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第五部


第十九章
1935年の粛清

(その2)



波紋と統制
(7)

 林陸軍大臣は、失意の真崎が車で走り去るまで歩道に立って待っていた。その後間もなく、閑院親王が幕僚本部から完全正装の姿で現われ、待っていた林陸相と共に将校車に乗り込んだ。そうして二人は、警察に先導されて、葉山海岸の御用邸へと向かった。裕仁は、その午後は自分の研究用の船に乗って留守とならないよう、あらかじめ準備していた。午後3時に二人が到着した時、裕仁は閑院親王とのみ、短く会見した。その後、参謀長官が近くの旅館に宿をとった。その間、林陸相は本庄侍従武官長や彼の部下たちと話し合っていた。
  「状況は常態を逸し、緊急事態であるやに感じられた」。 「そこで、石田武官に、林陸相が陛下に何を伝える積りなのかを聞き取るきとらせた。私は、今井人事院長官に電話を入れ、問題は真崎教育総監にあり、閑院親王元帥はすでに立場を固めていることを知った。そこで、自分でよくよく考えた末、私は林陸相の訪問の目的を陛下に正式にご報告した」 と、本庄は日記に書いた。
 裕仁に会った本庄は、その時、御用邸には真崎も来ており、離れた控えの間で、武官の一人がその相手をしていることを知った。本庄は彼に挨拶をしにゆき、彼が天皇に抗議の文書を提出しようとしていることを知った。そこで本庄は天皇のもとに戻り、陛下は林陸相と会う前に真崎と会うつもりなのかと尋ねた。裕仁はそれを強く否定した。そして午後五時、本庄は気をやみながら、林陸相を謁見の間に案内した。そして本庄自身は、真崎とウィスキーを飲みながら、その抗議の根拠は望みのないものなので、それを懐に入れたまま、東京へと戻ってはどうかと助言した。
 愛する相模湾を見下ろす小さな研究室で、そうしていろいろと情報をえた裕仁は、何が起ころうと、それは皇位の責任とは無関係であることを確証できるよ、林陸相に問い正した。
  「中心問題である陸軍の統制に関して、私は、この(真崎の軍事参議官への)任命が、波紋が波紋を呼ぶのではないかと心配している。それが広がらないと、責任をもって言えるか」 と裕仁は問い、林はそれを請け合った。
  「加えて、それは、三長官会議について、既存の法律や法の執行に影響を与えないと言えるのか」 と裕仁は問い、林は再度それを確約した。
  「それに陸相、もし貴殿が、陸軍教育総監の原則にそむく小磯、建川、永田といった者らが真崎を不当に扱っていることを発見した場合、今度は彼らを処罰しようとするのかね。」
 それは、閑院親王が指図した放逐の際に用いられた役割についてであるのなら、微妙な質問だったが、穏やかな林は 「もし、私が調査し、何らかの不正を発見した場合には、私はそれを厳密に処置いたします」、と答えた。
 天皇との謁見はなんとか無難にすませたが、林陸相は本庄侍従武官長に問い詰められ、謁見の詳細な報告を与えることとなった。陸相は本庄に、波紋を呼んでいる原因について天皇が心配しているとは説明したが、いかなる不当な扱いも処罰されるべきという天皇の意思については話さなかった。
 本庄は、あれこれと考えあぐねて眠れぬ夜を過ごし、翌朝は早くから起床し、朝食の前に助言をえようと、三人の退役大将と三人の元侍従を呼んだ。午前9時30分、彼は天皇との謁見を願い出て、いくつかの重大な反作用が起こる恐れがある、と報告した。それらは、まず、皇族に前例のない直接の責任がかぶせられることであり、また、閑院元帥と梨本元帥
# 2は、北進派に対し融和的態度をもって、 「事なきを得る」 ように最善を尽くすべき、というものだった。それに、裕仁は、事態はすでに時遅しだろうが、二人の元帥とは昼食を共にしようと返答した。
 裕仁には、追放した真崎にすら、つきえぬうっぷんの数々があり、しばしば、論議をふっかけ、批判を加えて物議をかもした。曰く、真崎は、1933年の 「熱河作戦の際には、私の意志にそむいて行動し」、彼の失策のため、補充部隊を前線に送らねばならなかった# 3。あるいは、 「彼には自主的に辞任をしてもらおうと期待していたが、そうはならなかった」。 真崎は、 「決して、常識ある男ではない」。 たとえば、最近、彼は民間人顧問の内大臣牧野伯爵に陸軍政策文書を送りつけたが、宮廷の誰もが心得ているように、それは軍事と民事を混同する明白な禁止事項である。 「近いうちに、我々は中国に対する確固とした態度を示す必要を実行に移すが、真崎と荒木は最近、林陸相にこの件について自分たちの見解を採用させようとした」。 あげくには、「昨年10月の士官学校事件は真崎が仕組んだものだと林陸相が言っている」、というものだった。この最後の苦言に関しては、本庄は日記に、追記の形で次のように書いている。 「おそらく真崎は、軍事法廷で解決困難な事件を起こす積りではあったのだろうが、まさか実際の士官学校事件を起こす積りではなかったろう。」
 その日の昼、裕仁が閑院および梨本の両元帥と内密に昼食をとっている間、御用邸の他の各部屋でのもっぱらの話題は、バーデン・バーデンの第一の三羽烏、永田少将であった。陸軍省軍務局長として、永田は真崎の追放に協力していた。また、真崎と荒木の手元にあったのは、まさに天皇を動かした、永田の作になる三月事件の計画書だった。それは、永田が陸軍省の金庫の中に不注意に置いたままにしていたものと言われていた。それが1932年に発見され、所定のルートをへて当時の陸軍大臣の荒木のもとに上げられて、彼が保有していた。永田は最近、あたかもそれが当然であるかのように、真崎の見解に真っ向から挑む、二編の政策論文(8)を著していた。それは、日中間の友好なしに東アジアに平和と安定はなく、また、陸軍を政治目的に利用するという 「不正」 がなくならない限り、陸軍内に軍紀はありえない、というものであった。要するに、永田は不利な男となり、荒木と真崎は信頼を失っていた。
 昼食の後、閑院と梨本両元帥は御用邸を去って東京に戻った。そして間もなく、本庄侍従長は、葉巻喫いの老侍従、鈴木貫太郎より、追放された真崎を弁明することは陛下の気持ちを害し、また、陛下自身は、従順な新教育総監の就任式を執り行い、公務に専念される、と言い渡された。


