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第七部


世界終末戦争





第二十八章
崩壊する帝国(1942-1944)
(その4)



日本の英雄への報復

 裕仁の落胆のはらいせが連合軍捕虜のうえに注がれている一方、ルーズベルト大統領のほうは、自分の報復を実行しようとしていた。彼は、真珠湾攻撃作戦の立案者で、日本の海の英雄かつ空の天才である、山本五十六長官の暗殺を許可した(57)。山本長官が1943年4月18日に前線視察を行うとの旅程を、海軍通信員がその5日前、機密度の低い暗号で、全太平洋地域に打電した時、その暗殺のチャンスが訪れていた。
 その前年の4月18日、ドリットルが東京を空襲して以来、山本には、すべてが裏目に出ていた。日本の空軍力の総括者として、彼には神聖なる皇居の上空をドリットルが犯した事についての責任があった。そこでその反撃を加えるため、彼は米国艦隊に壊滅的打撃を与える計画を急いだが、ミッドウェイ海戦は不成功に終わり、再び、彼はその全責任を負うこととなった。そしてガダルカナルでは、彼の誇る霞ヶ浦出身の勇鷹たちでも、上達した米国空軍の技量とその数の上での優勢にはかなわないことが立証されつつあった。もはや彼には、裕仁に彼の申し訳を立てるいかなる言葉もなかった。ガダルカナル以来、山本は、アメリカの進軍を止めうるいかなる方策すら考えられなかった。
 1942年の最後の6週間に、ゼロ戦に対抗しうる初めての米軍戦闘機 「ロッキード・ライトニング」 が、南西太平洋地区に配備され始めた(58)。こうしたP-38機は、ゼロ戦との空中戦では、はるかに大型で重く、急旋回はできなかったが、その代わり、より高速だった。もはや米軍パイロットは、群れをなして、降下して加速をつけた場合のみ攻撃できる制約を受けなかった。ライトニング機は、水平飛行で、ゼロ戦から逃げ去ることができ、好きな時に反転してきて機銃掃射を加えられた。
 1941年、山本は、海軍を率いて米国に対する急いだ開戦に同意し、その望みを、ゼロ戦と、そしてアメリカ人はアジアにはたいした関心は抱いていないとの確信にかけて、アメリカは日本との和平協定に応じくるだろうことを切望していた。だがいまや、ライトニング機はゼロ戦を無力とさせ、加えて1943年1月半ば、ルーズベルト大統領は、北アフリカ、カサブランカで行われたチャーチル英国首相との会談で、山本の望みをことごとく葬り去った。
 ルーズベルトは会談後の記者会見で、 「ドイツ、日本、イタリアという好戦勢力の撲滅は、そうした三国の無条件降伏を意味する」 と宣言したからだった。
 山本は、裕仁も日本も無条件降伏はしえないことを知っていた。裕仁は、皇祖への聖なる誓いによってそれは不可能であり、日本国民は、自らの誇りとアメリカからの制限のない報復への恐れから、それはできなかった。
 山本には、窮余の策として、日本の陸海軍兵が死んでいっている南西太平洋地域の戦場における日本の制空権の再確保が求められた。ガダルカナルからの撤退の決定後、次の懸念はニューギニアだった(59)。その地では、1942年10月末、米とオーストラリア部隊が、ポートモレスビーからオーウェン・スタンレー山脈を越え始めており、同年12月から翌年1月には、反対側のゴナ、ブナ、そしてサナナンダの日本の橋頭保を次々と落としていた。オーストラリア軍は、その作戦で5千名以上、アメリカ軍は2千5百名以上、そして日本軍は1万2千名を失っていた。ことにブナでは、連合軍側は、この戦争でもっとも必死な戦闘のひとつを、ココナツ丸太造りの要塞に向け、草原の中をじりじりと前進していた。ポートモレスビーから筏に乗せて十数台の戦車が同島を迂回して運ばれてこなかったら、日本部隊はそこを永遠に確保できていたかもしれなかった。
