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第二十二章
対ソ中立化工作 (1936-1939)

(その4)


泥酔したスパイ首魁

 木戸侯爵と西園寺公一との最も後の会見の三ヶ月前、日本の外務省は東京駐在のドイツ大使館駐在武官のオイゲン・オット――1933年、日独防共条約について東久邇親王と事前の交渉をした人物で、1934年、ソ連のスパイ、ゾルゲの知人となった――が、ドイツの次期駐日大使となると通知された。そして1938年4月28日、オットは大使に着任した。彼はさっそく、ゾルゲを非公式ながら相談役の地位で採用し、ドイツ大使館の中に彼自身の部屋を与えた。(79)
 ゾルゲは直ちに、オットそして同時に自分自身のために、ひとつの行動を開始した。彼は、オットのために一封の情報をマニラのドイツ人に届け、さらに、別の自分の情報を香港のソ連スパイに届けた(80)。五月の初めに日本へ戻った夜、ゾルゲは自分がドイツ大使館に潜入しえたことを祝って、東京のなじみのバー、ラインゴールドで酒盛りした。午前2時にそのバーを出て、さらに帝国ホテルの友人の部屋で、スコッチを丸一瓶空にした。ひと時して、飲み友達たちはもう、彼のオートバイに同乗してさらなる冒険に繰り出しそうにもないので、ゾルゲは一人で帰路についた。彼は日比谷公園脇を東へ爆音をあげて走り、そして外堀通りを北上した。
 次の交差点に差し掛かった時、満鉄ビルの先で左折して未舗装の曲がった道に入り、爽快さの余り、かなりのスピードでアメリカ大使館に向けて坂道を登った。その際、カーブする上り坂の砂利道にハンドルをとられ、彼のバイクは横滑りに大使館の分厚い漆喰の壁に衝突した。彼は前歯を折り、顎を骨折し、頬に一生残る傷跡をつけた。日本の警察の行き届いた措置で、彼は無線技師のマックス・クラウゼンに会え、そして、車いすで病院に運ばれた。クラウゼンは彼の家に忍び込み、処理にあたるドイツ通信社の担当者がリストを作って梱包してしまう前に、物議をかもす恐れのある書類をすべて運び出した。
 リュシコフ大将が亡命してきたのは、ゾルゲが東京で最も近代的な聖路加病院――米国聖公会教会が経営
〔著者バーガミニの父親が設計〕 ――に入院中の時だった。ドイツ大使オット夫妻は、療養中のゾルゲの面倒をよく見、リュシコフの件の経過を詳しく伝えた。六月末から七月初めにかけ、ゾルゲは、赤軍の第四部、すなわち諜報部に、ドイツ側に明らかにされた限りの情報を伝えることができた。七月の最後の週、ゾルゲは、天皇裕仁から木戸へ、木戸から西園寺へ、西園寺から尾崎へと、次々に四人の手をへた情報をソ連側に伝えた。それは、 「日本」 は、戦争をしかけず、ハサン湖事件を鎮静させるだろう、というものであった。


ハサン湖叛乱事件(81)

 だが、ゾルゲのクレムリンにおける信用が、大きく損なわれることとなった。裕仁の目論見をみごとにも無視して、ハサン湖の日本軍は事件の拡大を図ったからだった。7月29日、記録に残るただひとつ唯一の陸軍の天皇命令不服従となったのだが、第19師団は、ハサン湖のソ連軍陣地に全面攻撃をかけた。湖の背後の高地の日本軍の大砲は、夜を徹して砲撃を加え、ロシアの国境守備軍は塹壕に釘付けにされた。その後の数日で、日本軍は丘の斜面を数百メートル前進したが、ソ連軍の戦車と激しい空爆によって押し返された。朝鮮の日本の航空隊は天皇の命令に服従しており、空からの支援をしなかったばかりか、8月8日以降、ソ連空軍が前線背後の朝鮮軍の基地を爆撃し始めても、飛び立とうともしなかった。
 外務省は、モスクワでの交渉を始め、譲歩を要求して日本陸軍の面子を作ろうと図った。だが、交渉が続いている間にも、命令違反の第19師団の将兵たちは手痛い損害を加えられていた。陸軍次官の東条の差し金で、8月1日、同師団の4連隊のうちの2連隊の司令官が、二人の大佐――戦闘中止に従うよう命じられていた――とすげ替えられた(82)。その
二大佐のうちの一人は、女スパイの東洋の宝石の愛人、田中隆吉大佐――東京戦犯裁判で米国キーナン検事の主力証言人となる――だった。もう一人は、朝香親王の元参謀の長勇大佐――南京強奪の際、捕虜全員の殺害の命令を発し、この数年後には、沖縄の洞窟で最後の抵抗をした――であった。この二人の天皇の狂犬は、ソ連の戦車に肉弾攻撃をかけるよう兵士にけしかけ、その信用を博していた。また、戦闘中のある追い込まれた局面では、二人は、土嚢の壁に上に立ってズボンを下ろして尻をさらし、意気消沈気味の大尉や少尉に、日本の指揮官はいかに大胆かつ勇敢に砲火に立ち向かうかを示して見せた(83)
 戦闘は、7月29日から8月10日まで、全力戦ともいうべき激戦となった。日本の第19師団は、ほぼ一万人の犠牲者をだし、ソ連側もさほど変わらなかった。しかし、ソ連軍は、戦車や航空機で支援され、8月11日に外務省が既存状態に戻ることで合意した時には、位置を前進させていた。
 日本の撤収はゾルゲの情報の正しさを証明し、日本との戦争は不可避なものではなく避けえるものとのゾルゲの見解を、スターリンも採り上げることにもつながった。停戦一ヶ月後の1938年9月、ベリアの秘密警察は、シベリアの司令官ブルッヘル大将――亡命したリュシコフの後援者で日本を日露戦に駆り出そうとしていた――を拉致した。そして一ヶ月後の十月、ゾルゲは、リュシコフへの尋問を手伝うためベルリンが送ってきたヒムラーの部下による最終報告書を、ドイツ大使館員から借りた。翌日の朝6時から10時まで――通常は、オット大使に報告するため、その日の日本のニュースの抽出やその解釈をしていた――、ゾルゲは、大使館内の自分の部屋で、その百ページ余りの書類を読み、モスクワに送るためにライカ
〔ドイツ製カメラの名称〕 でその大半を撮影した(84)。数ヶ月後、シベリアの司令官ブルッヘル大将は、べリアの地下牢で死んだと報じられた。


