「両生空間」 もくじへ 
 「もくじ」へ戻る 

                    
東条逮捕

 ほぼ十万人のアメリカ軍部隊が上陸した現在、マッカーサーは、占領政策をきわめて慎重に日本政府に強いることができる段階にあった。政治的に最も重たい課題は戦争犯罪の問題だった。日本の収容所で発見された連合軍捕虜三万人が告げた残虐行為の話は、戦犯の早急な逮捕を必須とさせていた。その前の週、米国やオーストラリアの国務省は、この戦争のもっと早い時期に他の諸戦域で行われた日本軍の行為について、分類された資料をあらかじめ発行し、そうした捕虜の話を補完していた。太平洋の島々では、日本軍の将官が米軍の飛行士を煮て食べた。タイからビルマへのジャングル鉄道の建設では、一万六千人の連合軍捕虜が、殴られ、飢えさせられ、死に至る労働をさせられた。上海のブリッジ・ハウスの拷問用の地下室では、日本軍憲兵が、西洋人の裸の男女を檻の中に入れていた。日本社会は、そうした残虐行為については何も知らず、ただ、そうした行為にいたたまれない数少ない兵士が、帰還した際にこっそりと打ち明けていただけであった。それが今や、恐怖の話は印刷され、世間の驚愕は恐怖と恥辱へと変貌し、日本の指導者たちは、西洋人の復讐条件がマッカーサーによって公表されるのを神経を高ぶらせて待つに至っていた。(62) 
 9月9日、東久邇宮の頭脳集団の二人は、記者団に次のように語った。「連合軍は、すぐにでも戦争犯罪人のリストを公表すべきである。そうすれば、日本人がその件について考え、おそらく、幾人かの名前を加えることができよう。副首相の近衛宮、外務大臣の重光はそれに含まれるべきだ」。この異例な告発は、東久邇内閣内部の深刻な抗争を物語っており、まさに、これ以上に真実な話はない。近衛と重光は、日本を真珠湾へと導くべく動き、また両者は裕仁に、その責任を負うことと、その贖罪の山羊となることを約束していた。(63)
 アメリカは、1944年11月、重慶に戦争犯罪小委員会を設け、以来、日本人の容疑者をリストにしていた。中国人の助けを借り、難しい東洋の名前を分類していたが、罪そのものを分類していたわけではなかった。時には、それは日本人全体が有罪であるかのようであったし、時には、有罪者は誰もいないようでもあった。日本は、ドイツにおけるゲーリング、ゲッベルス、ヒムラー一味のようなずば抜けた指導者層を欠いていた。まして、それへの加担の度合いを判断しうる、ナチのような鮮明な政党すらも存在していなかった。どの西洋の専門家も、それぞれ異なった軍閥を、日本のファシズムの核心と見ていたようだった。
 マッカーサーは、ワシントンや疑心暗鬼な日本人自身に突き動かされて、戦争犯罪の問題に慎重に取り組んでいった。彼は、巨漢のドイツ系諜報部長、ウィロビー大将をかかえており、アイヘルバーガー中将のMP(憲兵)の協力をえて、戦争犯罪局を設立した。この戦犯局は、東京の皇居北門脇の旧憲兵隊本部庁舎
皇居地図参照〕にあるウィロビーの専属部署を発展させたものだった。9月10日、戦犯局は、逮捕されるべき戦争犯罪容疑者を列記した暫定リストを初めて公開した。
 このリストの筆頭には、真珠湾攻撃時の首相、東条大将が挙げられていた。アメリカの特派員たちは直ちに、ジープに乗車し、東京郊外の東条の住居へと、交番を尋ねめぐり、爆撃で焼け跡と化した迷路をぬって急いだ。彼らは、東条の屋敷の庭に、灰色の長靴下、白い半ズボンとシャツを身に着けた、口ひげをはやした禿頭の小男が、あたかも農夫のように野菜畑を耕しているのを見つけた。近衛、重光あるいは東久邇宮とは異なって、東条大将は――単刀直入で、鋭く、論理的かつ短気な――、気骨ある男であった。東条は、やってきた記者たちを紛らわしきれないと覚ると、庭の長椅子に彼らとともに座り、戦時中の安タバコ「のぞみ」を差し出しながら、彼の考えを話し始めた。「日本の戦争は正当だったと確信している。君たちの国がそれを受け入れないのは良く承知しているが、歴史は誰が正しかったかを決める。私自身については、戦争の全責任を受け入れる」、と彼は話した。(64)