荒木の摘発 (9)

 1935年7月16日の午後おそく、相沢三郎という中佐が、陸軍省の永田中将を訪れ、その職を辞するように求めた。永田は、数年前、士官学校で剣術を教えていた彼を剣道の達人として知っていた。永田はまた彼を、裕仁の叔父の東久邇親王や、彼の雑用係の予備役中佐、安田銕之助――神兵隊事件を画策した――に親しい者としても知っていた。1910年代、東久邇親王が歩兵中隊長であった際、安田はその隊の中尉の一人であり、相沢は少尉の一人だった。今、相沢は、永田も知るように、瀬戸内海に面した福山の第41連隊指令部に所属しており、そこから到着するには汽車によるおよそ12時間の旅を要した。真崎の左遷に関し、義憤に燃えてこの永田の部屋に彼がいるのは、いったいどのようにしてであったのか。この左遷がラジオで放送されたのは、まだ10時間もたっていない、その朝のことだった。(10)
 そうした考えが一番烏の永田の回転の良い頭をかすめた時、剣士相沢は、その非難の長広舌を終えようとしていた。永田は、彼の国政への関心に謝意を示し、真崎の更迭は陸軍全体の軍規の問題であると説明した。そして永田は、現在のところ自分は辞任の積りはないとつけ加え、誰にも知られたそつの無い親しげな様子で、相沢をドアまで見送った。そして彼が姿を消すとすぐ、永田は相沢に関する書類を取り寄せ、自分の記憶を確認した。そして何のわだかまりもなく、相沢を台湾の日本領地軍に転属せせる命令を発した。
 相沢がこの命令を受け取る以前の7月18日に軍事参議院が招集され、すでに決定された八月配置異動に承認を与えた。閑院親王は、三日前の三長官会議では極めて権威を振り回し、皇族の力を巧みに発揮しており、この会議には出席しなかった。荒木と真崎は、彼の欠席中、宮廷にとって最も暗い脅威にちがいない行動を開始した。まずその前日、真崎は、自分の左遷は 「統帥権干犯」 であり、有力な右翼団体、国本社の首領、面長の平沼男爵の法的助言をあおぐだろうと、自分の知人たちすべてに知らせていた。今、軍事参議院において、真崎と荒木は、儀式ばった会議を、 「怒り狂った四時間」 へと変貌させ、一人の参加者の表現によれば、 「ご老人たちには珍しいこと」 となった。
 会議の議事録は残されていなかったが、議事を通報するよう派遣されていた憲兵の刑事によると、林陸相が、真崎の辞任に至る単調な経過報告を行って会議が開始された。そして、真崎を含む四人の大将が立ちあがり、異議はないと告げた。そうしてついに、名高い北進派の首領、荒木元陸相が起立して林陸相に向き、まゆ毛をそばだたせて言った。
  「私が陸相を辞任するにあたって言い残したことは、貴殿、林陸相と、貴殿、真崎が共に協力して、陸軍を再組織し、再武装してほしいということだ。私は決して、林と真崎の高潔さに疑いをはさんだこともなかったし、貴殿ら二人の間の信頼がそれほど弱いと想像したこともない。だがどうしたことだ。貴殿ら二人の結束が壊れて、極めて重大な事態となってしまっている」 と、林陸相を凝視して言った。
 林は、そうした当てこすりは無視し、まばたきもせずに荒木をにらみ返して言った。 「我々の信頼のどこかが壊れているなどとは、いっこうに気付かなかったが。」
  「そうか、ならば貴殿も真崎も同意見なのだな」、と荒木が言い返した。「その信頼に変りはない、ということだな。なんともご立派な陸軍の統率じゃな。だがな、私はこの 『統率』 って言葉の意味が解せんのだ。」
 林は、あたりの空気を鼻で嗅ぐ仕草を見せながら答えた。 「だが現実はな、真崎が陸軍を乱していると言う者がおり、私もそうせざるをえんのだよ。」
  「その者とは、陸軍内部の者か、外部の者か。」
  「内部だ。」
  「現役の者か。」
  「そうではない。」
  「何人だ。」
 林はそこで、閑院親王だけでなく荒木の同僚として知られていた、3人の予備役将校の名を挙げた。そのうちの二人は、真崎や荒木と、同期生であった。
 荒木は言った。 「彼らは優れた人たちだが、みな、現役から離れた予備役でしかない。彼らに、人事に口出す権利はない。もし、彼ら部外者らが貴殿の意思決定を左右していたとするなら、それは実に法外なことだ。ともあれ、すべての事態は緊急を要する。責任ある陸相であるなら、部外者の無責任な意見になぞに頼らず、用件を陸軍三役会議にはかるはずだ。それとも、もっと別の人物の介入があったのか。」
  「いや、私のところに来たのは、その三人のみだ」 と、林はおずおずと応えた。
  「ただ三人の部外者だと。たった三人の部外者に右往左往させられるなど、陸軍大臣として、一体、なにをされておるのかね。私はこの決断は、貴殿独自でされたのかと考えておった。ならば伺うが、もし、より責任のある十人が反対の側から言ってきた場合、貴殿は決断をひるがえすつもりかな。」
 林はそれに答えなかった。皇位を守る盾として、林があまりに軟弱であることが露呈したいま、荒木は、その決定的無返答を機会として、三つの証拠を机上に並べた。一つは、筆頭烏、永田の書いた 「創作品」、第二は、三月事件の煙幕弾、そして、千葉陸軍幼年学校の幹部による、その煙幕弾