勝利の詰め

 ハサン湖での戦闘の敗北は日本陸軍の汚点となり、裕仁はただちに、その面目回復をはかるための譲歩を実施した。停戦直後の8月、彼は、参謀本部の提案――その翌年、モンゴルの人里離れた要塞地帯で想定される対ソ軍事行動を、さらに進めて公認の計画とする――に許可を与えた。ある航空隊大佐には、さっそく、その戦いが発生するとされる地域の詳しい地図が与えられ、必要となるであろうその地形と作戦方式に合った空対地通信を考案するように指令が与えられた。
 ハサン湖事件の停戦から7週間後の1938年9月30日、英国首相のネヴィル・チェンバレン――有名なミュンヘン 「宥和」会談で、こうもり傘を振り回していた――は、ドイツが求めるチェコスロバキアのズデーテンと呼ばれるドイツ語地区の帰属をヒットラーに認めた。そしてヒットラーが、チェンバレンが認めた譲歩を現実化するためにチェコに侵攻すると、裕仁は中国の南部沿岸を掌握する作戦――一年前の米国海軍のパナイ号の沈没後、中止されていた――を再び開始した。日本軍は、1938年10月21日、バイアス湾の旧海賊領地
〔訳注〕 に上陸した後、南中国の主要都市、広東に侵入した。
 四日後の10月25日、岡村寧次中将――バーデン・バーデンの三羽烏の一人――は、聖山の廬山を過ぎ、中央中国の主要都市漢口を掌握する、揚子江を遡上する六ヶ月の作戦を終了させた。こうして、北部の北京や天津、東部沿岸の上海、広東、そして漢口という、中国のもっとも人口の多い五都市の掌握計画が完了し、それらすべてが、今や、日本人の手に握られた。裕仁はしかし、こうした五都市を結ぶ鉄道を使用可能とし、そうした都市の港湾施設を完全に使用することを以外、中国におけるそれ以上の野望は持っていなかった。
 枢密院、内閣、参謀本部のいずれもが、対中国戦は占領地区の維持作戦となることについて、裕仁に同意していた。つまり、限定的な作戦目的の達成、あるいは、未経験部隊のための訓練作戦の展開以外に、攻勢は取らないということだった。1938年4月、そのように制約をもった中国占領計画が最初に裕仁の許可を得た時、12万名の新兵による六個師団が新設された。この新六個師団は、中国の守備任務を果たすべく派遣された。そして、そうした新兵が経験を積んだ時、数年後に予想される、いっそう重要な命令を実行すべく、他の地域に派遣されるはずだった。しかし、1945年まで、中国戦線は、日本の戦略政策にとっては、誤算につぐ誤算となるのであった。
 1938年12月16日、近衛首相は中国での経済開発を指揮統一するために、興亜院を設置した。南京での略奪行為をほしいままにした顔の広い鈴木貞一が ――今や少将に昇進――興亜院の政務部長
# 10に就任した。彼は、自分の部の経済的使命を、中国各地方の日本占領地に蒋介石に置き換わるにたる、中国人による傀儡政府を打ち立てることとした。
 二日後の12月18日、数ヶ月にわたった 〔日本との〕 秘密交渉が結実し、汪兆銘――国民党の副総裁で、蒋介石の右腕――が重慶飛行場から内密で飛行機に乗り、フランス領インドシナのハノイへと飛んだ。彼はハノイから蒋に電報を送り、アジアのために日本に合流すべきだと説得した。と同時に、彼は東京とも無数の電報を交わし、自分が日中間の問題を解決する政権を樹立した時には、東部中国を治める地位が保障されるよう求めた。(85) 
 数週間後、汪兆銘のベッドで寝ていた男――様々な筋からの報告によれば、中国の秘密工作員で日本のスパイ活動についていた人物――が暗殺された時、汪の電報のやり取りが中断した。自分の護衛の死に恐怖した汪は、日本の陸軍諜報部が用意した小型蒸気船に乗って海上へと逃れた。彼の船は海上で嵐に会って進路を失ったが、彼は日本の大型巡洋艦によって救助された。そして彼は、日本占領下の上海に連れてゆかれ、充分かつ厳重な護衛のもと、三つの屋敷を転々としながらかくまわれた。その後15ヶ月間にわたり彼は蒋介石と連絡を交わし続け、1940年3月、中国における日本の操り人形になることに同意
〔南京国民政府の設立〕 する。
 1938年12月22日
# 11、近衛首相は、その二日前の汪兆銘のハノイ到着を充分に計算に入れて、日本が東亜新秩序――日本の先導のもとに、アジア人民は自民族の誇りを自覚し、西洋の植民地の拘束から解放される――に寄与すると公に発表した。
 それと同時に、近衛は、日本の新政治体制を公表した。それによると、国民は天皇のもとで一丸に結束し、すべてのアジアの人民の解放のための 「聖戦」 を遂行するために無私の努力をもって協力するとされた。近衛には、ソ連の共産党、あるいは、ドイツのナチ党に相当する、挙国一致のための単一政党という計画があった。ただ、彼の公表はあまりに冷ややかにしか受け取られなかったため、実際にその単一政党が新たに発足するのは、ほぼ二年後の1940年10月であった。
 新政治体制の草案は、尾崎秀実――近衛の頭脳集団の一員で、西園寺公一とソ連スパイのゾルゲとの間をとりもつ連絡員――によって起草された。そしてゾルゲが尾崎に、そう提案をしながら尾崎は何を考えているのかと問うと、尾崎は、日本が社会主義国になる日を待ち望む、と返答した。だが尾崎は、それは、天皇のもとで相互に共有し合う国を意味する、とは言わなかった。もし言ったとしても、ゾルゲは、そうした日本的な感覚を理解はしえなかっただろう。(86)
 1938年12月の組織整理の際、裕仁は自分の頭脳明晰な二人の軍略家、石原寛治少将――7年前、満州攻略の計画を立てた神道信者――と東条英機中将――1936年の2・26事件が関東軍の将兵に広がらないよう防止した――に 〔対照的な〕 配置転換を行った。というのは、その年の秋、東条は時機が熟した時のために北方および南方の両面戦に臨む陸軍態勢を唱導した。また石原は、軍事攻勢政策はとらず、既存の日本の占領地を統合する使命に立ち、占領地域の住民と平和的関係をつくることを主張した。この両者間の確執が新聞紙上にまで現れるようになると、裕仁は、二人を辞職させるかに見せかける、巧みな采配をふるった。彼は、関東軍参謀次官である石原を、地方 〔舞鶴〕 要塞の司令官へと付き落とす一方、陸軍次官の東条には、新設の陸軍航空隊の監察長官という意欲をそそられる機会を与えた。東条はまた、近衛首相の新政治体制の一環として新設された会議や委員会の少なくとも19の地位に就くことで、勢力の拡大とともにおおいに自らの満足とした。
 東条の役職を見るだけでも、いかに近衛が日本を全体主義への道へと進ませたかが判明する。その東条の肩書を挙げれば、日満経済委員会、中央防空委員会、満州問題会議、内閣情報及び内閣企画会議、科学評議会、中央物価委員会、船舶統制・電力・都市計画・家内工業・自動車製造の各委員会、製鉄査定委員会、傷兵保護院、海事評議会、航空企業検査委員会、国家総動員委員会、教育統制評議会、そして、液化燃料委員会。



