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第七部


世界終末戦争





第二十八章 (1)
崩壊する帝国(1942-1944)
(その1)



ミッドウェイの衝撃

 ミッドウェイ海戦の後、ある日本海軍大将が木戸内大臣に宛てた手紙(2)に用いた相撲のたとえを用いれば、日本はその戦いの序盤では、自分を、器用で機敏な小柄力士と任じていた。天命に見守られ、自らにさずかった雲を裂き閃光とどろかす魔法の剣を、その運命の時に引き抜き、巧みにさばく用意ができていた。アメリカという戦斧を振り回す怪物を、刺し抜き、動きを制し、血を流させ、喘ぎ、膝を屈するまで、切り刻まれなければならなかった。裕仁は、日本の伝統的剣法を近代的に変貌させ、その海軍航空隊に、高速で軽量のゼロ戦という形で与えていた。だが、ミッドウェイ海戦においては、その剣が、その根元から折れたのであった。
 ミッドウェイで生じた惨劇の報は、裕仁とその周囲の宮廷高官を除いて、日本の一般市民の誰にも知らされなかった。裕仁が落胆から立ち直り、その陰鬱の中から顧問団と連絡を取り始めた翌日の6月9日、安藤喜三郎大将――東条首相の初期の後援者の一人で、信頼に足る62歳の南進論者――を呼んだ。裕仁は安藤に宣伝担当の役を命じ、無任所大臣の地位につかせた。
 翌6月10日、東京のラジオ放送は、それまでの5日間の沈黙を破って、ミッドウェイにおいて、米軍空母2隻を撃沈、敵機120機を撃墜させる一方、日本は空母1隻と航空機35機を失うのみという偉大な勝利をえたと報じた。それまで、日本の報道は、中国でのいくつかの後退を無視はしたが、そのような完璧な嘘を報じたことはなかった。翌6月11日の朝には、裕仁は蓮沼侍従武官長に、ミッドウェイの日本軍司令官を讃える天皇の言葉を発表して、その嘘のニュースの社会一般での受け止めを強化してはかどうかと尋ねた。蓮沼は木戸内大臣と協議し、裕仁ほどには戦争の論理に捕われていない木戸は、すぐさま天皇に会い、陛下は、ご自身の発言をそのような宣伝手段に使うように考えてはならない、と説得した(3)
 裕仁は、海軍全幕僚組織を通じ、ミッドウェイの負傷兵は厳重な保安のもとで日本へと帰還させ、横須賀の海軍病院の厳密に隔離された病棟に収容するように指示した。そこで彼らは、治療され、元気を回復し、口止めをされ、そして再配属されるまで、外界との接触が断たれた。
 同じ6月11日、木戸は、前内大臣の牧野伯爵の娘婿、吉田茂の訪問を受けた(4)。多才で目先のきく吉田――彼は1930年代初め、南進論を最初に提唱して裕仁の露払いとなり、そして戦後、米軍占領下の日本の首相を長期にわたってつとめた――は、敗戦という政治的不測の事態に備えた「和平派」(5)を形成する困難な役目を担っていた。勝利を疑うことは思想警察によって反逆罪と見なされたその当時、そうした吉田の任務は微妙かつ危険なものであった。
 ミッドウェイ以前の段階でも、吉田の和平派はすでに活動しており、暴力的だが必要な取組みとして黙認されていた。その当初の任務は、近衛親王や産業界の下層の闇商売や労務親分連中といった、地下の右翼勢力の役割の元締めだった。たとえ戦意高揚の特異な手段とはいえ、そうした侠客や腕ずくの愛国者たちは今後の日本のための頼りとされていた。
 最初の難題は、近衛親王自身を御することだった。この藤原貴族の貴公子は、戦争回避に失敗した自らの責任を痛感しており、第三次近衛内閣の弱体化に苦しんでいた。1941年12月の第一週、日本中が真珠湾奇襲成功に沸いている時、彼は、将来への悲惨な予想をもって東京中を説いて回り、自身の評判をおとしていた。12月17日、東条首相は裕仁に、彼を黙らせてもらうよう要望した。12月16日には、木戸がすでにそうした意向で動いており、近衛と長い時間話し込んでいだ(6)。木戸はその前首相に、日本は戦争のさ中にあり、天皇はその遂行に専念されており、そのような弛んだ悲観的言動は容赦されないことであると諭し、もし近衛が日本の敗北を予想するのであれば、むしろ建設的な取り組みをすることで、国に貢献せねばならないと問うた。
