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第二章
  
原子爆弾
(その4)




                     アメリカの回答

 東京の午前7時は、ストックホルムやベルンでは前夜の11時であった。そして、これらの都市の日本の外交官によって日本の降伏の表明が解読されるまでに、時は深夜12時となっていた。さらに日本の外交官が、その文書をスイスとスウェーデンの外交事務所に伝達したのは、儀礼上、朝になってからであった。その時までに、ワシントンでは、真夜中をすぎており、トルーマン大統領とその顧問たちが、その表明について協議するために会議をもったのは、ワシントン時間の8月10日、金曜日、午前9時であった。東京では、それまで、気をもみながら16時間を過ごしていた。さらに、太平洋戦争におけるアメリカの最も重要な同盟国であったオーストラリアは、真夜中を迎えていた。日本の降伏は、こうしてまず、時間とも争わなければならなかった。連合国へのその表明は以下のように告げていた。
 トルーマンとイギリスの新首相、クレメント・アトリーは、天皇についての日本の条件を受け入れる意向であった。西洋では知っているものなら誰でも、天皇はただの表看板であった。だがしかし、米英が午後を迎える頃、オーストラリアは夜明けを迎え、その報を受け取っていた。そしてキャンベラはロンドンに次のように打電した。
 英国連邦の母国として、イギリスはそれまでオーストラリアに、戦時政策への発言をおおむね許していた。しかし今回、ロンドンがあいまいな返答しかよこさないため、オーストラリア政府はその確認がとれなかった。そして同政府は、今度はワシントンに向け、以下のように、異例の打電をした。
 トルーマンとジャメス・バイアーンズ国務長官は、もし可能であるなら、オーストラリアと歩調を合わせたかった。オーストラリアは、アメリカとほぼ同じ程度に、日本を敗北させることに、血と汗をながしてきていた。その上に、オーストラリアは、ポツダムの協議メンバーから除外されていた。その一方、イギリスと中国は、日本への返書のアメリカ文案をすでに承認していた。ソ連もそうであったが、日本が戦闘を止めるまで、満州への赤軍の進軍を継続することを警告していた。ゆえに、バイアーンズ国務長官は8月10日の夕刻、アメリカ文案を少し訂正し、事態の緊急性を理由に、オーストラリア政府にそれで了解するよう要請した。その第二と第五のパラグラフは、日本にとっては厳しい内容をつげていた。
 このように、一方で、天皇は「国を統治する」権威を維持しうると日本を納得させながら、他方で、連合軍司令官マッカーサーに「ゆだねられる」と延べ、オーストラリアを納得させるというように、その表現は巧みなものであった。8月11日の早朝、バイアーンズは、その文面により、オーストラリア政府より不承不承の承認を取り付け、ワシントン時間の午前10時45分、その文面が日本にむけて放送された。それは、日本が降伏を表明して以来、41時間45分経過した、8月12日、日曜の深夜0時45分であった。
 東京では、ただちに副外務大臣と数人の英語に習熟した外交官がたたき起こされ、その内容を翻訳し、分析を始めた。最初の彼らの反応は陰うつなものであった。というのは、その文面は、極めていかめしく、直裁であった。日本が常にその被征服者に示したような甘い言葉による慇懃な偽善はどこにもなかった。その文面は、ただ、「連合軍部隊は、ポツダム宣言に謳われた目的を達するまで日本に駐留する」と述べていた。その目的とは、完全な武装放棄、民主主義へのすべての障害の排除、「正当な賠償の強制取立て」、「すべての戦争犯罪人への・・・厳格な判決」などであった。日本による南京攻略の際においてさえ、そうした厳しい内容はなかった。西洋式の単刀直入な対応にことに未経験な者は、全面的な強姦、強奪、殺戮にさらされると予想するしかなかった。日本国民は、自分たちの生活に苦難が及ばないことなど、予想すらしていなかった。
 当面、その文面は新聞には公表されるべきでなかった。しかし、その報が政府高官の間で流通されることは禁じえなかった。だが外務次官にとっての問題は、その文面が「鵜呑み」にされることであった。ことに問題なのは、「政府が・・・日本国民の自由に表現された意思によって設立される」という部分であった。それは、共和制というとんでもないものを意味した。それは、武士階級の代々の家系に引き継がれてきた教えに反していた。そして、それに従うくらいなら、むしろ、全日本民族をあの世に送る方がましだとする人々さえいた。敬虔な神道信者が言うには、未来永劫、黄泉の国より武士の魂が恨みをこめたあだ討ちにやってきて、神聖な国土であるその島々に勇敢にも足を踏み入れた野蛮人たちに、恐怖の惨事をもたらす、とのことであった。
 午前5時30分、その米国文が外務省の上級官僚の間に配布され、問題とされる点が私邸に居る東郷外相に示された。その途上の車中で、ひとりの官僚は、愛国主義者の注目をそらすため、「日本国民の意思」の条項の迂回表現がおそらくなされるだろうとほのめかしていた。東郷のドイツ人妻は山中に疎開しており、外相は寝巻き姿で彼らを迎えた。このくだけた姿は、執務室に居る時の縞のワイシャツ、仏式カフス、サビルローのスーツ姿のいつもの彼より、親しげな印象を与えた。それでも、彼の部下たちは、深くおじぎをして堅苦しさをくずさず、必用な礼儀を守っていた。そこでの彼らの感じたた印象は、畏敬の念から冷たい好かなさまで、さまざまであった。そのうちのひとりは、米国文を受け取った外相の手が全く動じていなかったことに注視していた。(101)
 東郷外相は、数年前まで、大酒のみで、かつ、トルコ製のタバコを日に三箱吸っていた。その彼が、60歳の誕生日をま近にしたある日、医師の助言によって、たちどころにその双方を止めていた。疑いなく、彼は優れた聡明さと深い内省感覚をもつ知性人であったが、その精神的な壁が険しさをつくっていた。彼の皮肉は人を傷つけ、その几帳面さは彼の性質であった。彼の外交官としての唯一の失敗は、1930年代半ば、ドイツに赴任していた際、ヒットラーを常に「成り上がりもの」としか見ていなかったことであった。裕仁が彼を鈴木内閣の外務大臣に据えた第一の理由は、彼が大将たちに面と向かって「ばか者」と呼ぶ、大胆不敵さを持っていたからであった。今、彼は自分の着物のしわをはらい、太い黒ぶちの眼鏡をかけて、いかにも人間くささを漂わせていた。
 東郷は文書をゆっくりと一度だけ読み、「ここが問題だ」と、指で「日本国民の意思」の条項をさして言った。「長期的には、それは実務的に見て克服しがたい問題ではないだろうが、心情的に受け入れ難い。国民投票で人々が天皇に反対票を投じるとは思わないし、それまでも、国を治める天皇の権威は言うまでもなく揺るぐまい」。東郷は、自由な意思という考え方自体が、30万人のキリスト教徒という少数派を別として、日本人にとっての宗教的タブーであることを知っていた。あからさまに言えば、それは千年以上もの間、問題なく維持されてきていた。
 そして東郷はこう続けた。「しかるが故、天皇は、個人的心情を圧してでも、外国に自らをゆだねると宣言する屈辱を受け入れることと思う。それにしても、これは極めて厳しい内容だ。諸君らには、その衝撃を和らげる何か策はないかな。現下の危機的状況にあって、全国民が一致し、統一した戦線を維持することが最重要事である。」
 居合わした外務官僚らが、紛らわし策を提案した。松本外務次官は、天皇の「ゆだねられた」地位への服従は、国民のために成された犠牲的行為として畏敬の念をもって迎えられるだろう、との見解を述べた。この崇高なる屈辱は、天皇自らも、国民の目からも、天皇を英雄視するよう工作できる要素をもっていた。東郷はその策に積極的に同意した。全ての関心は、天皇の苦悩と高貴さに集中されなければならなかった。日の出直後、その会合は散会となり、朝食までには必要な迂回策の手が打たれた。
 その一時間以内に、皇室の遠縁にあたる海軍政治戦略部の大佐が、国営報道機関の同盟の海外部長
#12を呼びつけていた(102)。同盟は、降伏交渉については一切報道していなかった(三日間は発行もされなかった)が、その大佐は部長に、アメリカ側文面の翻訳を要請した。大佐は、海軍は自身の英語では正しい翻訳がおぼつかない、と〔その要請の理由を〕言った。だが海軍では何百人もの将校たちが英語を学び、英国艦隊で士官候補生として仕えたほどであったので、同盟の部長は、そこに何か含みがあると覚った。大佐の意図に探りを入れた後、部長は『同盟ニュース』のアメリカ文面の翻訳を手渡した。そこには、占領後の天皇の地位は、「連合軍最高司令官に隷属する」(103)と表現されていた。
 同じ頃、外務省では、占領後の天皇の地位を、「連合軍司最高令官の制限の下におかれる」と表現した翻訳文を流し始めていた。同盟の海外部長はただちに、海軍に渡した翻訳を特使にもたせ、鈴木首相の官房室に遣らせた。首相官房は、外務省が作成した公式のものとは異なる非公認の翻訳を海軍が流布していると、政府の主たる部署へと連絡した。政府高官らが、倹約と空襲警報の一日を過ごすはずの自分の事務室に出勤する頃までには、裕仁個人に対する悪意を米国は完全に改めた、との認識が東京の政府高官に行き渡っており、面目を失った外務省の高官は、事実の隠蔽に懸命であった。
 同日曜の午前8時20分、陸海両軍の参謀長らが状況について議論し、皇居図書館にて待機した。彼らは裕仁に、米国文書は極めて無礼で、もし裕仁がその拒否を望むなら、陸海両軍は、死をもって立ち上がる積りであるとの考えを表した。裕仁の近衛連隊長官は、あたかも下からの圧力で示している儀礼的なもののごとく、こうした参謀長らの抗議姿勢にぎこちないものがあることに注目していた。裕仁は彼らの忠義に感謝を示し、スウェーデンより公式文書を受け取りしだい、それを慎重に分析することを明言した(104)。 午前11時、東京が天皇の恥辱についての噂と心配で湧きかえっている中、東郷外務大臣は車で皇居に向かった。そして彼は天皇に、外交官としての自分の見方では、アメリカ文書は、予期されるものとしては、率直で寛大なものである、と報告した。裕仁はそれに同意し、天皇のその受諾を内閣が公式に是認するように求めた(105)



