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1 不可解な病気



 その運命ともつかぬ何ものかにつきまとわれているのは、実はわたしではない。わたしの妻の春子である。
 わたしの論理に言わせれば、彼女にそのような厄介がおよぶ、少なくともそうした程度に相当する理由は見当たらない。
 そんな仕打ちを受けねばならぬような行動をとったどころか、むしろその反対に、彼女はけなげな生き方をしてきたと断言できる。それなのに、いろいろな思いもよらぬ問題が次からつぎへと起こってきて、わたしの論理では扱い切れなくなってしまっている。
 その結果、わたしの論理はすべをなくしてその機能を停止し、それに代わってやり場のない感情が働き始めているのである。そして、なんとも彼女が可愛そうで気の毒で、年寄りくさい言い方だが、不憫でしょうがないのだ。
 春子は、じれったくなるほどの自己犠牲と時にはやや滑稽な一人よがりはあるものの、他者へのおもいやりの深い、賢くてかつ辛抱強い女性である。
 抜群の責任感があり、一度任されたこと、始めたことをけっして途中で放り投げるようなことをしない。
 目上の人物に対する自然な敬いの気持ちに、控えめな振る舞いと独特な人を見る眼を合わせ持ち、信頼性という面では、企業の上司にしてみれば、彼女にまさる部下を見つけるのはまれなことであろう。
 日常生活の上では、自分のことを先にするようなことはまず絶対といっていいほどなく、むしろ、その奥ゆかし過ぎる性格が、自分の感情を犠牲にし、人に甘えることを自らできなくさせている。
 だから、彼女は自分を理解し、さりげなくかつ適切に認めてくれる人に絶大な忠誠と信頼を表わす。自分から要求することで喜びをみいだすのではなく、他から、ひそかでも正しく認められることを通じて、はじめてそれを味わうのである。
 いわゆる個人主義者とは対照的なパーソナリティーである。
 生き方のスタイルとしては、春子は強い故郷志向をもつ。
 新潟県北部の農家に生まれ高校を卒業して東京に就職するまで、彼女をはぐくんだ豊かなふる里をもち、その自然環境、町村社会、米作り文化を全身で吸収して成長した。その故郷の人々の間での強いきずなに支えられ励まされて、良い学業成績を誇りとし、そして結構な苦労をしながらも、根強い郷里心をバックボーンとして青春期までをすごした。
 ある時わたしの友人が、「要するに春ちゃんは、身を立て、名をあげ、いざ励む、『仰げば尊し』なんだよ」とたとえたことがあった。
 的を射ている。故郷を持たないわたしにはない「故郷に錦を飾る」といった物差しを、いまも心のどこかに持ち続けているような人である。
 そうした春子に、わたしは最初、親しい友人の奥さんの職場友達として出会った。
 わたしが彼女に関心を抱いたのは、その友人の誕生日の集まりの席で、彼女のユーモアのセンスにわたしはキラリと光るものを感じたからだった。面白いというのではなく、感覚がゆたかといったユーモアだった。
 わたしは、その場にいた他の友人たちの誰もが彼女に関心を示していないのが不思議だった。ともあれ、お陰で一人の女性を競い合う無用のエネルギーを使う必要もなく、わたしは彼女にアプローチすることができた。
 時は一九七一年初夏、わたしが二十四、春子が二十一の時だった。
 偶然、たがいがそう遠くない所に住んでいたことも手伝って、わたしは彼女の四畳半一間のアパートをよくたずねた。ふたりは急速に親しくなった。
 二歳下の妹といっしょに住んでいたが、二人とも交代勤務で働いていたため、二人がいっしょのところにぶつかったということはまれだった。
 そう長くかかることなく、わたしたちは肉体関係を持つようになった。わたしには初めての女性だったが、それはいとも自然で普通な発展に思えた。
 やがて、わたしは彼女から妊娠を告げられた。わたしは少しの迷いもなく、彼女といっしょになる決心をした。出会いから八ヵ月後だった。
 だが、結婚の準備をしている最中、それは想像妊娠であったとさらに告げられた。なんだかうまく担がれたようだったが、わたしには後悔も猜疑もなかった。
 もし、そうしたきっかけがなかったら、わたしは結婚を決心できなかっただろう。むしろわたしには、そうしたきっかけもなく結婚を決意できてゆく人達が謎だった。
 わたしは若かった。わたしは、自分の内を満たす熱いものだけで充分満足で、それ以外に、式とか衣装とかがなぜ結婚に必要なのかが解らなかった。
 そうするカップルが大勢いることはもちろん知っていたが、自分達はそうしなくても十分しあわせだし、大丈夫だと思いこんで疑っていなかった。おまけに、春子もそうだと信じていた。
 わたしは春子の希望を押し切って、式もごく簡略にし、花嫁衣装も省いて、白いワンピースを新調しただけにしてしまった。
 後になって、とんでもない間違いだったと解っても、リプレイは働かなかった。