 近衛はかくして、自分に課された新たな使命に熱心に取り組んだ。だが、舞台裏で和平工作をするような仕事は、彼には向いていなかった。彼には、華々しく大衆の運動を率いて行く方が合っていた。しかし、木戸は、警察の捜査と取調べを受けている西園寺公一や尾崎秀実、そしてソ連のスパイのゾルゲと彼の関係を叛逆的としてとりあげ、スパイ扱いすることで、彼の頭上に斧をかざした。また戦争遂行に奔走する東条首相は、それが承認されるなら、進んで近衛を告発しようとした。近衛はこうした圧力に屈し、一ヶ月後の1942年1月20日、錦水楼の離れで、再び内密に木戸と会った(7)。そこでは、季節がら料理は冷めがちであったが、その会談は完璧に秘密裏に行われた。そこで彼は木戸に、それまでに自分が試みた取組みについて話した。彼はその時、東久邇親王、牧野伯爵の娘婿の吉田、そして、1938年以降、敗戦の事態に備える計画――もし敵の手に落ちた時、天皇の責任をどう回避するか――を扱っている陸海軍の参謀と連絡をとり、第一次、二次、そして三次の首相在任中の回顧録を執筆中であった。
 その一方、首相奏薦者の西園寺のスパイ秘書で工作に長けた原田男爵は、ゾルゲ事件について、警察と連携をとっていた。1942年1月24日、彼は木戸に、西園寺公一――その憲法制定者の大長老の孫――について、彼が1938年から41年の間、ゾルゲを通じてソ連との仲介に関わっていたとする警察の嫌疑をもって、彼を厳しく非難した(8)。そして木戸は憲兵に、日本のさまざまな団体や派閥や組織の指導者を対象に、意見調査をさせた。その結果によると、ゾルゲ事件の詳細を知らされた時、そうした指導者たちは、ほとんど誰もが、そうした「上流知識階級」を、宮中の玄関先まで赤のスパイを手引きしたと、憤慨をあらわにしていた。海軍の退役軍人会で演説したある退役大将は、その調査について、 「近衛は拘留されても当然だが、国際的反応を斟酌して、その発表はひかえた方がよい」、と明快に語った。
 近衛に言うことを聞かせるため、この調査結果を念頭に、木戸は裕仁に、ゾルゲ事件で近衛の起こした騒動はもう心配無用と報告した。2月19日、裕仁は内務大臣の湯沢道夫を呼び、ゾルゲ事件について詳しく協議した(9)。3月17日、近衛の以前の親友でゾルゲ諜報団と接触していた西園寺公一が拘留された。それから2ヶ月間、彼は念入りに取り調べられ、その後、判決がないまま、二年間にわたり投獄された。
 木戸は宮廷に、西園寺の扱いについて、厳正で偏りのない静観姿勢で一貫するようにさせた。宗秩寮総裁の武者小路公共
〔むしゃのこうじ きんとも〕伯爵は、自分と西園寺公一との交友関係が皇位への差障りになるのではないかと深く憂慮していた。木戸は、裕仁と相談の上、武者小路に、警告の対象となるものではないと確約した。裕仁自身は、宮廷をそうした事柄に関与させたくはなく、かつ、若い西園寺は、公平に扱われたとしたかった。西園寺の件が急いで判決されなかったのは、そうした社会的体裁作りのためであり、木戸自身は、これ見よがしに、その西園寺家の婚姻の仲人をつとめた。その婚姻とは、西園寺不二男――故首相奏薦者の甥の息子――と鮎川 〔原書には 「あいかわ」 と表記されているが誤り〕 春子――1920年代に株式による資金調達を導入し、1930年代に陸軍のために満州での産業開発を手掛けた鮎川義介の娘――との間の結婚であった。
 この不二男と春子の結婚は、1942年4月3日の午後、フランク・ルロイド・ライト設計の帝国ホテルで行われた。その招待客には、高い地位の宮廷人や着飾った陸海軍大将たちが含まれ、最も厳しい憲兵隊員をすら、西園寺の名はそう易々とは泥にまみれないと印象付けるに充分なものであった。それと同時に、近衛親王は、東条首相に丁重に対応し始めており、時には従順ですらあった。これは、その結婚式の前の3月20日、木戸が近衛に私的に会って、ほとんど冷酷ともいうべき言葉をあびせたからであった(10)。その言葉とは、木戸の記録によれば、 「慎重である必要を、強くかつ執拗に、近衛に説き伏せた」 というものであった。
