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第七部


世界終末戦争





第二十八章
崩壊する帝国(1942-1944)
(その5)



幸運頼み

 海軍大将たちは戦況挽回の海戦に期待をかけ、陸軍大将たちは作戦的撤退を討論しはじめ、産業界は一時的な生産限界について釈明していたかも知れないが、情報に明るい文官たちは、戦争の継続を 「幸運頼み」 と呼んでいいた。不朽の名誉を得た山本を敬い、ずば抜けた家臣を亡くした喪失感にさらされながらも、裕仁は、生き抜き、戦い続けねばならなかった。彼はもはや山本のごとき長期的な軍事的思考ができる補佐役をもっていなかった。63歳の杉山参謀総長は、叱責でも命令の撤回でも、何の反論もしないで受け入れる調子のよい鈍重漢だった。58歳の東条首相は、同僚の軍人を奮起させ、民間の不心得者を黙らせ、財閥からの賄賂を拒むことができる、品行方正な軍人政治家であった。かって顔の広さを誇った鈴木貞一は、いまでは内閣企画院総裁に腰を据え、日増しに経済面に専念し、まるで銀行家のようにふるまっていた。53歳の木戸内大臣は文官で、世論形成や警察組織、および諜報活動等の民意操作に熟達していた。加えて木戸は、和平工作推進のため、冷徹かつ厳格な捨象と小心な狡猾さを君臨させていた。
 裕仁は、 「マレーの虎」 こと山下の中に、日本の退潮する軍事的機会を率いうる、軍人指導者としての大衆性を見出していた。しかし、物言いに遠慮のない山下は、閻錫山の虐殺事件に異論をはさみ、また直ちにオーストラリアへ侵攻することを主張して、裕仁に一線を画する態度をあらわにしていた。そういう山下を、裕仁は満州へと送り返していた。
 山下に代わり、裕仁は、山下の元参謀であった辻政信を、自分の顧問団に入れた。辻は裕仁より1歳6ヶ月若い# 9、頭脳明晰な狂信家だった。フィリピンの死の行進に口頭命令を発した後、辻は百武晴吉中将に従ってガダルカナルへと渡り、そこで米軍海兵隊を海へと退却させる最後の二度の作戦を指導したが、失敗に終わっていた。その失敗の後、辻は東京に戻り、自分の判断ミスを率直に認め、今度はガダルカナルからの撤退を主張して、これには成功した。辻大佐は、裕仁にも長く知られ、裕仁の弟の三笠親王からも厚い庇護を受けてきており、その率直さには裕仁も好感を持っていた。しかし、1943年も深まるにつれ、裕仁は、辻を山本の後任にするには、戦略的決定に関わるには軽量で大局に乏しく、また、まだ若い狂信と偏狭を注視するようになった。1943年8月、さほど困難を伴うことなく、裕仁は辻を中国に戻し、彼のもっとも好む、宮廷と陸軍の海外植民地総督との間の仲介参謀の役を与えた(77)
 ガダルカナルやニューギニア北東海岸からの撤退のあった1943年初期の数ヶ月、山本を死へと駆り立てた艱難辛苦は、裕仁をも苦境に陥れた。 その同年一月、ブナに戦車を配備しなかったことで杉山参謀総長への叱責に続いて、裕仁は、産業生産の遅滞について、東条首相を声を荒げて非難した。前首相の近衛親王の著書のあるページによると、東条は病気となってそれに応え、職務を休んで仕返しをした。木戸内大臣は、手早く代わりの首相候補者のリストを作成し始めたが、同じ時期の日記には、「しかし、私は東条を尊重する」 と書いている。(78)
 東条はすぐに病気から回復し、皇位からの丁寧な言葉も賜って、日本の重責を担って、なんとか再起することに同意した。彼はそこで、自分の補佐に、富永恭次中将を陸軍大臣次官に呼び入れた。裕仁は富永を、かねてより陸軍の空軍力に明るい専門家として認めていた。それと同時に、東条は内閣に、無任所大臣として6人の産業人を迎え、軍事生産体制の助言を強化した。
 戦時体制執行のため、東条が彼の政府を立て直すよう努めている間、木戸内大臣は、日本が降伏し敵軍によって占領される事態に備えた(79)。1943年2月4日、彼の秘書で戦後の後継者となった松平康昌の家で、木戸は和平派計画を検討するため、近衛前首相と秘密の会合をもった。彼らは、米国に共産主義の恐怖を最大限に与え、そして、敗北後の混乱時、日本国民が神とする天皇を奪われれば、共産主義へと傾くかもしれないとの考えを広める策に同意した。
 3月18日、木戸は吉田茂――戦後初の首相となる――に、吉田が和平派の現実の指導者であり、近衛親王は、その不健康とアメリカからの不信のため、同派の表看板以上にはなりえないと確約した。
 4月7日、裕仁は木戸に、二人の天皇の息のかかった外交大使の交代を命じた。一人は、重光葵
〔しげみつ まもる〕を南京大使から呼び戻し外務大臣に就け、他は、谷正之外務大臣を逆に南京にゆかせ、その地の中国傀儡政府との関係処理に当たらせた# 10。重光はそれまで、蒋介石との早期の講和締結論を展開してきており、蒋介石と英米連合の外交関係の破棄と交換に、日本軍の中国からの引き上げを主張していた。重光や谷には、そうした講和は可能で、重慶政府と交渉しえるチャンネルもつかんでいた。それは、孫文の息子の孫科――日本の女スパイの 「東洋の宝石」 # 11の元愛人――を通じてのものであった。孫科は、日本の提案を、母親の孫文夫人〔宋慶齢〕に伝えうる人物だった。彼女は、一面では共産党員であり、他面では蒋介石の夫人〔宋美齢〕の姉であり、中国の争い合う両雄、蒋介石と毛沢東という両者と、必要な了解事項を仲介しうる立場にあった。(80)
