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 連載

相互邂逅 第二部




 こうして始まった僕の自己移植は、オーストラリア到着後間もない時期の心境においては、それこそ、住みなれた故国を後にした心細い旅行者のそれで、しかも、そうして手をつけた名目なりともの留学生生活を、なんとかやり遂げて行かねばならないと、いかにも気負い込んでいた。
 またこの旅立ちは、ゴッホのように自分で自分を撃つそれではなかったものの、自分で自分の何がしかを切り捨てるものではあった。そしてその切り捨てたものが何であったのか、パースに着いて最初の二夜を過ごした安ホテルで、僕はこんなメモを書き残している。 
 その捨てられたものは、かってのノートが言う、 「社会化された自分」 のある部分である。
 そうと言うのも、この出発に先立ったある日、僕は妻にこんなことを問うたことがあった。それは、 「なぜオーストラリアに行くのか」 、そして、 「何を求めて行くのか」 、という質問だった。なかば自分にも問うたものだったが、それに彼女はこう答えている。 「あなたがそこへ行くから」 、そして、 「あなたの愛情を求めて」 。
 それまでにも、ことに僕が組合の仕事に没頭して、彼女の孤独な療養生活によそよそしかった時など、僕は彼女からこう問われたことが一度ならずあった。 「家族のひとりも助けられないで、どうして組合員を助けられるのですか。」
 だから、荷物をまとめて日本を後にした瞬間から、僕らにつきまとっていたそういう 「社会」 を始め、それらこもごもからも飛び立っていた。つまり、それまでの三人称の僕らの生活は、新婚当初のような、二人称の世界にもどったも同然と言えた。
 たとえば、成田を立ってシンガポールで乗り継ぐ、パースまでの長旅の機内でも、あるいは、パースに着いた際の入国手続きにあっても、英語にさっぱりな僕は、すっかり、妻の会話力に頼っていた。それに、出発準備のあまりの忙しさのため疲労困憊もしていたのだが、そういう僕はまるで母親に従う小学生同然だった。そうして僕らは、単に僕の力不足という面のみならず、海外生活という生来の社会からの脱出により、 「ひとつがい」 という最小社会単位に確かに帰還していた。
 ただ、そうではあったのだが、そうして捨てられたはずの 「社会化された自分」 は、その旅のともかくの目的が海外留学であったように、求学という形に変換されて同行していた。つまり、僕はその 「社会化された自分」 から 「された」 部分を取り除く風に、自分を取り巻く環境を自分で選んでいた。
 とは云うものの、僕はそれまでもずぼらな劣等生で勉強好きではなく、 「留学」 そのものがこの旅立ちの目的ではなかった。ただ、海外体験という本来の目的実現の僕に許される形は、それが最も近似していたからだ。そして当初、その留学の主旨も、国際的視野で労働運動を学ぶ、ということであったし、実際の旅立ちにあっては、オーストラリアの大学で、労使関係学の大学院学位を取得するという形にリアライズされていた。もちろん、それにはまず、語学学校で必要最低限の英語力を習得するとの予備段階も含まれていた。
 生来の国において生活しているならば、通常、家族や血族に始まり、町、区、市、県などと、自分から国家まで連続して広がる社会的繋がりがあるのだが、そうして生来の国を脱出してしまうと、社会は、 「ひとつがい」 の僕らから、一足跳びに、その外国社会へと抽象的に拡大してしまう。加えてその社会とは、思いつき程度の決断以外には縁もゆかりもなく、まして、濃淡変化をつけて彩りを与えるその中間部がない。海外生活の始まりとは、そういう両極端で人為的な環境に身をさらすことであった。

