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 両生学講座 第4期 第7回


吉本隆明の出発点


 前回の講座で予告した、 「終戦時20歳で、日本で生まれた “純正” の日本人」 とは、表題のように、吉本隆明氏です。
 前回の 「星友良夫」 氏が、終戦当時14歳の皇国少年であったとすると、20歳の吉本氏は、皇国 “青” 年と呼ぶべきかもしれません。
 私は、この両人の人生の起点は、皇国教育という 「二重国格」 の移植工程の 《鋳型》 にあると見、さらに、この両人を、その鋳型によって方向ずけられた皇国青少年のその後の人生における、――巷間
(こうかん)番付上の――方や不成功者、方や成功者、の実例と捉え、そのコントラストに思いを馳せます。
 そして、その 「不成功者」 がいかなる不成功者であったかは、すでに前回に述べた通りです。
 そこで、その 「成功者」 たる吉本隆明氏です。
 今年三月のその訃報
(ふほう)に接し、いまなお日本中で――そして顕著に日本国内に限られて――、さまざまな追悼行事や企画が引きも切らず、終息する気配をみせていません。
 そうした喪中のさなかですが、昨年三月の大震災を境に、驚愕させられる如くに顕在化しつつある日本社会の変わり目を見せつけられれば見せつけられるほど、この死のタイミングが、ひそかに、かつ、如実に物語るものがあります。
 それはまず、氏の一生が、戦後日本――むろん、戦前日本と連続する現代日本――の 「経済大国」 としての成功体験と、底深く連なり合っていることです。
 すなわち、氏の一生とは、その 「ミラクル」 のごとく繁栄する戦後日本社会の、思想的代弁者であり、時に、あたかも “救世主” たる風格であったことです。
 しかも、皇国青年だった氏は、自分の同級生に特攻隊戦死者を持つ世代に属し、そうした苦しい自己の進路の模索の中で、兵役は――同じく国家を支え護る技術者を志す役割を担うことで――逃れられながらも、それがゆえの負い目感からは逃れられないでいました。そして、そう自ら負った暗い烙印に、同じく生き残った昭和天皇や他の指導者たちへの、憎悪と共謀感の交錯するアンビバレントな憤慨を対抗させながら、その負い目意識をきわめて豪胆かつドラマチックにも――そういう “受容” や “拗ね
(すね)” や “ルサンチマン” を 「芸術」 へと特化して――研ぎ澄まし、克服してゆきます。加えて、そういうバイタルな闘争とその成果は、戦後日本の精神界に新種で同時代的な日本人アイデンティティーを呼び起こし、あたかも戦後思想界の “家長” たるかの信望を獲得しながら、期せずにも――もしくは皮肉にも――、戦後 「国体」 を 「明徴」 にしたかの大衆消費社会の雄たる座を “統帥(とうすい)” しました。
 別の角度から言えば、それほどの、己や日本社会への、深く強靭な自己愛の実践者であり、 「純粋」 と言ってよい程の、矜持
(きょうじ)観の構築者でありました。
 だがそれにしても、そうしたすさまじいほどの伽藍
(がらん)が、いったい、どのようにして、また、なぜ氏に限って、構築可能だったのでしょうか。
 本稿は、その氏の出発点をひもとくことでその謎を解きつつ、その解の示す意味を探りたいとするものです。

 まずはじめに、1970年代初め、私が二十歳代の中ごろに氏の 『共同幻想論』 と出会って以来、近年に至るそうとう長い年月の中で、しだい次第に抱き、抱かされてきた、ある 《違和感》 が、この謎ときへの動機となっています。
 ここでまず、その説明に入る前に、ひとつの 《私の方法》 を明らかにしておきたいと思います。
 それは、ここに 「違和感」 と書いたような、 《気付きのスイッチ》 に関連します。
 先に私は、私の自我の発達の過程で出くわした、 「不快」 とか 「反発」 を見てきましたが、それらはいずれも、この 「気付きのスイッチ」 が “オン” になった状態です。
 また、先に、脳のシナプス構造が、こうした 「気付きのスイッチ」 の物質的根拠ではないか、とも書きました。そこで、これらを結びつけて、「気付きのスイッチ」 が 「オン」 になることを 《シナプス反応》 と呼ぶことにします。
 つまり、 《シナプス反応》 とは、私たちが何かに気付くその物的、臓器的、ひいては、生命的根拠です。
 また、この 「両生学」 では、一貫して、 「生活者」 であることを発想の根拠においてきていますが、この生活者であることとは、この 《 「シナプス反応」 に愛着的かつ育成的》 ――言い換えれば、自己組織的(オートポイエーシス的)――であることです。
 つまり、私の言う 「生活」 とは、そうした 《シナプス反応》 を受入れ続ける日常的累積の結果です。それは些事の無数の積み重ねではあるのですが、生命体である私たちは、自らの拠って立つ根拠をそれに委ねるしかない被造物であり、かつ、それは誰にとっても、 《 「私」 という観念》 と現実との接触面――つまり 「インターフェイス」 ――であるはずのものです。
 いうなれば、そうした一連をなす生命現象の一環において、事を捉えようとする姿勢です。
 以上、そう 《私の方法》 を明確にしたところで、上述の吉本氏への違和感という私の 《シナプス反応》 を分析してゆきたいと思います。