 裕仁は、4月23日に重光を外務大臣の地位につけると同時に、もう一人の大兄、岡部長景伯爵を呼び戻し、教育宣伝にあたる文部大臣に任命した。岡部も、重光のように、1930年代初めに、北進派に傾いて天皇の好意を損ねていた。他の征露派への同調者は、これら二人のお蔭をこうむっていた。こうした者たちを内閣に呼び戻すことで、裕仁は、不平をもつ国内の北進派の支持を取り込もうとしたばかりでなく、日本は再び共産主義の脅威に懸念し、指導的な反共主義者の動きを組織していると、海外の政治分析者に示す方策とした。(82)
 内閣改造の二日後の4月25日、木戸内大臣は、近衛親王から、 「重慶からの情報では、西洋諸国および中国との全面的な講和締結の見通しが樹立されつつある」 との報告を受けた。近衛の情報源が言うところでは、蒋介石夫人は、最近、ワシントンを訪問し、 「米国の軍事指導者は、ソ連の力に驚かされており、その結果、日本およびドイツをあまり徹底的に叩かないことを決定した」 ことを知ったということだった。(83)
 5月初め、新任外相の重光は、重慶政府との交渉に乗り出した。5月13日、彼は木戸に、交渉の最大の障害は、日本軍が、締結されたいかなる合意をも踏みにじり、外務省がいかなる条約に署名しようと中国に残って戦い続ける、という中国人の受け止め方だと報告した。木戸は重光に、日本は誇りを持って外交的取組みを行っており、軍部を抑える必要のある場合は、裕仁は親王を首相に指名する用意がある、と蒋介石につたえるように述べた。(84)
 翌日の5月14日、木戸は、裕仁の弟で海軍参謀の高松親王大佐に謁見を求め、現在の状況を説明し、彼と海軍による全面的協力を求めた。(85)
 東条首相は、講和攻勢の利点をただちに取り上げ、裕仁に、その対象を中国ばかりでなく、他の占領地域にも拡大してはどうかと提案した。そして、日本が獲得したすべての領土を、しだいしだいに独立させてゆくことを約束してはどうか、あるいは、適切な時期にそうした領土から軍隊を引き揚げ、そこに現地民による独立した非植民地政府を与えると約束してはどうか、あるいは、1943年の末の11月にも、傀儡指導者らによる大東亜会議を招集し、太っ腹な日本の最終的目標を公にして承認させてはどうか、というものであった(86)。5月19日、裕仁は東条のアイデアを木戸内大臣に伝えた。木戸は、それは、他の和平計画にも適用できる極めて好ましい提案だとして賛成した。そうした力づけを得て、裕仁は数分後、再度、木戸に電話し、香港についてはどうすべきか――英国に渡すか、中国に返すか、それとも日本の独立保護国との宣言をするか――、意見を求めた(87).
 こうした和平措置に取り組みながら、裕仁は、戦争には敗北したことを間接的には認めていたわけだが、だからと言って、まだその遂行を放棄したわけではなかった。彼は、航空機、輸送船、機械工具、金属部品、石油製品、そして米など、深刻化する物資不足を緩和する努力として、週に幾度も、産業人との昼食や晩餐を持った。だが、そうした会合で何らかの合意が実を結ぼうとする以前に、米国の側では、その巨大な産業力が、今度は北方の北太平洋海域で、再び新たな攻勢を可能としていたのであった。
 

アッツ島 (88)

 山本長官の死への希求は、あらゆる戦線のすべての階級に急速に伝わっていった。戦線のはるか後方の捕虜収容所の看守たちの間でも、戦勝の困難と避けられぬ死について話されるようになった。かじかんだ新たな運命論が最初に作戦上に現れたのは、アリューシャン列島の荒涼としたアッツ島であった。
 アッツ島は、ミッドウェイの敗北の結果として、日本部隊によって占領されてきていた。当初、アッツ島への侵攻は、太平洋を横切りハワイへと向かうミッドウェイ作戦の主要行動から、アメリカ軍をそらす陽動の意味をもっていた。しかし、ミッドウェイが悲惨な結果に終わった時、アッツ島は、日本本土へ面子立てに何らかの成功を報告するため、数百名の日本部隊によって何の無抵も受けずに占領された島だった。そのアッツ島は、アラスカから北太平洋を横切って西に伸びる列島の、もっとも日本に近い島だった。またアッツ島は、北海道からシベリアのカムチャッカ半島に向かい弓状に北へと延びる日本領土の千島列島――夏以外は無人の――の北端から、千マイル
〔1,600㎞〕も離れていなかった。
 山本の死の数週間後の1943年5月までに、アッツ島の守備隊は2,630名までに増強されていた。アメリカ本土方向にさらに170マイル
〔270㎞〕東の小さなキスカ島には、もっと多くの日本部隊が配置されていた。米軍にとって、こうした遠隔のアラスカの前哨拠点は、さほど重要な意味をもっていなかった。そのアザラシの骨の散らばる浜辺、苔むす島内の泥状の湿地とツンドラの山地は、そのために戦う価値なぞほとんど見いだせないものだった。その島の唯一の住人は毛皮商のロシア人と数百人のアリュー・エスキモーの原住民だけだった。樹木は全く生えておらず、前進傍受局があるアラスカ海岸沖のダッチハーバーのウムナックにある一本の西洋樅以外には、人の膝より高い灌木すらなかった。この一本の針葉樹すら、2,400マイル〔3,840㎞〕離れたシアトルから運ばれて移植されたもので、周囲を柵で囲まれ、 「ウムナック国有林」 と書かれた看板が立っていた。