 そのブナの攻落は裕仁を窮地に陥れた。彼は、参謀の誰もが辞任や自決をしないよう、おだやかに自らを表しながらも、1月9日の謁見のなかで、杉山参謀総長にこう叱責した(60)
 この裕仁の要請に応じて、1943年2月28日、ニューギニアの拠点を増強するため、6,912名の日本部隊が、8隻の駆逐艦に護衛された8隻の小型輸送船によりラバウルを出発した。しかし、3月2日から4日までの間のビスマルク海での戦闘で、ガダルカナルとニューギニアからの米軍機により、すべての輸送船は沈没させられ、8隻の駆逐艦のうちの4隻とともに、そのうちの4千名の部隊を失った。こうして死んだ兵隊のほとんどは、海上を泳いでいるところを、米軍機と魚雷艇による組織的な機銃掃射により虐殺されたものであった。(61)
 ビスマルク海での戦闘においては、16機のP-38ライトニングが40機のゼロ戦と対戦し、1万から3万フィート〔3千~9千m〕の高度にとどまらせたまま、自分たちもその高度で、ゼロ戦を 「殺しに」 にかかった。そのはるか低空では、米軍の爆撃機が、新たな 「スキップ爆撃」 という戦法――至近弾でも効果をあげられる――をもって、戦果をあげていた。B-25とA-20の両爆撃機は、日本艦の対空砲火が最も効果をあげにくい海面すれすれの低空飛行で襲いかかった。米軍の爆弾は、投下機が飛び去る時間をかせぐため、その信管は投下の5秒後に爆発するようセットされていた。そのため、爆弾が標的を外し海に落ちてもかまわなかった。そうした爆弾はそこで十分な威力をもって爆発し、船体の継ぎ目から水を噴出させ、ついには、その船を沈没に至らせた。
 高空でのP-38ライトニング機による機敏で電撃的な抑止行動と合わせた、低空での爆撃機によるスキップ爆撃は、その粗野ながら無駄のなさに、巧みな機銃射撃と正確な爆弾投下に熟達していた山本の精鋭操縦士たちをも、あっと言わせた。しかも、誰も、その米軍の新戦法に有効な対抗策を見いだせなかった。逃げ足の速いライトニングを追い回して無駄に燃料を消費して、ゼロ戦が基地へと引き上げたその後、スキップ爆撃機はおもむろに日本軍艦隊の料理にかかった。そうして艦隊のほとんどが沈められた時、ビスマルク海の戦闘は疑う余地のない、アメリカ側の勝利となっていた。
 裕仁は、ただちにその失敗の原因を知ろうとした。そしてまず、米軍偵察機に発見されたら、船団は、米軍機の航続圏外で、はるかに離れたニューギニア沿岸にある、最も近い日本の港であるマダンに向かうべきだったとさとった。そこで体勢を組み直し、時期をみて、援軍を必要としているラエに向けて、沿岸沿いに急ぐこともできたはずであった。夜間、一隻ごとに、河口から河口へと、着実に移動が可能であったはずだった。
 3月3日、まだビスマルク海の戦闘が決着する前、裕仁は杉山参謀総長を、そのように柔軟性を欠いた愚かな部隊派遣をとがめて言った(62)
 ビスマルク海の戦闘への天皇の不機嫌は、ただちに、カロリン諸島のトラック環礁にある連合艦隊基地にいる山本長官にも伝えられた。4月3日、大した期待はもてないものの、彼は自らおよそ300機のゼロ戦を率い、制空権を奪回するには何が可能かを見定めるため、ラバウルを訪れた。そこで彼は、ゼロ戦の精鋭操縦士を駆使して、ガダルカナルとニューギニアの米国基地に、100機から200機による攻撃を繰り返した。そうした大規模な打撃を加えることで、その地域での航空機数の劣勢を挽回し、撃墜率の引き上げをねらっていた(63)。しかし、米軍パイロットは、戦闘を早々と切り上げ、基地の後方のゼロ戦の航続圏の向こう側に逃げ去ることを恥じとは思わなかった。そうした米軍機は、空襲が終わると基地に戻ってきて、次の戦闘に備えた。