 新婚生活は、誰もがそうであるように、わたし達も幸せだった。
 わたしには親しい友人が多かったので、新婚所帯にはしょっちゅう誰かがたずねてきていて、六帖一間のアパートはよく集会場のようになった。そしてしばしば、飲み疲れた友人たちはその晩を雑魚寝で泊まっていった。
 電話公社の交換手をし、交代制の勤めをしていた春子が、夜勤明けで帰ってきても、疲れを癒すはずの自宅が、別の疲れを与える場となることも少なくなかった。厚かましい友人達を春子は怒ることもあったが、わたしにはそれもこれも普通の生活の一部に思えた。
 だが、わたし達の人並みな新婚生活は、わずか六ヵ月で終わった。
 八月、彼女の身体に異常が始まった。そうした無理がさわったのかとわたしは反省した。でも、なんとも不可解な病気だった。
 当初、異常は、つかんだはずの食器を落とすなど、手や指の支障からはじまった。やがて春子は肩や背中の痛みを訴え始め、手足の冷えや生理不順も併発し、ついには苦痛で不眠におちいるようになった。
 背中に鉛を張り付けられたような鈍痛と冷たさと春子は苦痛を訴えた。だが、その原因は、病院をいくつも変えてみてもはっきりしなかった。
 その時、わたしは建設技術者で設計の仕事をする勤め人だった。それは、大学卒業後、建設業界でのいくつ目かの仕事だった。わたしには建設関係に働く身内も多く、その影響もあって工学部の土木科に入学し、学び、卒業した。建設技師の仕事は周囲から少なからず期待されていた職種だった。
 だが、わたしに合わなかったのか、そうした仕事への興味をしだいに薄れさせていた。そしてさほど大きなやりがいを感ずることもなく、職業的には単調な生活を送っていた。
 そうした折りに遭遇した春子のその病気は、後になってわかったのだが、当時多発し始めていた頚肩腕症候群とよばれた職業病であった。
 キーパンチャーや電話交換手など、手や指を酷使する人達に多く症例が見られていた。
 医師たちはうすうすそれを知っていたのだったが、そうした問題にかかわりあいになるのを避けてか、わたし達への説明はぼやかしているようだった。
 それでも、次々と現われる患者に加え、病気のもたらす苦痛と周囲に解ってもらえない孤絶との板ばさみの中で、自ら命を絶つ患者があいついだ。人生も始まったばかりのうら若い女性たちばかりであった。
 こうして問題が深刻化するなかで、ようやく、電話公社の労働組合が重い腰をあげてこの職業病問題に取り組み始め、わたし達にも病気についての情報が入るようになった。
 わたしは、春子の職場の代表委員に会い、関連した資料を入手してくまなく読み、ようやく合点が行く説明を発見した。発病して数ヵ月がたっていた。
 この間、春子はその苦痛と不安からみるみると痩せ、十五キロほども体重を失なっていた。お尻の肉もげっそりとこけてしまい、ジーパンを買うにも合うサイズがなく、子供用のものをやむなく求めてはいていた。その後姿は、栄養失調の少年のようであった。
 組合が動きはじめてくれて頼りになるかと期待されたのだが、問題はそう単純ではなかった。
 電話公社の組合には、社会党系の主流派と共産党系の反主流派があって互いに争い合っていた。主流派は組合の実権をにぎっていたが、反主流派はこの問題が主流派攻撃の格好の材料でもあったため熱心に関わっていた。
 この職業病問題についての医療上の取り組みの面では、一患者やその家族の目には、共産党系の医療機関が進んでいるように見えた。
 だが、組合本体から見捨てられては職場内でいっそう孤立するし、他方、苦痛を少しでも和らげるために進んだ治療を受けたいというさし迫った必要もあった。両派の間を上手に立ち回る、容易でない判断と行動が必要とされた。
 苦痛に加え不眠による精神不安をわずらう患者に、こうした器用な振る舞いは無理な注文だった。
 またそれ以前に、体力を失い、身体のバランスすらあやうくなっていた春子は、一人で出歩くことがしだいに危なげとなっていた。病院へ行くにも付き添いが必要となった。
 また、ストレスにズタズタにされ、体内の均衡をも失ったこうした病気の治療には、身体を部分々々細分化してとらえる西洋医学には限界があった。やむなく、人づてに漢方医やハリ灸医をたずね歩いた。望みのもてるものなら何でも試してみたかった。
 わたし達が結婚したのは一九七二年の二月だったが、春子が発病したのはその年の八月。そして、寒さも身にしみるころになって、わたしは仕事を辞める決心をして、看病や組合、医療機関などとのこうした対応に専念することにした。
 さらに、この病気が職業病なら、この発病を業務上とする労災認定をえて、治療の補償がされるべきだし、春子のためにもそれをとらなければならないと考え始めていた。
 やがて、ただの身内でありながら、あたかもその方面の活動家にでもなろうとするかのような意気込みでいる自分自身をみた。単調さを破るやりがいを発見していたからかも知れない。
 後年になって、「あの頃は取り憑かれているようで危なかった」と友人からもらされたことがあったが、強い使命感のようなものがわたしを突き動かしていたのは確かだった。
 その年の暮れ、組合の協力もなんとかえて、労災申請を行なった。
 申請書類を書くこと自体、当時は医学的証明を患者側が行なわなくてはならず、手のこんだいくつもの書類を作成しなければならなかった。ことに従事した労働と病気との因果関係を立証するのは、詳しい実態調査とその分析に加え、緻密な論理の組み立てとその表現が必要であった。
 また、こうした作業のためには、同じように申請を行なっている他の患者やそのグループとも頻繁に連絡をとって、いろいろな経験上の知恵を借りた。
 病んだ患者自身にはとてもできる作業ではなかった。
 こうしたわたしの看病と労災申請を援助する経験は、わたしをけっこうな職業病のエキスパートにさせる結果となり、これが後年になって、思わぬ場面で役立つこととなる。
 こうして一九七三年の新年はあけ、さらに月日は経過したものの、労災申請の判断は、「業務上」とも「業務外」とも遅々として出されなかった。
 一周年の結婚記念日も、そうした苦痛と不安のなかで迎えた。
 やがて季節は春を迎えたが、わたし達には、見通しのつかない不安と苦痛の日々がつづいた。