                  
武士の約束

 閣僚と参謀長官は〔12日〕日曜の午後と〔13日〕月曜の全日にわたり、アメリカ文書について議論を繰り広げた。阿南陸軍大臣は、土曜に裕仁との長時間にわたる会見をし、再び、反降伏派を先導した(106)。それまで和平推進を唱えてきた平沼卿は、日曜、裕仁からの謁見の要請を受け、その後、阿南を支持し、彼に法的論点を授けていた(107)。アメリカの爆撃機は金曜以降、空襲を行っておらず、両者は、この状況では、原爆の再投下の恐れはないとの判断を下すに十分な確信を得ていた。 
 しかし、国民はそうした確信をもてなかった。人々は、外国放送を聴くことを禁じられていた。それに、国内の新聞は、最初「新型爆弾」、ようやく「原子爆弾」が広島と長崎に投下、とは報じていたが、降伏文書がワシントンに送られたことについては沈黙していた。それに、原爆の恐ろしさについて、暗い噂が広がり、どの都市の住民も、次は自分たちの運命ではないかと案じていた。阿南陸相は、日本の戦争持続の精神を敵に見せつけようと懸命になっていたが、狂信的な神風精神は、現実には、国民の心からは消えつつあり、放心と絶望がそれに代わっていた。
 国家にとっての必要性に加え、阿南陸相には、降伏論議を長引かせる個人的理由があった。彼は、日本の降伏の際に反乱を企てるよう、彼に従う部下の一団を鼓舞してきており、もし彼らがこうした自滅的行いに出たなら、彼も切腹して、彼らとともに精神の世界に行くことを、暗黙のうちに約束していた(108)。それは、西洋では、騎士道の時代以来――王に仕える騎士と家臣の間の死の約束――、忘れられていた封建的慣わしであった。日本では、そうした自己犠牲の心情的約束が、政府内でも地位を保っており、そうした犠牲者が名誉を得、その死が無駄とならぬように、周到な配慮がなされていた。
 阿南陸相の自決計画は、日本のポツダム宣言受諾の数時間後の7月27日に、最初の公的使命の実行に入った。その日、阿南の捺印のもとの命令が台湾に打電され、塚本誠憲兵隊中佐が日本に呼び戻された(109)。塚本は、1934年、陸軍士官学校での北進あるいは征露派の破壊的陰謀を暴いた宮中のスパイを援助し、天皇の注目を得ていた。その後塚本は、天皇の伯父、東久邇宮に仕え、1935年の大阪でのいくつもの陰謀に加担していた。その一つは、鈴木記念館の地下防空室の絵に時代錯誤の霊として描かれていた軍務局長の暗殺であった。憲兵隊の中ではハイランクに位置する大尉に出世した塚本は、1937年、南京攻略にあたる天皇の伯父、朝香宮の配下に入った。その塚本中佐は、いま、台湾において命令を受け取り、それが特殊任務向けであったかのようなその配置を公式に解除する内容であることを感知した。つまり、命令はその表現上、京都の憲兵部隊への配属転換であったが、彼に東京へ出頭するように命じていた。加えて、その命令は彼に、最高位の移動特権を与えていた。
 台湾を立つ飛行機はほとんどなく、しかも日本への直行便はすべて沖縄止まりとなっていた。塚本は、短距離便を乗り継ぐしかなく、まず、広東へ飛び、そして中国の沿岸沿いに上海へ行き、九州に渡り、本州を縦断した。彼が東京の憲兵隊最高司令官のもとに出頭できたのは、8月6日のことであった。司令官は、塚本が本国へ呼び戻されたことに明らかな当惑すら表し、そしてこう付け加えた。「君がここにいるのは、一時的配置のためであろう。過日、阿南大臣は部下の不穏な動きに過度の心配をされていた。そして、クーデタのうわさに注意するよう、私に指示した。大臣は私に、そうした者たちを監視し、そうした計画を報告するよう望んでおられる。」 かつての陰謀家、塚本は、ただちにその意味を理解し、阿南のある参謀との親交関係を用い、それを通じて、阿南の別の部下たちとの交友関係を築いた。
 塚本の到着は、阿南の参謀の中の狂信派には公式の立会人の出現を意味した。それは彼らにとって重要なことで、その功績は彼によって記録され、もし死んだ場合でも、その霊魂の世界において、祖先への名誉となる扱いをもたらしてくれることを意味した。日本の固く結びついた均質な家族的社会においては、政治的陰謀家にとって、その細胞での〔秘密〕会議が、その地の交番への報告に終わることはよくある話であった。よその国の牧師や精神科医のように、交番はそうした告白がことさらな情報提供の特権的窓口として信頼されていた。警察官は、処罰について助言〔人々に〕したが、公的な政策や方針について上司に報告することも行っていた。しかし、そうした詳細な記録は、他の警察官を除き、誰も知ることはできなかった。そうした告白や生涯の記帳簿に残される記録は、聖的儀式の最後を飾るものとも見なされていた。犯罪と処罰は、運命によるものであり、その意味では副次的なものであった。もし、事前に告白がなされていた場合、それは誠実さの証とみなされ、通常、刑罰の軽減に考慮された。もし、告白が事後のものであった場合、まずまずのものと見なされ、その人は家族一族のもとに戻された。しかし、もし告白が自主的に成されなかった場合、その人は、たとえ死への拷問に終わろうとも、それは強要されなければならなかった。日本の最良の警察官は、中世ヨーロッパの教会による宗教裁判と同じような態度と責任を実行していたのであった。
 塚本という公式立会人を獲得して、陸軍省のもっとも愛国的な少佐や中佐たちは行動を開始し、そのもっとも熱心なものは、クーデタを画策し始めた(110)。彼らによれば、降伏が現実になされる以前に皇居を掌握し、天皇に不名誉を受諾せよとすすめる邪悪な取り巻きたちから彼を救出せねばならなかった。阿南陸相の義弟は、陸相がかれらを支援し、もしクーデタが失敗したなら、〔阿南が〕自害することを確約していた。何回かにわたって彼らは、陸相とそうした構想について面と向かって議論していた。だが、常に言質は与えなかったものの、阿南は彼らの主張に共感を装うことに苦痛を感じていた。彼らはまた、近衛連隊長や陸軍東部軍司令官にも働きかけていた。この二人の大将は、軍の綱紀の重要さについての必要な留意を述べる以外には、そうした謀議を差し止める何らの行動もとらなかった。8月12日の日曜、アメリカからの返答が届いた時、彼ら謀議者らは、翌日の夜に決起する計画を固めた。塚本憲兵隊中佐は、最初、その計画の全貌を上司の最高司令官に報告した。そしてその日が夕方を迎えた際、叛乱者は阿南のもとを訪れ、その夜に決行することを告げ、陸相に行動を共にするよう懇願した。阿南は彼らの計画を点検し、彼らが宮中の電話回線を切断していない失敗を発見した。そしてもう一日待つように求め、彼らもそれに同意した。


