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第七部


世界終末戦争





第二十七章
南 進(1941-1942)
(その5)




ミッドウェイ(103)

 2平方マイル〔10.2㎞2の不毛の塩分を含む雑木帯が紛争の舞台だった。ミッドウェイ諸島のサンドとイースタンの二島は、数百マイル西の未開発の無人の岩キュレとともに、太平洋の北西四分の一に、孤独に位置していた。そのミッドウェイの飛行場は、真珠湾と東京を結ぶ直線上の東三分の一にあり、さらに、ミッドウェイ、真珠湾そしてアリューシャンによって作られる三角形の航空捜索監視域における重要な一角をなしていた。米軍諜報部にとっては、もしミッドウェイがなかったら、〔日本の〕共栄圏内で傍受した無線情報の取次基地を欠き、また、侵入してくる日本の艦隊を探知する航空偵察の早期哨戒線も設置できなかった。
 ミッドウェイの未帰属の土地にまつわる戦いには、当時、ルーズベルト大統領やその参謀首脳が認める以上のものがかかっていた。テルモビレー
〔訳注〕以来、それほど必死にかつ明確な目的のために戦われた戦闘もなかった。もし、日本がそれに勝利すれば、1942年8月にハワイを占領するとの計画が実行段階に移されることを意味した。そして日本は、パナマ運河を獲得し、カリフォルニアを危機に陥れ、米国にオーストラリアを見捨てさせ、ヨーロッパ戦線への軍派遣計画も中止させ、米国の全国力をその西海岸防衛に集中させる意図を持っていた。このような状況のもとで、日本の戦略家は、英米同盟が崩壊し、日独合わさった圧力が米国の事業家たちに反ルーズベルト気運をもたらし、そしておそらく、政治的な保守層と思われるアメリカ家族をして、米国を枢軸国側に寝返らせれるかも知れないと考えていた。だがワシントン内政の平穏が幸いし、米国の戦略家には、こうした日本の野望が現実的なものであるとは、たとえ偶発的事態としても、検討に値するものとはされなかった。かくして、ミッドウェイの米軍は、信じられないほどの幸運に恵まれ、その使命を果たすこととなったのであった。
 山本長官は、その当時としては最も大規模な艦隊を率いてミッドウェイへと向かった。それは、戦艦10隻、空母8隻、巡洋艦24隻、駆逐艦70隻、イ号大型潜水艦15隻、油送船18隻、輸送および補助艦船40隻からなる総計185隻という壮大なものであった。その空母艦隊は、重空母2隻、中空母3隻、軽空母3隻および4隻の水上機小型空母からなり、〔それらの艦載機は〕ゼロ戦352機、急降下爆撃機105機、雷撃機162機、偵察機56機、そして陸上爆撃機10機、総計685機にのぼった。
 山本の艦隊の一部は、アリューシャン列島西端のアッツ、キスカおよびアダク島に陽動目的で上陸して戦端を開くこととなっていた。この作戦は、米軍の太平洋艦隊を真珠湾から誘い出し、北へと向かわせるよう期待されていた。そして山本の先発艦隊――南雲長官率いる重空母――は、南方のミッドウェイへの1,500マイル〔2,400㎞〕の進路の反撃力をたたく攻撃を始めることになっており、ミッドウェイへの上陸には、厳重に防御された輸送船団が続くこととなっていた。米軍艦隊は当然に、それを迎い撃つため、西へと向かうはずであった。そこで南雲長官の空母艦隊は撤収し、米艦隊はそれを追い、ミッドウェイの西で待ち構えている南雲の主要艦隊の待伏せに遭遇する手筈であった。山本は、64,000トンの超弩級旗艦
# 20、大和の艦橋にあって、自艦の長距離巨砲で米艦隊の射程水域外からそれに砲撃を加えるのを指揮することとなっていた。
 以上が、皇位命令によるミッドウェイ海戦計画だった。それに対し、米太平洋艦隊総司令官のニミッツ提督は、空母3隻、戦艦なし、巡洋艦8隻、駆逐艦14隻、そして潜水艦25隻を招集した。いかなる基準――艦船数、艦船重量、火力、艦載機数――をもってしても、彼の戦力は三分の一の力しかなかった。それに加え、過去の戦果から言っても、ニミッツの兵力と装備は、その敵のいずれにも匹敵すると考えられるいかなる理由もなかった。しかし、日本によるハワイと西海岸の占領を遅らせて、米国の力と生産力の優勢を国民が感じ取るまでの時間をかせぐため、彼は戦わねばならなかった。あと二つか三つの予想外に目覚ましい日本の勝利があったなら、アメリカの強さはその根源から崩れ始めるかもしれなかった。