 その一週間前、東条大将は下村陸軍大臣――1937年、参謀を通し、南京を攻略する計画を推進していた当時の大将――に呼び出されていた。同大臣は政府の代理として東条に、避けられなくなった場合には逮捕を受け入れ、そして、天皇ではなく東条に戦争責任があると連合軍を説得に至れない際は、自決を先行するよう要請した。東条は、自分の力のおよぶ限り、天皇を擁護し続けることを約束したが、名誉のためにあえてする自決かも知れないとも警告していた。彼は、望んで自首し、求められる日本のいずれの刑務所にも出頭する積もりであったが、戦場で捕虜となるような様は甘受したくなかった。彼は兵士であり、決して生きたまま捕虜にならないと誓っていた 〔訳注:著者が戦陣訓を念頭に置いているとするなら「生きて虜囚の辱を受けず」〕。下村陸軍大臣は彼に礼を述べ、東条に何がおころうとも、その家族には経済的な心配はさせないと言った。
 アメリカの報道陣が東条の前庭に一日中張り込んでいた9月11日の午後、MPがようやく彼を逮捕しに現れた。東条は、書斎の窓から彼らに聞いた。何が欲しいのか。その根拠は何か。米軍担当者はその証明書を提示してほしい。それぞれの返答を聞いた後、東条は次の質問を考えるために書斎の中にひっこんだ。一人の米国人特派員が冗談を言った――「まるでロミオとジュリエットのバルコニーのシーンの始まりだな」。そして東条は、玄関の戸を開けるまで、少し待ってくれるようにと最後に言った。東条はジープの到来以来、妻をあえて無視していたが、彼女は、隣の庭から自宅を見ていた。彼女は農婦のもんぺをはいていたので、誰も彼女に注目しなかった。できるだけの詳細を目撃し、東条の他の家族に知らせることは、彼女の任務であった。
 家の中では、東条は彼のお気に入りの赤い肘掛椅子に座り、戦時に墜落した米国機の操縦士から押収した32口径のコルト自動拳銃(65)をとりあげた。それは、彼の義理の息子、古賀少佐が、降伏の夜、皇居内で蜂起した後、自決した際に用いたものだった。東条は自分のシャツの一番上のボタンを外した。彼の胸には、隣の医師が一、二日前に、心臓の位置を印した墨のマークがあった。東条は注意深く狙いをつけ、引き金を引いた。弾丸は彼の体を通過し、家具の中にめりこんだ。だが解剖学上の皮肉が生じ、弾丸は異常に細長い彼の心臓をかすったのみだった。その代わり、肺が傷つけられ、皮膚上には二つの穴があき、彼があえぐたびに、泡を噴いたり吸いこんだりした。アメリカ人MPは戸を蹴破って侵入し、まだ死なずに意識のある彼を発見して医師を呼んだ。
 二時間の間、出血を続けながら、彼は死なしてくれるよう懇願した。その間、記者たちは、可能なあらゆる角度から写真を撮り、記念として持ち帰るため、彼の血にハンケチをひたしていた。「死ぬまでに時間がかかって、実に申し訳ない」と彼は言った。「私は征服者の法廷で断罪されたくはない。歴史の正しい判断を待ちたい」。そこにようやくアメリカの医師が到着し、胸と背中の二つの穴を縫い、血漿を投与した。東条の意識はしっかりしていた。医師は彼を病院に搬送し、アメリカ兵から献血された血液を輸血し、やがて彼は回復し、法廷に立ち、そして絞首台に向かっのだった。
 東条逮捕の翌日の9月12日、内閣は、逮捕され日本の法廷に委ねられた戦犯容疑者を連合軍法廷に先んじて審判することを提議した。東久邇首相は、裕仁の形式上の承認を得るために皇室図書館に急行したのだが、それは拒否された。裕仁は言った――「敵が求めるすべての戦犯とされる者、ことに、戦争を起こしたことに責任をもつとされる者は、私への忠義を尽くした者でもある。そうした者を私の名のもとで断罪することは、私を耐えがたい立場に置くこととなる。したがって、私は諸君に再考の余地がないものかとお願いしたい」(66)。つまり、もしアメリカ人が報復に固辞した場合、裕仁は、自分の手でそうした人々の血を流さなければならないこととなる。見せかけの日本の司法によって、幾つかの生命は救われるかもしれないが、裕仁は、被疑者に、アメリカ人の手による殉教と名誉を望むよう、請託したのであった。
