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第二章
  
原子爆弾
(その3)




ポツダム最終通告


 
1945年6月、トルーマン大統領が7月半ばのポツダム会議を準備し始めるなかで、日本はいよいよ身動きがとれなくなり、戦況は、冷え切った懸念とそれ以上に冷血な狡猾さに支配されていた。その当時、そうした日本の情況はいかなるアメリカに人も知らされておらず、もしそれが知られていたとしても、誰も同情は感じなかったことだろう。ともあれ、日本政府は、まだ降伏の公式な意思表示をしていなかった。
 6月18日、トルーマン大統領は、その年の11月に、日本南部の海岸線へ百万人の部隊を送り込む「オリンピック作戦」計画に許可を与えた。そしてこの進攻を支援するため、ワシントンのマーシャル幕僚長官は、「戦術的使用」として、未使用の新兵器である原子爆弾が、9発以上、必要となることを想定していた。
 そのころ裕仁は、彼の政府の大臣たちが、名誉ある和平にこぎつける努力を充分に果たしていないと感じ始めていた。偶然にも、6月18日の同じ日の午後、木戸内大臣は、主要六閣僚――参謀長官、軍令部長官、海軍、陸軍、外務、総理の各大臣――による会議を招集し、戦争終結の工程表を作らせていた。そして、7月半ばまでに、モスクワにおいて交渉に着手することを決め、停戦の目標を9月としていた。その計画は、4日後の御前会議で承認を受けたが、この会議は異例なもので、裕仁自らが各大臣たちに、迫る屈辱的職務に積極的に協力するよう要請するものであった。その翌日、裕仁は木戸に、国民に敗戦を告げる勅書を準備するように促していた。(58)
 一週間後の6月29日、外務省はソ連への最初の提案文書を作成し終えた。仲介者#8を通じ、東郷外務大臣はマリク在日ソ連大使に、満州の中立化、特別の優先漁業権の廃止、その他、ソ連側の要求への好意的扱い、などの条件を提示した。だがこれは、対日戦争に参加することを控えるというソ連側の判断を導くには、余りに貧弱な内容で、しかも日本の降伏については何ら触れていなかった。そしてむしろ、日本側は、共通の敵アメリカ合衆国を弱体化するため、石油と航空燃料を提供する意思があるのではないかとさえ無心していた。マリクソ連大使はそれに苛立ち、ほとんど話しすら聞いていない様子だった。日本側は、ソ連を誘い出すに充分な提案も、自らへの援助への効果的な打診も行わなかった。マリクはあくびをこらえながら、提案を検討すると繰り返すのみであった。そしてその後の二週間にわたり、彼は、次第に追い詰められる日本の代表をあしらい続けていた。その間、彼は、日本の赤痢で病床にふせっているとのことであった。(59)
 英国政府は、米国が原子爆弾を使用する決定を「独立」と呼称して、米独立記念日〔7月4日〕の日、それを歓待することに決定した。(60)
 その日、東京では、スイスからの新たな情報について協議していた(61)。その情報とは、陸軍の主席和平特使である岡本中将からのものであった。岡本は第三者を通じ、在欧OSS(戦略事務局)長官、アレン・ダレスに、もしありうるなら、どのような事項を日本に譲る用意がありうるのか、探りを入れていた。これに対するダレスの返答は、「もし日本が降伏するなら」、連合軍が天皇制の持続を許すことになるであろうと米国は「理解」している、というものであった。それは、数ヶ月前、日本の指導者たちが、最悪の場合が生じた時、その解決のために必要なただ一つの条件であった。しかし、それをどれほど信頼してよいものか、誰にもわからなかった。日本のスパイたちは、中国で、あてもなく、その確証をえようと打診を繰り返した。一方、7月2日、インディアナ出身の上院議員、ホーマー・カペハートは、「日本の降伏は差し迫っており」、「天皇の地位の持続のみが決定されるべき条件となっている」、と米国議会で発言していた。