 1943年5月11日、米軍艦隊は、霧とウィリワウと呼ばれる予想のつかない北極海からの島風をおしてアッツ島沖に到着し、1万1千名の部隊が上陸し始めた。同島の2,630名の日本守備隊は、事前に艦隊からの集中砲火をあびせられ、この先に何が起こるかを予期して、島のもっとも守備に適した谷間に閉じこもった。18日後、慎重な米上陸部隊は、谷の両端を固め、突入を始めた。それまでに日本部隊は空腹にさらされて持ちこたえていたが、東京から増強部隊を期待するなと言われている司令官は、参謀らを集め、全守備隊が死ぬ時がきたと告げた。日本人は、死をもってのみ、自分たちの意図の真剣さを米軍に表し、兵士としての誓約を天皇に対して果たせるというのであった。
 そういう決着法は、この島の米軍部隊に深い衝撃を与えた。最後に残った千名のアッツ島の日本軍守備隊は、ロシア人のアザラシ猟の旧基地であったチチャゴフから、その夜、玉砕突撃をかけた。彼らは、米軍の夜間の防止線を突破して、その半分を撃ち殺されながらも、米軍の野戦病院と補給将校を全滅させた。だが、生き残った5百名ほどは、手榴弾のピンを抜いて自分のベルト内に押し込み、全員が自爆した。米軍部隊も、裕仁すらも、彼らの無益な自己犠牲を理解できず、また、彼らの飢えと絶望の深さを知るよしもなかった。米国の観測者は、その悲惨な命の浪費と、抱え込まれた手榴弾が人の皮膚と骨格はそのままであるのに、内臓と脳を吹き飛ばしてしまうありさまにぞっとさせられていた。しかし、米兵の中の思索深い者でも、そうした自殺者に涙を流すものはいなかった。日本の守備隊は、その玉砕攻撃により、米軍に1,800名の損害を与え、うち600名を死亡させていた。
 大本営は、この玉砕突撃の二日前の5月27日から、アッツ島の守備隊と無線連絡が取れなくなっていた。その結果、この島の暗く寒い山腹で何が生じたかを東京が知ったのは、アメリカの放送を通じてであった。その報を聞いた日本人のほとんどは、守備隊の自決の勇気に喝采を送った。木戸内大臣すら、感慨を深くした。彼は自分の日記にこう記録した。 「私は心から、山崎保代大佐以下その部下たちに頭が下がる。悲しみと深い義憤を覚える」(89)
 だが、裕仁は不満であった。自決は戦争のもっと後の段階で、アメリカ人の憐みと罪悪感を引き出すためには必要となったかもしれなかった。あるいは、戦争の中盤において、国民の一体感を高揚させる手段として、それは必要であったかもしれなかった。だが、裕仁の見方では、今の段階においては、まだ戦争の初期であり、自決は無駄であった。
 1943年6月6日、山本の国葬の翌日、裕仁は、アッツ島の悲劇の結果をはかる一週間を過ごしていた。そして彼は、日本はいま、北の千島列島の防衛を強化しなくてはならないと見た。だがこの強化のための海運輸送力は、すでに日本の遠征軍を他の地域に供給したり、日本の工場に原料を運ぶために総動員され切っていた。アッツ島の前進拠点への武装と供給のために実施されてきた見通しのない倹約は、すでにきわめて高いものとなっていた。裕仁は杉山参謀総長を呼んで苦言を発した。  
 翌日、東条首相は天皇と会い、その後、木戸内大臣に不吉に告げた。 「戦争は決定的段階に来ている。ドイツの態度を見まもる必要がある。欧州方面でも、状況は変わるだろう」。
 そして、実際に変化が生じた。5月12日、最後のドイツ軍部隊が北アフリカから追い払われ、目下、連合国軍はシシリー島への侵攻を準備していた。ドイツとイタリアとの同盟関係を優先してきた東条にとって、ドイツの撤収は彼にとっての面汚しだった。皇位への率直さと自己への厳しさを表して、彼は裕仁に、日本はいまや単独で戦うしかなく、ヒットラーは可能とあらば独自の講和をも辞さないであろう、と宣告した(91)
 こうした東条の告白の翌日の6月8日、裕仁は、アッツ島での悲劇についての調査を完成させた。彼は杉山参謀総長に向かい、もはや遠慮会釈もなかった。(92)
 柔和で温厚な杉山は、いつもきわめて楽観的だったが、今回は返す言葉がなかった。杉山は天皇に、できるだけ快活に、中国の米軍志願兵による 「空飛ぶ虎」 空軍部隊に対し、陸海軍の合同空襲が明日に計画されていると述べた(93)。翌6月9日、杉山にゆだねたその空襲が成功して、裕仁は満足だった。杉山は、これを機会に、ニューギニアに残された拠点を維持する陸軍の作戦に全面的支援をいただきたいと天皇に要望した。杉山にとって、日本が南西太平洋に持っているニューギニアや他の拠点は、遠隔地ではあったが、「国家防衛の最重要前線」 を意味していたからだった。


トルストイからの教訓

 自らの元首に意思にそうために、木戸内大臣は、目下の戦局に際して、裕仁の愛読書のひとつ、 『戦争と平和』 にそのエキスがあることに気付いた。彼は同書の中に、 「目下の情況にとって大変に関心の持たれる考え」 (94)があることを発見したのだった。それはトルストイの考えではあったが、ナポレオンに対するロシアの戦いを描いたその物語に、国民が望む戦争とは、一端始まるとそれは止まるところなく続くもので、血をあがなってでものそうした救済は、一つの国が生れ変わる前には必要なことである、というものであった。さらにトルストイは、カタルシス的な観点に立てば、どんな戦争も全面的な死に至らねばならないものであり、あたかもゲームのような流儀で戦争を行うのは感覚的偽善であると考えていた。こうしたトルストイの見解は日本の狂信的精神主義についても当てはまり、木戸にとって、日本が進んできた道を説明する手助けとなっていた。