 マッカーサーは、東条以外に、1941年の真珠湾内閣の全閣僚を含む、24人の日本の指導者を逮捕するよう命じた。8月9日、皇居の防空室で降伏を口にした刺々しい外務大臣〔東郷〕はそのリストに含まれていた。どこにでも顔をだす鈴木貞一もそのリスト中の一人で、1920年代、若い将校たちからなる裕仁の秘密結社のメンバーの大半を集めたのも彼だった。マッカーサーは、急がず、一日一人のベースで、彼のMPにその逮捕を任せていた。それを、ある者は、芝居の感覚が丸見えだといい、ある者は、時間をたっぷり与えて戦犯が自殺するのを望んでいるといい、ある者は、裕仁が自らの手で戦犯を処罰することに同意するのを待っているともいった。
 9月12日、MPは、東条のライバル、海軍の島田繁太郎提督宅を訪れた。彼らは、来訪者が履物をぬぐ玄関で、島田夫人に迎えられた。彼女は、玄関内の畳の上で、両手をついて深々と礼をした。そしていんぎんな微笑みをうかべて、彼らの身分証明書の提示を求めた。彼女は再び礼をし、夫は15分ほどで用意ができると約束した。MPたちは、玄関で足を踏みならしたり、からかい合いながら、奥から最後の食事が急いで用意される音を聞いていた。15分経過した時、日本人子孫の一人の二世アメリカ人が靴を脱いで奥に入った。20分後、島田提督は、洋服箱から出したての折り目の見える緑色の新調の制服を付けてようやく現われた。島田はMPに身分証明を見せてくれるよう頼んだ。MPたちを率いる米軍少佐は、「彼に靴をはき出かけられるように伝えろ」。「こんなたわごとは止めろと言え」、と命じた。島田は笑い、手を少佐の肩に置き、下手な英語で、「落ち着きたまえ、私は自殺しない」と言った。島田が靴をはくと、夫人と二人の娘が両手をついて従順な礼をした。娘たちは泣いていた。島田は、りっぱに生きよと別れを告げ、きびすを返して、MPと共に7年間の投獄へと向かった。(67)
 島田が自宅から連行されているころ、陸軍元帥杉山元――1940年から1944年まで参謀長を務めた陸軍の最高司令官――は、自分の頭を撃ち抜いていた。彼の妻は、青酸カリをのみ、短刀でのどを突いた。絞首刑執行を
〔自殺で損なわれずに〕確実なものとするために、マッカーサーの最高司令部は、東久邇の日本政府はそれらの逮捕〔の失敗〕に満足していると苦言を呈する異例な発表をおこなった。そしてマッカーサーのスポークスマンは、閣僚の6人の提督や大将を見すごしてこう宣告した。「日本政府は非軍事的な要素によって構成されているようであっても、そもそも、黒龍会や他の〔軍事的〕秘密組織の脅迫に操られてきている。」(68)
 1930年代、西洋のジャーナリストの耳目を捕えたのが黒龍会の名である。それは、東洋のもっとも強力な破壊活動結社の一つとして見られ、また、実際にそうであった。1911年、満州王朝が転覆させられ、中国に共和制がもたらされた
〔辛亥〕革命は、この組織によって支援されていた。国民党の孫文や、今日〔執筆当時〕の台湾を治める蒋介石は、1905年に東京の黒龍会の本部で最初の会合を持った。西洋の専門家は、常に、日本の上流階級の友人たちから、黒龍会がシシリーのマフィアに似た犯罪組織と見なすように助言されていた。しかし実際は、黒龍会は汎アジア主義と西洋排外主義への献身を第一とする革命組織だった。その物騒な名前は、地下の怪物からきているのではなく、満州とシベリアの境を流れる黒龍江つまりアムール川に由来している。1890年代から1900年代、その名前は、ロシアがその領土をアムールの南へと拡大するのを防ぐ日本の決断を意味するものであった。1932年、日本が満州を支配すると、黒龍会は、ロシアを主要な敵と呼ぶ主張に固執した。そして日本陸軍の北進派を後押ししたのだが、失敗した。1936年以降、裕仁が単独で北進派の進出計画を反故にして、このアムール川組織は力を失った。1935年10月、黒いエチオピアへのムッソリーニの白い侵略に抗議する集会を最後の公式行事とした。(69)
