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 連載

相互邂逅 第二部


11

 1993年は、パースでの妻の側で大事が続き、母親の急死や、訪れた観光客の死亡事故などが発生し、彼女にとっては最も苦難な年となった。
 一方、僕の方は、パース側とは対照的に、シドニーでの新環境への定着も、予想したより時間は要したものの、とりたてた困難もなくすすみ、論文書き作業も着実に前進した年となった。
 手帳を見ると、二つの特徴を表すメモに目がとまり、当時の光景がよみがえってくる。
 ひとつは、ほぼ隔週くらいの日程で、ある人物に繰り返し会っていることだ。この人物とは、僕の属している Industrial Relations 課程の元教授で、当時ではもうリタイア生活を送っている人だった。このH氏に、僕の書いた英文原稿を読んでもらい、正しい英文へと校正してもらっていた。それは彼のボランティアで、僕以前にも、インド人のPhD生の世話をしたとの話も聞いた。前のH講師の紹介で会ったのが最初だったが、そうして定期的に会っているうちに、彼の自宅にも招かれるようになるなど、個人的な親交も持つようになった。また、その英文校正の作業には、僕の 『JUI』 原稿も含まれるようになり、その記事などもきっかけとなって、交わす話題も、さまざまな分野に及ぶようになった。時には、彼のゴルフのお供をすることもあった。
 彼は戦争中、連合軍空軍の爆撃手で、日本の空襲にも参加していたらしい。そんな元敵国からの留学生である僕に、そうやって親切にも、自らの時間と負担を投入して、親身に世話をやいてくれていた。僕はそんな彼の寛大さに、時には心を動かされ、また、つねに深く感謝していた。そしてさらに、僕にとって彼は、知性あるオーストラリア人のなかでの、あるモデル像となった。とういうのは、僕という一アジア人に対する西洋人としての優位性を維持すると同時に、親しみを込めてそうした高い義務の実践にあたる、そうした人がらを感じたからである。それに彼のそうした姿勢に、宗教性は感じられなかった。
 もうひとつの特徴は、手帳にほぼ毎日、記入されているエクササイズの記録である。当時、ジョギングか水泳を、ほとんど毎日、一日の仕事が終わる夕方に行っており、その距離やらタイムやらを記録していた。そして僕はそうした運動を、 「マイドクター」 と呼んでいた。つまり、その日課を欠いては、自分の健康が、ことに精神面で、健全でいられたとは信じられなかったからである。
 僕はこのエクササイズの日課を通じて、毎日が生きいきと健康である実感とともに、あえて体を使うという “自己メンテナンス法” を見つけていた。これは、自分の身体性――自分という意識を支えてくれる身体という生物体系――を、あたかも機械をメンテナンスするかのような感覚 (動かさないでいると錆付いてしまう) でとらえる発想とその実行である。それは、現在に至っても続いており、その成果が今の自分でもあると言える。
 僕はいま、通勤に自転車を使い、毎日、往復合わせて一時間の運動を日課に組み込んでいるが、この自転車通勤は、思えば、三十代の初め、組合の仕事に就いた頃から始めていたものだ。当時は、まだ 「自己メンテナンス法」 といった発想はなく、ごく実用本位の理由からだった。しかし、理由はともあれ、そうしてメンテナンスしてきた自分の身体性の実績は、少々飛躍した言い方だが、年金というお金を媒体とした方法ではない将来準備として、健康を通じた私自身の実物としてここにあり、現在の自分を、心底、支えてくれ、そして今後もそうであると信じえるものだ。