 木戸のロシア文学への傾倒は、ソロモン諸島への米軍の新たな侵攻によっていっそう刺激された。1943年6月初め、行われたどの航空偵察も、ガダルカナル沖に侵攻艦隊が集結していることを告げていた。裕仁は、犠牲を要して空襲や潜水艦攻撃をかけても、それが米軍の力量を損なわせれないことにいら立だっていた。6月20日夜間、第4海兵特別攻撃隊の二個中隊による前進部隊がニュー・ジョージア島――ガダルカナルからラバウルへ3分の1強の地点にあった――のセギ岬に上陸し、滑走路を作りはじめた。空からの援護不足で、その地区の日本の地上軍は、その小規模な拠点に打撃を加えることもできず、10日後、米海兵隊はそこを、さらに大規模な上陸部隊の受け入れ地点へと拡大していた。
 裕仁は、米侵攻部隊が着々と打つ手に狼狽させられ、自陸海軍がそれに対抗する効果的共同作戦をとれないことに立腹していた。海軍軍令部は、場当たり的に、同地域の艦隊と空軍部隊を増強する計画を作った。陸軍参謀本部は、ガダルカナル作戦で失敗した同じ旧態依然の戦術に少々手直しを加えた増強計画を作った。裕仁がニュー・ジョージア島を維持できるかどうかを尋ねた時、両軍の参謀総長の答えは逃げ腰だった。裕仁は、最新情勢について彼に率直に話うる人物と連絡をとるため、カロリン諸島のトラック島に指令を送り、従弟でかっての相撲相手の小松潜水艦隊提督を呼び戻した。小松侯爵は6月29日朝早く東京に到着し、裕仁に、ソロモン諸島の維持は不可能と、最悪の情勢を報告した(95)
 東条首相は、翌日、長く延期してきた 「南方地域」 視察に出発する予定だった。その朝、装甲完璧な大本営庁舎での激論の末、裕仁は東条に、ソロモン諸島の全司令官に宛てた天皇の勅語を託した(96)。それは彼らに、命を出来る限り無駄にせぬよう、敵に寸土も渡さぬ防衛戦を粘り強く戦うよう求めていた。
 東条は、力強くそれを請け合って裕仁を喜ばせようとしたが、かえって裕仁がめったに見せぬ感情を露わにして怒ってしまう結果となった。
 翌日の6月30日、東条はラバウルへ飛んだ(97)。その到着は、一万名の米軍の主要部隊がニュー・ジョージア島の5か所への上陸の時と重なっていた。東条は、集合した前線の司令官たちに迎えられた。そこで彼は、厳しさを込めて司令官たちに告げた。独伊連合軍が北アフリカで攻落した以上、連合国軍はすぐにその主要部隊を太平洋の攻勢へと振り向けてくるだろう。何があっても、連合国軍の猛攻撃を食い止めるために、後方地帯での予備戦力を立て直す必要がある。そのため、前進地点の守備隊は、今後、増援部隊や物資供給への期待をもたず、手持ちの人員と資材をもって生き抜いてゆかねばならない。諸君がよく戦えば戦うほど、日本は最近の悪運の連続による打撃を取り戻し、反撃を組織するための時間を稼げる。
 東京では、総力戦の準備のため、あらゆる愛国者が動員されていた。全ての原動力を投入した戦いを用意していることを見せることのみが、和平交渉においての望みを引き出しえた。皇后良子も、自ら包帯を巻いたり、戦地の兵隊に送る慰問袋を作る手伝いをした。木戸内大臣も、自らの立場から、兄の技術者の和田小六に合流し、航空機製造の専心をまっとうするよう根気よく後押ししていた(98)。裕仁の次の弟の秩父親王――兄とはしばしば意見を異にした――でさえ、東京の山王ホテルに私的侍従武官を置き、蒋介石とのあらゆる和平措置の統合に努めていた(99)
 東条がまだラバウルにあって、総力戦とソロモンの包囲された守備隊の放棄についての新たな政策について説明している頃、ヨーロッパ戦線では、7月10日、連合国軍はその力量を物々しく発揮する段階に入った。15万人の連合国軍部隊が、2千隻の艦船をもって、シシリー島の海岸に襲来した。ニュー・ジョージア島での枢軸側の守備軍は、陸、海、空のいかなる尺度でいっても劣勢であることを明瞭にしていた。海にあっては、一ヶ月前に 「決定的」 かに見受けられたが、それが今や、あらゆる面で、もはや疑いのないものとなっていた。
 7月25日、イタリア国王とイタリア議会は、ムッソリーニを見捨てて彼を保護拘留下に置き、かつ、イタリア王国の統治と降伏への至難な任務をピエトロ・バドリオ元帥と管理内閣に与えた。その翌日、木戸内大臣は裕仁に警告し、三国枢軸同盟の一国はすでにいつ脱落してもおかしくなく、もう一つのドイツも、もはや日本を助けるような信頼は置けず、孤独に戦わなくてはならなくなるのは必至であると告げ、さらに木戸は裕仁に、「最悪の事態に備えるべきです」、と述べた(100)
 3日後の7月29日、木戸は、松本健治少将――東久邇親王の私的侍従武官で奸智に長けた裕仁の叔父――の訪問を受けた。その松本が言うには、憲兵は、近衛親王と東久邇親王の和平工作の調査に入っているということであった。そしてこの話の言外に意味するところは、憲兵は、和平派の指導者らと共謀のもと、和平派メンバーを破壊活動分子として監視し、アメリカ人の言う戦争犯罪の嫌疑から彼らを晴らすのに役立つよう、その書類を編纂し始めているということであった(101)
 8月中、連合国軍がシシリー島を占領し、バドリオと南イタリアが降伏を待ち、一方、ヒットラーが北イタリーにおいて取りうる反撃を工作している間、裕仁は集計数字の意味を理解し、木戸の言う 「最悪の事態に備える」 こととは何であるかを飲み込みつつあった。米国の潜水艦隊はその月、日本の船舶輸送にすさまじい犠牲をもたらしていた。戦争前のおよそ3百万トンの日本の商船総ドン数のほぼ半分が、真珠湾以来、海底に沈められており、日本の造船所では、果敢な努力にもかかわらず、その建造総数はそうした損失の三分の二に届くのがやっとであった。航空機も、工場で生産する以上の戦闘機や輸送機を失っていた。