 そうした気持ちの休まらない生活にひと時の息抜きを入れようと、この年の七月、二人して沖縄にでかけることにした。
 その亜熱帯の気候が体にいいと聞いたし、沖縄海洋博の開かれる前の、まだ自然のままの沖縄に、何か引かれるようなものがあったからだった。
 まだまだ当時は飛行機の時代ではなかったし、旅費を節約する必要から、往復を船の最下等で旅した。片道三十七時間の船旅だった。
 だが航海中は天候にめぐまれ、船底の船室をのがれ、甲板で昼間の大半をすごした。悠々と流れる時間に身まかせ、洋上をわたる潮風に髪をすかせている春子は、病人であることは忘れているようだった。
 沖縄では慶良間列島の渡嘉敷島を訪れ、抱擁されるように心地いい海中で、色鮮やかな魚たちとたわむれた。夕方には、射抜くような金色の夕陽が水平にわたし達を照射し、春子の病んだ身体を光線治療しているようであった。
 島の民宿では、ふすま一枚で隣室の、地元の学校の先生と知り合うことができ、その先生の好意で沖縄本島の戦争遺跡を案内してもらえる機会にも恵まれた。
 その先生の口から生々しく語られる沖縄戦の実体験談を聞き、無知をさとらされると同時に、深い感銘と驚きの入り混じったショックも得た。思いがけない第二の旅の収穫であった。
 こうして実り多かった沖縄の休暇を満喫し、心身が洗われたような気持ちでわたし達は東京にもどった。
 帰宅したわれわれを迎えたものは、何と「業務上」決定の知らせであった。


 当時、電話公社は交換機を従来の手動のものからコンピュータ化されたものに切り替えていた。その結果、交換作業から差し込み式のコードやダイヤルが消え、ボタン式の自動交換機に置き変えられた。その成果は交換効率の飛躍的な高まりとなったとともに、それを行なう交換手に新種の労働負荷と疲労をもたらした。さらに、高効率化された作業に伴って労務管理も刷新され、増加した仕事量にふさわしいより緻密な監視態勢が導入された。こうして身体的なストレスに加え精神的なストレスもいっそう高まったのである。そうした環境の中で生じて来たコンピュータ時代の新しいタイプの職業病が頚肩腕症候群であった。そうした職業病として、春子のケースは認められたのであった。


 わたし達は、この知らせに大きく安堵した。
 治療のための休業と費用そして賃金が保障されたことは言うまでもなく、くわえて、一時は原因すら不明であった病気とその病因に公認のお墨付が得られたことは、患者の心にもつよい拠り所となった。
 わたしはこの認定を、自分の努力が実り、かつ自分の見方が正しかったと承認されたことと受け止め、一種の勝利感にひたった。だが、それはほんのつかのまの感慨だった。


