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 連載

相互邂逅 第二部


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 それまで、ざわざわと別々の動きに頼っていたPhD学位と永住ビザという二つの関門について、その両方の獲得をターゲットに定める、つまり、二者が互いに矛盾し合うものではないと見えてくると、僕の内の揺らぎはきれいに消え去っていた。迷いがなくなったというのか、それとも、分散していたエネルギーが集中できたというのか、それ以降、僕の論文書き作業は順調に回転し始めていた。
 またその一方、テッド (ホウィールライト準教授のファーストネーム) とエイブが構想し、取り組んでいた事業に、僕が新参者として加わることになった。それは、僕の論文書き作業の単調さに、形としての変化を与えたばかりでなく、質としても、オーストラリアの労働問題のまさに現場に顔を出させてもらえるという、またとない機会をもたらしてくれた。それに、バースで行っていた翻訳アルバイトは継続不可能となってしまっていたところに、それに代わる、あるいはそれ以上の収入源ともなってくれたのである。
 当時、オーストラリア政府は、労働党がまだ政権を維持していたが、その社会契約的産業政策は、官僚的構想が故に生産の現実に即応する柔軟性を欠き、個別企業内の独創性をそぐ難点を生んでいた。政府は、この問題を解決しようと、ことに労使関係の面で、従来の各産業ごとに大ぐくりな施策を適用する、産業別の政策を改め、企業別の労使関係政策を導入し始めていた。つまり、産業別の労働組合に、企業別の職場組織の形成を進めさせ、企業ごとの労使交渉や協約を行わせることを奨励していた。
 テッドとエイブは、左派運動の立場に、そうした柔軟性を加える視点から、そうした事業に取り組んでいたのだが、それは、一種の教育の仕事だった。というのは、オーストラリアには、70年代半ばに設立された Trade Union Training Authority、略して TUTA という、政府の外郭団体として労働組合員教育を行う機関があった。彼らはその機関の中心的人物そして講師として、そうした事業にあたっていた。
 時代は、二人の著書のように、アジアの資本主義の台頭の時代に入っており、当時はことに、日本の資本主義の影響がオーストラリアにも入り始め、産業における生産面だけでなく労使関係においても、それまでのオーストラリア的な制度や慣行だけではやって行けなくなっていた。例えば、自動車産業だけで見ても、当時すでに、トヨタ、日産、三菱の三社が、オーストラリア国内に工場をもち、多数の雇用を提供していた。
 労使関係部門のPhD生で、しかも日本の労使関係現場での実際の経験を持つ僕が、白羽の矢を立てられ、 「面接試験」 に合格したのも、そうした流れから見れば、当然なことであったかもしれない。僕は当時、おそらく誰でもそうだと思うが、自分の内側から外を見ることばかりに目を奪われ、自分の姿を外から見る視点においては、まったくといってよいほど盲目であった。
 そうしたピンホールカメラ型視野はともあれ、僕はそうして、象牙の塔の中から、いきなりオーストラリア社会の、労使関係現場の真っただ中に引っ張り出されることとなった。

 一方、大学では、またまた、厄介なことが起こり始めていた。僕やもう一人のPhD生を引き連れてNSW大に移転してきたH監督が、さらに、今度はキャンベラのオーストラリア国立大に移るというのである。僕は、もう、今度という今度は彼の後に付いて行く気はなく、あっさりと、後任の監督の選別に入った。その頃ともなると、これまでの紆余曲折がうそのように、僕の作業は着々と進捗していた。完成のめどがついたとまでは行かないものの、そうした作業さえ続けてゆけば完成にたどりつける、そうした見通しが見えて来ていた。
 そういう次第で、新たな監督に、僕はさほど多くを期待しなかった。むしろ、形式的な監督であってくれるだけで十分だった。そしてL講師を新監督とした。彼は、あまりうるさく指導をするタイプでなく、いわば放任しておいてくれる姿勢で、それは僕にはむしろ好都合だった。
 その一方、僕のテーマの変更を方向付けてくれたP教授も、同時期、僕が後にしてきた西オーストラリア大に移って行った。オーストラリアに定年制度はないが――それは年齢による差別とみなされて禁止されている――リタイアにふさわしい年齢を前に、彼のキャリアの完成を目指したような転職だった。それは、西オーストラリア大に新設されようとしていたビジネス経営大学院大学の初代学長に就任するためだった。このように、オーストラリアは、Industrial Relations 出身の教授がこうしたビジネス系大学院大のトップに就任する国でもあった。

 この頃から、シドニーで始まったこうした孤独な生活のためか、僕の 「ノート類」 がある変容をしている。つまり、それは、一種のスクラップブックのように、友人たちにあてて書いた手紙の写しで満たされるようになった。当時、僕はまめに手紙を書いていたようで、各々の手紙の内容に繰り返しや書き忘れを防止しようとの必要から、そのコピーをとってノートにはさみこんでいた。いわば、ノートに記すべき自分の心境を、当時は、そうした手紙の中に託していたようだ。
 92年の11月、 「独身」 生活にも慣れ、 「両方を選ぶ二者択一」 の結果、論文書き作業があるルーティン作業として自己運動しはじめた中、そうした手紙のひとつに、こんな表現がみられる。
 これは、論文書き作業のことを言っているのだが、確かに、そうした不安にさらされながらも、その他方では、 「(論文への)動機がうせて来ている」 とも言い、一種の坦々たる日常化の風景が見受けられる。 
 また、そうした友人たちへの手紙には、月刊で書いていた 『JUI』 もほぼ毎号、同封しており、論文、同紙、手紙といった 「書く三作業」 が僕の “仕事” として定着していたようだ。
 他方、シドニーに来てその日常活動が活発となった証拠として、1992年から使用を始めたダイアリー式の手帳がある。以来、毎年の手帳は保存されてきていて、今も僕の手元にある。
 その記録によれば、TUTA の事業に関わるようになって初めての仕事は、ある企業の中間管理職へのセミナーだった。確か、テッド、エイブ、と私の三人に、大手経済紙のベテランの女性記者も入っていたと思う。僕がそのセミナーで何をしたのかはあまり記憶にないのだが、おそらく、新講師陣としての陣容のデモンストレーションが目的だったように思う。
 それまで、ただ論文書きの学生として、閉じこもりがちな毎日を送ってきたものが、そうして、オーストラリア産業界の舞台にいきなり立ち会うようになり、自分としても、正直なところ、おっかなびっくりなところはあった。
 手帳には、それ以降、ほぼ毎週のように、打ち合わせやセミナーなどの日程が記入されている。時には、週のほぼ全日が費やされて場合もあり、それまでの静的な生活とは対照的である。
 ともあれそのようにして、オーストラリア社会の個々の現場で、英語一色かつそれぞれの業種や身分では特異な言い回しもある話し言葉の壁と取っ組みつつ、まさに生身、真剣勝負な世界で、頭のくらくらするような体験にさらされるようになった。
 今から思えば、あらためて、年齢あるいは受けた教育相応な社会的役目や責任を担い始めたと言えた。過去、同様な立場を、日本では果たしたことはあったが、いまやその場は、オーストラリアに移っていた。

 つづく
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