 8月5日、杉山陸軍参謀総長は、ニューギニア北岸のラエやサラモアの守備隊、および、ニュー・ジョージアの北西コロンバンガラ島、ヌンダの守備隊が、望みなき状況にあるという詳細報告を裕仁に提出した。裕仁はその報告に衝撃を受け、穏やかさと自制をもったいつもの仮面を失わせ、並みの顧問役なら辞職もしかねないほどの激しい言葉を杉山にぶつけた。
 三日後、杉山との別の謁見で、裕仁は、悲しげな言葉をいく度も繰り返した。 「どこかで、反撃はとれないのか? ・・・空軍力を急いで増強できる方法はないのか? ・・・アメリカ人をたじろかせれる鋭い一撃はできないのか?」(103)
 その返答として、杉山は、一般幕僚の主要部長らによって書きあげられたばかりの反撃可能性に関する極秘計画の中間報告を提示した。その計画は、日本が面している二つの脅威の比較から始まっていた。ひとつは、インドの東での英国とのもの、他は、ガダルカナルの北でのアメリカとオーストラリアによるものであった。そのうちのアメリカの脅威は、いっそうの緊急性を求めていると同計画は述べていた。それに対抗するためには、台湾やフィリピンといった後方地域に主要な反撃力を構築する必要がある。そのための輸送船、航空機、武器、物資補給、そして人員が確保されなければならず、現下の作戦実行出費も節約されなければならない。さらに同計画は、冷酷な数字をあげて、現在の軍事的関与のかぎりでは、そうした構築をひねり出せない、と明言していた。(104)
 そうであるなら、日本がその〔軍事的〕関与の範囲をもっと狭い防衛区域へと後退させ、かつ、国民の出費を最低限まで削減した場合はどうなのか。同計画は、すべての米の輸入を停止し、ソロモン諸島やマーシャル群島の日本部隊への補給を打ち切り、最終的には、ニューギニア、ラバウル、そしてカロリン諸島の部隊を飢えるままに放置し、そのようにして得られる情況を分析していた。その上で同計画はこう結論付けていた。そうした三つの抜本的方策は、戦争を長期化するために採用されなければならないものであるが、そうであっても、 「我々は、後方地域に充分な強化を蓄積することも、敵に対する適切な反撃を加えることも不可能である」。
 杉山の独演が終わる頃には、裕仁の態度にいつもの仮面がもどっていた。彼は機械的に、その計画について考慮するための時間を求めた。彼はその後、電話を通じ、杉山陸軍参謀総長と永野海軍軍令部総長に、戦争の見通しについての完璧で独立した計画を、陸海両一般幕僚の作戦および諜報部がそれぞれで作成するように指示した。こうした両計画は、本書の第2章の 「日本のジレンマ」 で述べたように、この1943年の末までには完成し、双方とも、杉山の先の発見以上にうすら寒いものであった。両機関の諜報部によって作成された両計画文書は現存していないが、供に逃げ口上を述べたものと言われている。それは、第2章で述べたように、一年半後の戦争の終結に際して、実際に宮廷内部や周辺において実行された出来事と極めて酷似したものであった。
 ソロモン諸島のニュー・ジョージア島で、空腹の日本軍兵士が米軍の橋頭保に向かって突撃を繰り返している時、裕仁は、杉山参謀総長の冷血な結論への諸点からの確認を受け取っていた。8月11日、野村直邦海軍中将――前海軍諜報部長――が、ドイツより潜水艦で帰国し、直ちに宮廷にかけつけ、裕仁に、第三帝国の状況は危機的であると報告した(105)。9月2日には、重光外相が、ヨーロッパにおいての蒋介石や米国の密使との和平交渉は、相変わらず進展を見ていないと皇位に報告した
# 12。そして重光が勧め、裕仁が承認したものは、モスクワの日本大使館に特使を送り、和平合意を交渉するためのソ連の協力に探りを入れることであった。この構想は後に、ソ連の官僚による無関心のため、泥の中に沈んだ。
 9月2日、連合国軍はイタリアに上陸した。9月8日、バドリオ政府は、国王の名において降伏を表した。イタリア海軍総司令官のカルロ・ベルガミニ大将は、ラ・スぺチア、タラント、トリエステの基地から85隻の軍艦とともに、南のマルタ島への脱出を試みたが、それを断念して連合国軍に投降した。しかし、その航海上、彼の乗る旗艦ローマはドイツ軍の急降下爆撃機に襲われ、彼は艦とともに沈んだ。
 9月9日、裕仁は大本営・政府連絡会議に出席し、同会議は、イタリア大使館の閉鎖、イタリア資産の凍結、そしてイタリア人の拘留を決定した。9月10日、ナチはローマを占領し、ドイツ落下傘部隊の精鋭幹部が特別任務のための発表を行った。二日後、ドイツ落下傘部隊はイタリア前線の背後に降下し、ムッソリーニを軟禁先の別荘から救出し、ドイツの傀儡として仕えさせるため、ローマへと連れ戻した。(106)
 裕仁は9月10日、中国、満州、朝鮮に残された34個師団のうちの兵力不足の17個師団を、台湾とフィリピンへ移動させることを原則的に承認した(107)。だが陸軍はこの決断を、中国大陸をロシアや中国共産党軍そして蒋介石にすら不適切な防衛状態にさらすとして反対した。加えて、米国の潜水艦がシナ海を遊弋し、そうした移動作戦への障害となっていた。しかし裕仁はそれにこう反論した。曰く、もし米軍潜水艦がシナ海を横切る船上の30万名の部隊に危険をおよぼすとするならば、米軍はそれを、フィリピンに上陸する米軍に反撃するための部隊移動の際に、それに倍する規模で行うであろう。反対に、もしロシアが攻撃する恐れがあって、フィリピンから大陸へと逆方向に部隊移動をする場合、米軍潜水艦はそれを妨げることにさほど熱心ではないだろう。