 日本軍の操縦士は、そのいら立ちを標的地区の艦船や地上施設への爆撃で晴らそうとしたが、本格的損害を与えるまでにならなかったばかりでなく、そうした長距離飛行に伴う通常の損失と比べると、それは割に合わなかった。受勲を誇る山本の42名の名操縦士が、そうした空襲の際、機体の故障や敵の砲火によって失われていた。彼らは、6隻の連合軍艦船を沈没させ、多くの米軍機を撃墜――米軍側の数字で25機、日本側の数字では134機――していたが、戦況を逆転させるに足る損害を与えるまでには至っていなかった。
 四回の大規模な空襲のうちの三回目の空襲――174機によるポートモレスビーのマッカーサー元帥の司令部への空襲――の後、山本は、自分の新たな戦略が失敗していることを覚っていた。4月13日の午後、空襲の最後の帰還機が明らかな失敗を報じた時、一通の電報が、米軍の通信傍受者がJN25と呼ぶ、通常の艦船用暗号によって打電された。それによると、山本が、ドリットル空襲の一周年の4月18日に、北ソロモン諸島の前進基地を視察する予定であると告げていた。それは、その日程を詳しく述べていた。曰く、ラバウルを午前8時に離陸、ショートランド島に10時40分到着、同島を11時45分に出発、1時10分、ブーゲンビル島ブインに到着、昼食、ブインを6時に出発、ラバウルに7時40分に帰着。その電文には山本の部下で現地空軍司令官の鮫島具重副長官の署名があった。5ヶ月前まで、鮫島は裕仁の海軍侍従武官長だった。彼は、その地での航空戦の行方を懸念する裕仁の意志として、ラバウルに配属されていた。(64)
 鮫島の電文が打たれると直ちに、山本はジョニーウォーカー二本をかかえ、彼の将校飛行士たちが催す地味な宴会に、自分みずから加わった。その夜は、日本人と朝鮮人の女600人を擁するラバウルの 「海軍慰問部隊」とのらんちき騒ぎとはならなかった。その飛行士たちは、質素な武道精神を胸に、それまでの空襲で命を落とした同僚の冥福を祈って乾杯した。下戸の山本だったが、いつもの禁酒の習慣をやぶり、そのお通夜のような席で、自らを酔いの世界に投じていた。やがて感傷的となり、海軍大学の1904年同期生の、生死を分けぬ全員に宛てた一通の手紙をしたため、同席した者に署名を求めた。(65)
 その手紙は現存していないが、そこに表された山本の態度は、その4日後に予定されている長官の前進基地の視察について、彼の士官たちをきわめて案じさせるものとなった。視察出発の前日の4月17日、山本は今村均中将と昼食を共にした。今村は、オランダ領東インドの征服者で、今はラバウル陸軍団の司令官だった。今村は、米国空軍の待ち伏せの危険を警告し、自分がブーゲンビル
で経験したかろうじての脱出の話をした。山本は、ゼロ戦6機の充分な護衛をつけ、南へと飛ぶと約束した。またその日の午後、山本の親友の一人の城島高次少将が、ブーゲンビルからラバウルへと飛んできて、視察を中止するよう懇願した。
 城島は言った。 「俺があのバカな電報を見た時、 『これは狂気の沙汰だ。まるで敵に招待状を送ったようなものだ』 と同僚に告げたぐらいだ」。(66)
 山本は、案ずる友人に穏やかに笑って応えたが、計画の変更はしなかった。
 死を招きながら、山本長官は、もはや自ら不可避と認める自分の経歴に汚点がつく前に、その頂点での終焉を求めていた。裕仁の元海軍侍従武官によるその軽率な艦隊電文が打たれたということは、彼は事実上、天皇の認可を受けたのも同然で、それは、戦士としての最後を飾るにふさわしい、戦場における死を保障するものだった。他の高位の日本軍将官なら、第二の名誉ある死、すなわち、苦痛をともなう切腹をさせられるかも知れなかった。だが山本の場合、もし彼が自分でそう行動するならば、敵の銃弾によって即座に死に至ることに、天皇の恵みが与えられていた。
 むろんこうした機智に気づくことなく、ルーズベルト大統領は、勇んでその役割を引き受け、山本に死を与える作戦を支援した。山本の視察日程は、オアフ島のワヒアワとアリューシャンのダッチハーバーの二か所の傍受局により、現地時間の1943年4月13日午後5時55分に受信されていた。その約5時間後、解読された電文はワシントンとハワイの海軍情報部の高官たちの手にあった。すなわち、ワシントン時間の午前5時、ホノルル時間の午後11時だった。ホノルルのニミッツ提督はベッドに入ろうとし、ワシントンのルーズベルト大統領は、目を覚ますところだった。
