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 連載

相互邂逅 第三部




 提出した論文の審査は、オーストラリア、シンガポール、日本の三カ国の大学の Industrial Relations を専門とする教授たちによって行われ、95年の8月までにすべての結果が高学位委員会にもどされてきた。一つがマイナーな表現上の修正を条件とする以外、他の二つは無条件で、いわばほぼ完璧な合格だった。そして8月13日、同委員会より、正式な合格通知を受け取った。
 論文のタイトルは 『Construction Industry Unionism in Japan』 。それは、今になってそうと判ったのだが、僕の建設産業とその労働組合運動との関わりが一体何だったのか、実質的に、それを総括する内容となっていた。むろん、このタイトルに至るには、時々のそれなりの曲折を経たもので、PhD論文でそんな総括をしようとの意図など全くなかったのだが、出来上がったものはそういう内容となっていた。思考するとは、そういうことなのかもしれない。事実、この完成をきっかけに、僕のこの世との職業的な関わりは、 “建設業離れ” をして行く。そういう意味では、それは建設業からの卒業論文であった。
 一方、永住ビザの審査は時間を要した。95年中にはその結果は出ず、年が明け、ようやく3月になってその通知を受けた。3月21日付でビザが下りたとの連絡を、法律事務所経由で得たのだった。
 1984年10月のオーストラリア 「上陸」 以来、12年を要しての、 「両」 ターゲットの完全達成だった。こうして、当時37歳の僕は、もはや50歳一歩手前になっていた。
 かくして、僕はオーストラリア生活への 「導入期」 を終わらせ、ほぼ50歳という大台に達してようやく、その本格的な異国生活を始めることとなる。50歳と言えば、常識的には、そろそろ人生の着陸点を見つけようとでも考え始める時期である。だが、僕の場合、遅蒔きにして始まる、新航海への船出であった。

 思いおこせば、長いながい道のりであった。ある意味では、この “ダブルサクセス” で、来豪の目的を果たしたのも同然との思いも無いではなかった。
 しかしその一方で、この達成は、僕たちの夫婦関係に決定的な制度上の変化をもたらし、新たな岐路を示し始めていた。というのは、僕らのオーストラリア滞在はそれまで、僕を筆頭者、妻をその配偶者という、二人をセットとした学生ビザ保持者として許されていた。それが、永住ビザは、個々別々にその永住権が与えられるものであった。つまり、もはやビザつまりオーストラリア入国許可による夫婦関係の縛りはなくなり、二人の関係は自由意志にまかされるものとなった。もちろん、妻を悩ませてきた労働時間制限はなくなり、好きな仕事につくことも自由にできるようになったのは言うまでもない。
 民主々義を標ぼうする一国の制度として、その国がある人に永久の居住を許す以上、その人がどのような婚姻関係や雇用関係を結ぼうが、それは個人の自由の問題、とはなる。他方、勉学を目的とする一時的なビザである学生ビザが家族連れである場合、申請時の関係の維持を条件とするのは理にかなっていると言えよう。しかし僕にとっては、 「学ぶこと」 は必ずしも 「一時的」 なものではなかったようで、だからこそ、学生ビザからの延長もごく自然なものとしてあり、そこに永住ビザ問題が発生してきていた。ともあれ、かくして制度は、僕を学生とは見なさなくなった。つまり、二人は、二人の各々の永住ビザ保持者となっていた。