 その結婚式の後の4月12日、近衛は木戸を訪ね、観念したかのように 「ある見解を提出した」。それは、日米間の開戦までの和平交渉の経緯についての彼の回想録であった。だが木戸はそれを、書き直すようぶっきらぼうにつき返した。国家にかかわる文書としては、天皇を擁護するに充分なものではなかったからであった。
 これが、和平派の指導者、吉田茂が、ミッドウェイ海戦の6日後の1942年6月11日、皇居外宮の木戸の事務室を訪問するまでの背景であった。吉田は、戦争に勝つすべての機会を失ったことを知り、日本帝国を最大限に救済するため、持久戦に移る前に、和平派はただちに外交的行動を起こす必要があった。彼は木戸に、近衛をすぐさまヨーロッパに送り――吉田自身も随員として同行し――、連合国の外交官との接触に最大の努力を傾け、和平協定の条件を探るよう提案した。
 吉田はその提案を、書簡の形で、皇位に差し出すにふさわしい用紙に記して提出した。この注目に値する文書――これまで未英訳――は、その中では、63歳の吉田は50歳の近衛にさしたる尊敬は払わず、裕仁の私的プライドを傷つけ、そして、戦争のさ中にある状況の予断を許さぬ諸事象への認識を全面的に欠くものであった。
 さほど驚くべきことではないが、木戸はその書簡を握り潰し、吉田が近衛との和平欧州歴訪に出る前、その戦後初の首相となる人物に、 「検討すべきことが山積している」 と告げた。明らかに、近衛と吉田は、日本が戦争を継続した場合に得られるものより望ましい条件を得られそうではあった。しかし、木戸は、文官であるがゆえに、軍事情勢の分析は専門ではなかった。また彼は、日本国民が、政府のおこした多大な苦難を背負い、その宣伝を信じ、そしてその勝利を味わった後、今や全アジアを所有したかのまさにその時、国民が妥協的な和平協定を受けいるのはあり得ないことを知っていた。さらに、裕仁自身も、まだ、戦争を断念してはいなかった。彼は内々に、自ずからの賭けに敗れたことを説得される必要があった。そして、インドシナ、フィリピン、マレイ、そして中国を、満州とボルネオの石油権益と引き換えに返還し、そして、なんとしても、天皇制度は、公的にも時期的にも、売り渡すべきではないと諭される必要があった。
 提案された近衛の海外歴訪は、戦争が継続され、日本帝国はアメリカにとって、その獲得が余りに高いものにつくと立証された後に行われてもよかった。しかも今は、ミッドウェイ海戦の後で、それは、日本の弱気を西洋に印象付ける過ぎない可能性があった。かって日本と連合国のスポークスマンの間で行われ、ローマ、リスボン、テヘラン、ベルン、ブエノスアイレス、マドリッド、モスクワ、ストックホルム、そしてバンコックのいずれにおいても実りがなかった打診のように、この歴訪もまた何らの成果にも達しない恐れがあった。そして戦争状況が進み、連合国の民主主義陣営がロシアの軍事力の強さに気付き始め、また日本国民が消耗と飢えと恐怖を感じ始めた時、双方にとって、和平を政治的に受入れる気運が生まれてくるかも知れなかった。
 木戸は、裕仁に吉田の提案を告げる職務上の義務があったはずだ。忠誠な家臣として、彼は自らの責務を果たしたのであろうが、彼は日記に、その詳細を残してはいない。それどころか、日本は世界の前に欲望を露わにし続け、有利な和平交渉の最後の機会を逃すこととなった。



「どこの艦隊か?」

 裕仁は、ミッドウェイの惨事の挽回を望み、全権大使を送り出す前に、彼が諸中立都市に配置している様々な和平密使を使った交渉力の再構築に期待をかけた。こうした努力の中で、日本陸軍は、海軍が珊瑚海で海上からは失敗した作戦を、陸上で行う作戦に乗り出した。すなわち、オーストラリアの北東領土への上陸だった。
 1942年7月21日、増強されたおよそ8千名の日本軍連隊がニューギニア島の東北海岸のブナに上陸した。反撃を受けずに海岸拠点を確保し、ポートモレスビーへとオーウェン・スタンレー山脈を山越えするルートをとり、標高7千フィート
〔2100m〕の峠へ向けて進軍を始めた。オーストラリアの偵察兵がその侵攻を監視し、マッカーサーは、日本軍の山岳地帯の通過を阻止するべく、急きょ部隊を編制し始めた。