ヒットラーの最初の悶着


 年が暮れ、1939年新年早々の1月4日、近衛親王は首相を辞任した。彼は、将来のために自ら計画した挙国一致政党を形成するに当り、必要な信義が得られるよう、譲歩、調停、買収のための交渉に、自分の全エネルギーを投じてきたが、18ヶ月間の政権にあって、疲れ切って心気症に悩まされていた。(87)
 裕仁は、その後任に平沼男爵を指名した。彼は、面長の法律家で、堅固な右翼団体、国本社の会長をつとめ、六年半後、宮廷の防空壕での降伏をめぐる御前会議では、裕仁のスポークスマンであり、かつ、彼に諫言を呈する役を果たした。強固な反共主義者としてよく知られた平沼なら、北進派――約束されたソ連への軍事進攻が裕仁による度重なる延期によって不満をつのらせていた――の復活を抑えられるかも知れなかった。さらに、仮に、ソ連への侵攻が実行されしかも不成功に終るべきだとするならば、平沼であるなら心置きなくその扇動の責任を負わせることができた。
 平沼は、内政面では、前首相が打ち出した計画やスローガンを何ら変更しなかった。 「国家総動員」 した 「国防体制」 は、財閥を次々にその歯車として組み込んで拡大していた。新体制は、委員会あるいは会議ことに、官僚体制を強化していた。近衛は、身を引いた後も、政界への強い影響力を行使していた。
 海軍は、平沼の後押しを得て、南シナ海の二つの戦略港を掌握することで、南進への準備を進め始めた。1939年2月10日、裕仁の末弟の高松親王は、南中国沿岸の最南端に位置する海南島――メリーランド州とデラウエア州の合計より広い島 〔面積約3万平方km〕――の泥の干潟に上陸中の帝国海軍陸戦隊を、戦艦の船橋から視察していた
# 12。その後の三日間、高松親王は海軍機に乗り、その大きな島が完全に掌握される様子を偵察飛行して確かめた。(88)
 一ヶ月後の1939年3月、日本海軍は秘かに、フランスが領有を主張していた南沙諸島 〔当時日本は新南群島と呼んだ〕 の四島――南シナ界のフィリピン、インドシナ、ボルネオのいずれもからほぼ同距離に位置し、無人島だが戦略上重要――を占領した。日本はただちにそれらの島を、地図作成――ボルネオ島沿岸の詳しい地図はなく、また、ミンダナオ島やベトナムのスパイ団に無線機や技師を運んだ――に当たる水上機の基地として使用し始めた。その島々の存在は、数年前に、裕仁の皇后の親戚の一人がその島々に生息する鳥の研究を実施したことから、裕仁の関心を引いていた。
 裕仁が東南アジアにちょっかいを出している間に、ヒットラーは、チェコスロバキアの残されていたモラビアとボヘミア地方の部分を呑み込んでいた。そして1939年3月末、他国の反応を観測するため、一時動きを停止した。そして彼は、今度は西に転じてフランスや英国に向かったが、まず、自分の背後のロシアを固める必要があった。そこで彼は、ポーランドの半分をロシアに対する緩衝地帯とするため、残りの半分をロシアに分け前として譲った。この分け前を交換条件として、スターリンとの間で、不可侵条約を結ぶつもりであった。だがスターリンには信用がおけず、ロシアのクマによってその背後を襲われる事のないよう、ヒットラーは、日本が第三帝国の側について戦う確証を必要とした。そうしてヒットラーは、リッベントロップを通じ、独伊日の三国による条約――もし、そのいずれかの一国がロシアもしくは西ヨーロッパの民主主義国と敵対した場合、その三国の全てが戦争に入る――を締結するように、日本に求めてきた。(89)
 裕仁は、北進派とのそれまでの関係がゆえに、ドイツとは、ことにロシアに対するものであるならなおさら、全面的軍事援助を約束することを拒んできた。フランスや英国との戦争の約束についても、しばらくの間は同様で、考慮の対象外だった。海軍の計画では、1941年まで、望ましくは1942年まで、太平洋で欧米強国を相手に交戦する準備は完了しなかった。1922年以来、裕仁がことさらに準備してきた海軍増強計画は、まだ欧米製の資材や機械装置の輸入に依存していた。従って、もし日本が、それがたとえ短期であっても、太平洋地区での先進海軍力となるためには、マラヤのゴム、そして、ボルネオの石油を手に入れ、欧米よりの輸入から自らを脱却させておかねばならなかった。そうした場合においてのみ、日本はそれらの民主主義諸国との開戦が可能であった。