 そこで、その私の違和感ですが、それは、氏が自らを、 「私が大衆だ」 と断言したことを発端としています。
 その当時、青臭く人生を模索し、大願や達成に請いあこがれつつ、意固地に現実に面していた私にとって、著述で生き、社会的名声をえた、あるいはえつつある者が、自分を 「大衆」 なぞと称することは、決して口にしてはならない “おきて破り” と聞こえました。そしてまかり間違えば、ひとの見方を煙に巻く、老獪
(ろうかい)な “挙げ足とり” にしか聞こえないものでもありまでした。
 ただ、上に述べたように、私の方法は、とりとめもない生活の中で繰り返される、冗長で煩雑な体験への依拠です。空気に杭
(くい)を打ち込むような作業です。そういう意味で、氏が 「私が大衆だ」 と断言した “論壇論議” と、私の “日常生活論議” とは、その取っ組む土俵において別次元なものでした。あえて言えば、そういう “売り物にもならない話” に拘泥するしかない自分の生活の、せめての誇りの模索でした。少なくとも、そういう生活しかない、みじめな自分の、なけなしの反発でした。
 それが、氏の 「私が大衆だ」 との断言jに遭遇した時の私の脈略でした。
 そこでですが、もちろん私とて、大衆を尊重する姿勢に微塵も異論はありません。むしろ、それだからこそ、思想家――自分のように巷の生活者では決してない――という高みを生きるのなら、 「私は私だ」 と常に考えているだろうに、それを 「私が大衆だ」 と表出しうるその逆転した尊大に寛容であれるはずはないと思え、私はその言い切りに、大いに疑問を感じたわけでした。
 ちなみに、私が言う 「大衆」 とは、喰うために、自分を切り売りしなければならないあまたの、しかも一人として同じでない人々の集団名称のことです。ゆえに、 「大衆」 という具体的個人はどこにも存在しません。まして大衆に、自分自身を 「大衆」 とよぶ巨視的視野も、不遜
(ふそん)もありえません。そしてその集団をなす個々が持つ共通条件は、自分を商品に仕立ててゆく商人根性――自らを駈り立て、 “戦死” や “病死” もいとわぬ品性――の持主であることです。むろん現代の “戦争” にあっては、苛烈な競争や病態はあっても、 “戦死” 自体は――間違いなくありますが――まれです。しかし、そのくらいの気概はその競争への最低参加要件です。そして、そういう “戦争” に、その役務からひと時たりとも抜けることができない永遠の責務を負っているのが大衆です。
 そこにおいて、思想家を生きられる者であるならば――自分を大衆と韜晦
(とうかい)するならなおさら――、その境界を越えたその辺縁にある存在を見据えているはずだと思い、だからこそ “おきて破り” であり、 《地理的感覚のずれ》 もしくは、 “方向音痴” を嗅いだのです。
 しかし、こういう言い様には、論外な話との反発を受けるでしょう。さらに、論外どころか、自己こそが 「大衆」 であるがゆえに氏は 「関係の絶対性」 を論じ、 「大衆」 の大衆たるところを 「芸術」 に引き込み、そうした批判は、的にすらも向いていないというわけです。言い換えれば、吉本氏が 「大衆」 を口にするのは、大衆に迎合はおろか、身を挺して大衆たる 「芸術」 の先頭に立ち、その正邪の何もかもを吸収しつくして中央化なっている時です。俗化する失礼が許されるなら、大親分たる度胸と風格を持って、偏奇を怖れず権威をたたく、 “知的任侠
(にんきょう)道” を進んでいる時です。そうだとすれば、これはもう、紙一重〔かみひとえ〕で 「皇国思想」 です。
 今や亡き氏への日本の一連の追悼熱を、ここ “外地” より遠望していると、高倉健のやくざ映画に魅された私の世代どころか、この今の時代の30代の若き批評家が 「ポップカルチャー批評の仕事ができるのは氏のお陰である」 とし、また40代の論者たちが 「シェアするものがある」 と言い、50代の編集者は氏に 「兄貴」 を感じた、といった幅広い同調や称賛の声が伝わってきます。
 確かに氏は、広く 「大衆」 を先導しただけでなく、戦後日本の大衆消費社会の繁栄を、ひとつの文明の栄華に等しい位置にまで高めたかに伺えます。
 そういう彼が、1996年の水泳中の瀕死体験から難なく脱出しえるほどの生命力にも拘わらず、3・11震災を目撃して、その一年後に、あまりにもろくも急逝されました。この震災から一年という間合いに接するにつけ、氏はおそらく、それ以前からしだいに感じ取っていたに違いない、そういう自分の拠り所たる 「繁栄する大衆社会」 ( 「大衆」 ではありません) の消滅を、この3・11を契機に克明に見せつけられ、まさに “天誅
(てんちゅう)” を感じてしまったからではあるまいか、と推察されるのです。