 海軍は、大陸から輸送されるそうした部隊のいくらかを、台湾を越えてさらにマーシャル群島の拠点へと送るように求めた。しかし裕仁は、この一点においては、陸軍の側に立った。すでにマーシャル群島の守備隊は、適切な食糧や弾薬の供給を受けることができないでいた。そういう彼らに、さらなる部隊を送ることは、帝国にとって浪費であり困難なことであった。裕仁は、自らの感情を正当化して、父親の大正天皇が好んだことわざ、 「義は君臣、情は父子」 を重々しく引用した(108)
 1943年9月の後半、蒋介石は和平提案をはねつけ、なおかつ、孫文夫人を通し、日本軍も日本外務省も、その誠実さと権威において信頼に値しないとの言葉を送ってきていた。天皇裕仁との直接の遣り取りのないものは、何であろうと、根拠のない口先の問題にすぎないと彼は暗示していた。裕仁は9月22日、蒋介石の国民党の元副総裁で、現在は日本領中国の傀儡主席である、
汪兆銘 〔中国では汪精衛〕 との異例な私的謁見を持った(109)。汪は病身で、14ヶ月後、日本の病院で癌で死ぬこととなる。裕仁は、彼に和平合意への日本の望みを説明した後、こう述べた。 「あなたの健康と、あなたが東亜に平和を建設されんことを、お祈りいたします。」
 その会見の後、裕仁は木戸に、頭を振りながら、半信半疑な笑みを浮かべて、 「汪は 『私はどうすれば、陛下のご聖徳を実現し、我が恥ずべき身体に取り入れられますか』 と繰り返し私に問うていた。彼はまるで、自分が日本人であるかのように話していた。」
 9月25日、南進派の理論家、大川周明博士は、7年間の空白の後、宮廷記録にその名を再現した。1931年の策謀と1932年の暗殺を首謀し、1935年まで、警察の一応の監視下に置かれてきた。そして、公式にその拘束から解かれ、スパイ組織に再び加わり、ソ連スパイのゾルゲの日本人共犯者、尾崎秀実をめぐって、彼は南満州鉄道調査部の要職の地位についた。戦争中、尾崎は投獄刑を受けていたが、大川はスパイ組織中枢にとどまり、元暗殺集団の首領で神官の井上日召――今では、和平派の先鋒、近衛親王邸に居住していた――と密接な関係を保っていた。大川博士は、その多面な暗躍のため、彼に話すには、声をあげるだけで十分だった。彼は今、戦争終結を見こして、 〔戦時〕 最後の東久邇内閣に、顧問か無任所大臣として石原莞爾退役中将――1931年の満州征服を采配したぶっきらぼうで気短な戦略家――を入れるべきであると暗示する文書を木戸内大臣に送っていた(110)
 木戸は大川の暗示を、 「真意だろうが未熟」 として無視した。それと同時に、彼は日記に、大川が牧野伯爵とこの件について協議したいと望んでいるとの記録を残している(111)。牧野伯爵とは、82歳の元内大臣で、1930年代初めのすべての策謀者、暗殺者、クーデタ首謀者と宮廷との間にあって采配していた。木戸は、その魅力的で神経質で柔らかな声の持主の前任者を、ことさらに尊敬していたが、懇意さは求めなかった。おそらく、木戸は牧野の娘婿の吉田茂と頻繁に会っていたからであろう。しかし、この 〔和平の〕 件について、木戸は牧野に直ちに相談しないでいると、ついに牧野の方から木戸のところにやってきた(112)。そうして牧野は和平計画に次第に関わりを深め、そして満州征服者、石原――その考えは 「真意だろうが未熟」 のようであったが――は事実上、日本の降伏内閣の相談役となっていった。23ヶ月後、その任務の執行として石原は全国を旅し、かねてからの政敵である東条のみが米国との戦争を始めた誤りの責任を負っていると、説いて回ったのであった。
 10月5日、南進論擁護者大川が宮廷に出現するようになって10日後、裕仁は、主要な戦争犯罪容疑者を有罪を負わされる可能性のある官庁部署より退任することを許し始めた。その最初の退任者は退役大将の鈴木貞一であった(113)。日本の軍事生産の帝王としてのその困難な職務から彼を解いて、裕仁は彼に宮廷の 「前官礼遇」 の身分
# 13を授与し、和平計画に常時関われる地位を与えた。
 その一方、裕仁の弟の陸軍少佐三笠親王は、蒋介石が孫文夫人を通じて日本が示した有利な和平条件をなぜ受け入れようとしないのか、それを突き止めようと動いていた(114)。蒋の戦争中の同盟者、毛沢東がその元凶であるかと思われたが、三笠にはその確証がなかった。10月8日、彼は、中国が常に二股をかけているとの軽蔑した見方を下して、そのいら立ちを木戸に表した。もし裕仁が戦争に勝った時には、中国は、日本と合意する汪兆銘政府をもち、もしルーズベルトが勝った場合には、米国と合意する蒋介石政府をもち、そして、もし実際の勝者がスターリンとなれば、ソ連と合意する毛沢東政府をもっていた。 「中国は三つの頭を持っているが、胴体はひとつだ。ただ、まだ、延安(毛沢東)政府については、よく知られていないが」、と三笠は言った。
 10月初め、日本の代表的ファシスト論客で、熱狂的ドイツ崇拝者の中野正剛は、宮廷と内閣の秘密の和平計画を聞きつけ、ただちに右翼の労働者分子や東条首相や木戸内大臣の暗殺をねらう陸軍古参兵を集めたの一団を組織した。この策謀は、一味のもっとも意識の低い寺井という名の傷痍軍人の迂闊な行動から発覚した。彼は、その傷を同情を抱く大勢の戦争未亡人に見せて生き延びていたが、ある東京の神社の高貴な巫女を熱海へと誘い出した。そして寺井が当局によって捕えられた際、暗殺計画を話し、思想警察はファシストの中野を逮捕した(115)
 数日後の10月27日、中野は刑務所で割腹自殺をはかった