# 4の目的と出所を表した証明書だった。
 驚きで静まり返っている軍事参議院の議場に、荒木の声が響き渡った。 「これらの証拠については、説明の必要はありますまい。ここで唯一、考慮する必要があることは、三月事件とは、誤りであったのか、それとも正しかったのか、ということです。それよりむしろ、真崎といった事件の反対派は正しかった、と言い換えても良いでしょう。でありながらこうした配置異動とは、一体、何であるのでしょう。紳士諸君、こうした異動によって、すでに上官への信頼を失っている若い下士官を統制することが、はたして可能とお考えですか。私は、そうした裏工作に乗せられるような陸軍大臣を断じて許容できません。私は、彼を推薦したことを大いに恥とします。」
 新たに教育総監に選任された渡辺錠太郎大将が口火を切ったて言った。 「すでに昔のこととなった三月事件の証拠を持ち出し、我々をとがめ立てているのは貴殿だが、なぜ、貴殿はそれを、それほど長く独自で隠し持っていたのか。不謹慎ではないか。説明を求めたい。」
 荒木はこう答えた。 「なぜですと? その血にまみれた混迷を、さらに延命させようとするのですか? もう遅すぎるというのですかな? この文書は決して公表されることはありませんでした。ことに、それは、ある官僚の所持物の中から、偶然に発見されたものです。そうした証拠は誰にでも手に入れられるものであったはずです。だのに、こういうことになった。だからそれらを、謀議をはかる者の目に触れないよう、私は自らの責任において私有してきたのです。一度は、焼却しようととも思いましたが、今日、中傷は余りに容易であり、また、ある者の名が、白から黒へと一夜にして変わるご時世です。ゆえに、それらはいつか必要となる、そう考えただけです。」
 議事はそうして、論議の余地は残したものの、事実上、終了しようとしていた。新教育総監の渡辺大将は、永田の 「創作品」 は、数年前に若気の至りで書かれた私的構想にすぎないと主張した。
 一方、荒木はそれに反論して言った。 「永田は、この計画を書いた時、陸軍省の軍務局長でした。そういう彼がその〔私的〕文書を、自分の公式文書の中に入れました。だのに、彼の上官はそれについての説明はなんら求めませんでした。こうしたことは、完全かつ明白な、軍規の乱れ以外の何ものでもありません。」
 林陸相は、 「永田の処罰」 を行う責任を果たすことを約束した。荒木がその文書を所有する権利があるのかどうか、そして、それは公式のものかそれとも私的なものかどうかといった、無益で長々とした遣り取りの後、会議は解散した。小柄で病気がちの松井岩根大将――後に南京の殺人者の汚名を着せられる――は、その会議の後、荒木の暴露した事実に完全に息をのまされたと告白した。そして松井は、数日間、熟慮した後、現役から退き、予備役に編入しれもらいたいと――前例のない自発的行為として――申し出た(11)。7月26日の11人倶楽部(12)――裕仁の大兄ら助言者による宮廷内部グループ――の集まりは、松井の退職は 「きわめて遺憾」と決議した。松井は、それまで数年の事件や暗殺が政府の最高レベルにおいて計画されたことを覚り、中国を救うために自ら何かをなさねばならないと感じた。そして彼は、退役するとすぐ、北京にゆき、その秋中その地に個人としての立場で滞在し、1933年に彼が支援して日本に設立した大東亜協会の、その現地中国人組織の創設を試みた。彼が働きかけた中国人は、当然ながら、半信半疑だった。その内の一人が、後に、 「私たちは、松井のスローガン、 『アジア人のためのアジア』 とは、 『日本人のためのアジア』 と聞こえた」 と述べている。
 軍事参議院で激しい議論が交わされた二日後の7月20日、左遷された真崎は、自分の職務を公式に返上するため、葉山の御用邸にやって来ていた(13)。侍従長の本庄は、あらかじめ天皇に、真崎を丁重に扱い、 「御苦労であった」 とのねぎらいの言葉を与えてもらいたいと懇請した。だが裕仁は、以前一度、ある不面目に免職された者にそうした言葉を与えた時
〔訳注〕、彼はその儀礼的な優遇扱いを、天皇が自分の側について、公式の立場を示したと証拠と、東京中に言いふらしたと異議を表した。
 本庄はそれにあわててこう弁明した。 「真崎は自分の原則を曲げることはできない、信義ある家臣で、陛下のお言葉を自分の面子つくりに用いるような男ではありません。」
 数分後、謁見の間に向かう途中、真崎は本庄に、天皇に会った時、自分の立場を手短に説明してもよいものかどうかを尋ねた。それに本庄は、そうした軽率かつ異例な行いについては、厳重に慎むように申しつけた。かくして、真崎は、天皇からのそっけない謝意を表されて、皇位の前からは永遠に退席した。彼の退席を目撃した侍従たちは、彼の誠実そのものの顔が 「涙でにじんでいた」 と語った。