                  
日本の最も長い日

 8月14日、火曜日の朝、天皇の主席顧問、木戸内大臣は、一夜の眠りから覚めようとしていた。その宮内省省舎三階にある木戸の事務室に侍従が駆けつけ、床に敷いたわら布団に横たわっている彼を揺り起こした。侍従は、皇居内に落ちてきた一枚のビラを手にしていた。それは、その朝、日本の主要都市にB-29によってばら撒かれた五百万枚のビラの一枚であった。そのビラは、「日本政府、降伏を表明」と、日本大衆に告げていた。木戸日記の表現によれば、彼は飛び起き、「驚愕のために呆然とした」(111)。彼はただちに、警察長官に電話し、そのビラを緊急に拾い集めるよう命じた。また国民には、そのB-29の撒いた忌まわしいビラを読むことなく届け出るようとの命令が出され、ほどんどの国民はそれに従った。ただ、そうした命令に従わないものは常にいるもので、彼らは噂を広げた。まさに、大衆が、日本の降伏をそのようにして知ろうとしている最悪の事態であった。日本の国民は、それを天皇自身の口から聞かねばならなかった。さもなければ、平和を望むものは天皇に感謝せず、戦争継続を望むものは無用な叛乱を起こす可能性があった。
 木戸は皇居図書館に電話をかけ、午前8時30分に謁見の許可をえた。裕仁は、無用な論争は直ちに止めらなければならないことに同意した。二人の会談中に、鈴木首相も図書館に到着し、8時45分、裕仁は御前会議の召集を命じた。天皇の顧問である木戸は、緊急事態であるので、フロックコートやモーニングなどの盛装は必要としないと強調した。二時間後、閣僚や大将たちが、召集を受け取った事務所で取りあえず借用した、ふさわしい背広やネクタイを着けて参集した。
 晴れた八月の朝の、暑さにうだるその地下謁見室で、裕仁は、再度、議事を支配し、配下の者たちの降服受諾にともなうすべての見解の違いを再び無視し、命令した。彼は、国家存続のために、彼自身と日本が、その耐え難い屈辱を耐えなければならないことを、涙を流しながら、慟哭をもって語った。アジアの半分に猛威を振るった指導者たちも共に涙を流した。(112)
 その日の正午、裕仁が防空室から階段を通って執務室に現われた時、木戸内大臣が彼を待っていた。裕仁は、いまだに涙にかられながら、出来上がったばかりの、翌8月15日にラジオを通じて読むはずの降服の詔書についての要点項目に関し、木戸の見解を求めた。木戸は内閣官房に天皇の意思を伝えるとともに、ただちに草稿を書き上げた。二人の学識者がそれを古代漢文調の公式文に直し、歌を読み上げるような抑揚をほどこした。(113)
 この〔14日〕朝の防空室での御前会議に先立って、阿南陸軍大臣は部下に対し、彼らのクーデタ計画を放棄するよう言い渡していた(114)。この会議の最中、木戸内大臣は、裕仁の29歳の弟で陸軍中佐の三笠宮の訪問を受けた(115)。そして会議の後、クーデタを企てる幹部クラスがその計画へのいかなる行動をも拒絶した時、三笠宮の陸軍士官学校時代よりの親しい友人であった一人の少佐が、その計画の再度の実施を求めた。彼は、その日の午後を費やし、その考えの支持を求め、主要な大将の部屋を訪ね回った。
 その午後遅く、クーデタの気配を嗅ぎつけた近衛公は、「第一近衛連隊の不穏な動き」について、木戸内大臣に意見を求めた(116)。近衛師団長の森赳(たけし)中将は、近衛公の遠い親戚で、友人でもあり、子分でもあった。彼は、その叛乱者達より探りを入れられた者の一人でもあり、叛乱への支持を求められていた。午後6時、森中将は、自分のすべきことを見出すため、皇居へと参じていた。彼は近衛師団司令部から宮内省省舎への通路を車で行きながら、吹上庭園へのあらゆる門に兵士が配置されているのを見ていた。かって例のない事態であった。近衛師団の3連隊のうち2連隊が召集され、共に、内宮域内の歩哨にあたっており、その司令官すら、その理由は分からなかった。彼は、B-29が撒いたビラを見て、日本が降服の間際に差し掛かっていると鋭く察知はしていたが、彼自身はその詳細を何も知らされていなかった。宮内省に着いて、天皇の侍従長をつかまえ、何がたくまれようとしているのかを嗅ぎ取ろうとした(117)。しかし、裕仁の主席軍事顧問から嗅ぎ出せたことは、「最終的試練を迎えようとしている。細心の注意が払われることなく、それが越えられることはない」といった、典型的な宮中問答であった。実直な森は、東京方面の防衛を担当する田中大将に会いに行った。田中は率直に、降服を決心したとの天皇の決定を伝えた。森近衛師団長は、皇居の北側にある部隊本部にもどり、深く考え込んだ。彼はその夜遅くには、事態は彼の命にもかかわる危険があり、極めて周到となっていた。
 元首相の東条大将もまた、クーデタの噂を把握していた。彼の義理の息子、古賀秀正少佐がそれに関与していた。その前日、古賀少佐は東条邸の隣の自宅に立ち寄り、東条の娘である妻に、自分の爪と頭髪を切った最近のものがあるかどうかを尋ねていた。これは、夫が死に瀕している時、それを箱に入れ、神棚に奉っておくことが兵士の妻の任務であったからである。東条の娘の古賀夫人は、死に向おうとしていると信じ、夫に別れを告げていた。あたかもスパルタ的抑制をもったかの良妻として、彼女は母親に、古賀が何を語ったのかを冷静に話していた。彼女の父である東条は、ただちに車に乗り、何事が起こっているのかを知るために都心へと向った。彼は、義理の息子がクーデタ計画に関わっていたが、それが中止されたことを確認し、おおいに安堵して帰宅した。(118)
 しかし、翌14日、火曜の午後、東条はさらなる噂を聞き、午後6時30分、彼は再び都心にいて、閣僚会議の短い休息の間での入浴の際、阿南陸軍大臣と会話を交わしていた。裕仁の秘密若手将校団の一員同士として、彼と阿南とは二十年来の付き合いがあったのだが、この時、阿南はことのほか上の空で寡黙となっていた。しかし、征服者アメリカと話し合うという道は、自分たちを欺くものではなく、むしろ耐えるべきものであると、阿南が言外にことさらに強調していることを、東条は十分に理解していた。「降服の後、もちろん我々は、戦争犯罪人として軍事法廷にかけられる。そこに我々の発言の余地はない。その時が来た際に我々が成すべきことは、全てを共に忍耐することだ。大東亜戦争は必要であったという信念を貫き通すことだ。我々が戦ってきたのは、自衛戦争だ」、と東条は言った。阿南はこれに強く同意し、風呂を上がり、衣服を着け、自宅へ戻る消沈した東条を残して、閣僚会議にもどっていった。
 一方、森近衛師団長が天皇の主席軍事顧問と会い、また東条が阿南と会っている頃、裕仁は夕方の吹上庭園を散策していた。寡黙に裕仁に従う侍従は、「これまで、こうしたことは無かったこの庭園内に、兵士が配置されている」と言って警戒を促していた。裕仁は木の下を散策しながらそれにうなずき、黙ったまま、皇居図書館へと戻った。そこで、彼は、待たしていた鈴木首相に詫びを言い、閣僚会議の報告を受けた。その午後に裕仁が許可した降服の詔書の草稿は、二時間にわたり議論されており、いまだ、裕仁の署名を得る段階にまで至っていなかった。「国の神器の保存」の条項については、農業大臣が「占領軍による否定的関心をよぶおそれがある」と感じたため、抹消されていた。裕仁は、この修正や他の細かい字句の訂正に辛抱強く許可を与えた。未解決の問題は、阿南陸軍大臣と米内海軍大臣との間の些細な意見の違いである、と鈴木首相は続けた(119)。阿南は、「戦況は日々悪化した」を「戦況は日本有利には展開しなかった」と改めるよう主張した。米内はこの修正を陸軍による責任逃れのためとし、それを認めることを拒否した。鈴木首相は、このあいにくの対立に、何か妙案を与えてもらえないものかと、天皇に尋ねた。裕仁はそれに応えて、陸軍大臣の案に反対はないと米内海軍大臣に伝えるよう、鈴木首相に返答した(120)
 〔14日〕火曜日、午後7時に閣僚会議が再開される前に、鈴木首相の書記官の一人は、この天皇の意向を、首相官邸の手洗いで米内海軍大臣に伝えていた。米内はひと言も発せず、便所の一室に入って放尿しながら、あからさまに聞こえる溜め息をついていた。午後8時30分、鈴木首相は、閣僚会議の承認を得た草稿を持って、皇居図書館に戻った。裕仁は、一、二箇所の形式的訂正を加え、「戦況は必ずしも日本有利には展開しなかった」とし、阿南の主張を補足した。そしてこの歴史的文書の写しは、『宮中官報』の皇居事務室へと送付された。午後11時、当官報は号外を配送し始め、皇室関係者に配布されるとともに、翌日に予定されている裕仁のラジオ演説に先立つ、国民への通報となった。(121)