〔訳注〕。この自殺に関しては、その策謀に関わる皇族親王の名を明かすことを彼が拒んだため、東条がそれを命じたとの噂が流れた。事情に詳しい者は、この良くできた話を信じなかった。誰かを自殺するよう命じる命令が下せるのは裕仁のみであった。それに、いずれの成人の親王たちも、中野の暗殺の標的とされていた木戸と密接につながっていた。すなわち、この裏表のある公認の噂話は、一つの避けられない帰結となった。つまり、中野は、戦争への思い込みから、和平の宮廷の動きをばらすと脅迫していた。刑務所で、そのことを天皇が不快としていると告げられて、中野は自分の意図の誠実さを、自分の命を投げ打つことで天皇に示したという話であった。(116)


人形劇の終幕

 連合国軍によるソロモン諸島への侵攻は続いていた。11月1日、米軍部隊はその諸島の最北端のブーゲンビル島に無抵抗で上陸した。そのラバウルへの容易な攻撃圏内で、米軍は滑走路を建設し、日本軍の度々反撃にもかかわらず、それを維持していた。三笠親王と阿南中将――元侍従武官で1945年に陸相として自害――は、11月4日、戦地の部隊の士気を高めるため南へと飛んだ。阿南は西部ニューギニアの弱体化している日本軍の防衛の指揮をとるため、そこに残った(117)
 新たなアメリカ軍の進撃は、11月5日、東条がすべての日本軍占領地からの傀儡指導者を集めた大東亜会議を取り仕切った際には、彼の生涯の誇りを一時的にもそこねるものとなった。この会議は、皇居の南の首相官邸の背後にある、国会の寒々とした会議場で開催された。U字型に配置された会議のテーブルは、青色の毛布で覆われていた。U字の頂点は、その毛布は炭を入れた火鉢で温められ、そこに東条と日本の代表が着席した。そしてU字の両側には火鉢はなく、そこに占領地域の代表たちが座った。東条の右に、ビルマのバー・モウ、満州国の張景恵首相、東中国の汪兆銘、そして、その左に、タイのワン・ワイタヤコン殿下、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、インドのチャンドラ・ポーズ――黒龍会の頭山がインドの 「亡命政権」 の首領とすべく東京やベルリンにおいて27年にわたって面倒を見てきていた
〔訳注〕 ――が続いた。スカルノと他のインドネシアの指導者は、日本が必要であったのはインドネシアの資源で、その独立までは準備されていなかったため、同会議には招待されていなかった。(118)
 その他の傀儡指導者のために、東条は 「アジアのためのアジア」 と題した演説を行った。彼はその中で、すべての地域に、できるだけ早く、 「自決権」 を与えると約束した。タイは独立――日本を顧問として――を維持し、ビルマは1944年に、フィリピンは1944年末ないし1945年初めに解放されるとされた。奉天と南京は、両方とも日本と新解放協定を結ぶ。そして、日本がインドを占領し次第、ボーズはそれを統治するとされた。
 参列した傀儡指導者たちは、大きな感動を表した。フィリピンのラウレルは、 「十億の東洋人、十億人の大東亜」 と叫んだ。ラウレルは、戦前のフィリピン大統領のケソン――マッカーサーの捕虜――から、日本との関係の任務を委ねられていた。だが今や彼は、アメリカに不信をもつ以上に、日本を信用していなかった。
 中国の汪兆銘は、 「東アジアのすべての国は、自らの国を愛さなくてはならない。そして、その隣国も、そして東アジアも」 と、当たりさわりのないことを述べた。
 ビルマのバー・モウは、 「私はアジアが我が子を呼ぶ声を聞いてきた。だが今やそれは、夢の中のものではなくなった」、と感慨を込めて言った。
 東条はいつもの簡潔断言的な言い方で、 「大東亜の国々が血の絆で結ばれているのは疑いない
# 14。故に、私は、大東亜地域に安定を保障し、誰にも富と幸福の基盤の上に、新秩序を築くことが共通の目標であると強く確信する」、と述べた。
 東条は、少なくともその半分は本気であった。すなわち、自分の人生を天皇の陰謀にゆだね、自分の後援者の暗殺――1935年の三羽烏の筆頭の永田鉄山――を許可して、一口で言えば、青年時代の夢を燃やして老人たちの葉巻の灰と化して、彼は、日本が歴史的に成してきたすべてのことを、アジアを西洋の植民地主義から解放するという大義名分に正当化して、自身を確信させていたのであった。そして、戦後、日本の老いた将官たちのほとんどが、この痩せ細った自己弁護を、後生大事に守ることとなるのである。
 大東亜会議の間、裕仁自身は、皇居において参列者との昼食会を催し、その個々と数語の会話を交わした(119)。新宿御苑で行われた茶会と、首相官邸で催された最後の晩餐会の後、それぞれの傀儡たちは、その郷土の日本支配下の苛烈な現実に帰っていった。そうした現実とは、日本の現地総督がその欲するものを得る場合に彼らに与える印刷しただけの通貨であり、日本の憲兵が現地の有力な家系や組織を支配する人質スパイ体制であり、道路、鉄道、軍事施設など 〔の建設の際に〕 日本の戦略家が要求する労務調達という税であり、日本本国向けに必要な穀物や産物を確保するために日本の経済専門家が練り上げる際限のない 「合理化政策」 であり、そして、日本の宣伝担当者が繰り出す容赦のない標語や大衆集会の開催であった。
 1943年11月19日、共栄圏の幕が切って落とされるやいなや、木戸内大臣は自分の公邸において、高木惣吉海軍少将――その8月、裕仁の使者より海軍の戦争見通しを作成するように求められた戦略家――より秘密の報告を受けとった(120)。高木は、適切に用意されたグラフや推論を用いて、日本にはもはや望みはなく、すべてを返還せねばならなくなるだろうと木戸に述べた。同じ役目を与えられた陸軍の松谷誠大佐は、いっそう悲観的に、敵が殺戮に疲れて日本を国として存在を許す以前に、日本が滅亡してしまうのではないかと恐れていた。
