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 両生学講座 第4期 第3回


「自己の起源」 =シナプス構造の変化


 前回の講座で、 「自己の起源」 について論じたのですが、そこで生じた 「自分」 とは何で、どこに存在しているのでしょう。
 あるいは、前回でも 「解らない」 とした、その 「自分」 に生じるその 《不快》 とは、一体、どのようなメカニズムをもって、この私の意識に登ってくるのでしょうか。

 結論から先に言えば――まったくの私的仮説の総出演の段階なのですが――、私は、こうした一連の 《自己内での発生物》 を支えるするインフラストラクチャーは、やはり、脳しかないだろう、と考えます。しかも、そういう脳は、人間という一生物体の一臓器でしかなく、そういう意味では、その脳という臓器の中で、何らかの臓器的仕組み――つまり物的仕組み――がその 「発生物」 のインフラストラクチャーとなっているものと考えます。
 私は、その 「発生物のインフラストラクチャー」 をさらに、脳の膨大な神経細胞ネットワークである 《シナプス構造》 に求めます。もちろん、 「自分という発生物」 は、脳つまりその 《シナプス構造》 が起こす機能であって、物体や臓器自体ではありませんが――だからそれは 「精神」 の問題です――、そうであっても、その機能は、脳の他の部位や身体の他の臓器というインフラストラクチャー総体によって支えられることなくして、発揮されることはありません。
 そして、 「自分」 ――朝目ざめると、ちゃんと昨夜のままに戻ってくるそれ――とは、そうした何らかの安定した物的仕組みに根拠を置いているはずであり、それはやはり、そうしたインフラに支援されたこの 《シナプス構造》 にそれを求める以外にありません。
 もしそういうことであるならば、前回では 「解らない」 とした 《不快》 のメカニズムとは、この 《シナプス構造》 によって生じてくる何らかの “異変” でや “食い違い” ありましょう。
 したがって、 「自己の起源」 とは、その 《シナプス構造》 が親のそれの生物的コピー体と同じでは決してない、その 《差異》 に根拠しているものと考えられます。むろん、親とほぼ同一のコピーたる 「自分」 もありえますが、親から自立した自我としてのそれは、やはり、この 《差異》 の経験による葛藤や “いこじ” の産物であるはずです。
 また、まだ未明の朝ぼらけに、ぽつんとともった自分の意識に立ち登ってくる新たなアイデア――茂木健一郎はそれを 「クオリア」 と呼ぶ――とは、この 《シナプス構造》 内のある変化の結果であり、一夜の睡眠の間に、脳はその日の体験の結果の 《シナプス構造》 を組み立て直し――松岡正剛はそれを 「(脳の)編集」 という――てくれて、この新たな “発見” をもたらしてくれています。(実はこの文章も、その朝ぼらけの中で書いています。)
 だとしますと、 「自分の起源」 のひとつのエピソードである、親への何らかの違いや反発として生じるそうした 《不快》 は、この 《シナプス構造》 の異変が告げている古い構造への違いの感知――おそらく、特定のシナプス構造間の不整合――のことであり、それこそが、世代間ギャップの臓器的すなわち物的根拠であると言えそうです。おそらく、最終的には、DNA情報のどこかに、その違いが記録されるのでしょう。

 そういう次第で、ここから先は、私の仮説度のいっそう高い議論なのですが、自我のおこりが 《シナプス構造》 の異変に根拠していそうなことは了解できるとしても、ならば、そう自我にかかわる 《シナプス構造》 の異変とは、どういうことが起こっているのかということとなります。
 そこで、そうした異変を、個の成長過程として見れば、この 「古い構造への違いを感知する力」 こそ、新しい世代の持つ、親世代を乗り越えてゆく発端でありまた根拠となるものと言え、また、その違いを、同世代の他の個との違いにおいて感知すれば、それこそ、自分の自分らしさの根拠となるでしょう。
 そうした時、もし、そういう違いを感知した個が、親の説得とか圧力により、自分の違いを収めてしまう場合もあることでしょう。そうした場合、せっかくできつつあった脳内のそういう 《シナプス構造》 も、おそらく、時の経過とともにしだいに崩れて、親世代のそれと、同じか類似した構造へと変化するのでしょう。
 これを、そういう個の集団たる 「社会」 の面からも考察しえます。
 まずそれを、 同時的、つまり、同じ時代において見ると、ある社会的状態に対し、ある社会集団がそれに 《不快》 を表し、他の社会集団がそれに 《快》 を表すという場合はよく見られることでしょう。おそらくそうした場合、多くのケースでは、現実上の力関係が働いて、一方が他方に従うということになります。つまり、こうした場合、その社会には、生き残った感覚と、生き残らなかった感覚とに分化するわけですが、そこで後者の場合、それは消滅する場合もあれば、隠蔽されたものとして残存する場合もあるでしょう。たとえば、ある圧政によって大衆の要望が抑圧されるというのは良く見られることです。そうした場合、表面上からその要望が消えたとしても、それは地下化し、複雑に隠されて生き延びることがよくあります。つまり、少なくとも、 《表流と伏流》 といった二分はおおいに可能であるということです。
 そこでこんどは、そうした異変の感知を通時的、つまり、歴史的に見れば、ある個体なり社会なりが、現在に存在しているということは、それらが、一時も途切れることなく、長く代々と引き継がれてきたという意味です。つまり、上記の生き残りや抑圧のいく世代もの繰り返しの結果です。世代連続による生成物――文化や社会慣行――は、上記の個体内の変化を世代間のコピーを通じて、その脳内構造に “記録” し続けてきた歴史的変遷の累積結果であるでしょう。

 私は、先に 「重層タブーの起源」 を、 「二重国格」 に求めたのですが、それと言うのは、その 「タブー」 といった 「隠蔽された感覚」 が社会的に現われた現象、言い換えれば、何らかの社会的な精神分析学、あるいは、病理学的な類いの問題としてアプローチしてきたということを意味します。
 その一方、私的仮説ながら、今回ここで、 《シナプス構造》 といった私たちの身体構造にかかわる物的仕組みからのアプローチを試みてきました。
 そこで、 「タブー」 とは、私たちの個々に確かに存在する感覚であり、それがその社会内で、他人や次の世代へ、えもいわれぬ何ものかとして伝達される、同時代的かつ歴史的な社会集団上の問題であるとは確かに言えましょう。加えて、そうした社会的な見方の一方、私たちの内部で、不快感や違和感をもとにした自我の発達が、どうやら、脳内の 《シナプス構造》 に絡んで、物的な根拠をもっているということも言えそうです。
 つまり、コンピュータを冒すビールスのように、私たちの冷静さを撹乱する 「タブー」 は、自我に作用する社会的、歴史的 “病原” として、その個人の内部でのメカニズムは、そうとうに、つかめてきたのではないかと考えます。

 繰り返しますと、 「重層タブーの起源」 → 「二重国格」 → 「自己の起源」 → 「シナプス構造の変化」 という連関をもって、現代の私たちは、昭和戦前期の日本と、しっかりと―― 《シナプス構造》 という物的根拠も伴って――結びついていると言える、ということです。
 さてそこでなのですが、そうした 「タブー」 に関わる 「個の側」 の探究はひとまずここまでとし、その「社会の側」 の探究に移りたいと思います。言って見れば、 《個人の精神分析》 から、 《社会の精神分析》 に、議論の角度を変えてゆきたいと思います。
 次回は、そうした分析の第一弾として、昭和前半にわたって繰り広げられた文学論争に、その核心を探って行きたいと思います。


 (2012年6月7日)
 
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