 こうして始まった闘病生活だったが、それは思いをはるかに越えるものだった。
 今から振り返ってもその長さと影響の深さに驚かされる。長くは、春子が支えを必要とする毎日から能動的に自分の生活を送れるようになるまでの期間で、およそ十年の歳月を要した。また深さという点では、人生の花の時期とも言える二十歳代から三十歳代初期の大半を、失った健康を取り戻すためにひたすら費やさねばならなかった人生の一種の空洞として、わたしは今になってようやくその意味を悟っている。さらに、この病気が残したわたし達の実生活への痕跡が一体どこにまで及んでいるかという意味では、もはや計量や追跡や、いわんや選択すらの域をこえて、わたし達の人生の鋳型となってしまっている。
 ともあれ、そのころ、春子の生理は不順どころか、もう完全に止ってしまっていた。
 かかっていた医師はおもに整形外科であったので、そうした婦人科的な症状には詳しい診断も説明もなかった。だが、それを告げられたハリ灸の女医は、女性の生理というものはなかなかのことでは損なわれないほど根源的なものだ。それが止ったというのは、体内のホルモンバランスに極めて大きな乱れが生じている証拠だ、と彼女の診断をくだした。
 春子の体内ホルモンバランスの乱れはよほど深かったのか、生理はその後十年以上にもわたって回復しなかった。それに加え、便秘や手足の冷え性が持病となったように居着いた。そうした深刻な諸機能不全の結果、わたしたちは夫婦として子供をもうける機会を失ってしまった。


 認定が下りて、ひとまず安心して休養できるようになったのはありがたかった。
 九月末から十月にかけての一ヵ月ほど、わたし達は春子の実家で静養することにした。
 狭苦しく騒音に悩まされる東京のアパートを出て田舎の環境に身を置き、ゆったりとした休養をとることが主目的だった。
 ただ、その時期はちょうど刈り入れの繁忙期にあたっており、期せずして、わたしにとっては生まれて始めて、農家の稲刈り作業を手伝うという経験をすることとなった。
 わたしは都会育ちで、子供の頃から「田舎」という言葉には羨望と卑下を同居させてきた。春子と結婚したのも、そうした混在をなんとか克服したいとする潜在意識があったのかも知れないが、彼女の育った自然環境に引き付けられるものがあったのは確かだった。
 ともあれ、わたしにとってこの訪問は、単にそうした興味ある地に滞在するばかりでなく、春子の育った背景を身をもって知っておきたいこともその理由のひとつであった。
 春子の実家には、一人息子の昇くんがいた。まだ高校生だったが、わたしは彼にとって異世界の人間であったのか、ともかくわたしには無愛想で、あきらかにわたしに馴染もうとはしていなかった。
 彼は一人息子として、農家を継ぐことが運命づけられていた。そのため両親も、彼をなんとしてでも手なずけるため、バイクを買い与えたり、学校をさぼっても大目にみたりして、家業を継ぐという大枠を外さない限り、いわば好き勝手にさせていた。
 その少々不良っぽい彼をわたしは好んだが、なにせ取っ付くきっかけがなかった。
 だが、この稲刈り作業は、わたしに絶好の機会を与えてくれた。というのは、若い男手として、彼とわたしはいつも協同して力仕事をやった。そうやって毎日のきつい仕事をたがいに協力してするうちに、なんとか気心が通じ合うようになっていった。
 ことに刈り入れが大詰めになると、昼間、乾燥させた稲の大束を家の作業場に運んで積み上げ、その山をなす稲束を、どんなに夜遅くなろうとも、稲の自己発熱を避けるため一晩で脱穀し終えなければならない作業がまっていた。しかもこの作業が数日も続いた。夜、遅くなるにつれて、疲れから一家の皆が黙りこくり、ちょっとしたやり損ないでもなじり合うような場面もでてきた。そんな時、わたしはなぜか学生時代の運動部の訓練を思い出し、トレーニングをする要領で、チームワークをうながすかけ声をあげ、調子をとりあう歌をうたった。最初は何事かとみなけげんなふうであったが、しだいにわたしのこの「スポーツ感覚」になじんでくるのがわかった。
 こうした労働が終りかけたある夜、風呂を上がって互いにビールを飲みだした時、その義弟がわたしを「兄貴ィ」と親しげに呼んでくれたのである。
 この時の労働は、わたしにまた別の貴重な体験を与えてくれた。
 というのは、それまでわたしは、むかし母親がわたしを「三日坊主」と呼んだように、ともかくものごとを辛抱強くコツコツとしあげてゆくことを知らなかった。いつも一夜漬け同様のやっつけ仕事でことをすましてきていた。
 そんなわたしが、機械が刈れない田の畔わきの数列の稲を手で刈って行く作業をした時だった。なにをこんなものと一気に片づけようと、わたしは馬力を上げて稲を刈りはじめた。だが、稲の列は延々と果てしなく続いて、とてもでないが、そんな鼻息だけの努力で片付く代物ではなかった。
 やがてわたしは観念し、どう覚えたか、馬力を落とし持続のできるスピードとリズムでもって、休まずたゆまずこなして行く手法を身に付けていた。
 それはわたしにとって実に不思議かつ新鮮な体験だった。そんなとてもじゃないが出来そうにもない大分量のしごとが、その手法によればちゃんと終わったからであった。
 もしわたしがこの時、この手法に目覚めていなかったならば、わたしは後年の人生で手がけることとなる博士論文を、無事最後まで書き上げることはできなかったであろう。
 春子はもちろん、こうしたきつい労働には加わらなかったが、わたしが家族の一員として迎え入られてゆく様子を見届けていた。
 この時わたしは春子から、彼女が自分でそう呼ぶ「私の青空」を教えてもらった。庭先の一本の大きな欅のこずえ越しに見える、澄みきった青空であった。