 東久邇親王は、翌11月20日、和平派に貴族を加えるために、国会議事堂近くの霞が関皇室別邸で昼食会をもった(121)。それがお開きになった後、木戸は皇居の北部地区の本郷にある私立病院へと向かい、軽い手術から回復中の近衛と面会した。11月21日、米軍によるギルバート諸島のタラワとマキンへの上陸によって生じた軍事的懸念のため、その後の三日間、天皇は忙殺されていた。そのため木戸は高木少将の暗い見通し報告を彼に伝えることができず、それができたのは11月24日だった。その後、一週間をかけた協議の後、裕仁は民間人の経済専門家による委員団を指名した。それは、鈴木貞一元内閣企画院総裁を委員長とし、高木少将の結論の吟味に当たった。翌日の12月3日、木戸は、汪兆銘と蒋介石との交渉が決裂し、双方の個人的非難の交換で終わったことを知った。
 裕仁は、軍神山本長官の墓へ国務参拝して、陰うつな雰囲気のうちに、開戦二周年を祝った(122)。木戸は別行動として、無視されているかっての首相奏薦人、西園寺親王の墓参りをした。しかし、いずれも、死者たちからは何の助言も許しもなく、日本の今後に迫る恐ろしい試練を和らげるには至らなかった。
 1943年12月半ばまでに、11月の連合国首脳会議――カイロでルーズベルト、チャーチルと蒋介石、そしれテヘランでスターリンとの会談――からの完全な情報が入ってきていた。その分析によると、蒋介石は日本との早期の和平をもってルーズベルトとの同盟を台無しにするつもりは決してなく、またスターリンは、ドイツが倒れれば直ちに、日本の奪取の戦列に加わる用意――日ソ不可侵条約にもかかわらず――がある、というものであった。
 クリスマスの三日前、木戸は、牧野伯爵――82歳になる博識の元内大臣――の珍しい訪問を受けた。牧野は木戸に、樺山愛輔伯爵に会うようにと求めた。樺山は、79歳のスパイ機関の名誉退職者で、耳に入れたい情報を持っているということだった。木戸は、忙しい中から一時間をやりくりして彼と会った。その老伯爵は、交換船でニューヨークから帰国したばかりの日本人留学生たち――バンクロフト大使奨学金受給者――の報告に基づいた、アメリカの世論の分析を木戸に与えた。学生たちによると、ほとんどのアメリカ人は、日本への敵愾心をあまりもっておらず、太平洋での戦争への関心も乏しい。太平洋戦争は、 「ルーズベルトと彼の取り巻き」 による、私的な取り組みと広く考えられている、と学生たちは述べたということだった。(123)
 木戸は樺山伯爵のその情報に感謝し、日記にこう記録した。 「我々は戦争終結への秘密計画を完了させるよう決断せねばならない」。
 その後の二週間、裕仁は年末年始の休暇期間を活用して、戦争の見通しについての自身の総合的評価を行った。彼は、大本営の下僕たちを昼食に招いたり、西園寺の黒龍会の古い情報提供者、宅野田夫からの手紙を読んだりもした。そして遂に1944年1月4日、彼は自分の結論を簡潔に木戸に伝えた。彼は、一方では、国の誇りのために戦争を全面的に遂行することを望み、他方では、国の存続のために敗北に備えた確固とした計画を持つことを望んだ。木戸は、1944年1月6日付の自分の日記に一人称の形で、メモとして付け加えて、天皇のお気持ちの彼の理解の要所を書き残している。このメモは、本書第二章の 「日本のジレンマ」 にすでに述べたように、戦後の日本への青写真となった文書である。
 木戸は、同メモを以下のような観測から始めている。すなわち、もしドイツが幾らかでも主導権を回復できるものなら、日本にとっての展望は明るく、このメモの以下の部分は無視されてよい。しかし、もし、ドイツが屈服した場合、日本は見定めのない平和主義者に堕しても、また、バドリオのように、裏切者になってもならない。和平への道筋が計画されねばならず、その中で、政府は常時、天皇の命令に責任を持ち続けなければならない。東条内閣は、 「その持続がきわめて困難となった」
# 15 時に倒れるに違いないが、倒れた後、次の内閣は、天皇によって指名されるべきで、それに続いて、和平への道をたどるように予期される、特定の世論形成の取り組みがなされよう。そうして、次の内閣の必要が確立した時、その首班も決められるだろう。(124)
 国の誇りについて、木戸はこう指摘した。 「大東亜での紛争は、米英中蘭 〔「ABCD」と略称〕 の結託になるいわゆる 『ABCD包囲』 を崩壊させる狙いがゆえのものであるという天皇の宣言に、明瞭に表されている。したがって、目下、満足できる戦争の終結として考慮されなければならないことは、こうした目的が達成されたかどうかである。」
 和平条件については、木戸はこう結論付けた。 「我が国の考慮しうる唯一の譲歩は、敵が受入れ可能な、満州を除く、すべての太平洋諸国の自決権である。」
 木戸は、自分の評価は 「弱腰で和解的」 とうつるかも知れないことを認めつつ、自分にとっての降伏は、精神的にで永遠にでもないもので、唯一、米国の技術の容赦ない力が故にのものである、と説明を付け加えた。そして、裕仁の述べた高貴な心境を引用して、こう記している。


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