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     我「団塊」でなし


 「団塊の世代」という言葉は、もはや周知のように、1976年に発表された堺屋太一の同名の小説に語源をもつものですが、そこに意味される塊となった巨大な一世代は、それ以降、なにかにつけて引き合いに出され、あてにされ、また、けなされてもきました。
 再来年の2007年には、狭い意味でいう団塊世代(昭和22年から24年生)が60歳に達しはじめ、いよいよその大変化が開始されるということで、「2007年問題」という提起もされています。
 広義で言えば1,000万人(全豪人口の半分に相当)を越える人々が、何らかの形で「一線からの退き」を迎えるのですから、それは、国家的にも軽視できる出来事ではないでしょう。
 そういう私も昭和21年生れで、広義でいうその当の一員です。


 そうした折、さまざまの新たな団塊世代論が発表されています。
 この大量リタイアメントの影響を悲観的にとらえるものから、逆にポジティブにとらえるもの、あるいは、企業の基幹的担い手の喪失や生産人口の消費人口への変貌を危惧するものから、巨大市場の新たな誕生と「柳の下のどじょう」を再度期待して歓迎するもの、などなど、時には、「またか」とすら思わされるような賑やかさです。
 思い起こせば、昔から、「感性の時代」だの、「ニューファミリー」だの、「モーレツ社員」だの、「ジャパニーズ・ドリーム」だのと、その度、その時代ごとに、巧みなキャッチフレーズがあみだされ、この世代を風靡してきました。
 もちろん、その背景には、順調な経済発展によるそうした甘美なキャッチを物的に刺激する社会環境がありました。しかし、それとても、その後にバブルが大きくはじけ、続いて「失われた10年」でさらに沈下し、今日では、自殺者が定常的に3万人を越える負の刺激の時代に至り、そこにこうした、またしてもの団塊世代論が語られはじめています。
 こうした賑やかさを繰り返し見せつけられるにつけ、そうは毎回、はいそうですかとは言っておれず、ぶりかえされるまたしてもの団塊論に、つい、《うさんくさいもの》を嗅ぎ取ってしまいます。
 思うに、こうした巨大な団子状の世代は、扱いよう次第では、十羽ひとからげの料理には、効率や効果の面で、まことに好都合な条件をそろえた世代であります。どなたかは忘れましたが、以前、中国市場の将来性を強調して、「一人に一足の靴下を買ってもらっても、13億足売れる」との話がありました。それと同じ発想を、この一千万市場に抱いたとしても、しごく当然でありましょう。
 つまり、現代の自由市場主義経済にあって(おそらく社会主義経済でも)、こうした団子状の塊は、うまくかつ巧みに扱うべき格好の対象であることは間違いないでしょう。
 そのような観点からひるがえって、まことにうまく《乗せられてきた》という感慨が、この世代の一員としての心境です。
 むろん、乗せられているのはこの世代だけとは限りませんが、ともあれ、その効果が絶大であったのが、この世代であったといえましょう。


 今、私の手元に、このような“おお乗せ作戦”のいまや総司令部、電通が発行する雑誌『ADVERTISING』2004年 11号(9月発行)があります。やってくる再度の「団塊マーケティング」を特集する号ですが、その冒頭で、ふたたび堺屋太一が書いています。
 それはまず、こう切り出します。
 「団塊の世代よ、君たちは最高だ。これまで君たちに出来なかったことはないし、これからもないだろう。」
 そしてつづけて、いま必要なのは「自信と強欲」と言い切り、「君たちの需要、中高年マーケットは猛烈に拡大する」「数年後には『ネオアッパース』(neo-uppersの意?) が大ブームになるだろう」と断言し、以下の文で結んでいます。
 「団塊の世代よ、君たちは何事も成し遂げた。これからも、何事でも成し遂げられる。官僚の単細胞的なモデル計算などに惑わされてはならない。過去の実績に誇りを持ち、未来に対して自信を持って、強欲に生きよう。それが現実の生活を幸せにし、未来の生き方を楽しくするのだ。」
 ここまで言われると、かっての経済企画庁長官、そして通産省エリート官僚として(大阪万博、沖縄海洋博等を手がけた)、名メガ・プロジェクト演出家になる常套的発想だとはしても、そうは何度も、「その柳の下のどじょうにはなれませんよ」との気が、したくはなくとも、むらむらと沸き起こってきてしまいます。


