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両生学講座 第26回


        私という中産階級



 1995年、私は、オーストラリアで博士号と永住権を合わせて獲得 (これも先に述べた 「両方を選択する」 の一つでした)、それを機会にオージーの友人たちと会社を発足させ、いわばオーストラリアへの関わりの総仕上げとしました。そのようにして、それなりの在豪生活態勢を確立するとともに、その会社の仕事にも関連して、もろもろの海外 “視察” 旅行をしました。
 その際、アジアの国を訪れることが多かったのですが、経済成長の流れに乗ったアジアの国々 (1997〜98年のアジア金融危機でその勢いもいったん腰を折られましたが) を目の当たりにしながら、ある不思議な体験をしていました。

 それは、初めての訪問であるはずなのに、ほぼどの国でも、微妙な違いはありながら、以前にも来たことがあるように思わされる、いわゆるデジャブー (既視感) の体験です。子供の頃、どこかで見た光景が、ふたたびそこに展開されているようで、なんとも曰く言い難い 「なつかしさ」 を抱かされる経験でした。
 その 「なつかしさ」 というのは、それぞれの街の、 「成長」 が動き始め、古いものが取り壊され、新しいものが建設され始めていると言う、ほこりっぽいたたずまいの中で、いかにも新規現象風に散見される、ある特徴をもつ家族連れの姿でした。それは、まだ比較的若い両親と、かれらに連れられた子供たちの姿で、いずれも、ちょっとしゃれた身なりをしてその他の伝統的な住民からは浮き出ており、買い物や外食を楽しんでいました。
 そうした光景が、そこが外国であるはずなのに、私自身が何十年か前に、日本の都市で体験していた自分自身の生活と、どこか重なり合うものがあり、それがそうした 「なつかしさ」 となってよみがえっていたのでした
 そのように受け止めると、時代で言えば昭和三十年代のあの頃、日本を訪れていた外国人たちは私たち家族を、これに類する眼をもって眺めていたのかもしれない、との発想がさらに頭をかすめ、それと同時に、それまで、自分でも思ったこともなかった考えが私の脳裏に浮かびました。つまり、私はそれを、日本社会で、あたかも代々繰り返されてきた常套的な生活スタイルかのように思っていたのですが、私たち家族が実行していたそうした生活様式とは、ひょっとすると、戦後の日本の経済成長の中で、日本社会が初めて経験する、新興で大規模の、いわゆる中産階級 (ミドルクラス) の勃興の様子ではなかったのか、との考えでした。
 そしていったんそう考え始めると、それまで無意識に自分で持っていた考えが、単なる思い込みに過ぎなかったと、たちどころに色褪せるものがあり、さらに、一連の新たな考えが私をとらえました。
 それが、タイトルにもある、「私という中産階級」 という自分の対象化であり、しかもそれが、戦後の団塊世代の誕生という、現代日本社会の持つ特記すべき歴史現象とも重なり合って出現していた、そうした特徴的な生活様式を意味していたのではなかったのかとの認識でした。言い換えれば、戦後の経済成長の中で、企業社会も成長し、そこに雇用される俗に言う 「サラリーマン」 としての父と、彼を家長とする核家族としての家庭生活でした。そこには、土曜半ドン、日曜は休日という生活や、週末には一家連れで行楽にでかけるという暮らしのスタイルも、私の子供の頃の思い出のある特徴的な部分となっています。
 私の家族の場合はさらに、父の働く企業の発展に伴い、数年ごとに父の転勤が繰り返され、それによる家族ともどもの引越しも発生し、私はよく転校もせねばならず、それゆえなのか、不定着民、“ノーマッドな心性を身につけるようになってゆきました。
 たとえば、小学生のころ、夏休みともなると、同級生からよく、「田舎に行く」 という話を聞かされたのでしたが、両親とも代々の都会育ちで、かつ、こうした都会間の移動を続けるノーマッド家族の一員であった私は、そうした 「田舎」 とか故郷たるものを知らず、その異種な世界に、ないものねだりな、うらやましさを抱かされた記憶があります。後年になって、私の結婚が、新潟の代々の稲作農家育ちのひととのそれであったのは、偶然の出来事ではなかったと思っています。