 裕仁と大本営の参謀たちは、ニューギニアを横断する陸軍の前進は、その先の数ヶ月の戦闘活動がカギになるであろうと予想していた。しかし、ニューギニア上陸の翌日の1942年7月22日、ニュージーランドのウェリントンを出発した米国第1海兵師団は、東京の参謀が予想していなかった、まったく異なった戦場を作り出すこととなった。米軍海兵隊は、ニュージーランドの北のニュー・ヘブリスで演習を実施し、8月7日には、名目的に日本軍が占領しているのみである、はるか北のソロモン諸島の島に、1万1千名を上陸させた。彼らが選んだ標的地が、諸島の南端から二番目の島で、今後有名となる、デラウエア州ほどの広さのサンゴ礁に囲まれた密林と休火山の島、ガダルカナルであった(12)
 ガダルカナルは、2千5百人の日本人で守られていたが、うち4百人が兵士で、他は技術者や労働者だった。彼らはそこで、前進基地の滑走路を建設中だった。彼らは、米軍の上陸に反撃すらしようとはせず、650マイル〔1,040㎞〕北方のラバウルの日本軍の拠点に、「どこの艦隊か」と問う、哀れな無電連絡を送った(13)。そして、艦隊が上陸部隊の放出を始めると、彼らは、建設中の滑走路を放棄して、あわてて内部のジャングルへと退却した。
 日本軍の戦闘意欲の欠如は、一部の米軍海兵隊員をがっかりさせたが、敵と砲火を交えることがなくとも、ほとんどの彼らには精一杯だった。第一波の部隊は、最初の夜を占領した陸地ですごすことになっていたが、ジャングルはその前進を妨げていた。彼らの背後の海辺には、動かしようのない供給物資が乱雑に積み上げられ、兵站上の悪夢と化していた。その向こうの波打ち際では、上陸用舟艇が延々と続き、空いた浜辺を我先に争って上陸し、積荷を陸揚げし、できるだけ速やかに離れようと大混乱をきたしていた。
 裕仁と連合艦隊長官の山本は、アメリカ軍の上陸を直ちに知らされ、4時間以内に、ラバウルを飛び立った45機の日本軍機が、ニューギニアの設置されたばかりの米軍の海岸拠点への攻撃から分遣されて送られた。日本軍が占領するブーゲンビル島に数ヶ月前に置き去りにされた一人のオーストラリア軍の沿岸警備隊員は、一式陸上攻撃機とゼロ戦が頭上を通り過ぎるのを目撃し、ジャングルの無線を通じ、その到着の45分前に警告を送った(14)。その結果、米軍空母、サラトガ、ワスプ、そしてエンタープライズの数百機の艦載機が発進し、日本軍機の到来を米軍部隊の海岸拠点の上空で待ち構えていた。そうした米軍機は、18機のゼロ戦を避け、27機の一式陸上攻撃機に襲いかかり、日本軍爆撃隊に駆逐艦マグフォードへの直撃弾一発以外の戦果を与えないという、大番狂わせを与えた。
 日本軍機は、一式陸攻の半分以上を失って帰還し始めたが、ゼロ戦は報復のために残った。グラマン・ワイルドキャットの操縦士は応戦せねばならなかったが、慎重だった。彼らは6機編隊を維持し、数の優勢を生かそうとした。それでも、彼らは数機を失い、ゼロ戦は一機が撃墜されただけだった。しかし彼らは、霞ヶ浦飛行士の誇りへ重要な一撃を与えた。すなわち、二次大戦中の最も優秀な名操縦士の一人、坂井三郎の右目を奪ったのであった。(15)
 坂井は1937年以来、空中戦を歴戦してきており、60機撃墜の成果をもち、それを20機以上も上回る可能性もあった。その彼は、ワイルドキャッツ機と思われる8機編隊の中心の後方から接近した。しかし、彼がそれらがワイルドキャッツより大型の新型のアベンガー級雷撃機であると気が付いた時はすでに遅かった。それらは、後方からはワイルドキャッツに似ており、いかにも恐れて編隊を組んでいるかに見せかけていた。彼は罠にはまったと気付き、エンジンを吹かし、機銃をあびせながら、その上空へと飛び去ろうとした。彼はそこで二機を撃ち落としたが、全部で16丁の後ろ向きの機銃の一斉射撃を浴びた。その一弾が彼の機の風防をぶち抜き、彼の頭に命中した。