 世界を相手とするファシスト諸国の東京・ベルリン・ローマ枢軸へのヒットラーの緊急な要求は、まだ準備途上の日本にしてみれば、辛抱強い数年の後になされるべきもので、まだ時期尚早なものであった。一方裕仁は、ベルリンに信頼に足る密使を据え、ドイツ軍の力量について充分な情報を入手していた。つまり裕仁にとっての懸念は、もしヒットラーがオランダとフランスをただちに征服した場合、ヒットラーが味方かあるいは敵となるかによって、オランダ領東インドやフランス領インドシナが日本に与えるかどうかが左右されることであった。
 ここでいま、ヒットラーの側に付くかどうかは、日本の良き友人になりえたかもしれぬ国の側につくことを拒んでそれらを遠ざけ、慎重に準備してきた国家計画を台無しにしてしまうかどうかの瀬戸際を意味し、裕仁は苦悶にもだえていた。1939年4月、彼は木戸に、いま自分が面している決断しだいでは、その皇位の命運を左右する、と打ち明けた。もし決断を誤れば、いつの日か、 「自分のもっとも貴重な家臣や老練政治家から見放され、弧絶の淵に取り残される」 と、彼は自らを予想していた。そして、他策がないかを考えると、眠ることもできない、とこぼしていた。
 陸軍は裕仁に、ヒットラーとの条約に署名するようすすめ、他方外務省はできるだけ時間をかせぎ、交渉を長引かすことを助言した。米内海相――後の降伏決定の夜、裕仁とともに防空壕に集った一人――は、海軍は目下の増強状況では、たとえ英国艦隊を相手にするだけでも、太平洋での勝利は期待できないと淡々と自説を述べて話の腰を折った。
 1939年4月24日月曜日、リッベントロップは、ベルリン駐在日本大使の大島中将に、次のような不気味な示唆を与えた。即ち、もし日本がドイツの側に付く明瞭な決断を下さない場合、ドイツはソ連との関係を改善させるよう強いられることとなろう。その日の夕、自分の最も信頼する顧問たちから問われて裕仁は、日本をいかに関わらせてゆくかの最終的な決断を行った。すなわち、裕仁がヒットラーとの全面的な軍事同盟を受け入れるには、二つの条件を付ける。すなわち、第一に、同盟条項は民主主義諸国には秘密とし、第二に、日本の第二次大戦への参戦は、ドイツのそれに直ちに必ずしも従うものではなく、日本の軍事力が整いしだい、すみやかにかつ誠意をもってなされるものとする、というものであった(90)
 4月25日火曜日、内閣の五閣僚会議が開かれ、こうした裕仁の決定を承認した。それは、もしヒットラーが裕仁の条件を受け入れなかった場合、ドイツとの交渉は打ち切られ、日本は、それがたとえ何十年かかろうとも、自力で行動するに充分となるまで待たねばならないとすることを、全員が賛同したものであった。ある内閣官房は、ドイツは、自ら 「大声を出す」 ことで、民主主義諸国を再武装に押しやり、すべてが台無しになってしまうと沈鬱に観察していた。
 東京駐在ドイツ大使のオットは、裕仁の決定を、東久邇親王のバリ時代の助手、町尻中将――現職は陸軍省軍務局長――から知らされた。町尻は宮廷付きの侍従武官として数年にわたり裕仁の身近に仕えてきた。それをよく知るオット大使は、4月26日水曜日――外務省より裕仁の決断を公式に知らされる9日前――、彼の分析をベルリンに打電した。それと同時に、オットは、ジャーナリストを名乗る自分の顧問、実はソ連スパイのゾルゲと、目下の状況について協議していた。
 ヒットラーは、オットからの知らせに立腹し、裕仁の条件を即座に拒絶した。そしてリッベントロップに、ロシアとの不可侵条約条約の締結交渉を直ちに進めるよう命じた。東京とベルリンの間では、その後四か月にわたり頻繁なやり取りが交わされたが、総督は日本の煮え切らない対応をことごとく突っぱね、また裕仁は、ヒットラーとはまだ同盟を結ばないとの決断を断固として譲らなかった。
 ヒットラーの立腹やリッベントロップの対ロシア交渉開始の報告は東京にも届き、裕仁は、ドイツの信頼度をテストする決意を固めた。日独防共条約は、日本がソ連と敵対関係に入った場合、ヒットラーに兵力以外のあらゆる支援を裕仁に与える義務を課していた。そこでドイツが、そうした敵対関係が進展している時に、もしビールのジョッキとウォッカのグラスを盛んに交わしているとしたなら、信義の明らかなる違反をなすものであった。もはや、北進を達成するための手段として独日同盟を提唱するものは、完全に影をひそめ、沈黙に徹していた。そうした結果、ソ連の祝日である5月1日かその前後に、裕仁は、閑院参謀総長に、外蒙古でソ連との限定的国境紛争を起こす計画を実行に移すよう指示した。またベルリン駐在の大島大使は、リッベントロップに、こう進言するよう、指令を受けていた。すなわち、この紛争は、ドイツ軍がポーランドの半分を確保している時、中央アジアでソ連軍を釘付けにする意味も持つもので、ドイツに有利な行動である。(91)


