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<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第67回)


「重層タブー」 の起源


 いよいよ、昭和戦前期のわかりにくさの “剣ヶ峰” に差し掛かってきた感があります。
 先にも書いたように、 「天皇機関説」 と 「国体明徴説」 が対立概念として、1935年(昭和10年)前後の日本社会を二分――実勢としてではなく、論議としてですが――しました。
 この対立状況を図式化しますと、ほぼ以下の様になります。

  天皇機関説」 支持派 天皇機関説」 反対派
天皇 裕仁 対外的には立憲君主制、国内的にはあいまい
大兄   天皇親政の強引な推進
学会
政界
「天皇機関説」 : 美濃部達吉
西園寺、一部自由主義者
 
北進派(皇道派)   「国体明徴」 論
南進派(統制派)   “二重” の態度

 見取り図としては以上のようになるのですが、そのうち、比較的わかりやすいのが、 「学会、政界」 と 「北進派(皇道派)」 です。それぞれ、「天皇機関説」 と 「国体明徴論」 をふりかざして、真っ向から対決し合っています。
 ですが、わかりにくいのが、 「天皇」 、「大兄」 と 「南進論(統制派)」 です。
 まず、宮廷関係ですが、 「大兄」 たちは、天皇親政の背後の推進者として見て間違いないでしょう。そして、大兄とその取り巻きたちが、天皇裕仁を専制の方向へと強引に導いている影の主役です。
 そこで天皇裕仁ですが、少なくとも、今回の訳読部からくみ取れる限りでは、彼は大いにあいまいで、時に、混乱しています。
 一面では、祖父ゆずりの明治憲法をもって、対外的に鮮明とせざるを得なかった日本の “見せかけ立憲君主制” にしたがい、 「天皇機関説」 の立場を表明し続ける積りであったようです。
 ただ、それは外向きの顔で、内向きには複雑です。まず彼自身の信条の上では、 “ソフト” な専制者でありたいとしていたようです。たとえば、今回の訳読 (神の主張」 の節) にある、彼自身が自分を、 「機関」 としての 「主体」 ではなく、 「器官」 としての 「主体」 と言っているくだりにそれは感じられます。
 私には、その違いは、無機的か有機的かの違いで、 「役割の分担」 があるとの意味では同じと思われます。ところが、そこに 「主体」 という 「分担」 の超越を言うのですから、少なくとも語義上は矛盾しており、私としては 「混乱」 を感じます。というより、そういう “ふり” をもって、この二重性をごまかしていたのでしょう。
 そういう、 “二重性” 、あるいは、 “振れ” が裕仁にはありますが、その定まらなさを強く専制の方向へと持っていこうとしているのが、大兄たちです。
 こうした裕仁の 「二重性」 が、国家戦略にかかわる北進か南進かの二分とその確執の上で、北進論と国体明徴論が合体し、国民の根深い不満を吸収しながら、軍部過激派が形成されていったものと考えられます。
 また、裕仁の二重性は、南進派にも影を落とし、ことに海軍の一部将官と裕仁との対立にも発展したようです。
 ともあれ、日本の昭和前半史は、天皇機関説をめぐって、いよいよ、大きな岐路――下に述べるような 「どうして軍部独走が可能だったのか」 との歴史の分かれ目――に差し掛かってきている感があります。
 また、著者バーガミニの記述も、そういう複雑さのためか、山場でありながら表現に精彩を欠く感があり――実に訳しにくい部分も多い――、これまでの訳読の中では一番、出来の悪い部分となっています。
 あるいは、と言うより、日本の天皇制の核心はそのように見えなく隠されていて――著者の付す記述の根拠を表す脚注も、宮廷人の日記に偏重している――、明瞭な確証が困難になっている、というのが真実でしょう。
 そしてさらに言えば、 「機関か国体明徴か」 の議論は、日本が封建制から近代へと移行する、その過渡期に遭遇した不可避な選択肢についてでした。つまり、 「見せかけ立憲君主制」 を持つ以上、避けられない板ばさみで、そして日本がそれを克服しうる歴史的成熟度を欠いている以上、そうした二重の体裁をやむなく採るしかなかった、それがゆえの矛盾です。
 そうがゆえ、その矛盾が生み出してしまった結果に “底深い混迷” が伴なうのも当然です。
 日本には、少なくともその時代には、そういう “未成年” な部分があったと見るべきでしょう。

 さて、以上は、この訳読を続ける上での言説上の論点ですが、それに平行して、私の身辺に見出せる、別な視点――実体験上の視点――があります。
 そのひとつに、私の友人――昭和6年(1931年)生まれの在豪韓国人――は、日本の植民地、朝鮮という、いわば日本の “辺境” に育ちました。しかし、そうした 「外地」 ではあるのですが、その幼い朝鮮生まれの少年とって、その統治は、 「天皇」 との言葉を耳にするや、反射的に直立不動の姿勢をとってしまうまでにも日々の生活に浸み込んでいた、そういう統治があったといいます。そして彼は続けます。 「そういう日本人が、 『天皇陛下万歳』 といって戦死すらしていけたほどであった」、そういう、その君主の重くかつ敬った存在があったことは確かであった、という実体験談です。
 これはその彼の話の私の受け止め方ですが、その君主の存在が、8月15日の一日にして、あれは 「軍部の独走」 になるもので 「天皇に責任なし」 と言われても、それは、言い訳すらにも聞こえないものではなかったのか (それはたくさんの戦後文学作品に描かれています)。
 別の例をあげれば、もし、私が自分の肉親を戦争のための士官や兵士となることで失っていた一遺族だとしましょう (周囲に多くの事例のある、ごく一般的な仮定です)。とすると、戦死というその戦争の明らかな犠牲を負わされたものが、 「軍部の独走」 論がまかり通ることで、あたかもその戦争責任までをも――しかも、まるでその戦死がゆえにであるかの如く――担わされるかのような “逆転” 風潮があります。これを冷静に考えるなら、そうした風潮は、感情的にはいわずもがな、道義的にも決して許容しえない深い義憤が伴う、空恐ろしい責任転嫁です。
 まるで日本の瘴気(しょうき)そのものです。
 かく昭和の前半史には、強い 《タブー現象》 に縁取りされた天皇制があり、さらにそうした表層現象に付加される、そうした犠牲と責任すり替えがおこなわれえた 《深層タブー現象》 すら伴っています。これこそが、上で述べた日本の昭和前期のもつ 「底深い混迷」 が生みおとした日本の “化け物” ――司馬遼太郎が 「鬼胎」 と言うにとどめた――の実像なのでしょう。
 そしてこの表層・深層と多重に根付く日本の 《重層タブー効果》 は、驚くべきことに、現在までにも生きて働いており、そうであるがゆえに、その起源をさかのぼって、この訳読で示されつつある昭和前半史の剣が峰が、不気味な現実性を伴って迫ってきます。

  ここでは付け足しに終わりますが、昨年の地震・原発複合災害の後の日本にも、こうした “逆転” 自己責任論が頭をもたげてきているように見受けられます。その議論はまた、機会を改めて述べてみたいと思います。

 今回で、こうした第18章 「機関か神か」 が終わります。ではその最終パートへどうぞ。

 (2012年5月6日)


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