 翌年、1994年に入ると、手帳の記録に、「何々章を監督に提出」 という記入がほぼ月ごとに見られるようになり、着々と作業が進んでいる足跡がうかがえる。そして年も半ばをすぎると、論文の最終像が次第に見え始め、その完成の目標を、その年末と掲げえるまでになった。
 他方、残す問題は、相変わらずのビザ問題だったが、テッドとエイブの事業に加わったことをきっかけに、そこにもひとつの展望が開け始めた。
 その発端は、ある日デットから電話があり、 「不成功の場合は費用をとらない」 という移民専門の弁護士事務所があるから話しをしてみてはどうか、との助言をもらったことだった。
 八月末、その事務所を訪れて相談してみると、その所長は積極的な様子を見せ――話に聞いてはいたが、弁護士事務所がそれほど豪勢であるとは始めて体験した――、私のケースを引き受けると言う。つまりは、成功の見通しがあるということだった。その後、エイブにもその所長に会ってもらい、永住ビザ獲得のための “作戦” を練った。そして11月末には、所長より、「このケースは strong case 」 つまり、確実に成功しうる、との言質も得た。
 そして、その作戦とは、そうして一緒に始めていた事業を主体とする会社を設立し、その会社が僕を雇用し、ビザ授与の条件である 「エンプロイアビリティー」 を満足させるというものだった。
 まさに、 「両方をとる二者択一」 は現実的成果を見せ始めようとしていた。その弁護士費用は5千ドルを越えていたが (当時のレートで約40万円)、永住の権利獲得の費用とでも言えるその出費は、僕らにとってさほど高いものとは思えなかった。さらに、この 「作戦」 に基づき、年末までに、エイブは会社設立の登録を済ませた。
 話は前後するが、この年の4月から3ヶ月間、僕は、論文完成をめざし、最終的な詰めの現地調査を行うために日本に帰った。この際、エイブも我々の事業に関連して日本を訪れ、二人で顧客企業先を訪問したりした。彼にとっての日本訪問は初めてのことではなかったが、僕と一緒の訪日は初めてだった。
 この際、僕は、彼を実家に招き、両親に紹介した。父には痴呆が現われ始め母を悩ませていたが、その76歳にもなった母が、外国人に接するのは初めてのはずなのに、驚くような反応をみせた。初対面のエイブに、まるで僕の日本人の友人に接するのと何ら違いのない態度で、いかにも親しげに日ごろのままの日本語で話しかけるのである。自分が英語を解さぬことなど全く気にならない様子で、いかにも嬉々としかつ堂々と、エイブに話しかけるのである。
 そういう母を、エイブもすっかり気に入ってくれた。後に、今度は僕がそのエイブのお母さんに会ったのだが、どことなく、自分の母親と共通する雰囲気を感じる人だった。
 かくしてこの日本訪問を機会に、僕とエイブの友情に、さらに一歩深めた発展が見られるようになった。もちろん、彼は日本人ではなく、違いを感じさせられる面は多々あったが、どこかその奥底に、共通する温度が見出せるようになっていた。

 論文の完成は、年末までには間に合わなかったが、新年度が始まる1995年2月末までに完成させ、3月7日、きちんと製本を済ませ、大学の高学位委員会に提出した。全部で345ページにおよぶ分厚い成果だった。
 この完成が予定通り年末であったとしても、新年度が始まるまでは大学業務は休暇中で、動き出すのは新年度になってからとなる。僕は、その年末年始休暇二ヶ月間を論文のいっそうの完成に当て、西オーストラリア大で最初にPhDに取り組み始めて以来5年間の積み重ねを、より磨きあげることに努めた。
 また、論文提出三週間後の3月26日には、法律事務所を通じて、永住ビザの申請も済ませた。
 こうして、博士論文とビザ問題は、文字通り 「両方をとる」 形そのものに、95年の3月をもって、共にその完遂を見たのであった。1984年10月のオーストラリア上陸以来、11年4ヶ月の歳月を経て、当時37歳の僕は、もはや48歳8ヶ月になっていた。
 提出した二つの申請の審査結果を見るには、この先一年ほどを要するのだが、こうして、僕は、学生期という、オーストラリア生活の導入期を終わらせ、ほぼ50歳にして、いよいよ、その地での本格的な生活を始めることとなる。
 思い起こせば、 「世界無賃旅行」 に旅立つ友を、 「行きたいけど行けない」 複雑な思いで見送った24歳の1971年以来、24年目にしての、自分自身による、しかも、帰国を白紙とした、僕本来の 「世界」 体験の始まりである。
 僕の人生において、ほぼ十年を周期に大きな節目がやってきている。この 「導入期」 の11年間もそのひとつだが、この先の10年間において、僕は、この最初の 「世界」 体験の成果として、僕自身のある哲学を発見してゆくこととなる。

 つづく
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