 彼は間もなく、穴の開いた操縦席に吹き込む風で意識を回復した。最初、彼は何がおこったか解らなかったが、右目がやられており、左目は頭に負った傷からの血でふさがれていた。彼は、自分の襟巻につばを吐き、左目をおおった血をぬぐった。幾度も右翼を上げながら飛び、幾度も背面飛行にもなりながら、意識を失ったり戻したりして、時には海上すれすれにもなりながら、彼はなんとか帰路を確保して、ラバウルまで帰り着いた。何もない大海原や、点在する緑の小島の上を飛びながら、彼の落ち着いた方角確認と記憶していた航路が、彼を奇跡的に救った。他の機が戻ってから二時間後の夕方、そのわずかに見える左目をもって、燃料はほとんど空になった状態で着陸した。東京の著名な眼科医が、彼の左目の視力を保たせ、彼を飛行教官やテストパイロットとさせ、さらに1944年の硫黄島上空での次の世代の米軍機との闘いに、再びゼロ戦に乗って戻ることとなった。そしてそこでも彼は再び生き残り、合計64機の中国、英国、オランダ、そして米軍戦闘機を撃墜し、太平洋戦争において、他の誰もが打ちたてたことのない記録を、生存する操縦士
# 1として残したのであった。


サボの一斉砲撃(17)

 坂井がラバウルへと帰還の飛行中の頃、裕仁は、アメリカ軍のガダルカナル上陸の脅威について考えていた。その時、彼は日光――東京の北約75マイルに位置する徳川家の霊廟町――へきていた。彼の秀でた地理的知見により、彼は、説明されるまでもなく、ガダルカナルが日本の前進航空基地、ラバウルの650マイル〔1,040㎞〕南にあり、ニューヘブリス島のエファテにある米軍の前進航空基地の北780マイル〔1,250㎞〕に位置することをこころえていた。彼には、どれほどの規模の米軍が上陸したかは定かではなかったが、米軍がその海岸に物資を陸揚げし、対空砲火を設置しているとの情報からして、米軍がそこに駐留しようと計画しているのは明白だった。もし、それが現実となれば、米軍は、日本の技術隊が手掛けた滑走路を完成させ、この浮沈空母は、南ソロモン海域における、空ばかりでなく、海をも征圧する足場となるはずであった。
 そのアメリカ軍の威圧に対抗するには二つの道があった。ひとつは、ガダルカナルに反撃部隊を上陸させ、米軍を追い出すことで、ふたつは、サン・クリストバルかマライタといったソロモン諸島の別の島に急きょかつ秘密に対抗する滑走路をつくり、その新たな米軍拠点と平衡をとらせることだった。ラバウルへの日本の補給ルートは、ニュージーランドやニューヘブリスへの米軍の補給ルートより短かったので、南部ソロモン地帯の日本の滑走路は、米軍が設置中の基地に対する有利さを持っていた。
 にもかかわらず、裕仁は、顧問参謀たちの助言に従って、ガダルカナルへの反撃上陸を決定した。だがそれは、疑問を抱かせる決定だった。もし、その作戦への部隊派遣を決定する頂点の陸軍大将らが、ガダルカナルは海軍の問題でしかないと考えたなら、その戦略的重要さは正しく評価されないかもしれなかった。満州をロシアから守る責務を負った異端の北進派の有能な司令官たちは、1941年の南進作戦に派遣した自分たちの精鋭部隊を、ほんの最近、帰還させたばかりであった。その官僚意識に従えば、彼らは再び派遣を受入れたくはなかった。山下大将は彼らのそうした憤懣のさ中に帰還し、彼のオーストラリア進攻計画は拒絶された。彼のシンガポールから奉天への帰途の際、彼には東京での祝賀行事も催されなかった。さらに彼は、日本の土を踏むことも許されず、家族にさえ会えなかった。
 杉山陸軍参謀総長は、山下大将や関東軍の彼の派閥の非協力な態度がゆえに、米軍の進撃をたたくために、やむなく、帝国の東部で動員可能な部隊のみを投入する計画を立てた。彼は裕仁に、これらの部隊で充分であることを請け合った。第28連隊――以前は第17師団に属したが、今は独立した師団へと編成中だった――は、成せなかったミッドウェイ進攻から戻り、グアム島で命令を待ち構えていた。第18師団の第35旅団は、フィリピンおよびその東のパラオ諸島の占領軍から分遣が可能であった。第24師団と、必要なら第38師団の大部分は、東インド諸島の守備隊任務から外すこともできた。中国大陸の山下の影響力圏内にある部隊を動かすことなく、こうした合計6万の訓練された部隊を、アメリカ軍に対して投入できた。問題は、ガダルカナルへの反撃のための部隊の輸送とそれへの海軍の護衛であった。