ノモンハン(1)(92)

 1939年5月11日、内蒙古の日本の傀儡族長の旗の下に、二百騎のバルグート族の騎馬隊が、奉天の北西500マイル 〔800km〕 の満州国、内蒙古、外蒙古の三国境の交わる地点の付近地図参照〕で、国境を越えて外蒙古のソ連の保護領に侵入した。バルグート族には、関東軍の一部をなす第23師団の巡察隊と顧問が随伴していた。越境部隊は、外蒙古のチリク族のパオや羊囲いの点在するノモンハン村まで、約15マイル 〔23km〕 ソ連領内に侵入した。村民は直ちに、ノモンハンからさらに奥におよそ5マイル 〔8km〕 入ったハルハ川西岸でソ連政府の前哨をしている親族の保安官にその侵入を通報した。翌日、ハルハ川岸の砦のチリク族部隊が出撃し、バルグート族を国境まで押し返した。
 5月14日、内蒙古の部族が再び、日本の正規部隊の二個中隊の支援をうけて、武力をもって侵入した。侵入部隊は、国境とハルハ川の間の20マイル
〔32km〕 の帯状地帯からチクリ族を追い払い、その日が暮れると、チリク族保安官のいる前哨の対岸に野営した。その夜、チリク族は、その地区のロシア人軍事顧問のバイコフ少佐に急報した。翌朝、バイコフ少佐が装甲車でその前哨地に駆けつけると、そこは修羅場と化していた。日本軍の五機によって爆撃され、機銃掃射された後だった。少佐は直ちにウランバートルの第六蒙古騎兵師団に電話し、赤軍正規軍の分遣隊の出動を要請した。5月18日までに、彼は大量の自軍をハルハ川に西岸に結集させると、東岸のバルグート族と日本軍は、野営を解き、撤収した。