永田殺害 (14)

 軍事参議院での激しい遣り取りのニュースが、新聞の検閲をへた記事を通してながら、口伝えに広がった。それと共に、荒木が最後の抗議として切腹を考えているとか、思いつめた真崎派の一団が陸軍省を襲い、焼き落そうとしているとかとの噂も広がった。そうした状況の中で、先に、筆頭烏の永田に辞任を迫った相沢中佐は、台湾へと配置転換させる通知を受け取った。彼は直ちに300マイル〔480km〕を旅して大阪へ行き、裕仁の二枚舌の叔父で、歩兵中隊時代の指揮官である、東久邇親王に面会した。
 そこで、何が話されたかは明らかにされていないが、東久邇が後に西園寺のスパイ秘書の原田に明かした話では、 「相沢は、私の(雑役係)の安田よりははるかに素朴な男で、私が最近の演習を終えて大阪で休養していると、相沢が面会したいと言ってきた。私は疲れていたので、最初、それを断ったのだが、彼が台湾に行こうとしているところだと聞き、彼に会うことにした。その段階では、彼は確かに台湾に赴任しようとしていたが、彼が暴挙を考えたのは、東京へ戻ったからのことだった。その時、真崎は永田を非難していたのだが、おそらく、同じ話を相沢にもしただろう。」
 東久邇と話をした後、相沢は、彼の中隊がある広島や福山に向かう代わりに、あるいは、台湾に赴任する荷造りをする代りに、東京へと向かった。そこで彼は真崎に会った。真崎自身の話によると、――1936年から37年にかけての一年間、憲兵によって尋問されて調書に残された話だが――、真崎は彼に、命令に従い、暴挙は避けるように助言した。そして相沢に冗談として、 「もし誰かを殺したいのなら、1931年の三月事件に始まるすべての混乱に火を付けた、宇垣大将を刺したらどうだ」 と言ったという。
朝香親王(1924年撮影、37歳)
 彼を東京へと行かせた決意が何であったかは定かではないが、その次に、相沢は朝香親王(写真)――東久邇の弟で、後の南京強奪の指揮をとった――と会った(15)。後に朝香親王が親しい友人に、 「相沢は私に、 『宇垣大将に紹介してほしい』 と言い、もし私がその紹介をしたなら、彼は宇垣を暗殺するつもりだったようだ」、と冗談まぎれに語ったという。
 だが、朝香親王はその紹介を断った。その代わり、もっとましなことをした。彼は宮廷へゆき、儀礼担当の侍従に、緊急事項として、公の目を避け、内密に天皇に面会したい、と申し入れた。 だが、天皇は葉山の御用邸に出かけていてそれは不可能で、日程が知らされない限り、誰も彼を訪ねることはできなかった。そこで朝香親王は、7月29日に明治神宮で行われる祖父の明治天皇回忌式典に参加するため、天皇が東京にもどった時、東京駅で皇族として出迎えるために、単独で面会を許可してほしいと求めた。ところがどうしたことか、24歳の北白川親王
〔この年齢でこの名の親王は見当たらない〕にはその措置が伝えられず、彼は敬服する従兄に協力を頼むために東京駅に行った。朝香親王は、すぐに内大臣秘書の木戸侯爵を呼び、裕仁が葉山にいる時、自分と天皇がひと時の完璧に内密でいられる時間を絶対に確保するようにと彼に告げた。木戸はできるだけのことをする約束をしたが、天皇自身がすでに必要な指示を出していたことを知った。宮内大臣湯浅は、天皇の要望を誤解していないかどうかを確かめるため、天皇と様々に接触していた。そして湯浅は、今や、 「世論を左右するに足る配慮を持って、自らの最善を尽くして諸事の手配」 に当たっていた。木戸は、そうした措置に骨を折ってきた自らの貢献を自分の日記に詳述していたが、その日の記入の最後に、彼は厳粛にこう記した。 「もし、陛下がすでに命令を与えておられるなら、それは、疑問の余地なく、陛下のご意志にちがいない。」 (16)
