餌食となった。こうした虐殺の唯一の生存者であるビビアン・ブルウィンケル看護婦は、スマトラの捕虜収容所に入れられた。
 3月13日、木戸内大臣は、イーデンの香港事件暴露演説について裕仁に報告した。裕仁は、こうした事件の再発予防策については、その発言を控えて何も言わなかった
(88)。というのは、日本軍の各部隊を強靭化するため、残虐行為への関わりは、それが彼の叔父たちや他の軍事顧問団の立場だったからであった。つまり、そうした残虐行為を自ら行った役割を兵士に負わせ、もし降伏すれば次は自分がそのように扱われるがゆえ、決して降伏してはならないと説得する手段であった。
 3月27日、杉山陸軍参謀総長は、 「前線視察」 および、スマトラとシンガポールの捕虜の状況を非公式に査定するため、スマトラに飛んだ。ほぼ25万人の民間および将兵が日本人のもとの捕虜となっていた。捕虜の扱いについて裕仁の思いをすべての司令官に伝えるのが杉山の使命であった。西洋人の求めを満足させ、日本が未開発国と見られるのを防ぐため、捕虜は正規の収容所に収容されなければならず、組織だった形態で扱われる必要があった。しかし、彼らは甘やかされてはならず、一般の日本兵以上であってはならなかった。また、できる限り、帝国の経済的負担とならないものでなければならなかった。彼らは、寝食のために働かねばならず、また彼らは、脱走し、連合軍の短波放送局の宣伝放送員となって、連合軍の目的を支援することは許されなかった。
(89)
 4月3日、杉山参謀総長は、新たに占領したオランダ領東インドの視察を終え、フィリピンに渡った。そこでは、池の鯉を釣り出す時を迎えており、バターンとコレヒドールの発信機から毎晩放送されている破壊的 「自由の声」 を黙らさねばならなかった。日本の共栄圏の中心にある米軍孤立地の比・米防備部隊は、塹壕にもう二ヶ月も立てこもり、自分たちの傷を治しつつ、マラリアと赤痢に悩まされながらも、半分の食糧配給でそれに耐えていた。
 米軍が弱わり切っている間に、本間の司令部は、いかなる第二の失敗も起こさないほどに強化されていた。大きな損害を受けた第16師団と第65旅団は、2月に新たに部隊――それまでに訓練されていた兵員が1月の攻撃の生き残りの中核熟練部隊に加えられて一体となった――が投入され、総力が回復していた。さらに、日本の大阪を拠点としていた優秀な第4師団のおよそ1万5千の将兵が増強された。インドシナの予備兵力は、第21師団の約1万1千で増強された。マレー作戦計画者の辻大佐は、シンガポールより、合計約2万のもっとも高水準の連隊規模の増強部隊をつれてきた。その部隊は、彼の第5師団の熟練部隊と、彼の第18師団からの志願による補強連隊だった。
 合計すると、本間の第14軍は、最強な前線兵力としておよそ11万を数え、その火力は、マジノ線
〔フランスが1920-30年代に構築した独仏国境の要塞線〕に突破口を開けるほどであった。これに比べて、米軍のエドワード・キング少将が率いるバターン兵力は、気力を無くし、やせ衰え、赤痢に苦しむ7万のただ鉄砲がうてる程度の部隊だった。そのうち、四分の一が自らを兵士と考えていたのみで、 「有用」 とさえ分類されるものは、全体の半分にも満たなかった。キング少将がもっとも頼りとする部分中の部分でさえ、その士気は低下していた。彼らは、極東の連合軍部隊の中で、すでに最も長く持ちこたえいると考えていた。そうした彼らが見捨てられ、消え去るものと判断されていた。彼らは食糧と休養を求めており、まともな捕虜扱いをうけて収用されることにすがっていた。
 4月3日、杉山謀総長がマニラに到着した日は、1942年のキリスト受難日だった。その日、日本の圧倒する部隊が北部バターンに結集し、攻撃を始めた。 「受難日攻撃」は予定より早く進展し、ほとんどその開始の瞬間から、その目的以上が達成される形勢だった。比・米連合部隊の戦線の東半分は、戦闘開始後の24時間で崩壊した。一握りの比較的食糧事情のよかった米軍将校が、ピストルを振りかざして、退去を繰り返し制止し、前線の立て直しをはかった。 比・米連合部隊の戦線の西半分は、日本軍の脇腹への攻撃を命じられた。だが、前線のわずかに数えるほどの部隊がその命令に従ったのみだった。残りは、自分たちは飢えと病気で弱りすぎ、塹壕から自らはい出すことも無理と感じていた。
 4月9日、日本軍の攻撃開始から6日目、キング少将は、バターンの兵士たちはもはや戦闘員ではなく、一隊、一隊と、全滅せざるをえないことを認めるに至った。マッカーサーよりコレヒドールの総司令を委ねられていたウェインライト大将は彼に、死ぬまで戦いつづけるよう命じた。しかしキングは、自分の指揮下の7万を犠牲にしても、敵に大きな損害を与える見通しは持てず、ウェインライトの命令に従わないことを決意した。
 キングは白旗をかかげ、車で日本軍の前線を越えて敵陣に入り、ラマオの実験牧場の前の広場に設置された机の前で、本間の上級作戦将校に面した。キングは米軍のトラック――燃料は残っており動ける状態にあった――を用いて、彼の将兵を日本軍が収容を考えている抑留キャンプまで運ぶことを許すように求めた。
  「降伏は無条件でなければならない」 と通訳が言った。
  「我が部隊は良好に取り扱われるか?」
  「我々は野蛮人ではない」 と通訳は鋭く言った。
 このか細い確認をもって、キングは、バターンの無条件降伏の証拠として自分のピストルを手渡した。


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