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            巻末脚注(10)

 (2012年5月7日現在)


(第五部   軍紀の粛清)

 第十七章 北進か南進か(1933年-1934年)

 (1) 本章の題名――本書のひとつの基盤をなす――が意味する含蓄は、1932年末と1933年初めの木戸や原田の日記の見出しに意外に明瞭に確認できる。木戸 『日記』、215-16 は、1933年1月25日付けで明白に述べている。つまり、「陸軍は、ロシアに対する敵対政策をあらわにしている一方、海軍は、日米間の戦争の開始を呼びかけている」 。また、この認識に呼応して原田は、牧野内大臣が、海軍、薩摩藩閥、平沼、そして地下組織と連携して、いかにして 「陸軍を牛耳り」、そして 「北を攻撃しなければならない」 かを説明している(原田、3: 3-5)。木戸もまた、牧野・海軍同盟と記録し、すぐその後に( 『日記』、226-27)、彼は、ある北進派指導者たちは 「天皇による直接の政府を考えている。牧野はこの点について、我々は極めて用心しなければならない、と言っている」 、と観察している。
 (2) この節は、武田、65-66、New York Times, Feb, 22, Mar. 1, 3, and 9, 1933 に基づいている。また、、 『軍』 、73 を参照。
 (3) この節は、日本および欧米の新聞に報道された荒木のさまざまな演説に基づいている。著者は、以下の解釈を除いて、それに何も加筆していない。その解釈とは、荒木は思いやりのある人物で、彼の戦闘的な態度は政治的な見せ掛けであり、日本をアメリカと戦うことから避けるために、影響力を維持しようとして行ったもの。
 (4) 武田、45-46。
 (5) 田中および荒木の孫とのインタビュー。ファイルの内容についての著者の説明は、荒木のそれまでの経歴と皇位との関係から推論されたもの。
 (6) 退役した藤沢中将の注釈よりの著者の推論。。
 (7) 木戸 『日記』、206, 238-42, 244, 246-48 に基づく。
 (8) 鳩山文部大臣の義理の甥である菊池武夫。彼の告発は宮澤裕によって国会に取り上げられた。Yanaga, Since Perry, 507。
 (9) A. M. YoungImperial Japan, 247。
 (10) Yanaga, Since Perry, Brocade Banner, 57。
 (11) 慶応大学のむねだ むねよし教授が京都大学の滝川幸辰教授を攻撃。Johnson、9: 139。また、IPS Document, No. 3014 に引用されている 『中央公論』 の滝川教授の記事を参照。
 (12)
Brocade Banner, 59-60。
 (13) 天皇機関説について、天皇の地位についての日本の法学説についての要約は、Jjseph Pittau, The Meiji Political System (Studies in Japanese Cuture, Tokyo: Sophia University, 1963).。
 (14) Brocade Banner, 57。
 (15) 同書、59-60。
 (16) 本庄, 241。
 (17) 同書、159, 242。
 (18) 『文藝春秋』 1968年1月号、160- に掲載の松本清張による東久邇へのインタビュー、原田、3: 63-64。
 (19) 原田、3: 84, 72。
 (20) この話は 本庄, 163 に日付なしで報告されている。著者もっとも博識な貴族によると、 「昭和8年5月」 と言う。著者はその日は、木戸の日記 (木戸 『日記』、238 ) のその翌日の日付から、5月21日とする。より早い日付、5月8日 (同書、224) によると、それは、1933年2月に生じていたかも知れない。。
 (21) 本庄, 163。
 (22) 木戸 『日記』、163。
 (23) 同書、238, 266。
 (24) Brocade Banner, 60。
 (25) 原田、3: 88。
 (26) この節は 大谷 『落日』、127-29、および 『憲兵隊史』、226-28 にもとづき、松本とのインタビューで補強した。
 (27) 原田、3: 91。
 (28) 木戸 『日記』、239, 247、を松本とのインタビューで補強した。
 (29) Johnson, 17 n.、木戸 『日記』、249-50 (および240-48)。
 (30) 木戸 『日記』、259-63, 287。
 (31) 同書、270, 291, 300-301。
 (32) 大谷の家族の一員とのインタビュー木戸 『日記』、266 を参照。
 (33) 木戸 『日記』、249, 275。
 (34) 毎日新聞(大阪版)、1933年7月29日付け。Yanaga, Since Perry, 509、原田、3: 190。