                    最も長い夜
 
 8時半から9時半までの閣僚会議の休息の間、阿南陸軍大臣は車で、自分の机の私物を引き取るために事務所へと戻った。彼は、その日の夕暮れ、日の出の勢いの日本の日暮れが、濃い霧によって遮られているといった、一篇の裏寂しい歌を書き残していた。そうした裏寂しさは、3月25日の空襲以来、かつての士官学校付近の建物に移されていた陸軍省を完璧におおっていた。阿南は同省の一切が混迷して行っていることを目の当たりにした。その日の午後、閲兵場は、各事務所と焚き火の間を人が盛んに行き来し、大本営の文書を焼く炎が燃えさかっていた。今、その炎は残り火となっていたが、酔った数人の兵士が見られるのみで、もう誰もその作業には当たっていなかった。ほとんどの将校たちは私服に着替え、それぞれの故郷へと発っていった。陸軍省内の廊下は荒れ果てていた。阿南陸相が自分の事務室に戻る際、その足音は、孤独かつ空虚に響きわたった。彼の机上は、その日の午後、降服に備え、アジアの全ての憲兵隊事務所へ送った電報の写しが散乱していた。彼は力なくその席に座り、そうした書類を残すものと捨てるものとに分け始めた。そこにあたかも霧のように舞い込んできた一人の副官は、残りの将兵、ことに、クーデタグループの幹部であった荒尾大佐を招集するよう命じられた。それを待つ間、阿南は鈴木首相に宛てた辞表を書き、海外の司令官には降服を説明した電報を打った。
 荒尾大佐は、午後9時30分になって、ようやく姿を現した。彼は、阿南陸相を、陸軍省ではなく、その自宅で待っていた。阿南は、それまでに集合し、彼を補佐してきた将官らを解散させた。「この戦争は断念された。残務があるので、私をこのままにしておいてほしい」と彼は言い渡した。彼の書記官や当番兵は、礼をして退去していった。荒尾は個人的に彼と話すため、部屋に残っていた。(122)
 「日本を再興するため生き、働くのが、君たち将校の義務である」と阿南は荒尾に言った。荒尾にとって、阿南のこの言葉は、他の何よりも、肝に銘じる言葉であった。それは、阿南はもはや「現役」と呼ばれるものでなく、亡きものとされることを意味していた。それは、この陸相がもはやアメリカに対し、決戦を戦う望みを失ない、自殺を図ろうとする崇高な犠牲心を意味していた。
 荒尾は泣き、陸相の意図がまっとうされるよう誓った。阿南は、机の引出しからニューギニアから持ち帰った一包みの葉巻を取り出し、それを新聞紙で包み始めた。そして、衝動にかられたかのように、そのうちの二本を荒尾に渡し、「これを君に上げたい」と、心からの微笑みを浮かべて言った。さらに、風呂敷でいくつかの記念品を包み、磨かれた桜の鞘の儀礼用短刀を脇の下にはさんで、阿南は日本人将校独特の作法で簡潔に礼をした。「反対側で会おう」と彼は言い、踵を返して公用車に向った。
 荒尾に対する言外の言葉によって、阿南陸相は、宙に浮いたクーデタ計画の再決起に許可を与えた。だが、かくして幻のものであったこのクーデタは、いかにも現実味を持ったものとなったものの、戦争を長引かそうとの真の努力も、もはや意図されてはいなかった。つまり、すべての事柄はすべて見せかけで、それは、神聖なる天皇が、日本軍国主義の元凶であるのではなくその犠牲者であると、外国の目、ことに米国の目を欺くためのものであった。その慌ただしい会議も、裕仁の首席軍事顧問の慎重な言葉も、裕仁自身の吹上庭園の散策も、すべてが、この最後の見せかけのために必要なそぶりを通じて送られた画策であった。(123) (124) 〔このパラグラフは、読者の指摘があり、修正、加筆。(2018年4月2日)〕
 こうしたクーデタ計画を生き返らせ、またそれを幻の計画に追いやったことに最も責任を負う人物は、X中佐である。彼は、この夜の事態のあらゆる目撃者によって、しばしば正体不明とされながらもその存在が確認されている将校である。X中佐は、その夜、8時30分、二重橋(天皇が国家行事に用いる皇居への神聖な入り口)の近衛兵と話しているところを、最初に目撃されている。彼は、阿南陸相子飼いの煽動者でその後に起こった綱渡り的な行動の首謀者であった、畑中少佐を同行していた。
 他方、かつてその名も人物証明も示さなかった軍人が、皇居のいずれの門にも――ことに二重橋には――姿を現したことはない。X中佐の正体は、端的に言って、近衛兵にも、後に彼について記した生き残り近衛兵にも、全く知られていないわけではなかった。日本のゴシップ界では、皇室についてのタブーとして、天皇の直系親族の私的行動には名前が伏される慣わしがあるのだが、日本史上におけるこうした決定的場面においても、この慣わしが、内宮域内に出現したある身分不明な人物についても説明している。つまり、推定として、このX中佐が、天皇の最も下の弟である、三笠宮中佐である可能性は極めて濃い。三笠宮は、その夜のクーデタに参加した下士官たちとは同窓生であった。三笠宮は、その日の午後、裕仁と木戸と、二度にわたって会っている。三笠宮の同窓生のその夜の動きは、恐ろしいほどに現実味を帯びており、芝居とはとても見なせず、まして、天皇の神聖なる裁可を欠いた、誇り高き武士の絶望行動の現われとも見えない。
 阿南陸軍大臣が公用車でその事務所を立ち去った午後9時30分の数分後、X中佐とその手下の扇動者、畑中少佐は、吹上庭園で待機する二連隊の近衛師団に所属する大佐を訪ねていた。その日早くには、この大佐は畑中少佐のクーデタ計画に同意することを拒んでいた。いまや、X中佐が登場するにおよんで、同大佐は、「私の決心は変わってしまったようだ」、と語っている。
 X中佐と畑中少佐が皇居で動き回っている間、阿南陸相は一人車中より、右手の東京市街の荒廃と、左手の時代を経た変わらぬ石垣を見やっていた。彼は、彼の最後の若者たちに死を命令していた。彼は、敵の眼に彼の最後の眼くらましを投げ込んでいた。彼は、連合軍にその夜に送る以下の文書に承認を与えるため、首相官邸で行われていた閣僚会議に戻った。「天皇陛下は、日本の受諾に関する詔書を作成した・・・ 天皇陛下は必要事項の政府と大本営による承認と署名を準備した。」
 阿南は、この文書の主文を、意見を着けることなく、冷淡に聞いていた。次に、東郷外務大臣が、第二の電報で送ろうとしている以下のような長々とした添付文書を読み始めると、阿南は注目して眼を大きく見開いた。「以下について切に懇願する。連合軍によって占領されることとなる日本の領土について、幾つかの点において制限されること・・・、日本軍は武装解除することが許される・・・、日本軍兵士の名誉は尊厳され、たとえば帯刀などが許されること・・・、敵意が解消するまでに必要な時間が許容されること・・・、連合軍は、遠方の島々の日本軍に供給する不可欠な食料と医薬品の輸送のため、出来る限り速やかに必要な処置をはかり、我々の施設を拡大すること・・・」(125)
 「諸君がそのような方法で事にあたろうとしていることを、もし私が知っていたならば、先に私はそれほど熱意をもって説く必要は感じなかったであろう」と、憤然として阿南陸相は発言した(126)。東郷外相は、謝罪を表して、ぎこちなく頭をさげた。
 閣僚会議は続き、過去を追想し、木戸内大臣の和平計画の次の段階について憶測を廻らしていた。午後11時30分頃、会議が閉会された時、阿南陸相は、鈴木首相に最後の言葉をかけるためにそこに留まった。阿南は、「私は首相に大変なご辛苦をおかけしたのではないかと案じております」、と言い、彼が自室より持参してきていた高価な葉巻の新聞紙包みを首相に手渡した(127)
 「私は貴殿の辛いお立場が痛いほど解ります」と鈴木は返答した。「ともあれ、陛下は祖先の崇拝に極めてご熱心で、毎年、春、秋に必要な祭式を行われておられ、神のご加護があることを確信しております。私は日本の将来について、希望を失ってはおりません。」
 阿南は笑みを浮かべて礼をし、踵をかえして議場を去った。「阿南君は、暇乞いに、来てくれたんだねえ」、と鈴木は書記官に言った。阿南は車で帰宅し、最後の感傷的責務を果たす準備に入った。彼は熱い湯につかり、女中に最後のビタミン注射を打たせ、和服を着てくつろぎ、酒を一杯あおって、電話の脇に座し、筆をとって最後の遺言を練った。秘書が部屋を出入りし、ニュースを伝え、短い会話を交わした。時折、女中がこっそりと、燗の付いた酒を運んだ。