 こうして闘病のための必要条件はなんとか整えられたかに見えたが、患者本人にしてみれば、それでもまだ、息のつまるような環境は続いてた。
 まず、毎日、ただ休んでいればよいというのは、いわばソフトな拷問であった。人間、毎日、無為で過ごすことほど苦痛はない。何かをし、何かに自分が役だっているとの確認が人を人にする。
 はじめ春子は、毎早朝に放映されているテレビ英会話の番組を見はじめた。いったんそう決めると、前の晩にどんなに遅くなった日でも、欠かさず早起きして、その番組を見ていた。しかもそれが、何ヵ月、何年にもわたって持続された。この執拗さはただ性格からきたものとは思えない。
 第二に、公社は休業と治療補償を与えてくれたが、それを何かにつけて、公社の制度の枠内でさせようとした。もちろん、公社が提供してくれる施設、サービスが十分かつ満足なもであればそれでいい。しかし、頚肩腕症候群という新種の病気であるために、公社が提供する施設、サービスにも大きな限界があった。たとえば、公社には付属の立派な病院があったが、その医療の内容はこの種の病気の治療には時には逆効果でさえあった。しだいに改善はされてはいたが、どうしても患者管理の発想が先に立つのか、当の患者にしてみれば、その病院に行くのは、新たなストレスを被りにゆくのも同然なところがあった。わたしは、組合や局の担当者とかけあい、なんとかそうした逆効果をゆるめる方策に知恵をしぼった。
 さらには、家族の存在も言うまでもなくたいへん微妙で、依頼心とそれに対する本人の自負心との間で休まることのない葛藤が続いていた。
 諸事の境界がはっきりせず線引きが難しいし、感情の問題も大きく、複雑にからまり合う。まして、それが夫婦の問題となるといっそう混迷しがちであった。
 わたしにしてみれば、本人が元気になりさえすれば、こうした家族の問題は解決すると考えた。これは一種の行き過ぎた単純化だったのだが、そう方向付けるしかなかった。そして、健康になってほしいという希望と、それにどう到達するのかとの方法の間で、紆余曲折が続くのであった。