 こう堺屋に言わせる、電通という、企業利益の最大化に貢献するはずの世界最大の宣伝会社が、(決して好きな言葉ではないですが、今さかんに使われ始めた用語を使って言うならば)、購買力に弱みのある「負け組」を直接の標的として、こうした宣伝戦略を立てているとは考えられません。
 1,000万団塊世代のうち、電通がまず対象と考えているのは、あつい厚生(企業)年金積立をもち、退職金も見劣りしない、購買力あふれる、その一部の「勝ち組」の人々でしょう。
 ちなみに、狭義の団塊世代683万人のうち、正規雇用社員として定年を迎えうるのは、その41パーセントの284万人(第一生命経済研究所)、そのうち、実際に退職するのは130万人(財務省財務総合政策研究所)とみられています。そして、こうした定年退職者に支払われる退職金と保有預貯金額は、合計で50兆円に達すると皮算用されています。
 つまり、上記のような「団塊マーケティング」の対象とされているのは、まず、この50兆円とその所有主でしょう。すなわち、多く見積もっても、全体の4割ほどの部分です。そして、完全なリタイア生活を楽しめる人たちは、その半分にも満たないわけです。つまり、かっての団子も、それほどに、階層化してきているのです。
 そうした2割に満たない「悠々自適層」を優先ターゲットに、またしてもの耳ざわりのよいキャッチ「ネオアッパース」を用い、まず市場をリードする先導部隊を形成、さらなる、「おお乗せ作戦」を展開しようとしている、と私は見ます(これまでほどの一様な成功はむずかしいのでは)。
 私は、私のような非「生産」的で無「資産」な人間は、「負け組」中の「負け組」と自認していますので、だから、こうした見方に傾きやすいのかも知れません。
 また、それだから判るのですが、そうやって形成される社会の表層のムードについてゆけない事情にある圧倒的多数の人たちは、どうしても、ひけ目や劣等意識を抱きやすい。
 この一見ネガティブな反応も、実は、それもその宣伝者たちのねらいに沿ったものです。というのは、そうした引け目意識が、「負け組」といった流布言葉と共振し、一種の従属意識(時には隷属意識)層を形成してゆくからです。
 オーストラリアでなら、こうした状況は不満層の増加となって政治化してきたのですが(何せ「100%」の投票率ですから)、日本の場合、それが沈殿、鬱屈してしまうのが常です。
 世間の一見華やかさに遅れをとればとるほど、追い立てられることに容易にはまってしまわざるをえない、そうした二重のからくりです。


 「ネオアッパース」か “マジョリティー・ロワーズ” かはともかくとして、もうこの辺で、そうした「おお乗せ作戦」に容易に乗せられてしまうのはやめたいと反省します。少なくとも、用心深くありたいと思います。
 「団塊世代」と同義語の「ベビーブーマー」という言葉が英語圏国にあり、オーストラリアでも、この団子世代を、主にマーケティングの視点から注目する見方は多いのですが、日本ほどのパワフルな一色性は見られません。おそらく、多文化社会であり、また、主流の白人文化には強い個人主義の伝統もあり、「ベビーブーマー」といっても世代分類上の用語の域を越えず、いわゆる「十羽ひとからげ」の手法は、さほどの効果は持っていないようです。
 また、『両生空間』創刊号の「角川漢和中辞典」でも触れましたように、今、オーストラリアでは、あえて下位職を選ぶ「ダウンシフター」が静かに増加しています。中には、やむなき「ダウンシフター」も含んでいるようですが、それを契機に、ライフスタイルの見直しを共に実行しているようです。
 この『両生空間』が、そうした見直しや慎重さの形成の一助となることを祈って、ここに独自の警句を。

 我「団塊」でなし。
 

 読者への警告
 そう言う筆者も、その団塊世代に向かってこれ(一つの団塊世代論)を書いているわけですし、その背後では、「リタイアメント オーストラリア」などという会社を作っていて、団塊世代のお来しを、手ぐすね引いて待ち伏せしている一派であります。このサイトも、その宣伝にリンクされています。どうぞご用心を。

 (2005年9月 松崎 元)

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