 7月半ばに予定されているポツダム会議では連合軍指導者たちが東洋の命運を決定しようとしているとの報が、海外放送の分析から、裕仁に届けられた。またトルーマンは、日本への攻撃にアメリカ兵の損失を減らすため、ソ連軍や中国軍さえ合流させることを考えているかもしれなかった。ソ連の参加という考えは戦慄をもよおさせるもので、かつ、中国による報復という考えは、冷たい汗を流させるに充分であった。そこで裕仁は、病気のマリク在東京大使をへず、モスクワのモロトフとの直接交渉を始めることを決意した。そして7月7日、鈴木首相の出頭を命じ、こう言い渡した。「ソ連の腹を探ろうとして、我々は貴重な時間を無駄にしてきた。むしろ、私からの手紙を持たせてモスクワに使節を送り、ソ連に仲介者となるよう率直に働きかけてみる」。鈴木はこの考えに、「ごもっともなこと」と同意した。(62)
 自身の決断に苦悶する裕仁は、次善の策を考慮し始めていた。7月10日、陸軍での彼のお気に入りで、南京強奪部隊の本国司令部を率いていた例の鈴木貞一は、日本の「結末と出直し」についての可能性を討議するため、宮中に出向いていた(63)。そしてその二日後、遂に、「天皇はいまや、ご決心の段階に達せられた」とのノートを木戸は書いている。木戸は直ちに近衛公との私的会見をもうけた。近衛公は、天皇が日本の降伏を必至と考えていると確信していた。近衛公は、国内情況について、もはや、「国民はだれも出口を求めています。中には、天皇を非難する意見すら持っている者もおります」、とさえ進言した。
 「つまり、我々は戦争を直ちに終結させるべきだというのが、あなたの考えなのだな」、と、裕仁は近衛公に悲しげに聞いた。
 「その通りです」、と近衛公は答えた。
 「ならばそうしよう」、と裕仁は答え、「あなたをモスクワに送りたい。その考えに立った行動をとる準備に入ってほしい」、と命じ、自ら部屋から出て行った。
 近衛公は、すぐさま東郷外務大臣と会い、外相は直ちにモスクワの佐藤大使に以下の電報を送った。
 ポツダム へノシュッパツイゼンニ モロトフニアウベシ・・・・ センソウシュウケツ ヲカクジツニシタイ トノヘイカノツヨキノゾミヲツタエタシ・・・・ ワヘイヘノユイイツノカベハ ムジョウケンコウフク ニアリ
 その日の夜11時25分、佐藤大使からの次のような返電があった。
 ソレンヲワガホウニツケ、キデンポウニノベル ソレンノシエンヲエルカノウセイナシ・・・・ ニホンハマケタ・・・・ ワレワレハ ソレニオウジタジジツトコウイニメンスベシ
 この佐藤大使からの返電は、東郷外相の第二の電文と入れ違いとなった。その電文には、近衛公が天皇の手紙を持ち、降伏の詳細を決めるため、モスクワに発つとする、以下の文面があった。
 コノエノミヤオヨビソノイッコウノ ニュウコクキョカ ヲシキュウエタシ・・・・ ソレンキヲテハイシ チチハル マタハ マンチョウリ#9 ニテ オチアウコト(64)
 これに続いて、歴史上、これ以上のものはなかったであろう悲劇的な返信が届いた。7月13日、モスクワの佐藤尚武大使は本国への返信で、「モロトフは時間がなく、私に会えなかった」と伝えてきた。大使は、彼に代わり、その部下に面会、近衛の訪問への早急な返答を求めた。その日の深夜、佐藤大使は電話を通じ、「ソ連側の返事は、スターリンおよびモロトフのポツダムへの出発により、遅れることとなる」との話であった。ポツダム会議開催中も、佐藤は毎朝、ソ連の外務省に、近衛特使の目的について、東京からの問い合わせを取り次ぐよう要請した。毎午後と夕方、大使は、確認が必要なソ連側の要求事項を送電してきていた。裕仁は、ロシア側の遅延に、安堵しているかのようであった。7月18日に、東郷外相と会った際、裕仁は「我々の要望の運命は貴殿の責任の届かぬところにある。それは、先方の返答次第であり、我国の命運は、皇祖皇宗のお決めになるところである」と語った。