 わたしは定職を持たないままきていたが、それはそれで、わたしはその立場に興味を見い出していた。
 それは、春子を助ける使命感一色に染まっていたというのとはちょっと違う。煮つめて言うと、わたしは何か変わったことに首を突っ込んでみたいところがあって、臆病なくせに何かに挑んでみたい気が強かったのである。
 そうしたこともあって、春子の症状に落ち着きのみられた七四年の中頃より、パートの物書きの仕事をはじめた。その顧客は、わたしの母校の大学の教職員組合とか医療機関をたずね歩くうちに知人となった医師で、前者の場合、組合委員長のいわば代理ライターとして、むろん彼の指示の範囲で、彼の名のさまざまな文書の代作を行なった。技術者として建設に直接関係した仕事につく気持ちはもううすれていた。
 こうして大学に関係した諸般事に関わりながら、大学の卒業生組織の運営にも関与していた。その関係から、わたしの卒業した学科の先輩と知り合うようになり、ある時、彼から建設関係の労働組合の専従職員の職があるがやる気はないかとの誘いをもらった。
 労働組合とは春子の件でも何かと接触があり、いわばそのネガティブな面をずっと見てきたために、最初ためらいがあった。だが、もともとやってはみたい職種とは思っていた。そしていろいろと話を聞き、その組合が納得できる活動をしているのを知って、その話をうけることとした。その組合は、建設の設計、測量関係の技術者の企業別労働組合を全国的に組織した上部団体であった。
 さっそく、わたしはそれまでの経験から、その組合の機関紙発行と、安全衛生問題を担当することとなった。一九七六年の六月であった。
 こうしてわたしは、春子専任の補助役から定職と定収入をもつ普通の夫にもどった。
 久々に始めた勤め人の毎日であったが、その職種が労働組合の専従職ということで、わたしの両親などは不服げで、親戚にはそれを隠しているようであった。
 こうして社会的にはやや肩身の狭い思いで始めた仕事であったが、そんな仕事だったからわたしに合ったのかもしれず、わたしはしだいにその仕事を満足に思い始めた。
 何よりも、仕事のやり方に筋が尊重されていたし、無意味な形式が問われることもなかった。
 またわたしの建設界での学歴と仕事経験が無駄にならず、間接的にではあるがさらにそれを延長して生かすことができた。
 こうして、二十九歳で、その後の八年余りを投入する意義ある仕事を発見したのであった。


 勤めと病人の世話との混在、両立の日々が始まった。
 春子の状態は悪化する様子はもはやなかったが、改善に向かっていると手放しで安心できる状態でもなかった。
 また時として、わたしの春子への配慮や緊張が緩んだり、途切れることがあった。単なる疲れや油断であることもあったし、まだ若い男のフラストレーションが蓄積されていた場合もあった。
 ある日わたしは、前後の経緯はよく思いだせないのだが、一度だけだと思うが、春子にこう言ったことがある。
 「俺は、新婚早々の発病以来ずっと、夫よりも看護夫だった」
 この言葉は、春子には相当ショックだったようだ。病人としての苦痛に、気がねとなっていたことを最も気になるその人からズバリと言われたつらさが上乗せになった。その時は返す言葉もなかったのだろう。後年、元気を回復したある時それを告白された。
 また、わたしの当時のノートには、「選び代えない」といったメモがたびたび記されている。「選び代える」とは、妻をそうすること、つまり離婚を意味していた。
 そうした考えに傾かんとする心をなんとか叱咤し、良くなればすべてが解決するんだ、とただ自分をふるいたたせていた。
 そして、時には小さな回復のきざしに楽観的にはなったが、不思議と、将来がどうなるかとの不安にはとらわれなかった。むしろ、今に懸命となっていた。


 わたしがその新しい仕事につき、その組合の役員らで取り組んだ最初のプロジェクトは、フランスの労働組合、CGTとの交流計画であった。
 六月からその仕事についていたが、九月に組合の年次総会があり、わたしは事務局次長に選ばれた。組合員はわたし位の年齢層が主体で、その役員らもほぼ同年齢だった。
 そうした同世代意識が手伝ってこの計画は一気に盛り上がり、翌年の八月に実行する決定となった。わたしはその国際交流の事務局長として実務のすべてを任された。
 出来あがった計画の内容は、現地滞在一週間のうち、交流に当てられるのは半日のみで、国際交流とは言うものの、実のところはスイスとパリを訪れる国際観光旅行だった。実施時期が夏休み中で、受け入れ側のフランスのCGTがそれだけで手一杯だった事情もあったが、我々はそれでよかった。要は、自分達の計画したそうした旅行を実行し、実際に自分達で、「アルプスと花のパリ」へ行ってみることだった。
 今から思えばなんともほのぼのとした発想だったが、当時、建設業界はまさしくブームの真只中にあり、また、結成後間もないその組合の勢いもほとばしるようで、加盟組合員の賃金は、毎年、二割、三割と上昇し、三年で二倍となっていた。そうした生活条件の改善によって、そんな素朴な夢の実現が、自分たちの射程に入ってきていたのだった。
 わたしはその計画の実行を準備しながら、そこに便乗してもうひとつの計画を練った。当時、わたしの親友が一人はイギリスに、一人はベルリンに遊学していた。そこでわたしは、事務局長としての一行引率の役割を終えた後の休暇として、もう二週間をかけて、こうした親友を訪問する計画を付け加えた。そしてそれには春子も加われるよう手配した。団体を組むために人数を増やす必要もあり、この便乗は無理なく組み入れることができた。いろいろ小さな失敗はおこったが、いずれもいい思い出話となる程度のもので、この計画はふたつとも大成功に終わった。