 ニミッツはひとつ、山本に対する基本的有利さを持っていた。それは、彼が敵の意図を事前に知っていたことであった。米海軍の情報部隊は、珊瑚海海戦の前の六月の初め、太平洋中部において、何か大きな計画が動いていることを警告していた。たとえ山本長官の暗合を完全に解読できてはいなかったとしても、米軍の情報士官は、傍受した日本艦隊の通信から、山本の計画の要点を嗅ぎ取り、かつ、 「American Forces」 を意味する〔日本の〕暗号AFが、太平洋のある地点を指しているものだと見抜いた。ニミッツの部下の分析者は、これがミッドウェイだと考えたが、ワシントンの分析者は、それをもっと大きな範囲で考え、AFとはハワイであると信じた。ニミッツは、ミッドウェイの防衛部隊に、彼らの水の清浄装置が故障中であるとの苦情の無電を打つように指示した。数日後、米海軍は、山本にAFは真水に不足していることを知らせる日本の電文を傍受した。
 ニミッツは、自分の責任において、ミッドウェイの闘いの計画をすでに開始させていた。それは単に、ミッドウェイにその島が保有できる最大量の兵員、武装、航空機を確保することと、すべての戦闘可能な艦船を、秘密裏にミッドウェイ海域に移動させることであった。
 5月26日、つまり戦闘の9日前、米空母のエンタープライズとホーネットは、ドーリットルの東京空襲作戦の成功の後、珊瑚海への無駄に終わった航海から、真珠湾に帰還した。疲れ切り、休暇を待ち望んでいたその乗組員は、48時間以内にふたたび自艦を出航できるよう準備することを命じられた。エンタープライズの艦長、リチャード・ラブル司令官は、迎えるミッドウェイ作戦の将官向けの報告を聞いた後にこう言った。 「東京にいるあの男は、我々が財布をはたくに値する人間だ」。
 翌日の5月27日、空母ヨークタウンは19日前の苦戦した珊瑚海からようやくにして真珠湾に帰り着いた。同艦は、一団の駆逐艦に手厚く護衛されて、自力だが10ノットの鈍速で4,500マイル
〔7,200㎞〕を航海してきた。同艦は至近弾によってひどく浸水し、また一発の命中弾は艦の四層を貫通し、燃料と弾薬に引火して、艦内を修羅場と変えていた。日本は同艦を沈没艦のひとつに数えていた。ニミッツ提督は、造船所の司令官に、3日で修理を済ますよう命じた。米国人の溶接工や艤装工がただちに作業に取り掛かり、その当時の日本のどの造船所もそれに勝ることはないほどに、奇跡のごとくに働いた。あるものは、48時間、一睡もしないで働きづめであり、あるものは、同艦上に残り続け、5月30日、同艦が〔修理を終えて出港し〕ダイアモンドヘッドを回った時点で、タグボートに移って陸にもどった。同艦はそして、すでに二日前にミッドウェイに向けて出航したエンタープライズとホーネットを追った。
 巡洋艦と駆逐艦に護衛されたこうした米空母の航行を、山本はまったく察知できていなかった。作戦計画では、先行艦隊の潜水艦に真珠湾の監視を続ける使命を命じていた。この潜水艦隊は、大兄の海軍中将の小松輝久侯爵――皇后の従弟で1941年の真珠湾計画当時、海軍大学長だった――が司令官だった。小松侯爵は、戦場から2,000マイル
〔3,200㎞〕離れたマーシャル群島のクェゼリン環礁から、ミッドウェイ作戦の潜水艦隊に司令していた。彼の旗艦は香取で、公称6,000トンの軽巡洋艦だった。同艦は、1921年に同侯爵と裕仁がその甲板で相撲をとったりクリケットをした戦艦と同名のものであった。
 小松侯爵は、ミッドウェイ作戦に確固とした自信をもっており、日本の海軍力の遥かな優越性が日本の側に有利に働くと信じていた。彼は、その海戦後のパナマ運河への攻撃を構想した詳細な作戦計画で頭がいっぱいだった。彼の潜水艦隊は、戦闘の8日前に、真珠湾の外口と、真珠湾とミッドウェイの間に二カ所の哨戒線を設置し、先行した偵察態勢をしいているはずだった。だが、結果的には、戦闘の4日前になるまで、そのうちの一隻も所定の位置に到着していなかった。この四日間の遅れの間に、エンタープライズ、ホーネット、そしてヨークタウンも、日本のこうした早期哨戒線にかからず、ミッドウェイ北東のもっとも雲の多い海域へと移動していた。
 目先の勝利への没入にもかかわらず、几帳面な小松は、彼の潜水艦隊が米国艦隊の所在の探知に失敗していることに気付いた。哨戒の潜水艦が所定の位置に到着した時は、米国艦隊の先行した動きをつかむには遅すぎており、また、真珠湾の監視潜水艦は、湾内の停泊状態を観察するための偵察機を発進させるのもできないほどに、監視艇がうようよしているのと遭遇していた。6月3日ないしその頃、小松は、米国艦隊がまだ真珠湾にいることを確認できていないと山本長官に通知した。しかし、明らかに、小松は、警戒線を設置するための潜水艦が真珠湾とミッドウェイの間に到着することが遅れたことを、山本に充分喚起させることをしなかった。それは、重大な責任回避であったが、小松が皇族の一員であったことから、後年、日本の歴史家はそれをほんの間接的に言及したのみで、またアメリカの歴史家も、その徹底した事後検分の中にあっても、日本人の見解にそのまま従うこととなった