 スターリンにも、裕仁にも知られることなく、東郷と佐藤との間の電報は、米国の諜報員によって傍受されていた。それは解読され、翻訳され、バイアーンズ国務長官に提出されていた。日本が降伏を懸命に求めていることは筒抜けであった。数ヶ月前、木戸内大臣と参謀本部が受け入れることに同意していた最低の面子条項も求められていなかった。それはまた、OSS(戦略事務局)のダレス長官がすでに容認していた、降伏の一条件についてすら、日本の意思はこだわっていないものであった。アメリカ諜報部の分析は、日本を、東条のような一握りの強硬派の大将らによって牛耳られた警察国家として見がちであった。そうした分析は、東条すら、天皇への従者にすぎないことを見落としていた。日本の軍部の力は、海外の侵略された国々では、その傲慢な専制的行為で判断されていた。だが、大半の日本の兵士が、生まれは卑しく、国内においては、貴族階級にへつらわされている人たちであることは充分には考慮されていなかった。
 そうであるがゆえに、東郷・佐藤間のやりとりは、日本軍部がソ連と取引を行っているかに解釈され、したがって、軍閥が処罰をさけ、勢力を維持することをねらう条件を、降伏に盛り込もうとしていると、バイアーンズ国務長官に報告された。一方、ソ連側の分析も誤っていた。つまり、日本の資本主義は、その労働者階級への支配を永遠化させようとしていると見ていた。しかし、日本の資本家はその工場を、そして軍人たちはその命を、神たる天皇へ捧げていたという事実は、西洋人の実務的な視点からはその理解を超えていたのであった。(65)
 米国務省においては、前グリュー駐日大使を囲むグループが、日本への一種の思いやりと、日本人の後進的な心情にある複雑性をいくらか理解していた。彼らは、戦争の真っ最中に発表される無条件降伏の内容は、それに盛り込まれた様々な解釈の意味するところをよく理解するため、米国の政治家たちによって再研究されるべきであると要求した。そして同グループは、その無条件降伏が、兵士や武器に対してのそれではあるが、婦人や固有資産に対するそれではないことを言明すべきであるという点では成果をえることとなった。また、彼らは、日本が直ちに降伏しなかった場合、核爆発による大量死が日本を襲うだろうとの警告をポツダム宣言に含めるようトルーマン大統領が試みる、との確約も大統領のポツダムへの出発に先立って取り付けていた。グリューそしてある程度はスティムソン〔米陸軍省長官〕も、その警告の中に、原子爆弾があるということと、天皇の人間としての存在の保証を、明瞭に含めることを求めていた。しかし、大統領の別の助言者たちは、そうした警告をもって、アメリカが日本に原爆を投下しようとしており、ソ連に満州への攻撃を早めたほうが良いと事実上の通告を与える理由はないと見ていた。また、天皇と皇族がその地位に留まれると保証し、日本の階級や権力構造に基本的変化がないことにして、連合軍の真の力を発揮しないことで終わらせる理由はないとするものもいた。(66)
 ワシントン時間の7月14日、連合軍の指導者たちがポツダムへと向っている時、最初の原子爆弾が、テストのため、ニューメキシコ州の砂漠にある塔の先に取り付けられていた。7月17日、ポツダム会談の朝、トルーマンはテストの結果についての最初の報告を受けていた。曰く、「赤ん坊は元気に誕生」(67)。次の日、詳細報が届いた。「赤ん坊の泣き声」は力強く、首都ワシントンからバージニア州、アッパービルの暫定委員会事務局長のジョージ・ハリスン宅にも届いた。「赤ん坊の目の光」は、首都よりロングアイランドのハイホールドのスティムソンの自宅を照らすほどに充分に明るかった。その爆弾は、誰もが想像していたより、はるかに強力であった。ニューメキシコの物理学者たちによる予備テストの知識では、その爆発の効果は、TNT火薬に換算して、1万8千トンと言うものから、米国戦時レーダー研究所長のリー・ダブリッジ博士によるその効果に懐疑的な「ゼロ」まで、広い幅があった。実際の効力は2万トンであった。7月22日、チャーチルは、詳細報告書を読んだ後、自分の椅子から前に乗り出し、葉巻を振り回して厳粛に言い放った。「スティムソン、火薬が何だ。とるに足らん。電気が何だ。無意味だ。原子爆弾は憤怒したキリストの再来だ。」(68)