 こうして組合専従の仕事は順調にいっていた。
 加えて、この仕事に支払われる賃金が組合員の同年齢平均額と規定されていたため、それまで微々たる収入に甘んじてきたわたしにとって、受け取る月給は驚くほどだった。それにボーナスも組合員平均に準じていた。
 こうしてわたし達は二重の収入を得られるようになり、貯金もしだいに増えていった。
 こうした貯金を頭金に、労働金庫から住宅ローンを借りて杉並、高円寺に小さなマンションを買ったのは、一九七九年一月末だった。南向きの二Kで、日当りは最高だった。
 というのは、このマンションはその南側に大きな墓地と隣接していた。わたし達は、そこに目を付けた。その立地のためかその物件はいくらか安かったし、墓地があればそこに将来建物が立つおそれはまずなく、その日当りは永年保障されたも同然だった。それに墓地だけに静けさは抜群だった。
 小さな木賃アパートからその日差しあふれるマンションに引っ越しして、わたし達は気分を一新した。少々大げさに言えば、ようやく人間らしい生活ができるようになった、といった実感にひたった。
 この転居で、春子の健康回復にはずみがついた。
 彼女は近所の商店街にあるせんべい屋にパートの仕事をみつけてきて、そこで小時間働きはじめた。お金が目的ではなく、何かをすることが目的だった。いわばリハリビテーションである。公社からもそのむねの許可をとった。たいして忙しい店ではなかったが、年をとった店主が手助けを必要としていた。
 やがて春子は、この店で思わぬ出会いをえた。というのは、この店に来たオーストラリア人の女性と友達となり、それが、わたし達の将来の方向付けに、ひとつの影響を与えることとなったのである。
 その当時も、あいかわらず春子は早起きして、テレビ英会話の勉強を継続してきていた。そこに現れたのがこのオージー女性、クリスだった。春子にとって彼女は自分の英会話を試すいい機会だった。春子はきさくな彼女と親しくなり、近くの彼女のアパートを訪問するようになった。
 そうしたある寒い冬の深夜、クリスからわたし達のところへ電話が入った。彼女はゼンソクを持病としており、寒さのためかその発作をおこしていたのだった。わたし達は彼女のアパートに駆けつけ、救急車を手配して急場をしのいだ。その後も春子は、彼女の発作のたびにいろいろ世話をやいていた。
 こうした春子のクリスへの親切を、オーストラリア、パースに住むクリスの両親が伝え聞いたらしい。後のことになるが、わたし達はその両親から、いちどパースに来ないかと誘われることとなった。


 わたしは組合で安全衛生を担当していた。
 その職務の関係で、労働省の指名による建設現場の安全監視員を行なう一方、関連した講習に何度が参加し、近年の労災職業病についての知識をえていた。
 わたしはそうした講習をひとごとでなく聞いていたのだが、そうして得た知識と、自分の妻の罹病の経験から、ひとつの仮説を持つようになっていた。
 すなわち、現代人の病気の傾向は、ことに職業にからんだ疾病は、肉体が細菌や負傷などによって侵される古典的病気から、ストレスのような心理的な要因が作用するものへと傾向が変化している。そしてもっとも今日的な職業関連の病気は、純粋に精神的なものとして起こってくるに違いない。つまり職業病としての精神疾患。
 こうしてわたしの頭の中だけに存在していた仮説が、ある日、実際に起こってしまう事件が発生した。
 一九七九年の七月のある午前、暑い日だった。
 わたしが勤務する労働組合事務所に一本の電話が入った。ある加盟組合員が通勤途上、事故で重傷を負ったので輸血のための献血者を至急手配してほしいとの連絡だった。
 献血は間に合い、手術もうまくいってその被災組合員、Eさんの命は救われた。しかし、彼は両足を大腿部から失うという重大な障害をその先の生涯負うこととなった。
 当初の情報では、その事故とは、進入する急行電車にホームから飛び込んだ自殺行為によるものであった。
 わたしは安全衛生担当の職務上の必要から、ただちにその「自殺未遂行為」について調査を始めた。
 その「事故」の日、Eさんは、職場復帰訓練のために始めた通勤途上にあった。その前数ヵ月をうつ病で精神科病院に入院し、その後、軽快したためその訓練にとりくんでいたところであった。
 わたしには、何か直感のようなものが走った。これこそ職業病としての精神疾患の例かもしれないと。
 調査を進めれば進めるほど、わたしの確信は深まった。
 Eさんはそのうつ症状が現れる前、事実上の技術チーフとしての責任を負っていた都内の大規模な新幹線地下駅の設計で、迫る工期と繰り返される設計変更から過剰な心身のストレスを負っていた。そのため彼は、反応性うつ病を発症していたのだった。家系に精神疾患の遺伝の可能性も否定できた。

