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第六部


アジアの枢軸国





第二十二章
対ソ中立化工作 (1936-1939)
(その1)



投棄された無線機
(1)
 

 裕仁による2.26事件鎮圧から二ヵ月後の1936年5月のある朝、7時、東京、新宿駅のプラットフォーム上で、通勤客は、重そうなリュックサックを背負った二人のヨーロッパ人登山者を好奇心をもって見やっていた。通勤客はみな都心へ向かっていたが、その荷物を背負った二人の外国人は、富士山に向けて、逆方向の列車に乗り込りこんだ。そのうちの一人は、マックス・クラウゼンといい、北ドイツ沖の貧しい島で生まれた赤軍通信隊出身者だった。その連れは、ブランコ・ド・ヴーケリッチといい、ユーゴスラビア人の写真技師だった。クラウセンは日本に来てからまだ数ヶ月で、表向きは、建築家や建築業者むけの青写真店を開く準備をしてきていた。彼は、フランスの通信社、ハヴァスの海外特派員として二年以上、日本で勤務していた。二人とも、ソ連が送り込んだスパイで、そのリュックサックの中は、秘密無線通信機用の変圧器が入っていた。
 この二人のスパイは、田園地帯の新緑鮮やかな田んぼの中の駅で下車し、電鉄の支線に乗換え、最後に、タクシーで未舗装の道をへて、富士山麓の山中湖畔のリゾートホテルに到着した。ホテルでは、従業員が彼らが担いできたリュックサックを受け取ろうとしたが、その重さに驚かされた。
 クラウゼンは、 「ビールを6本ほど運んできたのでね」 と急いで説明するはめとなった。
 その従業員は、 「私どもは、豊富にビールをご用意しておりますが」と、気持ちを害されたように答えた。
 その夕刻、その二人の登山客は、そそくさとホテル前のボートのうちの一隻を借り、そのビール入りのリュックサックを積んで、数時間の釣りと月見に乗り出した。陸地の明かりから遠ざかり、その日本の聖なる火山のシルエットのもとで、彼らはそのリュックの中味――三機の変圧機、束になった銅線、そして十数本の三極真空管――を、深い湖底に沈めて、安堵の一息をついた。というのは、それらは、大きさの割には性能の劣るロシア製の無線通信機の残骸で、二年前に秘密に日本に持ち込まれたものの、ウラジオストックとの交信に成功しないままできていたものだった。
 二人の登山客の一人、ドイツ人のマックス・クラウゼンは、その見捨てられた通信機に代わって、東京の銀座通りにあるハイ・ファイ専門店から部品を買い集め、小型ながら、高出力で分解も容易な送信機を組み立て終わっていた。その通信機を用いて、その後の五年間、クラウゼンは、史上に残る最も成功した諜報活動、すなわち、ゾルゲ諜報団の報告をウラジオストックに送信することとなる。
 この、ゾルゲ諜報団が「成功した」というのは、それが日本の秘密をクレムリンに暴いたからではなく、それがクレムリンと東京の宮廷との間の、一種の連絡機関の役を果たしたことがゆえにであった。その報告は、シベリアにあった赤軍司令部の反スターリン的 「南進派」 ――日本のファシストの攻撃を狙う一派でスターリンは容赦なくそれを粛清した――の情報を 〔日本側に〕 知らせることに役だった。さらには、その報告は、日本陸軍の北進派の活動が決して容認されないであろうことを、繰り返してスターリンに確信させるものともなった。その結果、スターリンは、日本に面する長い前線を軽防備のままにでき、また裕仁は、北進派に対抗する勢力の増強に腐心することなく、その勢力を他の方面に用いることができた。要するに、ゾルゲ諜報団は、1936年から1941年の決定的な期間、日露間の平和維持に役立つこととなったのであった。スターリンと裕仁の間に出来上がったこの微妙な理解関係は、一方では、ドイツに対する防衛に備えさせ、他方で、アメリカに対する攻撃の準備をさせたのであった。