 その火曜の夜、10時に、アメリカのB-29編隊が、四日振りに東京に飛来した。空襲警報が鳴り響いた時、天皇裕仁は、閣僚が会議を終わらせるのを待つのではなく、降服詔書の発布のための準備を直ちに行うよう侍従に指示した。午後11時25分、裕仁は、陸軍元帥の軍服を着け、灯火管制の中、皇居を車で横断し、宮内省省舎へと向った。その三階にある広間で、日本放送協会の技術陣が待機していた。裕仁は、その詔書をマイクロフォンに向って読み上げた。最初の収録では、だれもが意外であったのだが、彼の声は震えていた。
 再生音を聞いた裕仁は、「声が低く、かすれている」、「もう一度やってみよう」と言った。
 二度目の収録では、その声は明瞭となり、いっそう持ち前の声高、鼻声で、より神経質であった。彼はそれでも完全に満足ではなく、三度目を求めた。しかし、その部屋は息苦しく、技術陣は、自分たちが彼に不快を与え、限界に達しているのではないかと恐れた。彼らは、三度目は不必要であると彼に請合った。裕仁はそれを受け入れ、深夜零時5分、図書館に戻った。
 それぞれの収録から、再生用と放送用の、二枚ずつのレコードが作られた。何度も聞いてみた後、技術陣は、最初の収録のほうが遥かに感動的であると判断し、裕仁と連絡が取られることなく、二度目を使わない理由となった。合計四枚のレコードがプレスされ、いずれもが缶と木綿袋に梱包され、保管のために、一人の侍従に渡された。慎重に考慮の上、その侍従は、宮内省省舎二階の皇后の控え室の一つにある書棚裏の金庫にそれらを隠した。(128) 