 ラバウルの司令官、三川軍一海軍中将は、ただちに輸送問題の困難の試行にかかった。米軍上陸のその夜、裕仁の決断をうけて直ちに、三川は、ラバウルの予備のすべての水兵と兵士を6隻の小さな輸送船に乗り込ませ、ガダルカナルへと送りだした。翌8月8日の午後、米軍潜水艦のS-38はその小規模な輸送船団を待ち伏せ攻撃し、そのうちの最大の輸送船を、二発の魚雷を命中させて沈没させた。300人以上の部隊が水死し、三川は残りの5隻の輸送船をラバウルへと呼び戻した。
 その夜、ガダルカナルの北岸沖ツラギとガブツ二つの小島に残っていた約500名の日本部隊は、全員が死ぬまで戦った。彼らは、200名以上の米海兵隊員を道連れにした。この小規模だが凄惨な戦いは、いかなる容赦も与えられも許されもされず、裕仁の決断への誇りの血の刻印となった。ガダルカナルの2,500平方マイル〔6,400km
〕のジャングルの支配権は、その後の5ヶ月半にわたって厳しく争われることとなった。
 8月9日午前1時、三川中将は、自ら重巡洋艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻を率いてガダルカナル沖に到着した。彼の艦隊の乗組員は完璧な戦闘準備を整えており、補充によるいかなる弱点もなく、すでに日本軍の空母において、乗組員や操縦士に見られていた消耗による意気消沈も起こっていなかった。三川の部隊員は、夜間戦闘の特別訓練をこうした場のために長年にわたって受けてきていた。それは、太平洋戦争で最初の、洋上での日米艦船間の交戦だった。
 三川は、同等の数のレーダー装備の米軍巡洋艦と駆逐艦に奇襲攻撃をあびせ、沈没させた。このサボ島沖での海戦で、4隻の連合軍巡洋艦と1隻の駆逐艦が海のもくずとなった。他の巡洋艦1隻と駆逐艦2隻は大破され、帰還してドック入りせねばならなかった。およそ1600名の連合軍兵士――その大半は米軍兵士――が犠牲となった。この戦闘での正確な死傷者数は、今日でも、米国海軍省の公式記録に残されていない。三川中将は、一隻も失うことなく、わずか58名が戦死し、53名が負傷したのみだった。彼は後に、その戦果は、米軍司令官の油断、米軍砲兵の技量不足、そして、日本軍の酸素魚雷の威力によるものとの見解を表した。
 その戦勝にもかかわらず、あるいは、おそらくその戦勝がゆえに、三川中将は、ガダルカナルのジャングルに潜む小規模部隊への数百名の補強部隊を上陸させることなく、ラバウルへの戻った。
 裕仁は、8月12日、日光での休暇を短縮して東京へと戻った。
 このようにして、両軍にとってしだいに日常となる、生存と死の繰り返しが始まった。すなわち、毎日午後になると、夕暮れの少し前、ガダルカナルの滑走路へと米軍機が戻り始める時、ラバウルを基地とした日本の制空権内より、日本の艦隊――通常、駆逐艦――が南下してきた。30ノットに近い速度で、ニューギニアとサンタイザベラ島の間の 「スロット」海峡を通過した日本の艦隊は、深夜すぎ、ガダルカナル沖に達した。 そこから、およそ一時間にわたり、米軍の滑走路――今では、ヘンダーソン基地と命名されていた――に砲撃を加え、島の端の日本軍支配部のエスぺランス岬に支援部隊を上陸させた。ほぼ午前1時30分、日本艦隊は引揚げ、ヘンダーソン基地から夜明けとともに飛び立った米軍機に捕らえられる前に、ラバウルからの日本軍機の朝の哨戒圏内に戻った。(18)
 昼間は状況が逆転した。ヘンダーソン基地の前夜の砲撃による穴はブルドーザーでならされ、損傷を受けた米軍機は、草地から引き出され、修理され、たちまちのうちに飛び立っていった。夕暮れまでに、その米軍陸上基地は、どの100マイル
〔160㎞〕四方の海域からも、攻撃のありえないことが保証された。日本の艦船はその海域を避け、ガダルカナル島端の日本軍部隊の活動は、慎重に海辺部を開拓するのみに終わっていた。
 米軍の作戦家は、夜間の日本の支配を打ち破ろうと繰り返し試みた。理論的には、日本の艦船にはまだレーダーが未装備であるがゆえに、 「夜陰のなかでも可視でき」、接近してくる日本の船に、その乗組員が配置につく前に、狙いをつけることが可能で、 米軍の艦長ははるかに有利であるはずだった。しかし、油断のない日本の乗組員は、自分の大砲の脇で眠り、いったん砲撃されると瞬時にそれに応戦した。それに、米軍の大砲は、まだ、無閃光火薬で発射されておらず、夜間、一度発砲して火炎を発するすると、それは標的となり、日本の砲撃手や魚雷手は、その磨いた腕を発揮してきた。その結果、日本の駆逐艦による夜間 「東京急便」 は繰り返し、待伏せている敵を返り討ち、米軍の罠を効果的にはさせなかった。