ヒットラーの冷ややかさ

 ヒットラーは、中央アジアでの紛争発生を聞き、裕仁が彼に日独防共条約をたてにとり、ソ連との取引きを止めさせようとしているとは認識した。だがヒットラーは、その手に易々と乗る男ではなく、その日本の動きを、自分に有利にすり替える策に出た。すなわち 〔目下の情勢は〕 、スターリンが、相互不可侵条約へのドイツからの打診に慎重な反応を示すと同時に、ロンドンとは英ソ同盟の可能性について協議していた。さらにスターリンにとっては、日独防共条約と、日独を相手にした二つの戦線を持つ脅威のみが、英国との交渉開始を左右するに充分な要件だった。
 それゆえに、ヒットラーは日本大使の大島少将に次のように冷ややかに通知した。日本軍はいずれもの西洋諸国と連携を結べる力がなかったがゆえに、中央アジアにおいてソ連軍と戦端を開くしかなかったのであろう。ヒットラーは、そう日本を冷たく扱うことで、日本人の顔に泥を塗った(93)。そして5月22日、彼はムッソリーニとこれ見よがしに全面的軍事同盟を締結し、日本の参加の利益を抜きにしても大いに有望となったローマ・ベルリン枢軸を確固とした。そしてその翌日、ヒットラーは、配下の最も信頼できる14名の陸海軍の大将に、年内中に英国との戦争に備えを終え、また、独日関係はいまや 「冷ややかで信頼を欠く」 がゆえに、 〔ドイツと〕 ソ連との中立は 〔日本との関係で〕 必須要件ではないと訓示した。
 裕仁の微妙な思慮は、こうして、芝居じみた振る舞い、あるいは、情勢の見誤りのいずれかを原因として、かえりみられることはなかった。すなわち、日本が、シベリアの弱点である蒙古への探り作戦の実施によって、ソ連を 〔対独上〕 中立化へと傾けたがゆえに、ヒットラーには大いなる利益となり、日本への恩義を抱いたはずであった。


ノモンハン(2)(94)

 5月22日の夜、ベルリンの首相官邸において、ヒットラー・ムッソリーニ間の新軍事同盟についての演説が延々と続いている時、ノモンハン地区のソ連軍地方指揮官のバイコフ少佐は、偵察のために、自軍のかなりの部分を移動させてハルハ川を渡った。そして夜を通じて、注意深くながらノモンハンの牧草地を東へと進んだところで、突然、バルグート族と日本軍による攻撃を受けた。夜陰の中での激しい白兵戦の後、バイコフ部隊は包囲され、川岸まで追い詰められた。
 5月25日、バイコフは全力をあげて反撃し、ノモンハンを奪回した。5月27日、自軍に一万を超える東岸の蒙古警備軍、さらに二個中隊のソ連軍機関銃部隊と45ミリ砲兵一個中隊を加え、バイコフは、自軍の司令拠点をノモンハンのパオの一つにすえた。
 同地区から日本軍は追い払われたかにみえ、バイコフは国境紛争は終わったと考えた。だが、そうではなかった。裕仁は紛争を拡大するため、外蒙古の要塞に最も親近な家臣たちを送りこみ、紛争を最高の国策の道具として巧妙に操作した。5月28日午前3時、日本の正規軍一個連隊と歩兵一個大隊のおよそ五千名が、バルグートの騎馬隊の大群に支援され、ソ連軍の野営地を襲撃した。用心深いバイコフ少佐は、自軍の両脇腹を強固にかためていたので、川へと向かって次第に後退することができた。彼は、その退却の際、一人の日本人を捕虜にし、その攻撃は山県露樹大佐と東乙彦中佐によって指揮されていることを知った。
 七年後、極東軍事裁判での法廷証言で、バイコフはこうした現地指揮官の重要性には何ら言及しなかった。しかし、事実をあげれば、山県と東は、南京を強奪した裕仁の足の悪い叔父、朝香親王の最後とその前の侍従武官だった。さらに、彼らその指揮下には、東久邇親王の息子で裕仁の娘の婚約者である、砲兵中尉の東久邇護博が配属されていた。(95)
 後見人の朝香親王付きの侍従武官のもとに、さらに皇族の一員を配置することは、関東軍の中の北進派を勇気付けるものとなった。というのは、適切な機会がおとずれた場合には、日本がロシアに攻撃を仕掛けるという曖昧な約束を、裕仁がついに実現しようとしていた証しと、それを見たからだった。共に南進派の永年の支持者である第23師団と第6派遣部隊の司令官は、それでも、ノモンハンのパオにしかけた戦闘に専心した。日本の部隊は、意味のない領土のために勝算を度外視するようなことは決してしなかった。だが外蒙古の獲得やモスクワとウラジオストックを結ぶシベリア横断鉄道の掌握は、理論的には、は天皇による命令であった。だが現実の上では、裕仁は、その作戦には、わずか3個師団、数にして約6万名にしか関与しておらず、その戦闘も外蒙古国境とハルハ川との間の幅20マイル
〔32km〕 の牧草地帯を越えて拡大するものではないという、限定されたものであった。