 ルーズベルトは通常、書類入れを開けるのは朝食の直後で、山本の視察についての解読情報も、読まれたとするならその時である。だが、彼がそれを読んだかどうかは、入念な研究者にも解決できていない問題である。敵の指導者を待ち伏せしたり暗殺したりするのは微妙な問題である。それは同種の報復を招くことにもなる。暗殺は、主要な国の諜報員にとって、それを実行するのは比較的容易なことのため、それを承認することを望む政治指導者はほとんどいなかった。
 海軍情報部副部長のエリス・ザカリアス大佐は、ルーズベルにいつでも接触できる将校で、山本暗殺計画が決定された後、数日間、姿を見せていた。ルーズベルトの朝食の6時間後のハワイ時間の午前8時2分、太平洋艦隊司令官のニミッツが朝食を終えた時、ハワイのザカリアスの部下のエドウィン・レイトン中佐が、緊急を要する件についてとして、ニミッツとの面会を求めた。彼は、提督の部屋に通されると、傍受電文の写しを示し、 「我々の古い友人の山本が」 と切り出した。
 ニミッツはうなずき、電文に目を通し、そして答えた。 「それで、何を言いたいのかね。彼を仕留めたいのか?」
  「我々は彼を捉えるに十分な航空機をもっているはずです」、とレイトンが返答した。
  「彼を殺して、何が得られるのか」、とニミッツが反問した。
  「彼は、大胆な戦略を考え出す唯一のジャップです。・・・天皇を別にして、日本には、おそらく彼以外に国民の士気をそれほど左右する男はおりません」、とレイトンが答えた。(67)
  ニミッツはうなずき、二つの質問を与えた。すなわち、日本の連合艦隊の司令官として、山本の後を継ぐべきより優秀で若い将官はいるのか。そして、日本がとりうる有効な反撃はあるのか。レイトンはその両方に、否、と答えた。ニミッツはただちに南西太平洋の司令官ハルゼー提督に、山本の視察をとらえ、彼を撃墜するチャンスがあるかどうかを決断するよう、命令を下した。その夕、ハルゼーの参謀がガダルカナルの飛行中隊長に問いただし、ニミッツは可能との返答を得た。そしてそれはワシントンにも伝えられた。(68)
 ワシントンの朝が動き始めて数時間後、海軍諜報部のザカリアス副部長は、海軍高官の中で、その暗殺に関して疑念をもっているのは、海軍長官のフランク・ノックスだけであることを知った。ノックスは、海軍法務長官からその行動の合法性について、教会関係者からそれが宗教的倫理にそっているかについて、そして、空軍大将のハップ・アーノルドからは作戦上の実効可能性について、それぞれ意見をきいてみるべきだと主張した(69)。そしてその全員が、この作戦が実行されるべきであるとのルーズベルト大統領に賛成であった。海軍諜報部のザカリアスは参謀たちに、国際的な暗殺、誘拐、そして脅迫の前例について、できる限りの資料を集めるように命じた。フランク・ノックスは納得し、4月15日までには、ガダルカナルの選り抜きの飛行士たちが、山本の 「永遠の熱望」 をかなえる準備に精を出していた。
 ガダルカナルへの実効司令は、極秘の機密度と 「大統領命令」 とのまれな格付けをもって、復讐作戦との暗号で発せられた。ガダルカナルの空軍司令官は、P-38ライトニングの編隊をその任務に配備し、ニューギニアのマッカーサーの兵站に、特製の補助燃料タンクを注文した。拠点基地から450マイル
〔720㎞〕の距離が正確な待ち伏せ地点と設定され、そこまでは、レーダー捕捉を避け、もっとも燃料を食う、低空で飛行せねばならなかった。パイロットたちは、水平線に向かって飛行し、眼下の輝く海面には目をやるなと警告されていた。さもないと、反射する太陽光で目がくらみ、水の壁に突っ込んでしまうかもしれなかった。(70)