 一方、日本の作戦家は、昼間の米軍の支配権を破ろうと試み続けていた。繰り返し、ゼロ戦と一式陸攻の大編隊が、ガダルカナル上空の制空権を数時間掌握し、米軍の飛行施設に爆撃を加えたが、大きな損傷をこうむるのは日本軍で、恒久的な損害を与えることなく帰還していった。その翌朝はつねに、ヘンダーソン基地からは通常のように米軍機が離陸し、次の日本の攻撃に備えた。
 日本は、ラバウルより、数波の途切れのない空襲を可能とする数千機におよぶ航空機を持っているわけではなく、ガダルカナル上空の制空権を常時、支配できたわけではなかった。その結果、米軍のパイロットは、日本の空襲の合間に着陸し、給油することができた。さらに、彼らは自陣の近くで戦ったため、もし自機が撃墜されても、落下傘で脱出し、生還できた。そして一日か二日後、新たな機か、ヘンダーソン基地の腕のよい整備士が破壊された多くの機を寄せ集めて再生した機にのって、再び、戦列に復帰できた。日がたつにつれ、こうした米軍の有利さは、しだいにその層の厚みを失っていた霞ヶ浦出身操縦士に影響をもたらしていった。新米の日本軍操縦士が、速成の訓練を受けて毎日ラバウルに到着してはいたが、しだいに、その無力さを示すようなった。その頼もしいゼロ戦も、適切な整備なしであまりに頻繁に飛行し、信頼性を欠くことも頻繁となった。8月末までには、日本の操縦士はほとんど片道飛行の使命で出撃し、翌夜の 「東京急便」 の目的に特別の貢献をとげられれば、それを極めて愛国的努力の証しとしていた。



東条の三番目の帽子

 ガダルカナルの戦況悪化は、裕仁を追い込み、内閣を危機状況に落とし込んだ。東郷外相は、米国と有利な交渉を勝ち取ることを唯一の目的とする一時的獲得として、南進の完遂を主張した。だが裕仁は、日本が得た領土は、もし戦争に失敗した場合、返還しなくてはならないことは認めたが、そうした領土を単なる取引材料でしかないと見なすことは否定した。彼はそれらを、西洋の植民地主義から解放し、それを自らの帝国に加えたのであった。少なくともそれらは、野蛮人たちに重荷を課させ、その郷土から長年にわたって追い返す、遠隔の戦いの場とさせていたのであった。
 獲得した領土を緩衝地帯として、裕仁は、長期の持久戦を展望し始めていた。ミッドウェイ以後、彼は日本の次世代航空機と他の武器を、1944年末までに大量生産に入れるよう命じた。彼はまた陸軍司令官たちに、シンガポールとマニラに、戦没者の慰霊碑を建立し、地元民に日本語を教える学校を作り、そして、傀儡政府の長となる現地の指導者――フィリピンのジョセ・ローレル、インドネシアのスカルノ、ビルマのバ・マウとウ・ヌ――を選任するように求めた。
 東郷外相は、大東亜共栄圏と新秩序に真剣に取り組むことを望まなかった。彼は、下層の外務官僚を、様々な現地傀儡奴政府との関係処理に当たるよう配置した。その一方、彼は、すべての熟練した外交官を和平問題――すなわち、予想される凱旋者、ヒットラーとムッソリーニや、仲介国となりうる中立国との関係問題――につかせた。
 退役中将で戦時立法を管轄する内閣企画院総裁の鈴木貞一の求めに応じ、裕仁は、大東亜共栄圏内の外交の責務から東郷外相を解放する、大東亜省の設置を決定した。東郷は最初、この新設省を帝国の飾り物のひとつとして不承々々に認めていたが、かっての西洋のアジア植民地の地元の政治的指導者について知見が豊富であることが、西洋との和平交渉に有利に働くと気づき、その〔妥協的〕考えを改めた。