 そうしてパースに上陸し、まず始まった生活の特徴は、日々刻々が、緊張の連続、ということだった。
 ともかく、当たり前のことだが、言葉がわからず、馴染みもない場での生活とは、あらゆる事柄が初体験かつ無案内で、過去の経験の厚みが一切ない、ぺらぺらの紙のような時間を送り続けるという体験である。奥行きもなければ湿り気もない、ぱさぱさな一瞬々々の断面の繰り返しである。だから、最初に自分で感じた思いは、もう中年になろうとしているいい大人のはずの自分が、小学生低学年の自分に退化してしまったかのような、不釣り合いな自意識である。それまでの自分を底辺を下にした三角形にたとえれば、そうして始まった自分とは、頂点を下にした逆三角形のようなもので、不安的きわまりない。だから、気を抜けば転倒してしまい、緊張が解けないのである。
 到着後の一週間ほどでパース生活の足場作りが整い、語学学校に通う学生とその妻としての僕らの生活が始まった。住処は、パース中心地にはバスで数分、郊外にある学校まではバスで15分ほどの一寝室のアパートで、学校と市の中心の中間にあるという位置関係にあった。
 僕らは、異国での生活資金として、二人で蓄えた乏しいながらの貯金を持ち込んでいたが、それでも、大まかに見積もって、学校の授業料を払ってしまえば、ようやく二年が過ごせるという額にすぎなかった。つまり、語学学校に一年、目的とする大学院に二年という、計三年間の留学計画は、あと一年分を、現地で何らかの収入を得てそれを補うことを暗の前提としていた。
 ところで、僕が学生を選んだのも、そういう事情が絡んでいたのだが、外国生活での第一の課題は、言葉以前に、その国への入国を許されるかどうかに関わるビザ問題がある。逆に言えば、入国には、取得可能なビザの種類に合わせた “人種” になることが条件とされる。
 僕らの場合、僕の学生ビザに妻のその配偶者としてのビザであった。ビザ発給の条件は、学生である教育機関の授業料を前納した期間だけ有効のビザが発行され、労働は週二十時間(配偶者も)を限度に、学業に支障をきたしてはならないとされていた。ちなみに、最も取得の安易な観光ビザの場合、期間は3ヶ月で、労働は一切許されない。
 だから、どの国でもそうであるが、居住希望外国人にとって、永住ビザは一種の到達目標で、それさえ獲得すれば、選挙権をのぞき、あとは同国人とほぼ同等の行動や振る舞いが可能となる。逆にそれ以前は、ビザに合わせた制限に甘んじなければならない。言うなれば、ひとつの国にとって、ビザ発行とは国営の人資源ビジネスで、観光ビザにせよ、学生ビザにせよ、それぞれの発給はそれぞれの産業へのお客さんを誘致しようとするものである。また、ワーキングホリデー・ビザは、表向きの趣旨はともあれ、若い低賃金労働力の確保がその裏の目的となっている。もちろん、ビジネス・ビザや技能者ビザは労働力確保をもろの目的としたもので、当然、その必要がなくなる場合を想定して有効期間が付随している。つまり、永住ビザとは、その人を期限なしに居住させておくことがその国にとって有用かつ無害である場合にのみ限られる。
 ちなみに、永住したいのだがそうさせてもらえない大勢の人が、名ばかりの学生となって長期間にわたって住みついている。俗に 「ビザ学校」 と呼ばれて、授業にもろくに出席しない学生に入学を許し、授業料のみを稼いでいる学校――時々、当局の手入れを受けているが――もあり、そういう学生である彼ら彼女らはまた、飲食業などの特定産業にとって、 “ワーホリ” と並んで、低賃金単純労働力のよき供給源ともなっている。
 外国暮らしとは、その入国の条件からして、このように――限りなく “差別” に近く――合法的に区別される、そういう選民システムの体験であり、その区別や差別に甘んじたくないと欲する限りは、その分類カテゴリーの上昇を目指すことが不可避な生活となり、それがいつの間にやら目的化してしまっている人さえいる。そうして、低劣からより高尚へと、いずれの身分にせよ、まずビザの問題で、そうして身を売ろうとしている自分に出会わされる――少なくとも、自国にいればこの問題からは除外される――こととなる。また、その上昇がそれなりに困難を伴うものであるためか、先にそれを獲得した先取民は、後から来るものを、どことなく区別や差別をしたがっているふしも見受けられる。
 
 僕はこうして、その “ビザ人種” としては学生であったが、内心、自分は 「社会難民」 であると思っていた。それは、出生国における、政治的な迫害によるものでもなく、また、経済的に追い詰められたからでもなく、ただ、その社会にある種の見切りをつけた脱国者であるからだった。(言い換えれば、そういう比較優位をオーストラリアに見出していたからだったが、後々、その優位が何を意味していたかに気付かされてゆくこととなる)。むろん、そういう酔狂な人種に与えられるビザは用意されておらず、所定のビザ・メニューの中から、自分にもっとも適したものを選ぶこととなる。それが学生という “ビザ人種” だった。しかも最初の一年は語学学校の学生で、様々な国からやってきた二十歳前後の小僧っ子たちに交じって、入国したその国の言葉や文化を教えられた。まさに小学生へのタイムスリップであった。
 僕は、自分のそうした小学生への退化に、それが自分で選んだ道のコストであるとはいえ、正直、情けなさでいっぱいだった。ただ、相当な額を払ったその語学学校のお客さんである僕には、それでも、その学校からはそれなりのサービスの提供があり、毎日はまず順調にすべり出していた。つまり、そういう中年おじさん小学生である僕には、毎日、学校に通う義務も、また早くそれを終わらしてしまいたいそこそこの熱意もあったが、その配偶者である妻は、再び、わずかな家事以外にすることがない、空白の毎日にさらされることとなった。しかもそこは外国で、かつ、以前は、病気療養という大義名分も良きにつけ悪しきにつけてあったのだが、今度はそれらも一切が無くなったゼロからのスタートだった。そういう意味では、素晴らしく自由ではあったが、その白紙状態を自分で埋める必要も責任も負っていた。
 こうして、オーストラリアという、僕らにとっての人為的な社会環境は、二人称への帰還という側面を持ちながらも、片や学生、片や自力の生活者という、それぞれに違った役割を与えてのスタートとなったのであり、そういう実験の開始であった。

 つづき

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