 このようにして開かれてきた眼で私の知人や友人たちを見渡すと、 「サラリーマン」 二代目にあたる者らには、そうでない人たちと比較し、どことなく私に共通する心性を持っており、ある種の諦念を伴う合理主義と独特の処世術を、共に身に着けているように思えます。
 つまり、そうした新興中産階級家族の子として生を受け、育てられてきた者らは、戦後経済成長の産物ともいうべき企業社員を父に、そうした給与生活者に必要な生活環境や態度を共有していたのでした。
 そういう意味で、その生活基盤の背景は、伝統的な商人家系のそれでもなく、公務員のそれでも、農家のそれでも、まして、代々続く有資産階級のそれでもない、経済史的には、極めて近代的な企業社会における、私の父の場合、その中・上級管理者としての、それでありました。そこに、父個人としてのパーソナリティーの色着けは伴いながらも、父自らの大卒としての学歴がその一面を語るように、教育への信奉は所与のもので、また、すべての資産をなげうってでも子供たちに最大にそれを授け、また、子供たちの側も、教育制度のもつ権威と自縛に、それほど無防備に取り込まれるという、その新興中産階級発生の土壌を受け継ぎ、その環境のさ中で育成されてきたといえます。

 森巣博の 『無境界家族』 (集英社文庫、2002年) というエッセイで、著者が八歳の息子に、自分の教育方針を告げるくだり (p.17) があります。曰く、「したいことだけをしなさい。やりたくないことはやらなくてもよろしい」。(ちなみに、森巣博は、自称、国際賭博師で、その分野の作品は逸品です。また、オーストラリア国立大学教授のテッサ・モーリス-スズキと彼とは夫妻関係にあります)。
 私は、父の口から、このような明快な方針を授けられた記憶はありませんし、もし、私に子供が居た場合でも、はたして私に、このようにずばりと言い渡すだけの度胸があるものかどうか、自分でもおぼつきません。
 つまり、私や私の家族のように、中産階級の一員として社会に組み込まれることは、自覚の有無に拘わらず、ある体制への帰属を、そういう形で骨の髄まで受け入れることで、私の場合、その自覚に至るまで、少なくとも、六十年を要したわけでした。
(おそらく、森巣博と彼を育てた家族は、それほど自覚を叩き込まれるほどに、こうした (中産) 階級社会に、打ちのめされた経験の持ち主であったのかも知れません)。


 話は飛びますが、以前にも述べましたように、言葉にともなって、意味するものと、意味されるものという関係があります。ことに、言葉なくしては考えることも、生活もおぼつかない、私たち人間という存在は、そうした言葉を通じた 《命名関係》 に、決定的に左右されます。上に述べた 「中産階級」 としての 「私」 の発見という話も、教育という言葉の支配の牙城を主軸に、巧みに 《命名》 された一個の産物の、六十年を要してようやくに至った、その意味されていた自分の発見談であります。
 むかし、歌謡曲で、確か 「アケミという名で出ています」 との歌詞で水商売女の思いをうたった曲がありました。この 「アケミ」 に、たとえそれが本名でも自分のそれを入れてみて、そうした役を演じていたかっての職業的自身の姿を思い浮かべる時、私には、この歌詞が妙にしっくりなじんでくる、そうした気持ちがあります。
 実は、ここで私が言わんとしていることは、簡単なことです。そんなに複雑なことではありません。つまり、自分という人間が、(私の場合、中産労働者階級という) 《商品》 である時と、人間である時とが、恥ずかしながら六十にしてようやく区別できるようになった、と言っているだけです。これまでに述べてきた、「仮の姿」 とか 「一周目」 とかと言った表現も、いずれも、 《商品である自分》 と同義語であります。
 もちろんその間、願わくば、達成者つまり資本家階級にならんとする努力を傾けた時期もありましたが、どうしても、それほどに抽象化された (つまり、金銭的価値に支配される) 世界には入り込めず、そのどちらかを選ぶのかという意味では、中産労働者階級であり続けてきたわけです。ただし、その強制的二者択一の外側で、人間であるというあかしの、第三の選択もかろうじてながら探りつつ。


 「リタイアメント」 という区切りの本質は、こうした第三の選択、すなわち、《商品である自分》 との決別にあるはずなのですが、そうした境地に至って、たとえば、五木寛之は最近の著書 ( 『林住期』、幻冬社、2007年、p.37-8) で、こんなことを書いています。

 ちなみに、この私なら、イヌの代わりに、一台の自転車としたいところなのですが、ともあれ、人生 「二周目」 を前に、身の回りを振り返って感じたことは、同様な思いでした。
 ただ、実際にその 「本質」 に至れるだけの基盤を確保できる人はまれで、「定年延長」 とか 「生涯現役」 とかとさらに 《命名》 され、 《商品である自分》 を維持し続けなければならないのも、広い真実であります。

 さて、今日も、「ハジメ」 という名で出
ゆくか。


 (松崎 元、2007年11月8日)

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