 裕仁が葉山に戻る際、朝香親王は彼を見送り、すべての用意が整うこととなった。8月5日、林陸相は、副大臣を永田のところに遣り、休暇を受け入れ、外国旅行に出るよう要請した(17)。だが永田はそれを断固と拒否した。裕仁が陸軍に与える基幹政策に14年にわたって仕え、また、1920年代の長州藩の排除工作を実行し、また、満州を獲得するための謀略に参加し、経済的、政治的異端者を抑圧する若き忠臣のすべてを育ててきた自分に、まさか、こうした結末が起こってくるとは信じられなかったろう。それとも、彼は、信念に殉じる要請に従う、人生のそうした境地に達していたのだろうか。それとも、自分の人生は、かくも長く仕えてきた天皇への犠牲として献じられたと、純粋に信じられたのだろうか。
 いずれであったにせよ、東久邇親王の以前の部下、相沢三郎中佐は、1935年8月12日の朝、永田を殺そうと、陸軍省にやってきていた。その受付で、彼は、山岡重厚少将――相沢が士官学校での剣道師範であった頃、陸軍大学の教官として知られていた――の名を告げた。山岡は今、陸軍省兵站部長をしており、永田はその彼のオフィスに平常に案内された。山岡は、バーデン・バーデンの11人の選良の一人だった。彼は、論争にあっては北進派側についていたが、その後の叛乱を生き残り、1939年の退任まで、戦地司令官の地位を維持していた。彼は同僚の将官たちには、古い刀に宿る霊魂を礼拝する狂信者として知られていた。彼は自分で100振り以上の歴史的な刀剣を蒐集し、日本の将校はすべて、自らの刀を所持し、公式儀式の際はそれを着用するという規則を制定させたのは彼であった。その彼のもとに、興奮しきった相沢が現われると、山岡は彼と物静かに会話を交わし、それから、電話を避け、軍務局へ使いをやって、永田局長が在籍かどうかを確認した。その使いが確かな返事をもって戻った時、山岡はそこまでの行き方を教えた。
 まもなく、相沢は、陸軍省の中でも最大の軍務局の散在するオフィスを急いで通り抜け、永田のオフィスに出し抜けに飛び込んだ。永田は、東京憲兵隊長と談話中だった。
  「何事だ」 と、顔も上げずに永田はどなった。 
 相沢はひゅっと音をあげて刀を抜いた。憲兵隊長は息をのんだ。永田は跳び上がり、一刀をかわしてドアへと走った。その永田に相沢は斬りかかり、その背に一条の血の線を引いた。憲兵隊長は阻止しようと試みたが、肩を斬られた。永田は膝で立ち、ドアを開けようともがいていた。相沢は、さらに一刀を背から胸へと突き刺した。
 数分後に死ぬ永田をそこに残し、相沢は根本博――1927年の鈴木研究会の会員で、今は陸軍報道対策班を担当していた――のオフィスへと走った。
  「おお、そうか、やったのか!」 と根本が叫んだ。
 相沢は指から出血していた。彼は医務室へと連れて行かれ、そこで手当てを受けた。その途中、彼は永田が担架に乗せられ、血をしたたらせながら運ばれてゆくのとすれ違った。後に法廷で彼は、 「私は彼を一刀で殺せなかった。剣道の師範としては、大いに恥ずべき失態です」 と証言している。
 指に救急処置を受けながら、相沢は、台湾に出発する荷造りをするため、ただちに福山の連隊に帰らねばならない、と告げた。東久邇親王が言うように、相沢は、素朴な人物であった。彼にとっては天誅を下しただけのことだった。彼は、天皇の二人の叔父によって鼓舞されていた。朝香親王は、それが問題ないことを、内密に天皇に会って確かめていた。しかし、後の朝香の証言によれば、相沢を 「驚かせた」 ことは、憲兵が彼を留置場へと連行し、裁判にかけたことであった。
 内大臣秘書で大兄の木戸侯爵が、永田暗殺のニュースを聞いた時、彼は自分の日記に、習慣的な遺憾の念は表さなかった(18)。裕仁がその殺人を本庄侍従武官長より聞いた時、彼は、 「陸軍の中でそうした事件が起こるとは、極めて遺憾なことです。どうかそれを詳細に調査し、報告してもらいた。今日、もし私がいつもの水泳に出かけても、差し支えはないですね?」 と語った(19)
 それに答えて本庄は言った。 「私、繁は、これは申し訳ない事件だとは存じますが、その結果、何らかの特異な波紋を生じるとは考えられません。何事も起こらぬよう注意いたします。どうか、陛下のいつもの運動につきましては、お続けください。」