 それから数年も経った1945年9月、マッカーサーの最高司令部は、黒龍会の即座の解散と7人の指導者の逮捕を命じた。うち二人は、この組織には属した事のない人だった。三人目は組織を率いてきたが、1938年に高齢で死んだ。四人目は1943年、東条の命令で自決した。残りの三人は、若いころに黒龍会から脱会し、以来、忠実な大臣として裕仁に仕えていた。(70)
 マッカーサーの諜報部が持つこうした時代遅れの情報に閉口した近衛副首相は、9月13日、横浜に急行し、事態を説明しようとした。だが彼は電話で、マッカーサーのお抱え通訳、シドニー・マッシュビア大佐を通じていたのでは、話が通じない、と連絡してきた。そこで外務大臣の重光は、その日の午後おそく、近衛を追って横浜に参じ、言葉の壁を乗り越えるべく、英語で以下のメッセージを伝えようとした――もし、マッカーサーの部下が戦争犯罪者の逮捕に関し、内閣との協議をはかるならば、被疑者は、自らの意思によって、所定の連合軍留置所に自首するであろう。東条の自殺未遂に衝撃を受け、かつ、死者を逮捕しようとしているかの困惑を経験させられて、マッカーサーの戦争犯罪局は、この重光の案に簡単に同意した。一方、内閣は裕仁に、忠実な老僕を強制逮捕から救うことは裏切り行為にはならないと説得した。アイヘルバーガー中将はただちに、日本の警察に向け、「日本人戦争犯罪人を良好な健康状態で引き渡すこと」、との命令を発した。(71)

                    
裕仁の外出

 それからの5日間は、日米双方の痛いところを刺激した。マッカーサーの部下による最初の捜査で名の上がった戦犯被疑者のうち、
残りの23名は、自決することなく、健全なままで自首した。そのうち、もっとも重職にあった者たちは、収監が伝えられる前に、木戸内大臣の秘書より天皇からの慰めの言葉が
与えられた(72)。 『ニューヨークタイムス』 のコラムニスト、ハンソン・ボールドウィンは、ワシントンにおいて、天皇を「占領にあたって一種の部下同様に」受け入れていると、マッカーサーを非難した(73)。9月14日、口達者な東久邇首相は、AP通信から送られてきた質問書に次のように問い返して、アメリカ国内での物議をかもした。「アメリカ人達よ、真珠湾を忘れたくはないだろう。だが我々日本人は、原子爆弾でもたらされた惨劇を忘れ、平和を愛する国民としてことごとく再出発する。アメリカは戦勝し、日本は敗戦した。戦争は、かくして終わった。日米の人々はともに、憎しみを水に流そうではないか」。アイヘルバーガー中将は、記者団にこう述べたことで、ワシントンにおいて批判された――「もし、日本人〔「ジャップ」との蔑称を使用〕が現在のように振舞い続けるなら、それは一年以内に一掃されるべきだ」。マッカーサーは、占領する連合軍の規模が50万人から20万人に削減されると発表したことで、やはりワシントンにおいて批判された(74)。国務省職員は、日本の戦時下の残虐行為の証拠を継続して出版していた。オーストラリアと中国政府がそれぞれの戦争犯罪人リストに裕仁を筆頭に掲げた、との報が漏らされた。日本の新聞が、日本の警察には未届けの米兵による殺人と強姦事件を報じた。マッカーサーは、個人的見解として、「ニュースを扱うにあたっての誠意を欠いている」と報道陣を非難した。狡猾な老道教哲学者、鈴木貫太郎は、葉巻を口から離しつつ、「天皇は、軍部から告げられるまで、日本が真珠湾を攻撃したことは知らなかった」と、法外な嘘を米国人記者に語った(75)。アメリカの特派員には、天皇との独自のインタビューが許されるようにとの要求を宮中に提出する者もあった。