 私は、こうした氏の戦後大衆社会の精神的創造主たる地位が、どのように確立されたのか、その伽藍の由来を、彼自身の精神と時代の精神との間に連なる、 内なる後ろめたさと物的栄華の 《期せずしての共謀》 に求めたいと考えてきました。つまり、それほどまでに 「純粋」 な精神が、なぜ、この今日の現実とそれほどまでに 《非・違和的》 でいられるのかと。
 先に ( 「自己の起源」 ) 述べたように、自我の形成とは、自分の生存に不可避な、生の迎合に甘んじるか否かとの基本的葛藤(かっとう)の産物です。言い換えれば、成長に付随する 「不快」 との遭遇と、それが不快である以上、何を 「快」 とするかの追求の派生物です。そういう価値観の生成のプロセスです。
 それは、生命が生存してゆこうとする限り、不可避に出会わなければならない、命の鉄則です。芸術の言葉で言えば、生の貴賤
(きせん)をさまよう足跡です。
 昭和前半、日本という集団的生命は、明治維新以来の自身の目覚ましい物的成長の結果、国際社会――その際たる相手は西洋社会――と対峙するまでに至りました。そこでそうした外的必要と内的必要の両者を統合できれば良かったのですが、世界恐慌下、そうしたくともその余裕もなく、分化したままやむなく取り入れた 「二重国格」 を形成していった経緯はすでに述べた通りです。
 その一方、二人のかっての皇国少年を比較することで、その出自の日本人、朝鮮人の違いにより、敗戦のもたらした一掃効果の深さの違いから、片や社会的な不成功者、片やその成功者とまでの分化を造り出すことも見てきました。それにしても、なぜ、これ程ものコントラストが生じてしまうのか。私はここに、前回に述べた、 《 「 『王』 離れ」 の有無》 の問題を 「シナプス反応」 します。
 吉本氏の場合、1945年8月15日を迎え、かろうじて生き残った皇国青年として、日本にあって、自分の新人生を歩み始めました。しかし、そういう彼自身の内部に巣食う不快な日本的 「後ろめたさ」 は、彼が技術者を選ぶことで皇国を越える近代国家に向かいながらも、他方、同朋の死に背を向けた皇国的裏切り者たる烙印に他の片足を置くという、 《新と旧》 に股がるジレンマの産物でした。
 そしてこのジレンマとは、まず、元星友氏と違って、吉本氏のこの体験は――日本人なら誰にとってもそうであるように――、日本全体の 「 『王』 離れ」 の未経験と伴に生じたことです。それが氏の場合、20歳で終戦を迎えたという最も純度の高い精神が、皇国世代への裏切り者というネガティブながらも重い皇国メンタリティーが、最も若々しい頭脳として、将来の社会を合理的に築きうる技術者を選択していたという新しさとが衝突し合って起こりました。つまり、氏の生涯のモチーフとは、そういう新旧に股がる自我がその日本の課題、 「 『王』 離れ」 に挑んだ闘いを出発点としていたことです。
 すなわち、近代的自我の次元では、氏の自立の道は、論理的にまったく矛盾
(むじゅん)のないものでした。しかし、皇国的な社会的自我としてのその道は、それこそ、氏を、 「二重国格」 のもつ病態構造に引き戻し、そこに待ちうける郷愁や復古志向で味付けされた、一体的 「国体」 感でくるみ込みました。私は、彼の自我の “半分” に巣食っていたこの皇国的一体感の母胎こそが、氏をして 「私が大衆だ」 と言わしめた断言の出どころであり、私の感じた 「違和感」 の正体だったと思います。
 また、こうした氏の 「新旧ミックス」 な 《吉本型二重自我》 があったからこそ、上述の
《期せずしての共謀》 も成し遂げえたのでありましょう。そういう意味では、氏の 「伽藍」 とは、この 「共謀」 になる共同構築物でありました。そしてさらに言えば、畢竟(ひっきょう)氏も天皇制も、時代が旧から新に移ろうとも、生きいきと生存の鉄則を堅持し続ける、庶民、大衆の生命力に救済されたわけでありました。