 (35) この節は、室伏、272-77、Brocade Banner, 39-52、Byas, Govt. by Association, 213-25、原田、2: 26(n.), 3:100-102, 139-40, 148-50, 179, 4: 155, 9: 168、木戸 『日記』、265−66、269、436, 470 および 『関係文書』、404-5。
 (36) Johnson, 109、原田、3: 102, 149-59, 8: 386。藤田のゾルゲ事件の部分については、第22章 「日本の忠誠なユダたち」 を参照。
 (37) A.M.Young, Imperial Japan, 191、Byas, Govt. by Assassination, 50、朝日新聞、1934年3月28日付け。
 (38) 木戸 『日記』、246。その同じ日、木戸、原田、そして11人クラブの二人の若い役人は、東京倶楽部で東久邇親王と昼食を共にした。そこで彼らは、最近、荒木派将官の一人、田中国重大将によって新聞記者に示されたいやみな暗示を彼に話した。田中の暗示とは、東久邇閣下は、首相になるために、自身の親王の身分を放棄すべきだ、というものだった。すると親王は木戸に、 「私は個人的には田中大将を知らないが、もし私が平民となった場合、誰も私に敬意を払わないと思う」 と言った。そこで木戸は 「大いに安心しました」 と答えた。
 (39) 木戸 『日記』、246-47, 249-54。
 (40) 原田の人事記録と、藤沢および梶浦とのインタビューの返答に基ずく著者の解釈による配置換え。。
 (41) Vespa、109。
 (42) 毎日新聞(大阪版)、1933年7月28日付け、著者の英訳からの邦訳。
 (43) 本庄, 244、原田、3:108、および木戸 『日記』、247, 255。
 (44) 毎日新聞(大阪版)、1933年7月28日付け。
 (45) この節は、Petya Balakchine, Finale vi Kitaya: vosnik-novenive, razvitiye y ischez noveniye beloi emigrantzil na Dalnyem Vostokye 〔中国での終局――極東における白系ロシア人移民の形成、発展、および分解〕(Munichi, Georg Butow, 1959): 110-122, 210-。Pernikoff, 180-216、Vespa、205-30。Balakchine によるものが最も詳しい。この記述は、Vespa がこの誘拐を実行した中心人物の一人という、Martinoff という人の手記によっている。
 (46) Koyama, 90-91。
 (47) 本庄, 244-45。
 (48) 木戸 『日記』、249。
 (49) 同書、本庄, 244-45、阿川, 119-20。
 (50) 木戸 『日記』、250、本庄, 245-46、 小泉とのインタビュー
 (51) 本庄, 246-47。
 (52) 同書。
 (53) 同書、247。
 (54) 本庄, 244。
 (55) 原田、3: 132-33。
 (56) 本庄, 163。
 (57) 同書、249。
 (58) 原田、3: 158。
 (59) 同書。
 (60) 同書: 3: 164。
 (61) 同書: 3: 1158, 168-69。
 (62) 例えば、同書: 3: 113 を参照。
 (63) A.M. Young, Imperial Japan, 191、Byas, Govt. by Association, 47。
 (64) 同書、44-46、A.M. Young, Imperial Japan, 198、原田、3: 180。
 (65) Byas, Govt. by Association, 66, 70-71。
 (66) 同書、60、A.M. Young, Imperial Japan, 198。
 (67) Brocade Banner, 47、A.M. Young, Imperial Japan, 195-97。
 (68) Brocade Banner, 55、原田、3: 147。
 (69) A.M. Young, Imperial Japan, 195-97。
 (70) 原田、3: 188, 192, 201。
 (71) Price、27-28。
 (72) 原田、3: 208。
 (73) 木戸 『日記』、294。
 (74) 原田、3: 206-7 を松本とのインタビューで補強。
 (75) 原田、3: 210。
 (76) 同書、211。
 (77) 田中とのインタビューおよびClowley、207, -8, 263。
 (78) 原田、3: 211 をインタビューした浦松の文書の閲覧で補強。不可解なことに、木戸は自分の日記にこの会合のことは何も記録していない。