 宮中の高官たちはおおいに危惧していた。天皇は自分を救おうとのそぶりは見せないばかりか、マッカーサーの捜査官が、いまや人物や地位への配慮も見せずに、我むしゃらに真実に迫ろうとしていた。またそれと同時に、マッカーサー自身も、裕仁の最上の面を信じようとしていた。戦争終結における天皇の役割を尊厳ある理想化されたものにしようとの考えは、宮中の広報関係担当者の一人によって準備され、マッカーサーの諜報部長、ウィロビーによって前向きに受け入れられた。「東京の米国諜報部は、公的な圧力によるのではなく、個人としての信念に基づいて、宮中側近のある高官による見解と極秘メモを入手した」、とウィロビーは後に書いている。マッカーサーは、仲介者を経ての話にうんざりし、核心に触れる話を求めていたと、くり返し訪問者に話していた。裕仁もまた、彼の使節が横浜にあるマッカーサーのニュー・グランド・ホテル司令部から持ち帰ってくる結果に満足していなかった。(76)
 東久邇首相は、日本人として、こうした不満足の原因は、使われている仲介者の質によるものと考えていた。9月17日、彼は、重光を外務大臣の職から解任し、吉田茂――以前の南進派の推進者で、数ヶ月前、和平派の一員として憲兵に逮捕された――を就任させた。背の低い、気難しい、葉巻吸いの小鬼のようなこの男は、アメリカの将官たちへの密使として使うには最適の人物だった。吉田は英語に堪能で、日本人には珍しい、つっけんどんな直截さを持っていた。彼は、裕仁の主任顧問で1925年から1935年までの内大臣
〔牧野 伸顕〕の義理息子で、宮中政治における内部服務には長けていた。岳父に仕えながら、吉田は、舞台裏で働く技量を身につけ、その公職中、罪に問われるような汚名は残さなかった。彼の最後の公職は、1936年から1938年までの、駐英日本大使だった。それに、彼は南洋への進出の提唱者ではあったものの、アメリカへの攻撃を必ずしも必要とはしていなかった。1941年、アメリカへの攻撃はまだ回避できると考えていた。骨身を惜しまず丹精した結果、67歳にして、今や彼は、真価が認められようとしていた。マッカーサーや将官たちは彼を事のほか気に入り、1946年から1954年の間、5回にわたり首相となり、戦後日本の立案者として記憶されることとなった。(77)
 9月18日、吉田の外務大臣就任式の日、マッカーサーと部下たちは横浜から東京へと移動し、多少なりとも恒常的な仕事にとりかかった。マッカーサーが居住した米国大使館には、戦前からのすべての職員や使用人が、呼ばれたわけでもないのに、三々五々と姿を現わした。彼らは、裏口からこっそりと入り、屋根裏部屋に上がって、トランクから茶色の職員着を取り出し、あたかもこの四年間の戦争がなかったかのように、仕事を始めた。マッカーサーは、その勤務場所として、白い柱に、花崗岩と大理石でできた第一生命館を接収した。そこには、ほんの数週間前まで、和平派と陸軍東部軍管区の本部が置かれていた。そこは、安全施設も日本の他の場所ではみられなく整備されており、たとえば、火事の際、地上まで降りることのできる脱出シュートがあった。その六階の、電話のないウォールナッツ張の部屋が、以後六年半にわたり日本を統括する、マッカーサーの仕事場となる。ここで彼は、日本を統治する第二の政府と、278ページにのぼる電話帳が必要となる、膨大な規模のアメリカ軍人と民間人の官僚機構――総称して連合軍最高司令部(SCAP)――を組織した。この六階の窓からは、お堀や広場越しに、皇居の石垣や時計塔が見下ろせた。おそらく、歴史上、同じ国土をめぐる二つの相敵対する絶対権力が、そのように近接して存在したことはかつてなかったろう。(78)