 僕らはオーストラリア 「上陸」 以来、こうした眼先の希望やそれに伴う課題として、こうしたビザ問題に取り組んできたのであるが、それがこうしてクリアーされ、いよいよ、外国暮らしの本番に関わってみると、その本来の課題とも言うべき事柄と出くわすこととなった。それは、自分と国の関係をどうするのかという、きわめて深い “選択” 問題にからんでいた。
 人を取り囲む環境には、同心円状にさまざまな境界がある。家族の枠を始めとし、町村や都府県などの境を越えるのは、それをそうと意識することの少ない、多分に人の成長に伴っておこる活動範囲の拡大の問題である。だが、それが国のそれにまで達すると、そうした自然な拡大とはされなくなる。第一に、面倒な法律上の手続きが必要となってきて、それまでには意識もしていなかった、自分を取り囲む幾重もの基盤というものを考えさせられることとなる。
 たとえば、永住ビザを獲得した後、博士号の獲得と合わせてのお祝いとして、長らくお世話になった元教授のH氏宅に招かれた時のことだった。食事の後の歓談中、彼が僕にこんな質問をした。
 「さて、次はシチズンシップの獲得だけれど、すぐにするのかい?」
 彼が僕の前に世話していたインド人学生の場合、永住ビザ獲得の後、すぐにシチズンシップの獲得も済ませたらしかった。
 だが僕の場合、それは、即答には少々難しい入り組んだ質問だった。僕はいろいろ考えつつ、こんな意味の返事をしていた。
 つまり、僕にとっては、国とは、選択の対象にはならない、生存上の所与の条件のひとつであるようなのだ。ところが、オーストラリアが移民の国であるように、大半のオージーにとって、国とは、職業や商品の購入と同じような、選択の対象であるようだ。
 僕は、この違いの意味を、まだはっきりとはつかみきれていない。アジア的現象かとも考えてみるが、身辺に居る中国人などを見ていると、彼らの便宜主義には、欧米人を上回るものがある。どうやら、この違いは、きわめて日本的現象であるようだ。
 ともあれ、こうして僕は、選挙権は別として、そのほかの義務や権利としては、他のオーストラリア人とは異なることのない身分となった。むろん、選挙権が与えられていないのは大きな違いである。ただ、当方の受け止め方としては、意識上の投票行為は、事実上、毎回の選挙ごとに行っており、その点での引けをとるものではないと思っている。時には、うんざりさせられやすい政治に、一定の距離を置ける (オーストラリアでは投票は義務で罰則がある)、きわめて都合のよい立場ではないか、と感じることすらある。ともあれ、僕にとって、こうした “もろ選択” の世界が、外国暮らしの実際上の出発点となったのだった。これは、妻にとっても同じことであったはずである。
 かくして僕らは、二人の関係においても、日本に居つづけていたなら決してできなかったであろう体験をしてゆく。それは、心理上での少なくない葛藤を味わいつつ、夫婦関係におよんできた、新たな関係の 「選択」 であった。
 ただ、僕らが、法律的にはいわゆる 「離婚」 と分類される、この婚姻関係の清算手続きを踏むのは、このあと9年間の別居生活を経たのちの2005年3月である。この間、ゆっくりとした時間の発酵作用にことの経緯を任せつつ、あわてずあせらずはやまらず、僕らはその結論に達し、互いにその 「清算」 した関係になって今に至っている。僕は、この互いの個人への復帰を、 「原点回帰」 と呼びたいのだが、この 「清算」 自体は、日本で生活していても出来ないことではなかったろう。だが、それが果たして 「原点回帰」 と呼べるものまでになっていたかどうかは疑問である。つまり、オーストラリアでの 「もろ選択」 の環境が、互いに憎みあったりせず、ことに、二人の間の尊重関係を崩すことなく、軟着陸できた要素であったのではないかと考えている。
 ちょっとしつこいのだが、こうした原点回帰も、 「ダブルサクセス」 による、安定化した生活条件の二人ともの獲得がベースとなったがゆえとは言える。
 ひっくりかえして言えば、二人の婚姻関係は、ビザの脅迫や不安な生活条件にさらされていた方が強化されていたのは確かだ。この逆説的事実と、 「もろ選択」 の環境、そして 「原点回帰」 ――この “三点関係” は一体何なんだろうかと思う。
 一時に模索したように、もし、僕が二つの目標のいずれか一つを断念していたなら、今はどうなっていたのかとも想像する。
 博士号をみやげに日本に帰国しているか、それとも、博士号断念の不燃焼感を噛みしめつつオーストラリアにしがみついているか。ただいずれの場合でも、二人の婚姻関係は妙な粘性を伴って維持か破断され、互いの 「原点回帰」 が生じることは決してなかったろう。
 いずれもむろん人生だが、今の僕としては、「両方をとる」 方法を選んで良かったと自負しているのはもちろん、その結果として至ったこうした 「三点関係」 の発見に、オーストラリア生活の真の醍醐味――脱日本実験の効果――が、いよいよ、出現し始めていると思うのである。
 
 つづく
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