 ことに東郷は、蒋介石と交渉する権利を必至と考えた。もし、アジア全体の外交問題がこの新設省の管轄下に収まるのなら、蒋介石への唯一のチャンネルは、中国の傀儡政権の汪兆銘〔中国では汪精衛〕を通じてのみとなる。汪はおそらく水を濁し、東郷が西洋との和平のための基礎となると見る、現実的な日中協定を結ぶことの支障となる可能性があった。中国は敗北したし、日本も敗北への道を進んでいた。アジアは、こうした破滅に達することから脱出せねばならない。裕仁は、原則として、すべての日本部隊が中国から撤退すべきであることに同意していた。この上に立って、東郷は日中間で双方の面子を立て合う、建設的な取引が成立することを強く望んでいた。そうした協定抜きでは、東郷は、米国との交渉は成立できえないと踏んでいた。さらに、計画中の大東亜省の拘束を受けず、彼自身が裁量権を持った上でなければ、東郷は蒋介石と実りある交渉が困難になることを恐れていた。
 東郷は、1942年8月20日に外交上の交換船で横浜に戻った野村や来栖や他の元ワシントン駐在日本大使館員と話した後、自分の信念をいっそう確固とした。木戸内大臣の娘や義理息子の都留重人――弁護士でスパイ機関の一員――も、その本国送還者たちのひとりだった。そうした帰国者たちは、真珠湾攻撃がアメリカにもたらした信じ難い結束と、米国の産業の総動員体制の恐さについて話していた。裕仁は、8月21日、野村と来栖を昼食に招き(19)、8月25日には、帰国した横山一郎海軍大佐から報告を受けた。彼も元ワシントン大使館員の一人であり、米国内での諜報活動の責任者だった。
 8月25日にはまた、東郷外相は、計画中の大東亜省に反対であることを述べるために宮廷に参上し、できる限り迅速かつ誠意をもって、蒋介石との交渉を追求するように求めた。裕仁はそれを聞くのみにとどめ、話題をワシントンからの帰国者との対話に移し、外務省が先の12月、時間内に宣戦布告することに失敗したことを遠回しに留意させた。苦しい立場の東郷は、その非難を胸に、いつもよりいっそう堅苦しい礼儀作法をもって皇居を後にした。
 一週間後の9月1日、大東亜省設立案が内閣の投票にかけられた。東郷は、もし新省が出来れば自分は辞任するとして一人それに反対し、全会一致の成立とはならなかった。東条首相は、東郷が辞任した場合は自分もそうしなければならないと宮廷に報告した。裕仁は、なぜ別の外相に置き換えて済ませないのかと質問した。それへの返答は、すぐさまに東郷の後釜を引き受けて、立派な東郷のあえて反対者になろうとする適格者はいないというものであった。裕仁は、そうであるなら、東条首相が、首相職と陸相に加え、外相も兼任したらどうかと勧めた(20)
 東条は。すでに政府の軍と民の両方の責任を担っていたため、それに難色を示した。そこにさらに、彼が戦争と和平を司る両部門の責任を引き受けたとすれば、彼の職権は、相互に矛盾するほど広大となった。
 裕仁は、東条の穏当な姿勢に 「驚かされ」 、島田海相を呼んで、ただちに難局打開の方策を見つけるよう求めた。島田はすぐさま東条首相に会い、二人だけの一時間半にわたる話し合いを持った。9月1日の午後5時、この話し合いが始まって一時間経過した時、島田は木戸内大臣に電話をかけ、東条の立場についていっそう明確に皇位に説明するように頼んだ。その25分後、裕仁は東条のためらいの核心についてすべてを理解したと確約した。東条はそれで納得し、東郷の辞任を認め、一人で、首相、陸相、そして外相という、三つの帽子をかぶることを引き受けた。
 二週間後、堅苦しい東郷が辞任し、外交的気概に退潮が生じた時、11人倶楽部の目立たない二人、谷正之と青木一男が、それぞれ外相と大東亜相を引き受けて、東条内閣になんとか形を与えた。その間の9月7日、面長な法律家で、日本の保守派の代表格の平沼男爵が天皇と内密に会い(21)、 「重慶工作」 について協議した。翌9月8日、裕仁の指示により、蒋介石との和平交渉を再開するため、ある密使が中国に派遣された。そしてその交渉は、機密の内に、高官レベルにおいて、その戦争の間を通して断続的に続けられた。それは何の成果ももたらさなかったが、日本が最後で敗北を認めるまで、双方の考えが遣り取りされた。そうではあったが、そうした交渉は、東中国情勢をめぐって、毛沢東軍に対するより蒋介石軍に対して、日本陸軍の有効な成果に貢献するのみのものであった。


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