 東京における連合軍最高司令部の最初の日、東久邇首相は、アメリカ人記者との最初の会見を行った。そのうちの一人は後で、「世界のいかなる国のいかなる相当の地位にある者も、かつて、報道陣からのそれほど無遠慮な質問にさらされたことがあるとは考え難い」と述べた。洒落た薄茶の絹のスーツを着て、東久邇は、そうした露骨な質問を、冷静沈着にこなした。もちろん、彼は民主的手続きを拡大する積もりであった。陸軍、海軍の両省はまもなく解体され、貴族院の影響は大きく削減される予定だった。むろん、彼は、すべての計画をマッカーサーの許可を得るために提出する積もりであったが、内閣があまたの手持ちの改革案件を維持できるよう望んでいた。たとえば、戦争犯罪人の訴追については、アメリカ軍の登場のはるか以前から始まり、容疑者は連合軍捕虜への虐待によってすでに処罰されていた。いかんせん、その
〔記者会見の〕時点でとっさには、そうした犯罪人の名前も罪状も発表できず、連合軍最高司令部がそのリストを提供可能にすることとなった。(79)
 翌9月20日の朝刊は、ジョージア州出身のリチャード・ラッセル上院議員が、天皇を東条とともに戦争犯罪人として裁くことを上院で議決するよう提議したと報じた(80)。東久邇宮は、裕仁の許可のもと、ただちに第一生命館の新オフィスにいるマッカーサーに、丁重な電話をかけて、マッカーサーあるいは裕仁の求めがいつであろうと、自分は辞職の用意があると言った。そしてさらに、天皇は、自由主義と民主主義のために、宮中での隠遁生活から出て、公務における独自の役割をよりまっとうしたいとされていると、慎重ながらも表明した。マッカーサーは、天皇について、インタビューを受けたことも、国民へ直接語りかけたことも、電話の一本もかけたこともないという、新聞などからえた否定的なイメージを持っていた。そこでマッカーサーはこの東久邇の提案におおいに賛同した。だが彼は、注文を付け加える形で、裕仁のそうしたお出ましは、日本政府の変革に向けた建設的行程に代わりうるものであってはならない、と言い添えた(81)
 1945年9月25日、裕仁は、外向きな人としての歩みを開始した。その日は、他の日本人には、戦前からの短波放送聴取の禁止が解かれ、海外からの放送を再び聞くことができるようになった日として記憶された(82)。裕仁はその日、二人のアメリカの海外特派員との10分間のインタビューを受け入れた。宮内庁の謁見の間に案内されて、 ニューヨークタイムスのフランク・クルックホーンは、天皇が立っている高座のもとへきびきびと進み、腕を素早く差し出し、天皇と握手した。裕仁はその前例のない馴れなれしさにも、クルックホーンの「私の目をまっすぐに見られて、誠実な印象を得ています」との言葉にも、驚きも見せなかった。そしてクルックホーンに、立憲君主に満足である意を表し、そのためにはマッカーサー元帥を大変に頼みとしていると言った。「日本国民が衣食に足るようにさえなれば、必要とされる日本の改革は、比較的たやすく遂行されよう」、と述べた。クルックホーンはまた、東条が天皇の意志に反しかつ国の命令を誤用して宣戦布告以前に真珠湾を攻撃したとの意を、天皇の言葉より理解した。(83)
 翌日のニューヨークタイムスは、「裕仁はインタビューで東条の奇襲を非難」との見出しを掲げた(84)。この記事を、宮中は直ちに否定し、真珠湾攻撃計画の詳細を天皇が事前に知らなかったとするのは、敢えて不正直をいう天皇による装いであるとした。そして天皇は、「最高司令部が攻撃の詳細を扱うのは通常のことであり、私は東条に事前に宣戦布告をせよと言ったつもりである」、と食い違う発言をした。確かに、天皇も東条もともに、数分間の予告を米国に与えたつもりであったのだが、実際は、一連の悲劇的偶然によって、それが失敗していたのだった。(85)
 裕仁は、アメリカの記者たちとの会見に続き、マッカーサーとの会見を求めた。この歴史的な初会見は、9月27日、午前10時より、米国大使館の白壁の部屋で行われた。裕仁はその前日、彼の信頼する顧問、木戸内大臣と、2時間45分にわたってリハーサルし、また意図する役割について協議した(86)。裕仁は、マッカーサーの共鳴を得るため、つつましく、必要なら滑稽さえ辞さぬつもりで、「低姿勢」に徹する腹を固めていた。日本では、復讐が予想される場合、あえて愚か者を演ずるという名誉ある古い伝統があり、裕仁もそうした振舞いを行う覚悟があった。過度にきちんとしがちな西洋人の敵の目を軟弱で規律を欠く兵士と欺くために、日本軍なら誰しも、だらしないぶこつ者を装えるよう何十年にもわたって涵養してきていた。日本の演習教官は兵士に、行軍では足をひきずり、不精ひげを生やし、服のボタンをはずしておくようと教えていた。何年も陸軍の制服を着てきた裕仁は、こうしたスパルタ式武士道――自堕落な態度や自分を無くす風采が自らを助ける――をよく理解していた。