 青年期から大人期への過渡期に伴なうジレンマの感覚は、 「自我の社会化」 という自我形成上の必須栄養分です。むろん、誰もが経験する関門です。
 しかしです。そういう共通する関門ではあるのですが、そのジレンマを、具体的に、何をきっかけとしてそれが隆起してくるのかは、誰にでも同じではないはずです。それは 「社会化」 過程のプロセスであるだけに、個々が置かれた具体的な社会状況によって異なってくるからです。
 それを私の場合で見ますと、1946年8月という敗戦からきっかり一年後生れの、ポスト皇国時代に育った私が体験した私のジレンマとは、前時代の尾は引いているとしても、もはや皇国時代のそれではありえず、それなりの “民主化” をはじめ、やがて経験する高度成長下の現代資本主義社会における、分断化された個の生存の問題を通じてでした。そこではむろん、差し迫った死が問われるものではないものの、それに代って、あおられる競争に圧殺されそうな、個々の敗者勝者意識という、新たな “殺し合いゲーム” への、是非の言えない参加が問われていました。
 先述のように、私にも、自分が生存のために選んできた過去に、やはり 《後ろめたさ》 を残すものは体験してきました。しかしそれは、戦死した同級生に対するものとか、国の期待を裏切った負い目とかというものとは大いに異なる、きわめて小つぶで、せいぜい、家族や社会通念上の―― 「いい学校、いい就職」 といった――期待にはそえない、といった脱落でした。後にこれに、時代のラジカル思想にあぶられた、 「臆病者」 との負い目意識も加わりました。
 そういう意味で、自我に突き刺さる同じ 「後ろめたさ」 にせよ、また、 「大衆」 という帰り着きたい同じ母胎原像にせよ、それらの作用を強いてくる枠組みや刺激の作用点は、決して同じではなかったはずです。つまり、皇国時代の大衆と、戦後の高度成長時代の大衆との間には、互いに経験するジレンマの質において同一性はなく、同じ疎外意識が求める同朋意識やその帰着する母胎意識といっても、その中身に違いがあって当然です。従って、皇国克服型自我と、競争克服型自我の間に、同胞意識への “のどかさ” や母胎意識の共同性において、やはり違いは出てしまって当然です。
 さらに他方、そうした大衆が生息する社会の側においても、皇国実践型社会と競争実践型社会の間に、同朋感の枠組みや母胎感の存在場所における、ずれが出て来て当然です。
 そういう意味で、吉本氏は、終戦を20歳で迎えたと言う 「新旧不統合」 型の自我として、半分を近代的個人たる自我に、半分をなつかしい一体型社会に帰属しうる皇国型自我を保持していました。この両属性に気が付けば、戦後の日本社会の奇跡的成功――これも近代資本主義と 「 『王』 離れ」 不全社会の混成物――と、氏が構築した 「伽藍」 との間の、同質性が見えてきます。あるいは、氏がその新旧自我のジレンマとの闘いを通じ、日本の戦前と戦後の 「国体」 に、連続性を架橋した役割も視野に入ってきます。