スターリンとの探り合い

 1939年6月、第23師団と第6派遣軍の残留部隊が前線へと移動している頃、ヒットラーはベルヒテスガーデンにおいて、ポーランドでの電撃作戦計画について、配下の将軍たちと密談していた。またスターリンは、リッベントロップと英国のネヴィル・チェンバレンの両者との交渉を続けていた。他方東京では、裕仁と諜報機関がスターリンとの連絡回路――国際社会の誰もの共通した困難――の強化に総力を上げていた。
 6月1日、尾崎秀実――近衛親王の頭脳集団に属しながら、ソ連諜報員のゾルゲに選りすぐりの東京諜報世界の内部情報を提供している愛国日本人兼売国奴――は、日本の諜報機関の直属顧問という新たな仕事に就いた。五ヶ月前の近衛内閣の瓦解以来、尾崎は、朝日新聞での不向きな仕事以外にその能力を発揮する機会はなかった。だがいまや、近衛を通じ、彼は南満州鉄道の調査部――最も古く重要な諜報機関のセンター――の専属顧問となっていた。その部は、大川周明博士――サンスクリットやコーランを研究する多言語を使う学者で、裕仁のために1922年の皇居内に学生寮という教化所を設立し、1932年の暗殺事件を指揮した罪で1934年から35年まで投獄された――が運営していた。(96)
 6月9日、尾崎が大川博士のために働き始めて一週間後、大兄の木戸侯爵――現職は警察を管轄する内務大臣――は、左翼との接触をもつ老西園寺の孫の西園寺公一と会った。木戸と西園寺には、一年前のハサン湖事件の発生以降では、初めての会見だった。その翌週、ソ連スパイのゾルゲは、詳しい諜報報告をモスクワに送り、スターリンに、ノモンハンの日本の構成は戦争を想定したものではなく、ただ、軍事訓練とソ連軍の強固さを探る限定的行動を目的としたものであると断言した。ゾルゲの確証は、日本の新たな師団が海上輸送中ではあるものの、満州での戦闘準備に向けられたものではなく、粗末な武装をした新兵の中央中国での守備隊任務のものである、との証拠をあげて実証していた。(97)
 スターリンは、東京からゾルゲが送ってよこす情報に、了解はするもののなお不審をもっており、7月初め、日本部隊の増強が続く蒙古の前線で対峙するソ連軍の指揮をとらせるため、最も信頼する優れた将官を任命した。これがゲオルギ・ジューコフ中将で、彼は機甲戦の専門家で、後に元帥となって、ドイツを降伏させた凱旋をアイゼンハウアーと共有することとなる。そのジューコフが、ノモンハンの戦況を分析し、充分予期できる日本軍の全力をあげた攻撃を反撃する全面的支援をクレムリンに求めた。スターリンはこれに応え、回しうるすべての部隊と装備をジューコフにあたえ、7月18日にはヒットラーに、相互不可侵条約を締結する意向があると、ほのめかしたのであった。


ノモンハン(3)

 ジューコフ中将は、司令官の地位につくや、典型的な拠点防衛態勢を敷いた。7月第二、第三の週に日本軍が試みた数回のハルハの渡河を撃退し、着実に、その前線の背後に、攻撃に備えるための予備戦力を構築していた。(98)
 7月18日の夜間戦では、ジューコフの部隊は、日本軍がその地区で展開できる最大の攻勢に持ちこたえた。7月24日には、ジューコフの最初の探りも兼ねた反撃が余りに猛烈で、東久邇親王の23歳の息子、東久邇中尉は命令すらも出すことなく、戦場から姿を消すありさまだった。彼は前線背後の町で、もっと静かな戦区に配置換えになるのを待っていた。そしてそうした彼への新たな命令はその一週間後に手渡され、彼の部下に全面の責任を与えて、彼には離脱が助言されるというものであった。戦場の彼の同僚たちは、彼が通常の規律から除外されることに不平を言ったが、その話は監査官によって握りつぶされ、彼のテント仲間で、その話を日本の故郷に持ち帰れた者はほとんどいなかった
# 13。第23師団の司令官は、その皇族の離脱に不吉な前兆を感じたが、北進方針に熱心に傾倒するあまり、彼は部下の将兵をひたすら戦闘に厳しく駆り立てるしか能はなかった。(99)
 ソ連軍司令官ジューコフは、日本がその戦争にどれだけの軍事力を投入しているかを、ゾルゲの情報から正確に察知しており、7、8月の間に、前線の背後で日本を上回る絶対的優勢――兵力において3対2、航空機および大砲数において2対1、機甲部隊において4対1――を実務的に築き上げていた。(100)