                   最後の芝居

 裕仁がレコードを収録をし、阿南陸軍大臣が閣僚たちに別れを告げている間、その長く実に周到に準備されたクーデタはついに姿を現すに至った。午後10時、久々の空襲警報が鳴り渡った時、クーデタの首領の一人、井田正孝中佐は、陸軍省の将校宿舎の寝台に横たわり、胸に迫る暗鬱感を抱きながら、天井をみつめていた。井田は憲兵隊の塚本が台湾から帰還して最初に接触した人物で、ともに阿南の参謀であった。それまでの一週間、井田はそのクーデタの最も熱心な推進者であったが、その朝、裕仁が防空室で最終決定をして以来、止むなくその計画を断念していた。彼は年下の火付け役、畑中中佐に、その午後、自分を当てにするなと告げ、日本陸軍将校の集団自決という新たな企てに没頭していた。もし、十分多くの将校が命を絶ち、戦争敗北をもたらした彼らの責任を表したならば、それは日本の誇りを守り、同時に、アメリカ人に天皇非難を止めさせえるはずであった。しかし、井田が陸軍省において将校たちを調査したところ、わずか20パーセントが自決を望んでいるのみであることがわかった。70パーセントは何も答えていなかったが、10パーセントは、密かに姿を隠すことを考えていた。井田は、この調査結果に余りに落胆させられ、彼自身の自決を果たすため、宿舎に引きこもっていた。
 空襲警報が鳴り響いた時、井田中佐はまだ寝台に横たわっており、爆弾が彼を直撃しないかとも考えていた。その部屋に彼の友人の畑中中佐がいきなり飛び込んできて、意外なニュースを伝えた。それは、阿南が自殺を図ったというものと、近衛部隊の2連隊とともに吹上庭園でクーデタを支援することを畑中中佐が引き受けたというニュースであった。井田と違って畑中は、思考のもたらす精緻な抑制に左右されることはなかった。彼は行動派の人間であった。ハンサム、真面目で、すらりとし、運動能力に優れ、もし彼が35歳まで生き延びたなら、さぞかし立派な軍人となるかと思われる風貌の人物だった。
 井田中佐はその話を不機嫌に聞いており、頭を横に振りながら、クーデタは集団切腹と同じほどには、もはやアメリカ人を動かすことにはならないと、彼の熱狂的な若き友人に言った。畑中中佐はそれに即座に、ふたつの計画は合体できるのではないか、と説いた。クーデタの後、共謀者らが自決におよぶ。井田中佐は、この考えにいくらか刺激され、畑中はさらに自説を展開した。井田の参加なくしてはクーデタは始まらないと、畑中は井田を持ち上げた。井田は、近衛連隊全体の指揮をとる森中将の親戚であった。井田の協力なしに、森中将に働きかけ、クーデタのために必要な命令を出すよう説得するのは不可能であった。井田は、この論理に動かされ、その役を引き受けることに同意した。
 二人の共謀者は、その蒸し暑い夜、陸軍省から皇居北端にある近衛連隊本部までの二キロほどを、自転車に乗っていった。井田の自転車がパンクし、畑中は止まり、その不器用な中佐がそれを修理するのを手伝わなければならなかった。二人が北門に到着したのは午後11時で、ただちに森中将への面会を求めた。しかし森は、しばらく待つようにとの返答をよこした。森は、五時間前、天皇の侍従長が言った用意周到との言葉を、それ以来、考え続けていた。その時、彼は、広島から来た義理の弟の相談にのっており、初めて、原子爆弾の効果についての目撃談を聞いていた。
 森中将は、この共謀者たちを一時間半も待たせ、ようやく面会したのは、ほぼ12時30分になってからであった。それまでに、彼は、裕仁がレコード収録から皇居図書館の安全圏にもどったことを確認していた。扇動者畑中は、森に、近衛連隊に命じて皇居を掌握し、皇居図書館を孤立させ、天皇の名で陸海軍に戦争を継続する命令を出すように要求した。畑中は、阿南陸軍大臣に成り代わって話していると主張した。森は、それは誤りであると認めず、12時45分、畑中は、その確証を取るため、阿南宅に彼を訪ねることに同意した。彼は、森と、その森と話をしている親近者の井田中佐を残して退去した。
 五分後、宮内省省舎の侍従たちは、天皇と皇后は就寝したとの電話連絡を受けた。その時、阿南陸軍大臣は、皇居南の官舎で自害を準備していた。田中東部軍司令官は、第一生命ビルの和平派本部の上階の自室で仮眠していた。台湾から帰ったクーデタの見張り役の、憲兵塚本は、その夜の責務を果たすこととなる、皇居の北門外にある憲兵隊本部でうつらうつらしていた。石は投じられ、北門内の近衛連隊本部では、森中将と井田中佐が、熱心に話し合っていた。12時50分から午前1時までの間のどこかで、彼らに、神出鬼没なX中佐が合流していた。
 畑中中佐は、阿南陸相の義理の弟、竹下〔正彦〕中佐よりその確証を得るため、将校車を徴用して皇居の反対側へと向った。午前1時ごろ、彼は目的地に着いて竹下に、阿南に会って森近衛連隊長に電話してもらうよう頼み込んた。竹下は彼のできることを行う約束をし、畑中は近衛連隊へと引き返した。同時に、竹下も出発し、車で義理の兄のもとへと向った。彼が阿南宅につくと、彼が辞世の句をしたためているところだった。「計画にのっとり、今夜、自決するところだ」と、阿南は言った。
 「それは今夜でなければならないのですか」と、竹下はたずねた。
 「この考えに君が反対でないのは結構なことだ」と、阿南は返答した。
 「あなたは中国の前線へと出かける前にその句を詠み、使うべきでしたね」と、竹下は示唆した。
 阿南は笑って、酒を注ぐビアマグを二つ持ってくるよう女中に命じた。「それは順調だ」、「田中大将も東部軍もその支援に反対しており、叛乱は何ももたらさないだろう」と彼は言った。
 竹下は近衛連隊本部に電話をかけ、阿南は計画通り自決しようとしている、と伝えた。そして二人は腰を落ち着け、最後の酒宴にのぞんだ。
 火付け役の畑中が午前1時過ぎに近衛連隊本部にもどった時、森中将、井田中佐、X中佐の三人は、まだ、自決と日本の運命について議論していた。畑中が戻ったので、井田中佐は礼をして二人を残して部屋を出、陸軍航空隊隊長という新たな訪問者により、その議論は終わりとなった。その数分後、火付け役畑中は森近衛連隊長を射殺した(129)。この時、この陸軍航空隊隊長で日本の名だたる軍人家系の御曹司である上原重太郎は、刀を抜き、広島から来ていた森の義弟の首を切り落とした。
