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<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第82回)


(1) 政・皇 混成体から
ゲゼルシャフトとゲマインシャフトへ


 翻訳をしていると、訳語に困ることから気付かされる幾つかの発見があります。それが、時には、それは言語上の課題というより、むしろ、訳す対象である原文、さらには、その背後の事実や現実に、より深い問題が潜んでいることもあります。
 いま、いよいよ真珠湾攻撃に移るかというその前夜で、あるひとつの重要なそうした訳語の問題にぶつかっています。それは、英語原文上は 「Supreme Command」 と表現されているものです。むろん、この言葉の背後には、当時使われていた、日本語のその対象語があるわけです。
 それを歴史資料を当たって調べると、その対象語は 「統帥部」 らしいことに行き着くのですが、では、この統帥部が何かというと、それが制度や組織として明瞭な実体でないことに気付かされます。
 そもそもこの語の出所は、大日本帝国憲法(以下「旧憲法」)が定める天皇の大権のひとつの 「統帥権」 ――軍を指揮監督する最高の権限――にありまです。そうなのですが、定義が大局的過ぎていて、それによる政治的混乱を幾度もまねいています。たとえば、1930年に始まったロンドン軍縮交渉にかかわって、軍の規模を誰が決定するのかが問われ、その国家間交渉で政治家がそれを扱っていると軍部が反発し、天皇大権を犯したとして、 「統帥権干犯」 問題を起こします。
 そしてそれが行くゆくは、5・15事件や2・26事件へと発展します。別の見方でいうと、これが、「干犯論」を主張する皇道派(北進派)と、それに対し、むしろ天皇を機関と見るに近い統制派(南進派)の対立の起源ともなってゆくのです。そして、天皇が結局は統制派(南進派)を率いることになるというのも、実に興味深い発展なのです。
 思うに、例えば江戸時代――つまり専制君主時代――、将軍は、軍政と民政の両方を一手に掌握し、その支配命令系統に不明瞭さはなく、そういう政治的実権を握る将軍が皇(神)的権威である天皇を奉って利用したのが江戸時代でした。私は、ここにある 《政・の混》 に注目します。
 それが、明治以降、議会制度と憲法(欽定)を輸入して近代政治に移るわけですが、そこで生じた軍政と一般行政(民政)の分離が問題を引き起こします。つまり、軍の主は誰なのかという問題です。これは、議会政治がしっかりしていれば、議会が選定した政府がその軍をコントロールするわけです。しかし戦前日本の場合、旧憲法下の議会は世界に近代性を見せかける形式でしかなく、実権は、江戸以来の政・皇 混成体》 が国を動かしていました。
 これが、旧憲法という、江戸以来の政・》 に近代的装いが施された制度です。この旧憲法下では、天皇は、まだ完全に立憲君主――憲法と議会のしもべ――になりえていない半絶対君主的存在で、誰が実際の国の主かをめぐって、さまざまなあいまいで、矛盾した仕組みで色付けされていました。その一例が、軍の主は誰かをめぐる矛盾やあいまいさ、すなわち 《統帥権》 です。このキャッチボールされるボールのような代物とは、軍の 「統帥」 をめぐり、その最終的な軍の統率権は天皇にあるのですが、日常的にはそれは陸海両軍の最高司令官(これが「統帥部」と呼ばれた)に委ねられ、また、作戦展開など軍の専門知識の助言を彼らが天皇(その道では素人)に与えました。こういう、矛盾やあいまいさをおおう “観念” が 「統帥」 というもので、それは相当する実体持たない、ただの言葉にすぎません。いうなれば、軍という、国のもっとも強権力な具体物を誰が動かすのかをめぐるそうした矛盾やあいまいさを、 「統帥」 とか 「統帥権」 という空ろな概念が隠していたわけです。まるで、大地震を起こす地下岩盤の歪みのような存在がこの 「統帥」 とか 「統帥権」 という空ろな概念であったわけです。
 今回の訳読を読んでいただければ解るように、日本がアメリカを相手に戦争をするか否かというまさに国の存亡のかかった決定をめぐり、 「統帥部」 といった合議体が登場し、その戦争を始めることを 「決定」 することとなります。しかもその決定は、天皇への推薦であり、また天皇はその推薦を承認して公式決定とする、そういう、ぐるぐる回る堂々巡りのうちでの決定であり、結局、それを決めたのは推薦側か承認側か、誰に責任が帰されるのかは捕えられない仕組みとなっているものです。
 近代戦争という終局的には、物量の多寡が決定する問題に――たとえば、真珠湾攻撃という各論においては、その量的判断は厳密にされていて、短期の勝利、長期の敗北という、責任ある判断が出されていましたが――、日米戦というその総論においては、誰もこの量的判断は下しておらず、この堂々巡りの中で、互いが顔色をうかがうような何とも日本的配慮の中での “決定” となってゆくのです。(その結果、たとえば、南洋諸島では、基本物資が届かず、大多数の兵員が戦闘でなくの飢餓で死ぬといった、漫画のような事態まで発生したのです。)

 ここで、脳裡をかすめるのが、 「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」 という概念です。
 これは、ドイツの社会学者デンニース(1855−1936)が19世紀の末に提唱した概念です。つまり、人間の共同体社会を、実在的・自然的な本質意思にもとずくゲマインシャフトと、観念的・作為的な選択意思にもとずくゲゼルシャフトに区別し、その区別は形式的類型にとどまらず、歴史的発展過程においてゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと定式化できるとしたものです。このデンニースは、ナチズムを公然と批判して教授の地位を追われました。
 この区別を上の議論に適用すると、日本の江戸以来の政・》 とは、まさにこのゲマインシャフトであり、旧憲法下の日本は、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行途上の、折衷されたものであったことが解ります。
 やや飛躍しますが、そういう意味では、日本の対米戦への挑戦とその敗北とは、日本が近代化を遂げる過程での、巨大な犠牲と “授業料” だったということとなります。そして、それを払って得た制度的な
産物が現憲法であったと言えます。

 (2012年12月30日)



(2) 交渉と戦争への原ルール

 本回はテーマのダブル掲載となって、もう一つの議論に触れます。
 今回の訳読中、最終的な戦争決定が成されて行くプロセスが描かれています。その結果、日、米、アジア各国合わせて、およそ2千5百万人が――勇敢にあるいはむざむざと――死ぬこととなる、そういう 「巨大な犠牲」 をもたらす戦争の決定です。

 これを読みながら意外に思わされたことは、国家の意志決定において、手続き上、旧憲法下体制での形式主義、権威主義は見られるのですが、こと外交問題の扱いにおいては、そうした制約や迂回にも拘わらず、上で述べたような数量的判断の貧弱かつ曖昧を別として、それ以外の面では、基本的議論はきちっと成され包括されていたことです。つまり、予想していたような、強くファナティックなものではなかったことです。誤解を恐れずに言えば、今日でもありそうな、しごく順当な決定であったことです。
 また、当時の国際関係の、「交渉と戦争の手順」という面でみれば、それはそれなりに、議論の体は成していたことです。
 しかしです。そうではありながら、一面では数量的判断の欠如という決定的欠落を持ち、他面では国際関係上の議論の体を成していたという、正と反の折り合わぬこれまた別の矛盾は、一体、何であったのでしょう? これも誤解を恐れずに言えば、どこか極めて身近で自分でもしそうな決め様であるのです。
 その謎解きのヒントは、上述の議論のように、たとえ日本が欲さなくとも、屈従するか応戦するか、そうせざるを得ない枠組みがあったのではないか、という着想です。少なくとも、日本がアジアを突き抜けて西洋と対峙した時、そしてそういうリアリティー・ゲームに関わって行った時、そこにおいての交渉は、どこまでも、最終手段のための副次的駆引きにしか位置付けられなかったという至り着きです。いつの間にやら、もう引き返せない、ノーリターンの地点を越えていたことです。
 これを別角度で言えば、対人・対国関係における基本的命題、 《寛容は不寛容にどう寛容であれるのか》 に関わっていそうです。つまり、平和主義は好戦主義にどう平和的に関われるか。
 どうもここには、そうした各国が持つ、それこそ国柄とか「国格」を越えた、もっと奥の深くかつ広い枠組みでの、何か基盤的原理がそこに働いていた感じがします。
 そこでですが、一般に、国家間の遣り取り関係に、以下のような段階を考えてみたいと思います。

段 階 国同士の関係 背景状況
第一段階  単独平和状態  プラスサム状態
第二段階  話し合い状態
第三段階  議論状態 (紛争の発生と最終的合意)
第四段階  対立状態 (解決不能だが武力は不行使)    ゼロ/マイナスサム状態
第五段階  戦争状態 (武力の行使)









 このように、国家間関係を図式化しますと、歴史的には、日本の江戸時代までのそれは、第一段階であったと考えられます。むろん、国内的には戦乱の世(それをその後の国際的戦乱状態のミニチュアと見ることもできる)はありましたが、隣国関係では基本的に平和状態でした。
 それが19世紀になると、外国からの特使が次々にやってきて、日本のドアをたたいて開国を求めるようになった時から、第二段階が始まったと考えられます。
 こうして日本は強いられるようにして国際関係の時代に入ってゆくのですが、それはあくまでも、拒否の許されない強制的なもので、いやいやでも、相手との関係に入らざるをえなかったところが味噌です。言い換えれば、相手は、自分の方が優位にあると判断したからこそ、あるいはそういう冒険心はいいことだと信ずるがこそ、ドアをたたきにきていたわけです。
 このようにして、アジアの中で独り、にわかに国際的力学に立った国力を身につけて行ったのが日本でした。
 日清・日露戦をへた後の西洋諸国との関係で見ますと、それから太平洋戦争開始までは、上の表の第二と第三状態が続いていたとみなされます――むろん、対朝鮮、対中国という面では、西洋化した日本でした――。ただ、世界恐慌をへて西洋各国のアジア進出が競合的になるにつれて、第四段階に入ってゆきます。
 ここで、何がこの競合関係を作り出すのかを考えてみますと、上記の図のように、青、赤二色に分けられるような、各国が置かれている背景状況の違いがあると観測できます。すなわち、青色の第一から第三までは、そういう交渉や議論が、プラスサム状態の中で行われていたと解釈されます。つまり、関係国を含む全体状況がプラスへと膨れて行っていた状態にあったがゆえ、皆が利益を共有しえていた状況です。(あるいはこの段階は、ヨーロッパでのゼロサム状態がゆえのプラスサムを求めてのアジアへの進出とも見れます。)
 それが、第四段階になりますと、背景状況はほぼ地球全体がゼロサム、あるいは、マイナスサム状態となっていて、どうしても、得する国と損する国に分かれ、これが第五段階となると死活問題となり、力がものを言う段階へと入って行ったと観測できます。日本の満州、中国への侵略は、この段階にあったがゆえのものです。
 また第三から第四への移行は、むしろ現実的には、背景状況の側が、プラスからゼロあるいはマイナスに転じていたからこそ、関係各国がこれまでの相互平和的繁栄を受け取れなくなり、様々な必要資源の奪い合いが始まった結果であるのでしょう。逆に言えば、その国が単独ででもプラスサムであり続けれるなら、奪い合い関係におよぶ動機は生まれません。そういう意味では、理想的には、終わりなきプラスサム、つまり、永遠の成長路線は不可避ということとなります。

 そこでですが、今回の訳読で、そういう開戦に最終認可を与える11月4日の軍事参議院会議の日、整理された三つの選択肢を選ぶ場面があります。その要点は、外交交渉を捨てるか否かにあったのですが、その分れ目はまさに、日本が、状況をゼロサムと基本的に認識しつつ、プラスを求めて一人勝ちを目指すのか、他国と連携してプラスを分け合うのか、の違いがありました。この11月4日の交渉打ち切り決定に最後まで抵抗した賀屋蔵相と東郷外相も、交渉モラルとして開戦論の不正当さを盾に粘りました。しかし、ここにいう各国連携したプラスサム開発の展望どころか、そこまで相手を読み切れる外交技量もなく、やむなく、一か八かといった手荒な開戦派の論理に、「案ずるより産むが易し」と説得させられてしまいました。
 というのも、もうその時の日本は他方で、枢軸国に属す関係を結んでおり、西洋世界に生じていた民主主義国かファシスト国かという分化のうちの後者の立場に回ってしまっていました。もうここでは、日米共同してアジアを開発しようとの発想はあるはずもありません。こういう視点でその日本を見るなら、残念ながら日本は、歴史的発展段階において、そういうレベルには至っていなかったと言うしかありません。
 その始まりは強制されたものであったとは言え、こういう関係に付き合わねばならなくなっていたと見るなら、もはやこの地球は、それほどに大きくはなくなっていた、と見ざるをえません。言い換えれば、いつまでも、 「一人っ子」 に安穏としていれる時代ではなくなっていたということでしょう。
 だとすると、その戦争決定は回避されるべきだったとするなら、いったいどこから間違いが始まっていたのでしょうか? おそらく、その答えのひとつは、松岡外相を異端者扱いしかできなかった、その辺の限界が、その分れ目の最後で、別の答えは、そもそも、三国同盟に加わり、枢軸国の一国になった段階で、その分岐は決定的でした。
 ともあれ、当時の日本は、そういう後発国ハンディーを背負いつつ、その弱みである思いつめた一か八かの傾向を負いながら、西洋列強との関係にもまれるしかありませんでした。
  そこでそういう当時、世界が至っていた全体状況から見るなら、その「交渉と戦争への原ルール」は、そうした国々がプラスサムかゼロサムかのいずれの背景環境に置かれていたのか、そこに原因があったといえそうです。
 つまりは結局、「衣食足りて礼節を知る」ということなのでしょうか。
 なにやら様相は、70年前の話ではなく、今日のこの世界のことのようにも見受けられます。

 それでは、第26章 真珠湾 (その1) へ、ご案内いたします。

 (2013年1月4日)


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