ヒットラーの背信

 ジューコフが準備を重ねている間、ヒットラーとスターリンは交渉を続け、1939年8月19日、両者は相互不可侵条約を締結することに合意した。この条約は、それぞれの締結国が他の国とどんな関係に入ろうとも、ドイツとソ連の両国は、互いに戦争を交わさないと誓約するものであった。
 翌日20日の午前5時45分、ジューコフは攻撃開始を命じた。彼は、戦車500輌、航空機500機、装甲車346台、そして、ほぼ8万人の兵力を備えていた。彼はその総力を、ハルハ川と満蒙国境の間の幅20マイル
〔32km〕 、長さ40マイル 〔64km〕 の日本軍の占領地域に投入した。火炎放射するソ連重戦車を先頭に、燃える石油をふんだんに吹き出して進むそのさまは、石油に乏しい日本人には想像すら難しいことだった。太平洋戦争以前では、日本の武士精神がそうした新技術の洗礼を体験することはなかった。そして、いかなる時も、彼らはただ狂信的に反撃した。ジューコフの戦車隊は、11日間を要して、国境までの20マイルを制覇し、6万の日本軍兵力のうち、2万名を戦死させた。そしてその6万のうちの5万名以上が、その戦闘による、死亡、負傷あるいは行方不明者と数えられた。
 その六年後、アイゼンハウアーの参謀長官、ベデル・スミスに向かって、ジューコフは、「日本軍は機甲部隊には無力だった。彼らをつぶすのに、10日を要したのみだった」(101) と、低い声でかつ赤裸々にソ連の勝利を誇った。
 ジューコフが進撃中の8月23日、ヒットラーは配下の将官を招集し、ロシアとの不可侵条約の締結と、日本との防共条約の破棄を説明した。彼は、 「日本の天皇は、死んだロシア皇帝の同類だ。奴は、弱く、臆病、優柔不断で、革命で容易に転覆される存在だ。・・・だが我々は自らが主であり、彼らは、皮ひもがつけられた、良くても漆塗りの半分猿程度のものだ」 と放言した。
 裕仁は、この放言を、1957年にある本で読むまで知らなかった。だが、それを知っていたとしても、それが大きな違いをもたらすことはなかったろう。というのは、彼はすでにノモンハンとヒットラーの対露不可侵条約締結を通じて、できるものならヒットラーの強さをかすめとり、しかも決して信用してばならない、と決断していたからである。
 8月31日、その10日間の攻勢の後、中央アジアのソ連軍機甲部隊は、満州国境まで攻め上ってきて、そこで前進を止めた。その銃砲は東京のある東に向けられていた。他方関東軍は、ソ連軍のさらなる進撃に備えて、その持てる全力を地区に結集させていた。ジューコフは、わなに陥るのを避けて、そこで停止した。そして翌朝までに、彼は、その重火器の戦闘態勢を解き、最も近い鉄道拠点へと緊急移動させ、西のポーランドへ向けて急行輸送せよ、との命令を受け取った。
 9月1日、ヒットラーのドイツ軍はポーランドへと殺到し、ワルシャワの強奪を開始した。英国と英国連邦の国々は、その七ヶ月前にミュンヘンで結ばれた条約に拘束され、恥辱的に譲歩させられてきたが、ただちにドイツに対して宣戦を布告した。翌週には、赤軍がポーランド東部の占拠を始めた。モスクワのクレムリンの背後の裏町では、ソ連と日本の外務省職員たちが、ノモンハン事件の和解のために、容易ならない交渉を開始していた。


ヒットラーと裕仁の離反

 ドイツ国防軍を民主主義世界へ火ぶたを切らせる独ソ不可侵条約締結のニュースは、ノモンハンでのジューコフの攻勢の前夜、そして、ヒットラーが部下を相手にした日本を軽蔑した発言を行った1939年8月22日、東京に届いた。内務大臣で大兄の木戸は、こう日記に記した。 「とはいえ、日独防共条約と付随の秘密条項に鑑みて、驚かされることに、それが信義違反ですらあることだ」。日独間の条約を強化することを支持してきた平沼首相は、ドイツ外交の突然の変身を、 「複雑怪奇で当惑させる」 とし、直ちに裕仁に辞任を提出、それは裕仁によって受理された。(102)
 かくして、少なくとも数ヶ月来の日独間の懸案は、ここに落着した。ヒットラーの立腹があるのかも知れなかったが、これで彼は日本に借りができ、日本に極東での自ずからの計画に従える自由をあたえる結果をもたらした(103)。日本は、ノモンハンで甚大な損失をこうむったが、陸軍内の北進派はソ連の手による決定的打撃を受け、ヒットラーと結んだ同盟の誓約が、何の価値もないことを学んだ。
 裕仁は、9月1日、前侍従武官で参謀次長の中島鉄蔵中将を、交戦状態を終わらせるため、ノモンハン前線へ派遣した。関東軍の参謀たちは、日本の恥辱を晴らしたいと、9月10日に再度の反撃作戦への許可を懇願した。中島は空路帰国し、天皇に報告、そして再びノモンハンに戻り、反攻の計画を否定した。裕仁は、満州の関東軍の総司令官をすげ替え、9月16日、モスクワで交渉を続けてきた日ソの外交官は、国境線を既存のままに戻すことで停戦に合意した。(104)
 ノモンハンで99パーセントの死傷者を出した第23師団の北進派司令官小松原道太郎中将は、日本に帰国すると 「腹部疾患」 で死亡した。幾人もの将校や下士官が、戦場の一角で頭を撃ち抜いたり、切腹をしたりして自殺した(105)
 1930年以来裕仁と悶着を続けてきた北進派は、こうして死に絶えた。そして翌年までに、裕仁は自身の国家計画を平穏のうちに作り上げることができた。産業は、武器生産にうなりをあげた。日本の空想的自由主義者は、時に倒閣を求めて不平を並べたてた。だが、憲兵は不満を表すあらゆる行動を容赦なく抑圧した。身を引いていた近衛親王は、すべての政党を単一の団体、大政翼賛会に集約する措置を実施した。一方、ドイツは躍進を続け、そう時が熟すと見るや、近衛親王は、再び政権に復帰し、日本を戦争への道に導いて行った。


 
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