喪中期間

 筆頭三羽烏の永田が殺されたのは、天皇とその側近たちが三月事件に関わったことをしめす証拠を、北進派〔皇道派〕の手に渡してしまったからであった。加えて彼は、対中国戦争の計画をめぐって天皇を見限ったことを、露わにさせてしまったからでもあった。日本の他の最も思慮深い人たちと同じく、彼は中国との友好を、国家的念願である 「日本の支配による平和」 への必須条件と考えていた。
 だがしかし、永田が犠牲となることについては、意味のない殺意もあった。そしてそれは、裕仁が深く関与していることを知る天皇の側近グループには迷惑なことであった。老西園寺は、この8月16日
〔12日の誤記か〕事件の知らせを秘書の原田から聞いた時、こうつぶやいた。 「我国はこうした事態を避けうると思ったが、それが起こってしまった以上、日本は結局、フランス、ドイツ、ロシアがたどった(王制を転覆する)道をとらなければなるまい」。原田は、西園寺が 「あたかも自分に言い聞かすように言った」、と書いている。(20)
 それからの7ヶ月間、三人の宮廷日記記録者のいずれもが、悲観的見方ばかりを表していた。侍従長の本庄は、天皇は、 「このところの皇族事件について、私の振る舞いに不審を抱かれている」、と感じていた。西園寺の秘書の原田は、自分自身が次第に部外者へと追いやられていることを覚り、対話を主に外務省の人たちと持っていた。木戸は、そのメモによると、通常より、可能な限り用心深くなろうとしていた。陸軍内部でもその外部でも、ほとんど誰も、真崎が永田の暗殺を仕組んだとは信じてはいなかった。永田殺害の現場にいた憲兵の新見大佐は、京都に配置転換され、また、相沢に永田のオフィスまでの行き方を教えた山岡重厚少将は、戦地司令官に更迭された。林陸相は、その永田暗殺の蒸し暑い八月の朝、 「風邪のため」 に自宅にいたが、第一に、真崎排除の責任を永田に押し付け、第二に、その永田を守ることを何も成さなかったということで、広くから批判された。国民は林を、 「上等な馬に乗った下等な男」 とか、 「美女うつつをぬかした阿呆者」 とかと呼んだ(21)
 永田の葬儀には、二人の喪主がいた。一人は、北進派を代表する者で、他は三羽烏の三番手の岡村寧次で南進派を代表していた。お通夜には、宮廷からの花が山を成していた。参謀総長の閑院親王は、永田を 「日本と外地の双方を常に導いた秀でた天才」 とたたえた追悼の言葉を贈った。(22)
 彼の死を悲しむ者の一人に、永田の最も親しい友人、東条英機――後の戦時首相――がいた。バーデン・バーデン以来、彼は永田に、同僚の将校たちの目にはほとんど卑屈とも映る、敬いと献身をもって仕えた。永田が死ぬとすぐ、東条は自分の属す九州の第24歩兵連隊司令官からの休暇を得て、東京で行われた葬儀に参列した。そして東京に一ヶ月間滞在し、永田の身辺を整理し、また、亡父東条秀教中将の友人であった梨本元帥と話し合った。それ以後、1948年の自らの絞首刑まで、東条は永田の未亡人に、自分の懐よりと彼が言う、毎月のささやかな手当を送った。その当時、彼の年俸は1,500ドル
〔現在価値で約750万円〕で、彼には、妻と7人の子供がいた。
 9月に、東条が任務に戻った時、関東軍の憲兵隊長という、極めて裕福な地位が任された(23)。その六ヶ月後、東京で叛乱が発生した時、彼の憲兵隊は、関東軍内のその叛乱への同調者を全員捕えるという異様な手際の良さを示して、彼らを予備拘禁した。その時以来、彼は出世街道を彗星の如き登り、1937年に関東軍参謀長、1938年に陸軍副大臣、1940年に陸軍大臣、そして1941年には首相ならびに専制君主、という具合だった。この彼の立身出世のすべてを通し、彼は皇位による特別の信頼を得ていた。そして遂に、戦時中においては、彼は、大兄の木戸侯爵を除いて、誰よりも皇位に近い人物となった。
 永田殺害がもたらした圧力の下で、1935年9月3日、林陸相は、自ら辞職することで 「内閣を救済した」。もし解散となれば総選挙を意味し、総選挙となれば、よほど周到に準備されない限り、現政権に対する野党勢力の増勢をもたらすのは明らかだったがゆえに、その内閣は、彼の辞任をもって延命しえたのであった。裕仁は、林陸相の後任に、女スパイ、東洋の宝石の義理の親戚、川島義之大将――政治的には無色で、何とでも妥協ができる俗物――を受け入れざるを得なかった。
 裕仁は、この新陸相を即座に嫌ったが、駄馬も乗り方しだいと思い直した(24)。そして裕仁は、川島には、その初めから注意深く指示を与えるよう苦心した。 「陸軍は天皇の陸軍であらねばならず、一丸となり、最善を尽くし、最高の結果を得ねばならない。皇位は自ら、すべての外交的、軍事的事柄を統括するよう望んでいるおり、したがって、すべての事項に関する意志決定ができるよう、事前の通知を行ってほしい。」(25)
 裕仁は、ある妥協がさらなる妥協を必要とすることを見出していた。9月16日、遂に1933年の神兵隊事件のニュースを、新聞で報道することが許可された。しかし、東久邇親王の名前は取り上げられず、罪をさばく法廷はさらに二年間も延期された。9月18日、美濃部教授が、強い圧力のもとで貴族院を辞任した(26)。その代償に、彼に対する幾つもの法的告発が降ろされた。10月1日、岡田内閣は、 「国体明徴」 をはかる政策発表のなかで、 「機関説の撲滅」し、すべての学者の論説と出版物を検閲し、そして、すべての有害なものの禁止を公約した。10月21日、東久邇はいまだに彼の雑用係、安田中佐に、過去の策謀を助けた報酬として、毎月86ドル
〔現在価値で約11万円〕を払っているということが官界の噂にのぼり、そして、内大臣秘書の木戸により、それが事実であるとの証言となった(27)