 ぼろ服を着たサラディン
〔1138-93 のイスラム世界を代表する君主〕同然の裕仁だったが、最後の騎士団の一人に立ち向かう武装として、自らを栄光ある十字軍騎士と想像した。一方、マッカーサーは、できる限りもの解りよくなりたいと決意してその会見にのぞんた。彼は日本の戦犯を罰せよとのワシントンの命令下にあったが、有用な目的に役立たず、米国と英国の報復をのぞむ有権者を満足させるのみのそうした命令を、彼は好まなかった。マッカーサーの見方では、日本人はみなひどい行動をとったが、それは異教徒としてであり、犯罪者としてではなかった。したがって、今、そういう日本人に必要なことは、啓蒙であり、処罰ではなかった。彼は、天皇が、人々を導く力を持っているものの、導かれる以外の意志を持たない、ひ弱で無力な人物であるとさえ思っていた。
 裕仁は、宮中の車庫で最も旧式なリムジンの一台、第一次大戦時のモデルの暗紫色のダイムラーに乗って、アメリカ大使館に到着した。彼は、数週間前に、陸軍の制服を脱ぎ棄て、今は、随行員の最下級の侍従のように、着古した戦前のモーニング服を着けていた。大使館の入口で、彼はボナー・フェラーズ准将に迎えられた。フェラーズを驚かせたのは、裕仁が彼に握手の手を差し伸べたことで、准将は反射的にその手を握り、大きくそれを振った。そして裕仁とその随行員は玄関ロビーに案内され、一団のマッカーサーの側近に紹介された。アメリカ側の将校たちは、天皇がひどく緊張し、震えているようであること――あたかも早朝の気付け剤を飲んだかのように――に気付いた。それは、彼の付添いの一人が、お抱えの内科医であると紹介されることで、より注目されることとなった。事前の打ち合わせでは、裕仁自身の希望により、その会見は完璧に個人間のものとし、裕仁と通訳のみが、マッカーサーのもとに案内された。(87)
 マッカーサーは、アイロンの利いたカーキ色のズボンと無地のカーキ色の開襟シャツを着て、裕仁を大使館図書室の戸口で迎えた。マッカーサーが裕仁を椅子に案内した時、彼は、彼が25歳の1905年、父親のアーサー・マッカーサーと共に裕仁の祖父の明治天皇に謁見した特権を思い出していた。マッカーサーは裕仁――普段は煙草を吸わない――にアメリカの煙草をすすめ、「それに火を付けた時、彼の手が震えている」のに気付いた。その後、38分間の会話が交わされた。何の議事録もとられなかったが、マッカーサーも裕仁も、後に、なにが話されたのかを話した。
 裕仁はマッカーサーに、彼の兵隊たちの優れた品行に感謝を述べた。
 マッカーサーは裕仁に、彼の国民たちの優れた品行に感謝を述べた。マッカーサーはさらに、戦争を終結させるに当たっての裕仁の役割を聞き、それに謝意を表すると述べた。
 裕仁は、戦争は自分一人の手で終わらせたのではないと、穏やかに反論した。「国民には正しく知らされていなかった」と彼は言い、「社会を混乱させることなく戦争を終わらせるのは難しかった。・・・和平派は、広島への爆弾が劇的な状況を作るまで、優勢とはならなかった」と語った。
 マッカーサーは、戦争を終わらせるほどの力があった天皇が、それを予防できる力がなかったのは不可解なことだ、と言った。
 これに裕仁はこう答えた。、「英国の皇室に対し、戦争をするとの言葉を与えた時、私の胸は張り裂けそうだった。私が皇太子として欧州を訪れた時、彼らは私を大いに親身にもてなしてくれた。しかし、そうした日々、私の顧問たちに反対する考えは私には起こりさえしなかった。その上、それは何も良いことはもたらさなかったろう。私は気違い病院に入れられたか、暗殺されていただろう。」