# 21
 5月27日、山本長官が瀬戸内海、広島沖の桂島投錨地を出航した時、彼は、ハワイのニミッツ提督が彼を待ち受けているとの充分な証拠をつかんでいた。山本のそれまで数日間の無線傍受によると、米国艦船と司令拠点との間の異常な無線通信が報告されていた。また彼の出航の一日目から、彼の艦隊の見張兵は、その大艦隊を追跡する米軍潜水艦の潜望鏡をいくつも確認していた。だが、彼には懸念する理由は何らなかった。いまや彼の艦隊は航海を始めており、米国の司令官たちがそれを観察したとて、それは何の彼の関知する問題ではなかった。知識それ自体は、行動に移されないない限り彼にとっては無意味で、それに、小松侯爵の潜水艦隊によって北太平洋に張られているはずと山本が信じていた哨戒線を敵の艦隊が通過しない限り、米軍の行動はありえないはずだったからである。
 一週間後の6月3日の夜明け、山本の北方艦隊は、アリューシャン列島の米軍の主要基地、ダッチハーバーを空襲するため、22機の爆撃機と12機の戦闘機を発進させて作戦行動の火ぶたを切った。だが、地上には一機の米軍機もなく、攻撃できたのは石油タンクと無線施設のみであることに当惑させられた。空母への帰還途上、攻撃機は沖合に米軍駆逐艦が点在するのを確認したが、天候が悪化しており、その後の三日間、北方艦隊は南方からの戦果を無為に待つしかなかった。
 その日の夕方までに、ミッドウェイに向かった艦隊はそれぞれの予定地点に達していた。山本の先行する4隻の空母は、南雲長官の指揮のもとで、北西より、悪天候をついて、ミッドウェイに向けて航行していた。真珠湾への攻撃以来、南雲の機動艦隊は、二月のダーウィン空襲、そして、四月のセイロン沖での英国空母ヘルメスおよび巡洋艦と駆逐艦各一隻の沈没と、その戦功を誇っていた。他方、ニミッツ提督下の空母3隻――まだ誇るに足る戦功はあげていなかった――は、雨雲に隠れ、機会をうかがいながら、ミッドウェイの北東を気付かれずに航行していた。アメリカ軍は、日本軍が近くにいることは知っていたが、日本軍は、アメリカ軍が日本の潜水艦哨戒線の向こう、少なくとも1,200マイル
〔1,920㎞〕は東方にいるものと考えていた。
 6月4日の朝の4時20分、南雲長官の空母艦隊は爆撃機36機、急降下爆撃機36機そしてゼロ戦36機を、ミッドウェイの滑走路と海兵隊守備隊への攻撃のために発進させた。30分後、全機が編隊を組み終わり進路についた時、南雲は、米軍艦隊が付近にいるかもしれないとの万一の事態を想定し、周囲の海域に遅まきながらのおざなりな定常偵察機を飛ばした。72機の爆撃機と36機の戦闘機が南雲の空母に残っており、それらは、必要な場合の、海上の敵への攻撃に備えた装備で待機していた。
 ミッドウェイの海兵隊守備隊――直前の二週間に、その兵員も兵器も著しく増強されていた――は、南西より、日本の兵員輸送船団が接近していることを、航空偵察によって察知していた。兵員たちは、北西から、日本の空母が同時に接近しているとも告げられていた。そうした状況の午前5時53分、接近中の日本軍機がレーダースクリーン上に現れた時、すでに米軍パイロットたちは用意を整え、それに備えていた。15機のB-17「空飛ぶ要塞」が、南西の輸送船団を爆撃するためにすでに離陸していたが、その進路を変更し、北西の空母へと向かった。またミッドウェイの62機が緊急発進していた。そのうちの37機は空母へ向い、25機の戦闘機――旧式のバッファローと7機の工場から到着したばかりの新品のワイルドキャット――は旋回して高度を上げ、日本軍機が接近してきた時、上空より襲いかかろうとしていた。
 米軍の爆撃機は、対向してくる日本軍機とすれ違い、操縦士たちは互いにけなし合いの振りを示しながらも、実際に交戦することはなかった。そして、〔上空で待伏せしていた〕25機の米海軍戦闘機はその36機のゼロ戦と遭遇した。10分間の空中戦の後、ゼロ戦2機と、新品の海軍F4Fワイルドキャットと旧式のF2A-3バッファローの22機が戦闘から姿を消した。米軍機乗員の10名と機体の3機は生き残ったが、惨憺たる経験をした。そのうちの一人は、 「F2A-3機で出撃せよと命令した司令官は、そのパイロットを、すでに離陸前に失っていると認識すべきだ」 と報告している。
 日本軍の残りの106機は、ミッドウェイを防衛する戦闘機に迎撃されながら、地上に発見できるかぎりのあらゆる目標物に機銃掃射と爆撃を加えた。日本軍機は、サンド島の病院、燃料タンクを破壊し、イースタン島の発電所、食堂、酒保を粉々にし、同島の空港の燃料ポンプへの給油パイプラインを破壊し、滑走路を穴だらけにした。彼らはその時、遭遇した対空砲火の激しさに驚かされた。というのは、彼らは事前に、同島にはわずか数百人しか守備兵がいないと説明されていたが、実際は、5,000人以上の防衛隊が配置されていたからであった。アメリカ軍の防衛隊は、塹壕や土嚢積みなど充分に準備を重ね、戦死したものはわずか11名であり、破壊された砲火はほんの数門のみであった。
 日本軍の飛行士は、爆弾や機銃弾をあびせながらも、落胆せねばならなかった。彼らは、地上に一機の航空機も発見できず、ミッドウェイの砲火をつぶせなかったことが明らかであったからだった。日本の爆撃機の4機が撃墜されるか、大きな損傷を受けて、母艦への帰途中に海上へ墜落した。午前7時、飛行隊長の友永襄一大尉――長崎の繊維大問屋の子孫――は、その帰艦中、南雲長官に、 「第二波の攻撃が必要」 と無電連絡していた。
 ミッドウェイを基地とする〔2団、合計〕52機の爆撃機は、南雲の空母艦隊の上空で出会おうとしていた。それまでの数週間、彼らはその使命の重要さを徹底して教え込まれていた。日本軍の空母を沈没させるか、あるいは、ミッドウェイの闘い、ひいてはその戦争そのものが、アメリカの敗北になるか、というものであった。特攻隊という考えは、狂信的でいちずな日本人が編み出したというのが一般的に言われていた。だがそれは逆で、最初はミッドウェイの米国人パイロットによって実行された。
 6月4日の朝、7時5分から10時20分まで、78名の米軍機搭乗員は# 22、低空飛行で自ら日本軍空母につっこんで行った。誰も生きて帰ることは考えていなかった。彼らは、たとえ生き残ったとしても、帰還するための燃料が足らないことを知っていた。78名の搭乗員のうち、44名はその望みの通り、死んでいった。そして最悪なことに、彼らのそうした死は、どの一隻の日本軍の艦船を沈めることとならなかったことであった。彼らが死んだ時、その明らかな無駄死に、その武器の劣悪さ、そして敵の優れた専門技術は、誰をも憤慨させたが、幸運の一撃が、そうした生命を無駄にはさせなかった。彼らの組織立ってはいないが執拗な攻撃が、ついに、南雲長官に致命的な誤判断をさせることにつながり、日本を戦勝からひきはがす契機となるのであった。
 そこに何が生じたかを要約すると以下のごとくである。午前7時5分、6機の米軍アベンジャー雷撃機が日本軍艦隊に突撃して行った。それらは、日本のゼロ戦の迎撃をうけ、その銃撃を避けながら、魚雷を投下した。その速度の遅い、進路の不安定な、そして信管が粗雑な魚雷は、日本の空母の操舵によって、すべてかわされてしまった。その6機のアベンジャーのうち1機のみが、その投下後に飛び去ることができた。次に、7時11分、4機の陸軍のB-26マラウダーが、魚雷を装備してやってきた。ゼロ戦がそのうち一機を、対空砲火が一機を、そして残りの2機が、〔魚雷の〕泡の上をすれすれに飛び去って行った。それらの魚雷は、日本艦の巧みな操舵によってかわされ、水平線の彼方へと消えた。7時55分、16機の海軍の最新急降下爆撃機が、緩慢に降下する攻撃を行った。それはみな、飛行隊長がそれなら何とか実行できるだろうと判断した新米パイロットによるものだった。そのうち6機はゼロ戦に、2機は対空射撃で撃ち落とされた。残った8機のうちの2機とその乗組員の全員は生還した。だが、これも、一発の命中弾はなかった。
 午前8時14分、ミッドウェイの15機のB-17が、2万フィート
〔6000m〕上空から12万7500ポンド〔58t〕の爆弾を投下した。だがそれも、魚以外には何をも殺せなかった。これらのB-17機は、対空砲火の射程の上を飛行していたので、その乗組員は全員が生還した。
 3分後、日本の艦隊の上空に、11機の旧式の海軍ビンジケーター急降下爆撃機――その乗組員が「バイブレーター」と陰口をたたいていた――がようやく到着し、戦艦榛名に襲いかかった。だが、対空砲火の弾幕をくぐりぬけて帰還できた搭乗員は9名だった。榛名はまったくの無傷で航行していた。
 一時間以上にわたって、南雲長官とその艦長たちは、こうした5波にわたる米軍の空襲をかわすことに没頭されていた。二回目の空襲が終わった7時15分、南雲は、ミッドウェイの飛行場に第二の打撃をくわせることが必要と確信し、第二波のための108機に艦艇攻撃用の魚雷を外し、陸上攻撃用の爆弾を装備するように命じた。だが7時28分、一機の日本軍偵察機が、北東方向の水平線上に未確定の数と構成の敵艦隊を発見したと通報してきた。南雲はその情報の確認とその艦隊構成の明確化を命じ、その追報を待った。7時45分、彼の水兵たちには、二波攻撃のための装備替えを中止し、待機させた。
 南雲の参謀たちは、全4隻の空母の〔それぞれ半分の〕艦載機を最初の攻撃に用い、第二波の攻撃には各空母の残る半分の艦載機を用いるという作戦が誤りであったことに、ようやくにして気付いた。そうではなく、もし、ミッドウェイに向けては2隻の空母の全艦載機をあて、残りの2隻の全機が海上用の攻撃に備えていれば、今、彼らは、報告された米軍艦隊に対し、残されていた空母の一隻から発進させることができ、しかも、ミッドウェイへの第二波攻撃にも準備済みであることができ、そしてさらに、空の2隻の空母の甲板は、使命を果たして帰還する機のために使うことができた。だが現状では、4隻の空母は、果たさねばならない異なった種々の命令に秩序を失っていた。彼らは、ミッドウェイから帰ってくる機のためにも備えていなくてはならず、また、爆弾を装備した機を発艦させ、他方、魚雷を装備した機も送り出さねばならなかった。その結果、格納庫と飛行甲板の間のエレベータには同時に目的が異なった必要が交錯した。ある艦載機は上げられ、ある艦載機は下げられた。さらには、飛行甲板上には爆弾と魚雷が山積みにされ、露出したままとなっていた。
 7時55分から8時35分の間、ミッドウェイから発進の第三波、第四波、第五波の空襲があった。そのさなかの8時20分、北東方面を探る日本軍の偵察機から、いらいらさせられる曖昧な報告があった。その不明瞭で確信のない報告によると、雲間から一見されるところでは、その米国艦隊には、 「空母らしきもの」 も含まれているというものであった。南雲は直ちに、爆弾を装備したすべての待機中の機に、艦隊攻撃用の魚雷に付け替えよと命令した。そしてもしミッドウェイ空襲から帰還し、旋回しながら着艦許可を待っている機がなかったなら、彼は、直ちに攻撃機を発進させねばならなかった。だがその後の15分間、その着艦のため、南雲の空母艦隊の飛行甲板は帰還機であふれることとなった。
 米軍空母エンタープライズ、ホーネット、そしてヨークタウンは、日本の空母のおおむねの位置を早くから報告されていた。大きく損傷を受け補修半ばのヨークタウンのフレッチャー少将と、エンタープライズとホーネットのレイモンド・スプルーアンス少将の両者は、熟慮のすえ、慎重な決断を下していた。すなわち、彼らの位置や、彼らの艦船数や艦載機そしてパイロットの劣勢を敵に気付かせないため、彼らは最初の出撃を成功させねばらなず、その飛行甲板は第二波攻撃を送り出す態勢にする必要はない。すべての艦載機をただ一度、最初の攻撃に投入することとなった。
 協議の後、総司令官であるフレッチャーは、ホーネットとエンタープライズの艦載機は奇襲の効果を最大とするため、直ちに発進し、ヨークタウンの艦載機は後方で待機し、最初の攻撃で敵の位置が判明し確固となり次第、敵にいっそうの混迷をあたえるとのスプルーアンスの考えに同意した。こうして、午前7時から8時まで、ミッドウェイからの爆撃機が南雲の艦隊に攻撃を加えている間に、エンタープライズは、33機の急降下爆撃機、14機の雷撃機、10機の戦闘機を発進、ホーネットは、35機の急降下爆撃機、15機の雷撃機、そして10機の戦闘機を発進させた。標的地域までには少なくとも150マイル
〔240㎞〕の距離があったので、戦闘機は、空中戦に燃料を使いすぎると帰還の望みはなかった。雷撃機は、もし獲物をすぐに発見できて探し回る必要がなければ、いくらかましな帰還の可能性があった。急降下爆撃機は、日本艦隊の索敵に時間を要さなければ、帰還できる最大の可能性があった。急降下爆撃機だけが片道切符の使命でないということは、戦闘機や雷撃機の帰還はまれと想定され、しかもその生存者は、救命胴衣のまま海原を何時間も漂っていなければならないということだった。それ以外のものは、死が前提とされていた。
 ホーネットの35機の急降下爆撃機と10機の戦闘機は、報告を受けた日本艦隊の存在位置へと向かい、そしてその少し先まで飛んだところで、今度は日本艦隊を探してミッドウェイ方面へと南に転じた。ホーネットの戦闘機10機は燃料を使い果たし、ミッドウェイ近海に不時着し、全員が救助された。急降下爆撃機の35機はミッドウェイに着陸し、給油を受け、いつでも出動できる補充戦力としてそこに残った。戦闘の後は、母艦に戻ることとなっていた。
 他方、ホーネットの15機とエンタープライズの14機の両雷撃機は、エンタープライズの追撃機10機に掩護されて、日本艦隊を発見することに成功した。ホーネットの雷撃機飛行隊長のジョン・C・ウォルドロン少佐は、発艦前、彼の艦長と話し合い、日本艦隊の予想位置より北寄りへと向かっていた。彼は、サウス・ダコダ出身の風変りな男として部下たちから親しまれていた。彼はスー族の血をひいており、その鋭い勘を自慢とし、その部下たちに、ロビンソン・クルーソー島付近に不時着した時に備えて狩り用ナイフを所持するよう求めていた。彼は部下に、日本の司令官が突然に北へと方向転換するとの予感がすると話した。ウォルドロンの予感は、彼の艦長が示唆していたもののようだが、それは的中した。もしそう北転していなかった場合、エンタープライズの14機の雷撃機は、彼らと、他の二編隊の急降下爆撃機とが成す角度を二分した角度だけ左にそれることとなっていた。
 南雲がミッドウェイ爆撃からの帰還機を収容し終わった午前9時20分、ウォルドロン隊長は、ホーネットのナイフを携えた隊員を率いて、その上空に到着していた。母艦からその標的まで直線の彼の飛行は、蜂巣へと向かう蜂であるかのごときみごとさだった。その前夜、ウォルドロンは、「もし、最終出撃に残されているのがその一機しかないなら、その操縦士は、なんとしても獲物をしとめるにちがいない」、と彼の部下に檄を飛ばしていた。 今や、その無骨なデバステイター雷撃機に乗ったウォルドロンの部下たちは、隊長機の後について、ゼロ戦と対空砲火のさ中にあった。そして、彼らが目撃した最後のウォルドロンは、風防を吹き飛ばされたた操縦席に立ち上がり、燃え上がる機とともに海に散ってゆく姿だった。そのデバステイターの全15機は自分の魚雷を投下したが、全てが外れ、全機が空中で分解した。その30名の乗員の一人、15番機の操縦士、エンザイン・ジョージ・ガイは、たった一人生き残り、海上からその後の戦闘を目撃していた。そこで彼は、漂流する自機の残骸から引っ張り出した浮力のある黒いクッションにつかまり、それに身を隠していた。
 ウォルドロンの隊員たちが消え去るとすぐ、南方から彼らを追ってきたエンタープライズの14機の雷撃機も、特攻攻撃に入った。4機は投下が早すぎたが急旋回し、生き延びた。他の10機は、南雲艦隊の〔対空砲火による〕閃光放つ白煙の中まで突入して自らの魚雷を投下したが、どれも目標を外し、戦果を上げられなかった。
 ゼロ戦操縦士の巧みな飛行と対空砲火の正確さにより、南雲は、合計81機、7波にわたる米軍機の攻撃をかわした。そのうちの最後の2波の攻撃は、あきらかに、空母艦載機29機によるものだった。だが、それまでに南雲が受け取っていた〔三つの〕報告は、その海域には、ただ1隻の米軍空母――明らかに小型のもの――がいる、あるいは、真珠湾外側の潜水艦哨戒戦をすりぬけてはいない、あるいは、すりぬけたようだが、その構成が不明という偵察機による不確認な情報であった。つまり、その29機の雷撃機は、小型空母からの攻撃の恐れとしては、それですべてと考えられた。
 数分間様子を見た後、南雲長官は運命の決定を行った。すなわち、彼は、問題となっている米国艦隊を攻撃するため、魚雷装備の済んだ雷撃機を飛行甲板に上げるよう命じた。彼はもちろん、彼のどの空母も、その上甲板に航空機や給油管を露出しておくことは、上空からの爆撃に極めてもろいことは承知していた。彼は今、正体不明な米空母から確かに発進したとみられる二波にわたる雷撃機攻撃を撃破し終わったところだった。その空母からは、雷撃機とほぼ同時かやや早く、急降下爆撃機も来襲してしかるべきであった。一時間以上にわたって、彼が受けた攻撃は、二波による雷撃機によるものであった。それらは、ミッドウェイからのものか、それとも、その空母からのものか、すでにその米空母からの雷撃機攻撃はすんだのか、それとも、まだ彼を探している攻撃機がいるのか、この問いは誰もが抱くものであった。南雲はそこで、可能性の賭けにでた。すなわち、そうした攻撃機はもうおらず、もしあったとしても、彼を発見できずに帰還したものである、としたのであった。
 午前10時15分、南雲の第二波攻撃の108機はようやく飛行甲板に上げられ、魚雷を装備し発艦しようとしていた。その時、最もありえないことがおこり、さらに12機の米軍艦載機が上空に出現した。いかなる米軍司令官であろうと、のろく、効果の無い米国製魚雷という役立たずの武器を全面再装備して、三波の攻撃をしかけてくるとは、とても信じられないことだった。南雲長官はそれを知らなかったのだが、第三の米軍空母、すなわち、珊瑚海で沈んだはずのヨークタウンから遅れて発進した雷撃機が、今、攻撃に入ろうとしていたのだった。彼の兵員は、ホーネットやエンタープライズの雷撃機と取り組んだように、この攻撃にもできる限り効果的に取り組んだ。疲れ切った彼のゼロ戦操縦士が、7機のヨークタウン艦載機を撃墜し、3機を対空砲火で撃ち落とし、損傷させられた2機も、よろめきながらの帰還中に消え去った。再び、南雲の艦長たちは、巧みに操船して、魚雷の白い航跡をやり過ごした。