 (79) 原田、3: 211。
 (80) 同書、216-17。
 (81) 大谷、 『落日』 89-93、原田、3: 217-19。斎藤首相は、荒木に会い考えを変えさせる希望を表わしたが、木戸は電話で彼に、もしそうした場合、自分の肺炎を裕仁に移すかもしれないと怖れ、彼は天皇に二度と会えなくなる、と警告した。
 (82) この節の主な引用文献は、木戸 『日記』、300, 308 と原田、3: 239, 241。
 (83) 退役海軍司令官とのインタビューおよびPotterYamamoto, 23。私は Smith の Sopwith Camel の設計者としての詳細について、John R. Cuneo に多くを負っている。
 (84) この節の基本的情報源は、本庄, 184-85。
 (85) Asahi Journal, 1965年4月25日号の Cho Yukio による Inoki Masamichi へのインタビュー記事からの引用。
 (86) 本庄, 243。
 (87) O. D. Russell、298 を 小泉、猪木とのインタビューで補強。


 第十八章 機関か神か(1934年-1935年)

 (88) Grew Ten Years,113-14。
 (89) 同書、 81。
 (90) 同書、 128。
 (91) Crowly, 207。
 (92) 大谷、 『落日』 71-76。
 (93) 毎日新聞(大阪版)、1934年3月9日、1934年7月1日、1934年9月18日。
 (94) 特記ない限り、この節は、原田、3: 224, 228, 232, 236-37, 241, 244, 255, 269, 271, 284, 286-87, 308, 314 に基づいている。 
 (95) 本庄, 204。
 (96) 本庄, 234、および 原田、8: 303-4 を参照。
 (97) 木戸 『日記』 329-30。
 (98) 同書、343-45、原田、8: 321-48。
 (99) Omura Bunji 408。
 (100)
原田、4: 16 また、Omura Bunji 453 参照
 (101) 原田、4: 16-28 と 本庄, 190-95 を主に基礎とした筆者の解釈の要約。山本の1933年11月の任命は、退役海軍司令官とのインタビューによる。その任命は1934年6月まで公表されなかったが、その任命期日は、本庄や木戸の日記、ことに 本庄, 171 や 原田、3: 191 の記述に符号する。後者はまた、艦船建造についての状況を認めている。
 (102) 原田、4: 22。
 (103) 木戸 『日記』 354、原田、4: 50-51。
 (104) 原田、4: 67-69、本庄, 194-95。
 (105) 阿川、23-25、Potter, Yamamoto, 23-25。
 (106) 本庄, 197-98。
 (107) Potter, Yamamoto, 25。
 (108) 原田、4: 144-51。
 (109) Crowley, 254-55、Yanaga, Since Perry, 510。彼は背後に立っていたが、清軍派の寺内は橋本金五郎の指導力を代表していた。後に(藤沢とのインタビュー)、彼は自身の作ったものの方向を変える義務から、清軍派を他の陸軍派閥もろとも粛清する。
 (110) 田中とのインタビュー 〔原著者がこの脚注に記している誤記訂正――「閑院」を「梨本」に――は、本訳文ではその通りに訂正してあるが、それが長老の陸軍元帥なら、「閑院」のままでよかったのではないか〕。梨本は、陸軍の地位では、参謀総長閑院親王につぐ第二位で、皇室内でも同様。
 (111) 原田、4: 72-79。永田の地位については、同書、4: 74-75。また、同書、97, 103, 145 も参照。
 (112) IPS Documents Nos. 717 and 3089。 『国防の本義とその強化の提唱』 については、Crowley, 208、原田、4: 91。
 (113) 原田、4: 119。
 (114) 本庄, 197。
 (115) 伊藤金次郎、1: 182, 356-57 を藤沢とのインタビューで補強。陸相邸での若き将校については、原田、4: 132。
 (116) 本庄, 258-59。
 (117) 同書、259。
 (118) 「士官学校事件」 は 「十一月事件」 とも呼ばれる。この節は、大谷、 『落日』 114-17、IPS Documents No. 1416、原田、4: 141-42, 155 に基づく。また、Yanaga, Since Perry, 512 参照。
 (119) Crowley, 201 に引用されている、日本外務省資料、 『帝国の対支政策関係の件』 、第三巻(1933年―1937年)、付録。
 (120) 原田、4: 153。
 (121) 同書 155。
 (122) 同書 107-95。

 
(123) Crowley, 263-65。
 (124) 木戸 『日記』 389-90。
 (125) 原田、〔4〕: 201-2。
 (126) 同書、4: 202-3。
 (127) Yanaga, Since Perry, 507。
 (128) 原田、2: 404, 3: 218、木戸 『日記』 202、Crowley, 209。 最初のものは、朝日新聞、1934年1月18-22日の5連続記事の 「政党政治の将来」、第二のものは、 「陸軍省発展の国防論を読む」、 『中央公論』 1934年11月号より。
 (129) 天皇の地位についての日本の方思想の要約については、Joseph Pittau, The Meiji Political System (Studies in Japanese Culture, Tokyo, Sophia University, 1963)。
 (130) 原田、4: 455。翻訳の大部分については、Tsunoda, 746-53 を参照。
 (131) Brocade Banner, 59-61。
 (132) 本庄, 201-2。
 (133) 同書、203。
 (134) 木戸 『日記』 188。
 (135) 原田、4: 213。
 (136) 同書、4:160-62。
 (137) 大谷 『憲兵史』、566、Brocade Banner, 61。
 (138) 原田、4: 216-17, 226, 228。
 (139) 本庄, 205-7, 原田、4: 227、Yanaga, Since Perry, 508。
 (140) 同書。
 (141) 本庄, 205-7。
 (142) 同書, 261-62。
 (143) 同書, 205-7。
 (144) 原田、4: 227-28, 231。
 (145) 本庄, 212-13。
 (146) 原田、4: 241。
 (147) 本庄, 207。
 (148) 同書, 207-8。
 (149) 同書。
 (150) 同書, 210-11。
 (151) 同書、原田、4: 256-59, 268。(原田、4: 246-47、は、 「陸軍と海軍は南洋作戦の計画を開始する部隊に、台湾をその中心に使用して、加わっていた」 ことをすでに知っていた。この情報提供者は、後の終戦時の外相、重光葵〔まもる〕と、海軍の和平派の高木惣吉であったことに注目のこと。)
 (152) 本庄, 211-12, 262。
 (153) Crowley, 214-24、本庄, 213-17、原田、4: 256-66、梶浦ぎんじろうとのインタビュー
 (154) 毎日新聞(大阪版)、1935年6月28日付け。
 (155) 原田、4: 286、注記。
 (156) Chiang Mon-lin, Tides from the West (Taipei: China Publication Foundation, 1957), 204-5 参照。

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