 それは、成功しそうもない作戦だったが、それを聞いたガダルカナルのパイロットたちはみな、その参加に志願した。そのうち18名が選ばれ、ジョン・ミッチェル少佐の指揮のもと、任務についた。そのうち14機は援護にあたり、4機が殺害役となった。殺害機の一機は離陸の際、地面に衝突した。残りの17機のP-38ライトニングは、30フィート
〔9m〕の高度で北に向けて飛行し、その途上、あらゆる島からの視界を避けた迂回したルートをとった。
 そうしたライトニング機のパイロットは、山本が北方から到着すると予想される2分前の午前9時33分、ブーゲンビルの上空で、海面から西方へと上昇した。米軍機の飛行士は、薄い雲から頭を出している島の山頂をみやり、計画ではたやすく見られたことがにわかに甘い見方に思えてきていた。たとえ山本の機が予定通りに到着したとしても、それが着陸する前にそれを見つけ、撃ち落とす可能性はきわめて薄いように見えたからだった。(71)
 その時だった。援護機のパイロットの一人、ダッグ・カニング大佐が、3マイル
〔4.8㎞〕先の暗い山々の背景の中に、きらりと太陽光を反射した翼の一部を発見した。彼は無線沈黙を破り、かすれた声で、ほとんどささやくように言った。 「11時方向遠方に敵機」。
 その後一瞬、混乱が走ったが、3機の殺害役ライトニング機が高速で降下してきて、仰天しているゼロ戦をあっという間に追い越し、二機の参謀搭乗爆撃機に襲いかかった。その交戦はあまりに短く――5分以内――、米軍の援護機は上空から見守るのみで、加勢する必要はなかった。危険を察知して、その二機の爆撃機は高速で下降し、ジャングルのこずえすれすれで、別々の方向へと分散した。両機は、新型の一式陸上攻撃機で、武装は取り去られており、4,600マイル
〔7,340㎞〕の航続距離をもつためのエンジンと燃料を搭載していた。それはあまりに大型で、よく火災をおこすため、乗員は 「空飛ぶ葉巻」 と呼んでいた。
 殺害役ライトニング機はただちにそれらを追尾し、それを遅れたゼロ戦の群れが必死になって追った。山本長官は、頭蓋骨下部を貫通した機関銃弾でほとんど即死だった。それは彼の予想を越えた早さだったろう。彼の搭乗機は、十人以上の乗員と客員とともに、ジャングルに墜落し、燃え上がった。生存者はいなかった。もう一機の爆撃機は、海岸先の海に着水した。3名の乗員が奇跡的に生き残った。操縦士、山本の主計官、そして彼の参謀長の宇垣纏中将の3名であった。この宇垣中将は、1920年代に裕仁のために軍を粛清し、また1930年代には、三月事件で汚名を着せられた宇垣大将の弟であった。山本の側近として、宇垣ただひとり、軍神の死を語るために生き残ったのであった。
 米軍のライトニング機のパイロットたちはガダルカナルに帰還し、誰がどれを撃ち落としたかを主張し合った。彼らは余りに有頂天になり過ぎ、米軍の暗号解読方式が危険にさらされたとして叱責された。そして勲章を授与され、本国に送還され、そこで沈黙した。3年以上もたった戦後になって、彼らの話が公にされた。そうではあっても、この件についてのホワイトハウスの関わりについての全文書は、今日においても機密扱いのままになっている。少なくとも国際的交戦倫理に反するため、ワシントンは公式に秘密を守り、大なり小なり、無期限にそのままにしておかれるであろう。
 ワシントンよりのいかなる報道発表をも無視して、東京は山本の死のニュースを、兵士がジャングルを切り開いて機の残骸に到達し、黒焦げの遺体を確認するまで、34日間にわたり発表しなかった。しかし、彼の死を誰もが疑わず、裕仁もただちに報告を受けていた。木戸内大臣は、その待ち伏せ攻撃のあったその朝、天皇自身の口から、その気の滅入るニュースを聞いた。木戸はその日記に、 「衝撃と痛恨を感じた」 と記録した(72)