 チャーチルは後にこう付け加えている。「日本を降伏させるために、原子爆弾を使用するか否かの決断は、問題とするほどのことではない」(69)。しかし、トルーマンにとっては、それは懸念の種であった。7月18日、その爆弾の能力についての報告を受け取った日、彼は軍事顧問あるいは価値ある意見が期待できるあらゆる人に相談をもちかけた。また、ポツダムを訪れていたアイゼンハワー将軍は、後年になって、その同じ日のことをこう回顧している。大統領から打診された彼は、「そうしたことを決して行ってはならないと考えること自体が、戦争を何か悲惨で破壊的なものへと導くのではないか」と自分の意見を述べたという(70)
 スティムソン陸軍省長官は、その爆弾は日本人が求めている降伏への口実を提供する可能性があり、「そもそも米国が言う無条件降伏とは何かを天皇にさとさせる、もっとも考えつくされた方法」(71)で使用されるべきであると主張した。チャーチルや他の政治家は、スティムソンに賛同した。そして7月24日、ポツダム会議の最中、トルーマン大統領はカール・スパーツ将軍に、最初の「特殊爆弾」は、8月3日以降、「天候の許す限りすみやかに、第509混合部隊によって」投下されるべきであると、作戦命令を下したのであった。
 後日の回顧によると、トルーマンは同日、「スターリンに、米軍が極めて破壊力の強い新兵器をもっていると、それとなく告げた」と述べたということである(72)。その際、ソ連の首相は、格別な関心は示さなかったという。スターリンが述べたことはただ、その知らせに感謝し、「日本に対し、それが正しく使われる」ことを希望するということだけであった。すでに赤軍諜報部がそれを原子爆弾と彼に警告し、スターリンは確かにそうと知っていたはずであったが、彼はそうした様子を示したふしはない。それは、後に、広島でその爆弾が使用された時、赤軍が満州の国境を越えて作戦行動するために、その後ほぼ二日を要したことからもうかがえる。さらにその四日後、スターリンはトルーマンに、その爆弾について述べるより、東京より和平の仲介役になってもらいたいと打診されていると伝えた(73)。そして彼は、いかにも正直風に、東京が特定の提案内容をも示してきていないと付け加えた。その次は、トルーマンが正直さをみせる番で、彼は、日本の和平特使の動きは、まだ、余りに暫定的で、充分な関心を示すに値しないと返答した。
 7月26日、ポツダムにおける連合軍指導者とその事務官らによって文書作成が終了し、日本に対し、ポツダム宣言が発せられた。曰く、「我々は、日本政府に対し、日本軍の無条件降伏を宣言するよう勧告する・・・・ さもなくば、日本は、すみやかかつ徹底的な破壊をこうむることとなる」(74)。日本の外務省の担当者は、連合軍が無条件降伏を、「日本軍」にのみ限って適用されることに、謝意をもって注目した。しかし、「すみやかかつ徹底的な破壊」との文言については、一般的表現として以上に、ことさらの関心は払わなかった。ポツダム宣言が発せられた二日後、鈴木首相は、それが、1943年12月のカイロ会議にいう無条件降伏のルーズベルト案となんらの違いはなく、「我々にとって意義あるものとは見受けられず、ただ無視されるべきもの」(75)、と回答したのであった。