 夜と灯火管制の静寂の中で、待機していた皇居中の人々がその銃声を聞いた。二キロ先で阿南陸相もそれを聞き、彼の同僚である森中将が意義ある死を遂げたことを覚った。宮内省の侍従たちもそれを聞き、憲兵の塚本も、北門外の憲兵隊本部でそれを聞いた。
 X中佐は、そうした殺害――自己献身の宮廷儀式――の現場から外に現われ、外で待機していた若手将校にうなずいた。その後、記録が示す限り、彼は皇居の闇の中に消え去ってしまている。火付け役畑中と上原航空隊長は、眼を輝かせ、返り血を浴びてその殺害現場から出てきて、X中佐の後を追った。東条の義理息子、古賀と他の少佐たちがその部屋に入り、床に横たわる血まみれの和服姿の中将からいくつかの印章を取り出し、それを用いて、古賀があらかじめ用意していた皇居を占拠する命令書に押印した。起こされた数百人の近衛部隊兵が兵舎から召集された。井田中佐は興奮し切った畑中中佐に、井田が第一生命ビルへ行き東部軍に一斉蜂起の合図を与えてくる間、代わって指揮をとるように言った。井田は第一ビルへと車で向かい、東部軍司令官に報告し、午前2時45分、皇居北門に戻った。血痕をまとった畑中中佐が彼を待っていた。畑中は首尾よく近衛部隊を配置し、皇居の建物のすべての要所を固めた。彼は、皇居の北門より入ろうとしていたある閣僚を逮捕し、彼を拘束していた。しかし、井田中佐に気の休まる暇は与えられなかった。井田が報告した東部軍はその蜂起を決して支援しなかったからである。
 畑中中佐は、霞んだ眼で、皇居南区画を掌握した部隊をもって何が達成できるか、それを見極めようと、うずうずしていた。井田中佐は、北門の背後にとどまり、統制を維持しようとしていた。畑中は、彼の蜂起部隊が放送協会のラジオ技師たちを逮捕し、南門に拘置していることを知った。その技師たちは、その歴史的録音の後、内務省に居残り、その鶴の一声に乾杯し、千鳥足で帰宅しようとしているところを逮捕されていた。今、畑中の同僚の将校たちは、その皇居での深夜の仕事について、彼らを厳しく尋問しようとしていた。
 畑中の部下はまた、皇居と外界とを結ぶ主要電話線を切断することに成功していた。しかし、二つの秘密回線を切断しそこなっていることを知らなかった。そのひとつは宮内省の海軍侍従武官長室からの線であり、他は、皇居図書館の地下防空室内の陸軍侍従武官室からの線であった。これらを通じ、外宮、内宮の侍従たちは、第一生命ビルにある、田中東部軍司令官と、お堀をこえて連絡をとっていた。また、畑中がその蜂起に参加した頃、侍従たちは、田中大将が事態の総指揮にあたっており、その出来事が深刻な事態に発展しないよう備えていることを知った。田中は井田中佐に会った後すぐ、北門で事態の発展を監視するよう、彼を送り返していた。塚本は、その門外の憲兵隊本部にあって、すべての情報を得ており、部下とともに、即座に行動に移れる準備を整えていた。しかし、塚本は、まだ、憲兵隊の介入が正当であるとは考えておらず、それは危険なことと懸念していた。
 クーデタが実践段階へと進展し、火付け役の畑中中佐は、彼の下士官や兵士の関心を集めるに足る、皇居での軍事的目的を必要としていた。論理的目的が天皇であり、皇居図書館を包囲し、天皇を人質とし、日本を戦争継続に向わせることは、単純なことであった。しかしそうではなく、皇居の門や要所のすべての歩哨が、発せられた偽造の命令の権威を認めているのを確認しながらも、畑中は、無意味な成り行きに二時間を浪費させられていた。兵士に疲れと不安が広がり始めた時、畑中は、クーデタの目的が天皇が録音した降服レコードにあり、それが国民に放送されることを防ぐことであると宣告した。
 午前3時、畑中の部隊は、内務省々舎を包囲し、夜勤にあたる侍従に、レコードを供出するように命じた。侍従は交渉に応じた。畑中の部下はその建物に入り、侍従一人ひとりに質問を開始した。侍従はみな、誰かがそのレコードを持っているはずで、その男は、兵士たちが疑う誰よりも、「背が高く、高い鼻」をもっているとした。そうした侍従たちはみな、ネール風の上着と縞のないズボンといった、紺色の戦時国民服
を着ていた。そのため、それぞれの侍従を互いに区別するのは困難であった。誰もが、熟達した家僕の風采をしていた。畑中の兵士は、侍従たちが彼らをからかっているように感じはじめ、しだいに苛立ち、暴力的になろうとしていた。
 午前3時20分、畑中の部下が建物の捜査を始めることを恐れ、侍従の一人が木戸内大臣を起こし、兵士たちは嫌な雰囲気にあり、もし彼を見つけた時、彼を殺すかもしれないと報告した。木戸は自室の機密書類をトイレに流し、あるいは、皇室の財産の文書資産が所蔵されている建物の下の大きな鋼鉄製地下金庫に避難させた。彼は、まるで国債書類と同然かのように、宮内省大臣と幾人かの書記官や守衛と共に、その夜の残りを、そこに閉じ込もって過ごした。その地下金庫は、階段で四階の謁見室の外の、婦人用控え室の戸棚に通じていた。そこには、二人の収容者がその建物で何が起こっているかを知ることができるよう、のぞき穴と通話装置が備えられていた。
 木戸が安全に隠れるとすぐ、録音レコードを処置した侍従は、皇居図書館が包囲され遮断されたとの報告を確かめるため動き始めた。彼は名を徳川義寛#13 といい、その身の安全は保障されていた。というのは、彼は、日本史の中で代々の将軍を輩出し、兵士たちでの評価において今でも天皇の次に位置する、徳川家という名門の出であったからである。徳川侍従は、いかにも貴族的態度をもって、反乱軍とわたりあった。皇居図書館では、彼は、天皇がぐっすり眠っていることを知った。天皇は、自身の後日談によれば、すぐ眠りにはつかず、隣接する寝室からふすま越しに、楽しみをもって耳をそばだてていたとのことである。その隣の英国風の田舎家である妾館では、皇后良子が同じように何事にも気付かないでいた、と徳川侍従は言われた。徳川は、安全のため、そうした二つの住居の鉄のシャッターで閉ざしてから、暗い庭園を徒歩でゆき、カエデの覆う丘の下に新たに設けられたトンネルを通って戻った。(130)