“強気姿勢”

 譲歩を与えることで、裕仁は、長城の南の日本の新たな足場が統合されるまでの間の時間を稼いでいた。中国の何・梅津協定の特定条項への追従は、まったく形式的で、表面的なものでしかなく、無用なものであり続けていた。中国人は、求めに応じて日本の軍隊にほほ笑んでいたが、他の方向へと向かわせる穏やかな口実を作らせていた。北中国全体に自治領を構築しよという日本の計画は、それに傀儡として協力する有力な中国人を欠いていたため、沈没しかけていた。
 1935年9月20日、広田外務大臣――1948年に連合軍により戦犯として絞首刑となった唯一の民間人――は、蒋介石に対し 「日本外交政策の三原則」 を宣言した。それらは、南京政府は北中国における反日運動の制圧を援助しなければならず、満州と日本との間の文化的協定を締結しなければならず、そして、北中国におけるボルシェビイキの脅威と闘う日本の戦いに参加しなければならない、というものだった。そしてさらに、広田外相が口頭でかつ秘密に伝えた四番目の 「原則」 は、蒋介石に 「中国を南京による中央集権国とさせることは、必要でも、望まれるものでもない」 と通告するものであった。それは、裕仁が一年前に日本の秘密政策として許可したものと、ほとんど同一のものの繰り返しであった。
 そうした諸原則をもって、広田外相は、武力に訴えることなく北中国を傀儡自治国家にするとの裕仁の願望が実現するよう最後の努力をしていた。蒋介石の協力をえずに圧力のみでは北中国を自治化させえないことは明らかであったがゆえ、そうした 「原則」 は、彼には自明とされる必要があった。三羽烏三番手の岡村少将が、閑院親王にいみじくも述べたように、 「蒋介石は、自分が長城に到達するまで、否定的態度を続けることが予想される。・・・そこでこの段階では、日本は 「強気姿勢」 を基礎とした政策を堅持しなければならない」(28) のであった。
 蒋介石は、まさしくその通りに、広田の 「原則」 を拒否し、裕仁は強気に出ることを承認した。1935年10月1日、高橋蔵相は、86歳の誕生日を祝っている西園寺に、次のような言葉を贈った。 「7日前、外相が私のところに来て、北中国における我々の計画を説明しました。今や、戦争への準備が秘密裏に行われているようです。」(29)
 その二日後、ムッソリーニがエチオピアに侵略して騒動をおこし、前例を作ったことで 、その準備に拍車がかけられることとなった。日本の地下組織の首領、 「影の帝王」 たる頭山は即座に、エチオピアの 「有色人種」 に共鳴を表す大集会を開催した。だが警察はその集会を、頭山の黒龍会とその下層民宗教団体の大本教を弾圧する最後の機会として利用した。それ以降、同組織は二度と大集会を開けず、かってのマフィアスタイルの統率力も衰え、数十人の時代遅れの民衆扇動家が、東京下町の片隅のエレベーターのない建物に粗末な一室を構え、そのドアにかつての悪名を残すのみとなった。(30)
 エチオピアの人々への世界からの同情と、イタリアの電撃作戦による征服の失敗は、日本の参謀が中国計画を練り直す契機となった。10月25日、関東軍の参謀長――西尾寿造という南進派の中将――は、副陸相――古荘幹郎というこれまた南進派の中将――に電報を打ち、戦争宣伝は周到に監視され、対中戦争計画の基軸とされなければならないと助言した(31)。そして彼は以下のように説明した。 「将来のいつかの時点で、我々が軍事力を中国に派遣する場合、それは、中国の軍閥の退治を目的とすれども、中国人民のそれを目的としてはならない。」
 各々参謀総長の二親王は、そうした戦争準備を妨害する地位にいまだにいる北進派の残党と、断固として対峙していた。11月、海軍の北進派のリーダーで海軍参謀長の伏見親王の友人である加藤完治大将は、その現役の地位から身を引いた。残った北進派の大将たちには、閑院親王の統制派の忠誠な下士官から、監視役が張り付けられていた。陸海両軍では、北進論推進者を最後に残っている地位から排除するため、その十月に上層部の抜本的な異動を行うことが計画されていた。