 「君主というものは、そうした危険を負う、勇気がなければならない」とマッカーサーは厳しく告げた。
 裕仁はそれに即座に答えた。彼の落ち着いていた鼻にかかった声がわずかに上ずった。彼の両目が通訳者に注がれ、その英語は突然に静まり、たどたどしくなったようだった。「我々のとった道が正当性を欠くというのは、私にとって明らかなことではない。今においても、将来の歴史家が戦争の責任をどう判断するのか、私は明言できない」。マッカーサーは驚かされた。彼は、裕仁が真珠湾から自身を分離し、東条を非難するものと予想していた。それに代わり、裕仁がこう言うのを聞いた。「マッカーサー元帥、私は、人々が行ったあらゆる政治的、軍事的決定や戦争の遂行でとられたあらゆる行動の責任を一身に負うものとして、貴殿が代表する権力による審判に自分を提供するために、ここに来ました。」
 マッカーサーは後に、こう記している。「この勇気ある責任の取り方は、死をも意味し・・・ 私を骨の髄まで感動させた。それを知った瞬間、彼は世襲の天皇だが、私は自身の正道をゆく、まさに日本の至高の紳士に会っていた」。あふれる親しみを込めてマッカーサーは、戦犯の処罰はワシントンが命ずる政治的必要であって、一人の士官としては、嫌気のさしてくるものだと説明した。だが、個人的野心に駆られて君主に悪徳な助言をなしたものを罰するのは有害ではない、と彼は言った。「私は、日本の天皇が日本の政界における重要人物を知り抜いていることと信じる。したがって、今より、諸般について天皇の助言をいただきたいと願う」、とマッカーサーは述べた。
 大いに喜んだ天皇は、マッカーサーに、出来ることならなんでも助言することを約束した。そして、自ら大使館に出向くのも、内大臣あるいは侍従長を送るのも、いつ何時でも、助言の準備は出来ていよう、と語った。(88)
 マッカーサーは、しばしば彼とこの誠意の込められた配慮のお世話になると約束し、その二人だけの密談は終わった。一人のカメラマンが、この歴史的瞬間を記録するために呼ばれた。疲れ気味の大男の元帥が、しま柄のズボンをはいた小柄な天皇の横でそびえ立っているその写真は、あまりに裕仁には生々しく、日本の編集者たちは、連合軍最高司令部から命ぜられるまで、それを出版しなかった。だがその写真は、国民大衆からは、不思議な愛着をもって迎えられた。しま柄ズボンの小さな天皇の公的な屈辱は、敗北した国民全体の自己憐憫のシンボルとなった。裕仁はかってなく、国民に近い存在となっていた。(89)
 裕仁は皇居にもどり、ただちに木戸内大臣に、理解がマッカーサーに達したことを伝えた。「そしてこれは、マッカーサー側から進言されたことだ」、と嬉々として言った。その二日後、木戸は彼に、アメリカの最新の新聞記事はほとんどすべてが天皇に敵対的であると報告した時、裕仁はたいそう憤慨し、ただちに友人、マッカーサーに会い、批判を辞めさせるとの険悪な雲行きとなった。木戸は「憤慨を抑えて、静観を守りましょう」と彼を諭した。木戸の忠告は、マッカーサーの戦犯局の一局員によってより真実味のあるものとなった。彼によると、同局は、天皇を裁くことを、するとも、しないとも、まだ決定していないということだった。不確かな時間をやり過ごしながら、裕仁は、彼の統治中の出来事を自分なりに総括し、一種の自己防衛の文書をまとめる仕事に取り掛かった。ただ歴史家にはあいにくながら、彼は、証拠となるものを思い出そうとしているわけではなかった。10月3日までに、彼は1929年までの総括を仕上げていた。(90)

 つづき
 「両生空間」 もくじへ
 
 
「もくじ」へ戻る   
                      Copyright(C) Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします