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<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第80回)


「一人っ子」 と 「兄弟っ子」


 冒頭からいきなりなのですが、最近とみに、日本って国は「一人っ子」で、他の多くの国はたくさんの兄弟、姉妹をもった「兄弟っ子」ではないか、と思うようになってきています。
 ここで言う「一人っ子」とは、アジア大陸の東端で、しかも、充分な隔たりを持つ海峡でその大陸と分離された島国であり、それに何よりも特徴的なのが、太平洋戦争の結果のアメリカによる占領を除けば、他国による侵略や占領を一度も経験していなかったという歴史的事実です。私は、それを一言で、「一人っ子」とたとえてみたいと考えています。つまり、人づきあいに、良くも悪しくも、もまれていない、育ちの良さです。シンプルさです。
 他方、大陸の各国に目を移すと、どの国も例外なく、その歴史において、近隣諸国との侵略や被侵略関係を抜きにした国はなく、そういう意味では、それらの国は、生まれつきに多々の “他人” との付き合いを避けることのできなかった、何人かの兄弟を持った「兄弟っ子」であったと、たとえられます。むろんこの「兄弟」とは、「最初に経験する他人」という意味でのそれです。
 このような「兄弟っ子」としての他の国、たとえば、中国や朝鮮、あるいは、ヨーロッパの各国(英国もこれに含めます)が挙げられます。また米国について言えば、それは移民国家として、文字通り、兄弟、姉妹ごちゃ混ぜにしたサラダボールです。
 さて、そういう日本にとっての開国は、その「一人っ子」が、いよいよ始めざるをえなかった、つまり強制された、他人との関係の初体験です。兄弟という、身内の他人の経験もなく接するそのもろの他者経験は、したがって、日本の外交関係を、いかんせん未熟なものにさせます。そして、時に、どこか高飛車で、時に、むやみに一本気な、実効的円滑さを欠く対応をくりかえしてきました。それというのも、他の「兄弟っ子」の国々と比べれば、場数を踏んでいないのですから、やむを得ません。
 つまり、司馬遼太郎が描くような日本人の自画像は、どうもその「一人っ子」としての日本人に基づいているように思えます。彼の言葉使いを借用していえば「純度の高い」、またちょっと嫌味に言えば、ぼんぼん育ちの世間知らずさを、大人の成功談として描いている自画像です。

 そこで本訳読なのですが、今回は、第24章の後半として、満州から中国本土への侵略が、いかにして、対米戦争にまで発展していったのか、その決定プロセスが描かれています。一言でいえば、それはまるで、そういう外交的稚拙さのあまりの、悲劇的で自閉症的で、やるせない気持ちさえ抱かされる決定です。よくぞこんな国がありえたものだと、思わず、胸がつまらされます。
 そいう経緯の中で、文字通り、異色、異端な活躍を見せるのが、外務大臣、松岡洋右です。
 私は、この訳読をしながら発見したのですが、私自身も含め、彼は大いに誤解されて評価されている典型のような人物であることです。原著者のバーガミニも、その彼のことは描ききれていなくて、その視点に揺れがあります。つまり、少なくとも昭和天皇体制下では、彼はあまりに型破りで、独自の見解を強固に持ち過ぎており、イエスマンぞろいの日本政府の中では宙に浮き、狂人扱いすらされました。
 それも言わば無理のないことでした。彼は、11歳に渡米してその地で育ち、オレゴン大学の法科を卒業。帰国後、外交官試験を首席で合格して外務省入りした、今で言えば「帰国子女」外交官です。そういう彼は、まさしく、西洋人の「兄弟っ子」世界で、それを地でゆく「兄弟っ子」ぶりを身に着けて成人となった日本人であったことです。つまり、他の典型的「一人っ子」日本人から見れば、なんともいけ好かない破天荒な日本人であったわけです。
 さて、その異端ぶりの詳細は訳読を読んでいただくとして、昭和天皇制は、彼のような人材を生かし切れず、政治体制としてその限界を示していると同時に、もし、彼の考えが当時の日本の行動に反映されていたとすれば、私は、世界の流れが、少なくともアジアにおいては、文字通り天地が逆転するほどに、に変わっていたのではないかとすら想像されます。ここでは立入りませんが、彼がその北進論をすすめてソ連を討ち、米国とは協調していたとすれば、アジアの地図を根本的に塗り替えていた可能性もありました。
 彼はともかく話し好きで、のべつまくなく喋りつづけていたようです。おそらく、えらくハイな性格の持ち主であったのでしょう。英語も達者で、話し相手に国籍の区別はなかったようです。1933年の国際連盟脱退の前の総会では、1時間20分の英語の演説を原稿なしで展開したといいます。
 私はどこか松岡洋右に、アメリカ育ちの英語を喋りまくる、田中角栄を重ね合わせてしまいます。

 ところで、話は冒頭の「一人っ子」と「兄弟っ子」に戻りますが、日本はいま、「乱戦」、「民・自・第三極の対決」の総選挙をむかえています。
 私見ながら、今度の総選挙は、日本がこれまでに体験したことのない、もっとも争点の “ばらけた” 選挙であるように見受けられます。そしてこの「ばらけた」とは、原発、消費税、TPP、量的金融緩和など、「国論を分ける」という意味で、ようやくと言うかついにと言うか、そういう基本的な問題が争点となる状況になってきたと受け止められます。
 そういう視点で、日本もどうやら、「一人っ子」を卒業しはじめているのではないか、と思える次第です。


 それでは、第24章(その2)へ、ご案内いたします。

 (2012年12月5日)



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