 特にブーゲンビル司令部が志願者をつのってそのために組織された一団が、山本の遺体をブインの日本軍基地に運んだ。そこでなきがらは火葬にふされ、その骨は白木の箱に納められ、日本へと送還されるため、戦艦武蔵に載せられた。5月21日、武蔵が横浜に入港した時、東京のラジオ放送は、 「山本は戦闘機の中で勇敢な死をとげた」 と伝えた。それから2日間にわたり、最後の敬意をささげるため、日本中の海軍将校が武蔵を訪れ、列をなした 5月23日、遺骨は葬儀列車に載せられ、東京駅では、あらゆる閣僚、主要官僚、宮廷関係者をふくむ、数千人の群衆による出迎えを受けた。
 それからの13日間、その遺骨は、皇居北門の外にある戦没者をまつる靖国神社にまつられ、葬儀がとりおこなわれた。遺骨の一部は、彼の生まれ故郷の新潟県長岡に埋葬するため、彼の妻にたくされ、他の一部は、彼の妾の芸者、河合千代子が仏壇に納めるためにわたされ、また別の一部は、公式の山本の葬儀のためにとっておかれた。
 明治維新以来、天皇が国葬を認可したのは十一回のみで、うち十回は、貴族か皇族のものであった。平民に対して許されたのは、1905年にロシア艦隊を破り、その後、裕仁の教師陣の主任となった東郷平八郎大将ただ一人だった。山本大将は、日本史上で二人目の国葬にされた平民であった。(73)
 葬儀の前には、山本の最後の瞬間について、それが名誉に値するかどうかを明白にするため、念入りな調査がおこなわれた。その調査によって、その真珠湾の英雄は、その最期の機に搭乗する直前、上質和紙の一巻を副官に渡していたことが判明した。それには、40年前に明治天皇によって詠まれた歌が彼自身の力強い筆使いでしたためられていた。山本はそれを、彼の運命の旅程を打電した鮫島中将――その前年十月までは天皇の海軍侍従武官長だった――に渡すように、副官に頼んでいた。その歌はこう詠われていた。
 さらには、山本自身がつくった詩が、彼が司令部を置いていた64,000トンの戦艦大和の彼の部屋から見つかった。それは、三十一文字の短歌の形をとらない、長い完結していない自由詩であった# 8
 その詩にあるような感傷にもかかわらず、調査に通って、1943年6月5日、平民山本は、最高の名誉とともに、国葬をもってほうむられた。この日付には意味があって、一年前に、山本がミッドウェイにおいて敗北して撤退した記念日であった。1500名の公式の弔問者や百万とも見積もられた群衆が、皇居南の日比谷公園とその周辺を埋め尽くし、追悼演説を聞き、白木の遺骨箱が最後の安らぎの場に納まるまでの葬列に加わった。その道中、海軍軍楽隊は、山本自身が選んだ有名なショパンのピアノソナタの葬送行進曲を演奏した。葬列は、込み入った市街を通りぬけて、東京西部の多摩川墓地に達し、もう一人の軍神である平民東郷の墓のとなりに新たに建立された墓に、国の取り分のその遺骨が埋葬された。
 裕仁は、その葬儀には参列するのが許されなかった。というのは、 〔そうした平民の葬儀は〕 国家の最高司祭としての彼を汚し、彼に込み入った浄めの儀式をなすことを必要とさせるからであった。しかし、木戸内大臣は、皇位の代わりに山本の葬儀に参列し、 「深い空しさ」 の気持ちを伝えた(76)。裕仁はすばやく連合艦隊に使者を送り、海軍の士気の維持につとめた。翌日の6月9日、広島港に停泊していた戦艦陸奥(38,900トン)の弾薬庫に事故が発生した。これまでに沈んだどの戦艦よりも大きな軍艦が爆発し、一瞬のうちに沈没してしまったのである。この惨事で艦内にいて生き残った水兵はほとんどおらず、それがスパイ行為によるものか、それとも艦隊員の抗議行動かをめぐって、海軍憲兵隊と特高警察が捜査に乗り出した。しかし、何ら明らかになることなく、二週間たった6月24日、裕仁は艦隊を訪れて弔意を表し、また、前線から負傷して帰還した将兵を慰問した。



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