 かくして、己を成形する鋳型の違いにより、仕上がった自我の特性や働きに微妙な差が生まれる様子がつかめます。
 ことに、ある社会と、その社会に影響力あるオピニオンリーダーが、ともに、天皇制という鋳型をへて今に至っている場合、そのきわめて特殊日本的要素は、その土壌として広く希求されがちであるばかりでなく、 「二重国格」 としてその鋳型が隠蔽されて未克服のまま自己の内部に構造化されているだけに、外に対して閉鎖的、内に対して相互依存的に傾きがちです。そういう視点では、今日の日本の、蛸壺にこもり込むようなガラパゴス化を生む共同風土が形成されてきたとしても、さほど理由のない現象ではなさそうです。ことに、蒸し返される 「南京虐殺/慰安婦不在論」 にみられるような、日本人の頑なな 「過去の否定」 反応には、こうした 《 『王』 離れ不全》 による 「二重国格」 の症状が、今なお執拗に現れていると診断されます。
 ちなみに、吉本氏の諸作品は、日本国内では厖大な出版量にも達しながら、その国内的著名度に比べ、不似合いなほどの外国語への翻訳の少なさです。英語版のアマゾンで氏の著作の英訳版を探してみても、一冊もあがってきません ( 『共同幻想論』 の仏訳があるあるようですが日本人の訳になるもの)。
 また隣国、韓国でも、もと星友氏の言うところでは、吉本氏は、よしもとばなな――多くの韓国語訳がある――の父親として紹介されることはあっても、彼自身の取り上げはまれで、その作品の翻訳もほぼ皆無同然――元星友氏の知る限りでは、断片的な二作品のみ――、ということです。
 こうした氏の思想の内外への浸透度のアンバランスは、氏の著作の骨格を成している普遍化困難な特異性――氏はそれを 「芸術性」 という――の反映でしょうし、それを別の切り口から見れば、日本社会のガラパゴス化の別現象とも映ります。であればこそ、そうした 「共謀」 の媒体である日本社会の 《 『王』 離れ不全 》 についても、ガラパゴス化現象とともに、今後の日本社会への課題として、浮上してくることでしょう。

 本稿を結ぶに当たり、おそらく、今日となってはもう誰も想い出しもしない古典談を取り上げようと思います。それは、たまたま吉本氏の逝去の時と重なって、バーガミニの 『天皇の陰謀』 を 「訳読」 していた者が出会った、際立つ三つの 「三月」 の絡み合いです。
 まずその二つの 「三月」 とは、昨年の3・11であり、今年3月16日の吉本氏の死です。そこで、三つ目の三月ですが、それは、その 「訳読」 に登場してくる、1931年の 「三月事件」 とよばれるクーデタ計画とその失敗です。
 それは、今ではその真相は闇となっている実に巧妙怪奇な 「事件」 ですが、結果的な状況が “立証” するものがあるとすれば、天皇派勢力による、反対勢力の排除策謀です。
 すなわち、関東大震災の8年後で、かつ、大恐慌の混迷のさ中で国民の不満が渦巻くなか、その9月には日本の満州侵略が開始される、そういう1931年の三月です。そして、 「 『三月事件』 とは何であったのか」 に書いたように、この 「事件」 とは、その深い混乱を活用した、国家の 《私物化》 ――民営化と言ってもよい――としての天皇制づくりのための一策謀でした。その後に続く、1932年の5・15事件も、1936年の2・26事件も、その同列の発展です。
 こう考察を連ねれば、そうした怪しい 「三月事件」 をへて、 「二重国格」 ――その 《私物化》 の内面構造――がしだいに固められ、皇国青少年を生み出し、そして敗戦を境に彼らを見捨てて戦後の大衆消費社会の爛熟へと向かった時代の 《伏流》 が見えてきます。そして、その爛熟の宴(うたげ)の後にやってきた長期低迷に、止めを刺すかのように襲ってきたのが3・11であり、あたかもその爛熟の宴の “つけ” であるかの原発災害でした。そうしてその一年後の三月、私たちは、そうした戦後社会の果敢な擁護者である吉本氏の訃報を聞くことになりました。
 むろん、三つの三月はただの数字合わせですが、その偶然のもつ意味合いは、ただの偶然を越えるものがあります。
 さらに言えば、吉本氏の誕生は、関東大震災の翌年の1924年11月です。つまり、その誕生もその死も、二つの大震災の翌年とする一生を生きたのが吉本氏でありました。ということは、吉本氏の一生とは、その列島の運命を司る大震災周期と同期していたのでもありました。
 今年、新たに生まれた子の中に、この先の震災サイクルに同期する、もう一人の吉本氏がいるかも知れません。昔なら、大震災の後には年号があらためられ、天皇の治世のリセットがありました。こうした符合はそうした様変わりを想起させ、ひとつの大きな歴史サイクルの変わり目を思わせます。

 最後に付け足しですが、ここまで書いて気付いたことがあります。
 以上、私が述べてきたことは、発想をたくましくすると、非線形科学(ノンリニア・サイエンス) の一実例を発見してきた、ということかも知れません。つまり、 「負い目」 とか 「不快」 とかは、私たちの自我の次元に発生した、そういう 「ゆらぎ」 現象であり、それがきっかけとなって 「相転移」 がおこり、それのもたらした人生が、日本を襲う大地震のサイクルという地球の 「ゆらぎ」 と同期している、ということなのかも知れません。
 ともあれ、これは、本講座の今後の方向への予見としておきましょう。

            ==== 両生学講座 第四期  《完》  ====

 (2012年8月5日)
 
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