 宮内省省舎では、徳川侍従は、反乱軍が玉音レコードを探して一部屋ごとの捜索を始めたことを知った。兵士たちは、室内装飾を切り裂き、中国楠木製のひつを壊して開けていた。彼らは、家具のほとんどが西洋風であることに怒っていた。徳川は、愛国的な当てこすりをもっていきり立つ彼らに従っていた。だが、自暴自棄となったある軍曹#14 が彼の顔をなぐり、一人の中尉が彼を座らせ、刀でもって、レコードがどこにあるかを言えと脅かした。徳川は、侍従武官の休憩室に行き、決然と、軍が紀律を回復するよう問い正した。海軍侍従武官が彼を脇によせ、彼が東部軍本部と今しがた秘密電話回線で話をし、全ては掌握されているとささやいた。田中東部軍司令官は、午前4時過ぎ、反乱軍の抑制に取り掛かるため、将校車でその本部を後にしていた。そのすぐ後、彼は、北門において、反乱軍の見張りをおこなっていた、憲兵隊の塚本中佐と合流した#15




                 
天皇に捧げられた命

 午前3時30分、兵士たちが宮内省省舎に入った時、井田中佐は、阿南陸相に報告するため、北門の自らの職務を離れた。その彼が阿南と会った時、阿南は秘書と義理息子と酒を飲んでいるところだった。阿南は白いさらしで腹を巻き、天皇より授かった白いシャツを着ていた。井田は、皇居で始まった蜂起行動を報告し、座してその宴会に加わった。午前4時ごろ、上原航空隊長が電話をよこし、森近衛連隊長の殺害における自分の役割を歓喜して報告した。阿南は「何かそのほかに償いを」と言い、飲酒を続けた。すぐ後、義理の弟の竹下は、飲みすぎではないかと阿南に尋ねた。阿南は、酒は血行を良くし、まして剣道五段の自分が自害しそんじることなぞありえない、と竹下のその老婆心を否定し、なおかつ、阿南は全員をその場から退かせ、一人にするよう頼んだ。
 井田中佐は外へ出て待機した。彼が後に語ったところによると、彼を皇居へ送り届ける車をつかまえようと、道路際で待っていたという。しかし、彼はたやすく車を呼ぶことができたのにである。つまり、彼がしようとしていたことは、阿南が約束を果たし、自害をとげるかどうかを確かめようとしていたのである。結局、井田は室外に愛国の思いで立っていたのであり、その間に、彼の肉親の森近衛連隊長は射殺されていた。
 太々と子供じみた書体で、阿南は、苦心して二つの遺言をのこしていた。そのひとつは、数年前、彼が中国へ行くに当たって書かれた歌である。
 その第二は、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 〔昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾〕 神州不滅ヲ確信シツツ」との、散文調の一文である。生き残ったほとんどの参謀たちは、阿南が自身で大罪を引き受けることにより、敗北に至った軍の罪を意味したと信じた。身辺雑務を片付けた後、阿南は義理の弟と相座して、さらに酒を交わした。混乱した現代世界の真っただ中とはいえ、58歳のかじ取り役にしても、古式ゆかしい名誉の作法にのっとることは容易ではなかった。
 午前5時30分、憲兵隊最高司令官が阿南宅を訪れ、田中東部軍司令官が皇居北角の近衛連隊施設内にあって、先に出された偽の命令を無効とし、兵士に兵舎への帰還を命じていると知らせた。叛乱はついえた。憲兵隊最高司令官は、阿南のことに親しい友人であったわけではなく、この陸相に面会する特別の地位にはなかったため、彼はその報告を義理の弟に与えた。
 阿南陸軍大臣にとって、時は訪れていた。彼の死は、先の森の死のように、叛乱が完全な見せかけではないことを示すために必要であった。彼は寝室の縁側に出て、その前年に戦死した息子の写真とともに、先にしたためた二つの遺言を並べた。彼はひざまずき、右手に短剣を、左手に短刀を持った。彼は、雨戸の隙間から差し込む朝日の筋をみつめた。彼はしばらく、庭の歩哨の足音を聞いていた。そして彼は、短剣を肋骨下の肉ばった腹に刺し、それを右にねじり、胃を切り裂き、鋭く切り上げた。定められたその痛々しい作法に従いながら、彼はまだ命を保っていた。彼は左手の短刀を首の右側に回し、頚動脈をさぐった。
 義理の弟が部屋に戻り、阿南の脇にひざまずき、叛乱が確かにその目的を果たしたことを伝えた。「ご介添えは」と彼はたずねた。
 阿南は首を横に振り、短刀を首に突き刺した。それは頚動脈をはずしたが、頚静脈を切った。彼はひざまずいたまま、その後ほぼ一時間も、体を左右に揺らしていた。そして彼は前に倒れ、床の上で無意識のまま、出血ともだえを続けた。義理の弟は座り続け、彼の最後を見とどけていた。午前7時30分ころ、訪れた将校の一人が衛生兵を呼び、彼を絶命させる注射を打った。
 阿南の寝室からほぼ1キロ東北の皇居内では、田中東部軍司令官が、要所を回って兵士を兵舎にもどらせていた。彼の両眼は光っていた。何年も昔、オックスフォードの学生であった頃に初めて蓄えた彼の見事なひげが、ことさらにねじれて張り出していた。彼は訓告を強調しながら、その都度、乗馬用むちで自分のブーツを容赦なく打った。彼もまた自害を決意していたが故に、彼をいっそう尊大にさせていた。阿南の同窓生であり、旧友であり、そしてライバルとして、彼もまたそうせずには済まなかった。九日後、陸軍が天皇に従い整然と降服を受け入れるべきと彼が確信した時、彼は自分の頭を撃ち抜いていた。皇居では、今、兵士たちが即座に彼の指示に従っていた。混乱はその聖なる構内からたちどころに消えうせ、夜明けの鳥たちのさえずりの場と変わっていた。(132)
 阿南参謀の若い将校たちは、部隊にも去られ、皇居のお堀より二区画離れた日本放送協会の事務所へと引き上げた。そこで、国民への最後の声明を発しようと、送信機を作動させようとした。だがそれにも失敗した時、彼らは解散し、早朝の勤めに出る群集にまぎれて散らばっていった。
 その夜には、これ以外の叛乱行動があり、和平計画にかかわる裕仁への追随者の自宅を襲った。これは、絶対に確かな軍略、つまり、作戦上の常套手段であた。1930年代に、三度の見せかけのクーデタが試みられれたが、その際も、つねに、同時多発襲撃が主要摘発者の自宅に加えられた。1945年8月14日の夜では、裕仁の主席顧問木戸内大臣邸を憲兵隊が襲撃し、別の憲兵隊によって撃退された。また、雇われた市井の愛国主義者が、数人の兵士によりそそのかされ、皇居防空室での和平推進策の張本人である、鈴木首相や平沼卿の私邸に放火した。だがその被災者たちは、事前に一定の警告が与えられ、自由に逃げ出すことができた。平沼卿傘下の右翼党派の跳ね上がり者の何人かが、その襲撃放火に加わっていたからである。
 鈴木首相宅では、なんとも滑稽な光景が、その気さくな老哲学者をも巻き込んでいた。というのは、彼の家族や貴重品を乗せた避難用公用車のエンジンがかからず、その車を下男たちが押そうとしても重過ぎてびくともしなかった。そこで、一軍を撃退するに十分なほどの彼の護衛が周囲の待機所からかき集められ、その車を坂の上まで移動させられた。鈴木首相もその一人だったが、誰もがその滑稽な騒動を楽しむ風であった。そして遂に、坂を下る車のエンジンが始動した時、そうした護衛は、鈴木邸前に集まった野次馬どもとともに大喝采して、その持ち場に帰っていった。その後、誰もそれらの放火罪を告発せず、鈴木も平沼も、減額された火災保険を受け取っただけであった。ここで重要なのは、世間はそうした事態の展開に不満ではなく、二人の面目もそれで維持されたことであった。こうして、皇居内でおこった反和平クーデタの罪状も問われず、御前会議での机上和平派クーデタにも、ほとんど関心が払われなかった。
 8月15日、水曜日、午前7時21分、日本放送協会は、叛乱兵が切断した電線を回復させ、放送を再開した。「天皇は今日正午、ご自身によるお言葉を述べられます。これはかってなく有難いことです。すべての国民は、この天皇のお言葉を丁重に聞かねばなりません。昼間電力供給のない地域にも、電気が供給されます」。それまでの数週間での出来事や二日前に投下されたビラの後であっただけに、天皇が放送しようとしていることが何であるのか、東京の住民はほぼそれを心得ていた。その午前を通し、宮内省近くの皇居南門外の皇居前広場は、安堵と悲嘆を抱く人々がぞくぞくと集まっていた。正午、皇居前の、そして、全国の都市の広場の拡声器は、天皇の声を伝え始めた。
 いずれの広場の群集も、屈辱と信じられなさに泣きくれながらも、疲れにまみれた安堵感に捕らわれていた。人々はひれ伏し、頭を地面に打ち付けていた。あちこちで、自身を刺し、弾丸を撃ち込む人々がいた。群衆はそのいちいちの遺体に頭をたれ、旅立ってゆく魂に祈りの言葉をささげ、沈黙してそれぞれの住処に向けて散って行った。その週、将軍から兵士まで376人の陸軍軍人、提督から水兵まで113人の海軍軍人、37人の看護婦や民間人、総計526人のみが自らの命を絶った。#16
 皇居内で自決した者は、火付け役の畑中、東条の義理息子と、前夜の絶望的クーデタの指導者の三人である。四人目に、叛乱者の一人で殺された森大将の義弟、上原航空隊長が二日後に拳銃自殺した。今日、四人の叛乱将校が、東京で生存している。うち一人は、自衛隊の歴史研究課を統括している。第二は、阿南大将の義弟で、防衛大学を率いている。第三の荒尾は、自動車販売店の社長を勤めている。第四の井田中佐は岩田と名を変え、彼が自決しなかったことを恥とする妻と離婚した。彼はまた、南京略奪の際に朝香宮を助け、クーデタの公式立会人として台湾より帰還した憲兵、塚本誠がその重役をつとめる広告代理店 〔電通〕 で働いている。
 裕仁の放送を通じ、日本人は、戦争の終結を知った世界で最後の民族となった。他の国民は、日本のニュース供給会社の同盟が、東京時間の前日の午後2時49分に、沖縄のアメリカ人担当者に流した以下のメッセージですでに知っていた。「8月14日付け東京発緊急特報; ポツダム宣言を受諾する天皇の声明がまもなくある見込み」。日本人が、自ら「臥薪嘗胆」と表現する天皇の放送を聞き終え、家路を急いでいる時、ロンドンでは、気安く立ち入れるアパートで、まず最初の対日戦勝祝賀会を催させていた。ニューヨークでは、タイムズ・スクェアに続々と集まる兵士、水兵、女たちの群集が〔15日を迎える〕深夜0時の瞬間を待ち受けていた。
 連合軍によって降服条件は定められ、原子爆弾がそれを強要し、天皇がそれを受諾した。かくして連合軍は、日本を一挙に降服へと至らせ、中国の共産化に数年の時差を作らせた。連合軍は、その目的達成のために、日本の誇り高い民族性を保ち、天皇の偉大な力を利用することに成功した。復讐心はすでに果たされており、復興を進めるにはもはやそれは必要ではなかった。14万人の広島、長崎の死者は、南京のそれに成り代わり、16万6千人の空襲による死者は、日本の捕虜収容所で飢えと暴力で殺されたアメリカ人、オーストラリア人、英国人の捕虜数を上回っていた。ただ、無知と猜疑が克服されずに残っていた。戦争にともなう数字上の辻褄合わせは、平和時の交渉術に取って代わらなければならなかった。片やの神道とか天皇制、他方のキリスト教とか民主主義という、不明瞭な相手側の概念は、その生きた意味が理解されなければならなかった。互いに相手の言葉を話す数百人のアメリカ人や数千人の日本人は、「無条件」降服という空欄の小切手に内容を与えなければならなかった。
 皇居では、木戸内務大臣と裕仁天皇が理解を希求していた。かれらは、相手がキリスト教的親切さを実行してくれることを期待し、相手が民主化に失敗することを祈っていた。かれらが天皇制を存続できない限り、かれらは祖先に応えようがなかった。貴族制度と身分制度なくしては、その生者の社会は死者の霊魂の世界と一致できなかった。それまでは、その和平計画はほろびゆく者を相手としてきたが、今や、勝利者を相手としなければならなかったのである。



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