 医学的視点からは、そうした職務上の過剰負担、反応性うつ病の発症、そして自殺行為は充分関連がつくものだった。
 わたしは、組合内にもうけた対策委員会のリーダーとして、五歳の男児の父であり夫でもあるEさんと家族の今後のため、彼に労災補償の適用を得ることを当面の目標と定め、活動を開始した。
 問題は、それが労災保険法による補償の対象となるには、もし認定されれば日本では初めての事例となり、それだけに極めて厳しい認定基準をなんとかクリアーする必要があった。
 支援運動は、組合員の大きな関心を集めて成功裏に発展し、家族の生活を援助し励ます毎年末の寄付にも、予想を上回る額の支持が寄せられた。
 五年間にわたった労働省をはじめとする各方面への働きかけの結果、一九八四年二月末、労働省労働基準局はこのケースに労災保険を適用することを決定した。
 これにより、本人には国から生涯の障害年金と治療補償、企業からは上積みされた労災補償金などが支給されることとなった。
 くわえて、このケースは、仕事の過重なストレスを原因とする自殺行為を労災と認めた、労災史上に残る画期的事例となった。
 個人的にわたしは、このケースはその困難さから、行政判断では終わらず、地裁から最高裁までの裁判論争をも含む十年、十五年という長期間を要するものと覚悟していた。いわばライフワークに等しい仕事と受け止めていた。
 それが五年という予想外の短期間で終了しえたのは、組合内部だけでなく広い範囲の人々の理解と支持をえられたことがあった。また、それにくわえて、八二年二月には羽田で日本航空機の墜落事件(いわゆる「逆噴射」墜落事件)が発生したことなどがあり、社会における精神疾患に対する関心が急速に高まったこともその背景にあったからであった。
 この認定はその翌朝の新聞各紙が一面トップで報道するなど社会の注目を集め、それ以降、精神疾患も企業の従業員に対する安全衛生責任の対象にされうるということから、企業各社の自社員の精神衛生に関するアプローチの性格を大きく変えるものとなった。


 ライフワークとなるはずであった大仕事が早期に解決したことで、わたしには、つねづねから考えていたわたし個人の計画を実行に移す機会がうまれた。
 それは、労働組合運動を、日本を離れ、国際的な視野から学んでみることであった。
 過去には、組合関係者でそうした動機を持つ人達がでかけたのは、左寄りの人は社会主義国か、英国ないしはフランスといった西ヨーロッパ諸国、右寄りの人は米国が多かったようにわたしは思う。
 だが、わたしの場合、まず、社会主義国への留学は考えなかった。なぜなら、その体制の違いから、日本での運動とはあまりにかけ離れすぎているからであった。
 その当時、社会主義国のリーダーたるソビエト連邦はまだ存在していたが、もし、わたしがこの国を留学先として選んでいたら、その後のソ連の崩壊で、大きな混乱に巻き込まれていただろう。
 ともあれ、わたしの対象国は、資本主義国で労働組合運動の影響が大きく、そして、どうせ外国語をふたたび学ばなければならないなら、英語圏が妥当であろうと考えていた。
 こうした条件で、日本と経済関係の深い国、しかも太平洋圏の国ということで、オーストラリアが最適地として考えられた。また、その前年、オーストラリアでは労働党政権が誕生していたことも、関心のひとつであった。
 それに加えて、わたし達は、一九八二年の年末から年始にかけて、パースを訪問した。先に述べた、春子の友人の両親による招待に応じたものであった。わずか一週間の滞在であったが、わたし達はパースという町に魅了された。この経験も、留学先をオーストラリアにする理由になったことは間違いない。
 二月末のわたしの大仕事の終結により、わたしはこのオーストラリア留学計画を実行にうつす決心をした。この機会を逃しては、こうした大計画を実行するチャンスは二度と訪れないだろうと思ったからであった。
 組合の年度は九月までである。わたしはこの年度末で休職したいと申し入れた。その了承をえ、わたしはできるだけ早く出発することにした。
 春子も、こうして能動的な生活に移ろうとするこの機会に、糸の切れた凧になるかのような不安をおして、長く世話になった公社を退職した。
 オーストラリア現地教育機関との連絡、申請、受け入れの確認、オーストラリア大使館へのビザ手続き、資金の用意、フライトの予約、自宅の留守中の賃貸契約、家具の引っ越し、荷物の発送そして家族や友人たちの歓送会への出席などなど、わたしは出発前日まで、まさしく目のまわるような忙しさに追われた。
 こうして、ふたりにとって、大きな人生の冒険が始まるのであった。

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