 4隻の日本軍空母は、風上へと艦首を向け、第二の攻撃のための108機の発艦に備えた。ミッドウェイ爆撃から帰還した第一波の108機は、エレベーターで下部甲板に移され、米軍艦隊に圧倒的な打撃を加えるためにさらに発進できるよう、再装備を待っていた。この時、アメリカ合衆国の運命は、発艦までの30分というわずかな時間にかかっていた。もし、日本の第二波攻撃が発進していれば、すべての米軍空母はほぼ確実に沈められ、日本の空母は、一定の状態で、再度、生き残っていただろう。
 6月4日午前10時22分のことだった。最後の望みともいうべき残された米軍の最後の艦載機が、一度に、日本軍空母の上で結集した。ヨークタウンの艦載機である17機の急降下爆撃機が、発艦後標的に向け、むしろ事務的な飛行で南東方面から到着した。他方、南西から、エンタープライズの32機の急降下爆撃機が、太平洋上を3時間以上もさまよった後、奇跡のように飛来した。そのエンタープライスの操縦士たちは、当初の 「迎撃策」 を断念し、1時間以上前から、北に向かった索敵を行っていた。彼らは、燃料上帰還可能な中間点をすでに越えて長く飛んでおり、その飛行隊長のC・ウェード・マックルスキー少佐は、全機がおそらく片道切符の使命にあることを認識していた。マックルスキーは、報告を受けて米軍潜水艦の追跡を終えて引き返す途中の日本軍駆逐艦を、25分前に発見していた。マックルスキーは、その駆逐艦が残りの日本軍艦隊に合流しようとしているに違いないと考え、急転回して、その駆逐艦の進路をとった。彼のその判断は報われ、今や彼の眼下には、南雲の全機動艦隊が広がっていた。
 南雲のゼロ戦操縦士は、わずか7分前に始まった最後の米軍の雷撃機を退治し終わったばかりで、すべて低高度にいた。南雲の水兵たちは、艦載機の発進のため、艦を風上に向けることに忙殺されていた。南雲の空母の甲板には、可燃物と爆発物が山積みされていた。反対方向から到着したヨークタウンのマックスウェル・レスリー少佐率いる急降下爆撃機と、エンタープライズのマックルスキーの急降下爆撃機は、完璧な奇襲を成し遂げ、完璧な標的を獲物にしようとしていた。
 マックルスキーと彼の隊員機のほとんどは、36,800トンの日本軍空母加賀にうなりをあげて襲いかかった。残りは危険をおかして、36,000トン空母赤城に挑んだ。ヨークタウンの17機の急降下爆撃機は、17,500トンの蒼龍に爆弾を投下した。
 これらの爆撃機のほとんどは、日本軍が不意を突かれたため、その対空砲火の被弾を受けずにすんだ。エンタープライズの32機の急降下爆撃機のうちの14機の乗員は、自機と燃料を上手に使い、無事、米艦隊に帰還した。マックルスキーが着艦した時、彼の機の燃料タンクには、5ガロン
〔23リットル〕しか残っていなかった。彼の隊の何機かは、プロペラの回転が止まって帰還した。しかし、レスリーのヨークタウンの艦載機は、二機を除く全機が帰還した。
 消え去った20機の米軍急降下爆撃機乗員の死には、高い代償が伴っていた。その6分間で、彼らと29人の生還乗員は、それまでの3時間15分のうちに、無傷で93機
# 23の米軍機を撃退し、内44機を撃墜した、その日本軍艦隊を無力にさせていた。
 4発の爆弾が古賀を、2発が赤城を、そして3発が蒼龍を直撃した。それら3隻の上甲板は、直ちに、ハイオクタン燃料の火の地獄と化した。日本の空母の被災時の対応は、その砲撃と較べて劣っていた。水兵たちは、戦士ではあったが、加治屋ではなかった。また、その日の午後、火は火薬庫に引火し、隔壁は各所で花火のように吹き飛ばされ、機関室乗員がガス中毒となり、艦体が転覆の角度まで傾いたため、3隻すべての空母はついに放棄された。