スパイの首魁ゾルゲ

 多くの西洋諸国のスパイたちは東京言葉の壁と国思いな土地柄から盗聴は難しいとして、世界の情報センターと見なしていた。これが、リヒャルト・ゾルゲによって、東京に 「ありえるはずのない」赤軍諜報団が設立された理由であった(2)。彼は、ロシア人の母をもつドイツの知的中産階級のひとりで、第一次世界大戦中の西部戦線では、ドイツ軍に従軍したものの、戦争に対する理念的な嫌悪を抱いていた(3)。優れたジャーナリストである一方、あらゆるタイプの女性から好かれ、かつ、あらゆる種類の男たちの同胞として、ゾルゲはスパイ中のスパイであり、赤軍第四部、つまり、諜報部の上司すら彼を完全に信頼する、一匹狼の二重スパイであった。彼が日本人によって処刑されて20年たった1964年まで、彼はソ連の英雄であるとは見なされなかった(4)。日本で彼が務めを果たしている間、彼はロシアのために、命の危険をおかしてでも、選りすぐった情報をモスクワに送っていた。しかし同時に彼は、情報をドイツの諜報組織にも流し、裕仁の側近がモスクワへ伝えたいと望む情報の温床として自分が使われることを受け入れていた。
 ゾルゲは、24歳の時の1920年、ハンブルグの共産党に入党した(5)。そして、1924年にモスクワに行き、コミンテルンの専属諜報員となった。1928年までは、スカンジナビア諸国で活動した。1929年、彼は赤軍諜報部に配属され、上海に送られて、ドイツ紙の 『フランクフルト新聞』 に、中国農業問題の専門家として記事を書いた(6)。1929年から1932年の間、上海にあって彼は、二人の日本人と知り合いとなり、彼らは後に、東京において彼の部下となる(7)。その二人とは、日本の諜報組織に関係する連絡員で、左翼グループの内部に知人を作ることを仕事としていた。
 1931年6月、シンガポールで、英国警察によるマレー共産党員の一人への尋問の結果、上海の全共産党活動家のための会計係が逮捕され、暗号文や会計帳簿が押収された(8)。その後、上海の英国、仏、日本の警察は、ゾルゲを密接に追跡しはじめた。だがゾルゲは、あわてることなく落ち着いて対処し、上海にとどまって、中国農業についての記事を、その後も19か月以上にわたって書き続けた。その後彼は、報告と再配属をのため、モスクワにもどった。
 ゾルゲは、次は日本で活動すべきだと自ら提案した。赤軍の上層部は検討の結果、この提案を了承し、彼にある特別の使命、すなわち、日本がシベリアに侵攻する計画を事前にモスクワに通報することを与えた(9)。この任務を準備するため、ゾルゲはドイツに帰国し、数か月を過ごした。彼はそこで、ナチ党に加盟し、新たなドイツ語新聞のフリーランス記者の契約を結んだ。彼は、ドイツの貴族を日本の貴族に紹介する手紙を持参して、1933年9月、ついに横浜に降り立った。
 最初の一年半、ゾルゲはほとんど何もしなかったが、ジャーナリストとして自らを確立し、人脈を作ることに努力した。日本の警察は、見知らぬ西洋人である彼を密接に尾行したが、彼の行動に不審なものはなかった。彼が深酔いし、日本の女性とさまざまに関係をもったが、その女たちは警察に、彼は静かな男で、愛すべき人物だと語るのみだった。彼は日本語を話せず、主に、他のヨーロッパ人と交友関係を持っていた。彼は、東京倶楽部のバーで、他のドイツ人やジャーナリストと親しげに話合う存在となっていた。彼はさらに、東京のドイツ大使館の職員と親密となり、その外交官のよき友人であり、貴重な情報提供者となった(10)
 それと並行して、彼は次第しだいに、かつ秘密のうちに、日本のスパイ集団を組織しはじめていた。モスクワは、仲介者として彼を援助するため、カリフォルニアの共産党から、沖縄生まれの米国籍日本人を無思慮に送り込んできた(11)。そのカリフォルニアの画家は宮城といい、ゾルゲ自身とともに、警察によって用心深く監視されていた人物だった。だが、宮城はゾルゲのために、自由主義的あるいは左翼的日本人との秘密の面会を用意した。彼らのほとんどは、 「日露間の戦争を回避するため」 ――と彼らが理解した――情報をゾルゲに提供することに同意した。ゾルゲは、平和主義者および知識人として、この誰もの心配事に関し、東西のイデオロギー的スローガンは無用に帰し、また、この目的に限っては、クレムリンすら最も愛国的日本人に賛同することができると、懸命にも観察していた。ただゾルゲは、彼の見込みが最も効果をはたすそうした愛国的な日本人の一人が天皇裕仁であり、あるいは、彼が使っている日本人スパイが裕仁に忠実であるとまでは、多分、認識していなかったろう。
 1935年の晩夏、ゾルゲはモスクワに一時、戻り、東京のスパイ団がすでに本格的活動の用意が整い、また、唯一の懸念が無線通信員の問題であり、それがゆえに報告を本国へ送る際の困難となっていることを、彼の上司に伝えた。モスクワは、先にゾルゲへと配置した無線技師を即座に呼び戻し、それに代わって、一人の上海時代の彼の友人を彼に付けさせた。これが、例の登山客姿のマックス・クラウゼンだった。彼は、上海から連れてきた共産党嫌いの白系ロシア人の愛人との縁を切ることを拒否したため、ボルガ共和国のプロレタリア矯正労働に服していた。だが、ゾルゲが、クラウゼンの技術的技量に満足したことが、彼の身を自由にさせるに十分な理由となった。釈放されたクラウゼンの感謝の念は、理論派共産党員にはその継続が不可能となったその後のイデオロギー的に混迷した時代にあっても、ゾルゲへの彼の個人的な忠誠心を揺るがせるものにはならなかった(12)
 1935年11月、ゾルゲが東京に戻った時、クラウゼンもそれに同行した。到着するとすぐ、クラウゼンは直ちに仕事にとりかかり、自ら設計した無線通信機を、地元で手に入る部品を用いて組立てはじめた。それは、10分で組み立てられ、5分で解体できた。1936年3月には、彼はそれの試験を始めた。4月には、彼の送信を受信するために設けられたシベリアのロシア側の局の 「ヴィスバーデン」 と交信することに成功した。5月には、彼と一味の写真技師のヴーケリッチは、旧式の無線通信機を山中湖に捨てた。こうしたいま、一味はその活動を開始する準備を終えていたのであった。

 
つづき
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