緊迫する宮廷

 北進政策の提唱者やその支持者は、いまや、面目を失くしかねない瀬戸際にあった。その 「1936年危機」 は、平穏のうちに通り過ぎようとしていた。宮廷の侍従たちは、1935年の最後の日を首を長くして待っていた。というのは、出版された一年前の士官学校事件の計画は、若手過激派が皇位に近い政治家たちを残らず殺すかも知れないと、克明に述べていたからだった。木戸、原田、牧野、あるいはその他にも、永田が殺害されて以来、私服警官が配置されていた。しかし、10月30日、ある血気盛んな青年が、電話帳から機関論者美濃部の住所を探し出し、彼を殺すために家に押し入ろうとしているところを玄関先で逮捕されてから、もう誰も平穏な気分ではいられなくなっていた(32)
 内大臣の牧野は、彼が 「過去の事件の源」とする匿名の手紙や噂話を聞かされ、不眠症を発して憔悴しきっていた。また、牧野の昔からの宮廷中の同胞、枢密院議長の一木は、腸内出血に苦しんでいた。皇族の閑院参謀総長でさえ、襲撃の対象から外されているわけではなかった。東久邇親王は、大阪の司令部から東京に来て滞在していた際の10月18日、スパイ秘書の原田に、 「真崎や荒木への同情を欠く」 が故に、兵卒の間に閑院親王の辞任を求める扇動が行われていると述べた(33)。原田はうなずき、そして、親王たちの不行き届きは、むろん、 「正悪の」区別 を超えたものとすべきではないと、もっともらしい観測を述べた。
 1935年11月27日、内大臣牧野は天皇に、辞任したいと許しを請うた。枢密院議長の一木も、その数時間後、先例に続いた。両者ともに、神経痛、衰弱、そしてあれこれの不健康を訴えていた。裕仁は、新たな大物相談役に割り込まれるのを嫌い、そうした要望を考える時間が欲しいと答えた。かつての首相奏薦者、西園寺は、相談された際、天皇に大いに賛成した。そして彼は、 「一木も牧野も、皇位の顧問として任務を果たすことはまだ可能だ。だが私は81歳で、記憶も薄れ、目も不自由だ。私こそ先に退職を許されるのが自然でしょう 」
# 5、と答えた(34)
 しかしながら、12月11日、牧野内大臣は天皇に口頭で辞任を申し出た。裕仁は、残念であることを表しながら、可能な限りすみやかに、後任を見つけると約束した。裕仁は、次期内大臣に前首相の斎藤を希望したが、多くの侍従が、1933年に南進を開始しようと決断したのがが斎藤内閣であったことから、彼は不適任とそれをしぶった。12月20日、侍従たちはまだ裕仁の翻意に期待していたが、牧野伯爵は自分の辞任を文書で提出して、その決断を促した。裕仁はそれを受理し、斎藤を牧野の後任に任命した。
 枢密院議長の一木は、在任するよう説得された。裕仁は私的に、一木の弱った腸の回復に良いとどこかで読んだ新型の治療用腹巻を推薦した。同時に裕仁は、北進派をなだめるため、荒木大将を男爵にし、そして、騒々しいその数ヶ月後、やかまし屋の寺内大将を台湾の準備から皇位の身辺で仕えるように呼び戻した。


 
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