 被弾をまぬがれた17,500トン空母の飛龍は、12時5分、他のすべての空母の火災が対処不能となり、命運が決まった段階で、小規模の報復攻撃を行った。飛龍の63機の艦載機のうち、わずか18機の急降下爆撃機がその攻撃に参加し、それでもそれは成功した。それらの機はヨークタウンを発見し、そのうち7機は、同艦の戦闘機と対空砲火をくぐり抜けて3発の直撃弾を食わせた。5機の飛龍の艦載機は帰還し、ヨークタウンには火柱が上がった。しかし、腕の良い米国の修理兵は、その火を消し止め、二時間後には、ヨークタウンを表面上は再度、戦闘可能とさせた。さらに、飛龍から、第二波のわずか5機という、悲壮な小規模な飛行がヨークタウンを再び発見し、2発の魚雷をその破損した舷側に打ち込んだ。その日本の5機はすべて、対空砲火の中を生き延びて生還した。ふたたび、アメリカ艦隊の機械技術上の巧みさが功をそうして、ヨークタウンを沈没から救った。彼らは、同艦を曳航し、できるなら、ふたたび真珠湾へと帰らせようとしたが、翌日、今度は日本軍の潜水艦、イ168号のはなった2発の魚雷が命中、それが最後となった。
 戦闘の余波の残る中、両軍が引揚げを始めた時、エンタープライズの操縦士と母艦を失くしたヨークタウンの操縦士が飛龍を追跡し、そのかたきを討った。彼らは飛龍に致命傷を与え、6月9日午後5時10分、南雲長官は、駆逐艦にそれを沈めるよう命じた。
 珊瑚海およびミッドウェイの両海戦以前、日本は空母10隻をもち、その排水総トン数は215,100トンに達していた
# 24。それが、ミッドウェイ後は、空母は5隻を残すのみとなり、その合計はわずか96,100トンであった。日本はその攻撃力の55パーセントを失っていた。その後の戦争期間中、日本の造船所からさらに5隻の空母が建造され、総排水トン数は142,800トンまで回復した。しかし、ミッドウェイで失った艦船の補充だけでは、その同期間に米国が12隻を進水させたのと並べれば、目を覆いたくなるほどの劣勢であった。
 日本にとってさらに痛手であったことは、技量をもった操縦士の損失だった。それまで、ミッドウェイへの夜明けの空襲で6名、米軍の空襲を迎え撃つ空中戦で12名、そしてヨークタウンを発見し沈める戦いでは24名をそれぞれ失っただけだった。しかし、飛行甲板での火災や、その後に、沈みゆく4隻の空母の艦内に閉じ込められ、280機余りの日本軍機の乗員の半数以上が洋上で失われていた。すべての朝駆け攻撃の技量は、霞ヶ浦の朝靄の中で養成された。日本は、その操縦の名人たちのほぼ半数を失っていた。中国、ルソン、マラヤ、そしてジャワ上空で養われたその長年の経験と高度な技量は、その後の三年間の取り込んだ生産の努力の中では、決して再生産されなかった。
 空母と操縦士とともに、日本は、その果敢な戦争とその勝利への望みもすべて失った。あとはただ、持久戦を構え、頑強な防衛で米国に犠牲を強い、和平への糸口とするとの望みが残されるのみであった。
 6分間の強固な英雄精神と幸運が、その優勢な無電傍受と暗号解読とともに、アメリカをして遂にミッドウェイの闘いに勝利させたことは、後方にあって、64,000トンの戦艦大和上にいた山本長官にとっては、最初、まことに信じ難いことであった。彼は、6月4日の真夜中まで、彼の艦艇とミッドウェイの陸上砲台との間の砲撃戦をも含め、反撃の命令を出しつづけた。しかし、その夜半過ぎ、彼の2隻の空母が沈没し、残りの2隻もほぼ放棄状態となった時、彼は断念し、総撤退を司令した。その前の午後、彼の参謀の一人がこう尋ねた。 「この敗北をどう陛下にお詫びしましょう」。それに山本は答えて言った。 「俺に任せておけ。陛下に詫びなければならないのは、俺のみだ。」
 6月5日の午後3時――ミッドウェイ時間の6月4日午後6時――以降まで、海軍軍令部の誰一人として、ミッドウェイの完敗について裕仁に告げる勇気は持ち得なかった
# 25。東京時間で午後1時40分に 「艦の放棄」 が重空母加賀に命じられ、また中空母蒼龍が沈没したのは同4時13分だった。赤城と飛龍は両艦ともすでに遺棄物となっており、その夜遅くには、放棄されねばならなかった。裕仁は午後早く、定常の謁見をこなし、午後3時ごろ、ミッドウェイの戦闘状況を尋ね始めていた。その後20時間、海軍参謀からの連絡以外には、彼はまったくのつんぼ桟敷に置かれていた。
 木戸内大臣はミッドウェイ惨事について、翌6月6日、午後1時に、海軍侍従武官から公式に告げられた。木戸はその日も翌日も、天皇とは会わなかった。その代わり、彼は弟で日本で最も秀でた航空技術権威者の和田小六や航空産業の指導者たちと過ごし、日本の空軍力がこうむった突然の痛撃への非難を表したものと思われる。そしてついに6月8日の午前10時40分、木戸は天皇に謁見した。その後、彼は自分の日記にこう記している。
 かくして、裕仁は敗北した。木戸は彼がそれを知ったことを感じた。しかし、木戸の進言によって、さらにその後の三年間、これを容認することはなかった。


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