 その十年の歴史について、アイゼンハワー将軍を含む歴史家や為政者たちは、ポツダム宣言が不適切であったと指摘する。すなわち、その宣言は、「すみやかかつ徹底的」な破壊がどのようにおこるのかとも、また、無条件降伏とアメリカの占領がさほど不快でないものでありそうなことも、日本人に説明していなかった。アメリカ海軍諜報部のエリス・M・ザカリアス大佐は、普通の日本人でもラジオで聞けるよう、7月28日、中波を使用し、日本語と英語による以下のような内容の放送が許可され、日本に向け放送された#10。「日本は選択をしなければなりません。さもなければ、すみやかかつ徹底的な破壊が行われます・・・ 何世紀もの汗と努力の結晶が、むなしい大破壊の終末へと結果します・・・ 他に選びうるものは戦争の終結です。ひとつの簡潔な決定が、都市や村々に、ふたたび平安をもたらします・・・ 日本の本土は、平和を目指す、責任ある政府統治のもとで、その主権が維持されます。」(76)
 8月2日、東郷外相は、会談のため近衛公をソ連へ派遣しようとの提案への何らかな返答をソ連政府から引き出すよう、モスクワ駐在大使に要請した。東郷は、「条件に関して検討するにたる根拠」として、ポツダム宣言を受け入れる権限が近衛公に与えられると確約した(77)。ソ連外務省は、モロトフがポツダムからの帰路にあり、佐藤大使が彼と数日後に会える見込みであると知らしてきていた。だがソ連の返答は遅れ、日本は待つしかなかった。そのころ原爆はテニアン基地に運ばれ、組み立てられていた。8月6日、佐藤大使は、モロトフが帰還し、二日後の午後5時、彼に会えると知らされた。だが同じ8月6日の朝、同大使は、広島が一瞬のうちに消滅したと通報されたのであった。


                      天の声

 広島の大半が地図の上から姿を消した時、何かが欠けていると最初に気付いたのは、東京の電話交換士たちであった。その数分後、広島地方から、支離滅裂な通話が入ってくるようになった。陸軍参謀本部は、最初、もっと情報を送るように打電することで、それに応じていた。翌朝の火曜日、参謀副長官は、最悪の事態を憤怒と戦慄をもって確認することとなった。「広島の全市が、一発の爆弾で瞬時に破壊された」(78)。参謀本部は、さらに電報や飛行機を送り、どういう種類の爆弾が落とされ、何人の死亡者があったのかを調査させた。
 将官たちにはまだ届いていなかったが、天皇裕仁と木戸内大臣には、その調査結果が知らされていた。同日の午後、皇居図書館(皇文庫)で裕仁と木戸が会った時、二人は、海軍諜報部と東京帝国大学の物理学者の分析と報告書をすでに読んでいた(79)。米国本土から放送された文面は、ほぼ正直な内容を伝えていた。それは原子爆弾であった。天皇裕仁は、被害に関し、「13万人が死傷した」とする、きわめて正確な数字を得ていた。他の大半の国民とは異なり、裕仁は原子爆弾の重要性を理解していた。ほんの数ヶ月前まで、彼は日本自身の原子物理学の研究推進を後押ししていた(80)。しかし、その努力は、研究装置で満たされた二つの建物が、物理学者や技術者ともども吹き飛ぶ奇怪な結果をもって終っていた。日本を敗北から救うため、その研究は余りに先を急いで推進され、安全対策を欠いていたのであった#11
 広島をおおった閃光の中で、木戸と裕仁は、彼らの計画がもはやそれ以上、遅らされてはならないことを覚っていた。すなわち、木戸の和平工作は、その最後の段階に入る時がやってきていた。一人の人間と神は、その日の午後、主要な官吏に会って指示を与え、その用意に入った。翌、8月8日、水曜日の午後、和平体勢のお膳立ては整っていた。木戸は、空襲警報の機会を利用し、皇居図書館の地下の防空壕へ天皇を避難させた。そこで木戸は天皇に、和平体勢を始動させる命を下すよう要請した(81)。裕仁は東郷外相を呼び、こう言った。「この恐ろしい破壊力をもった武器が、我々に対して使用された。我々は、この機会を逃してはならない・・・ ポツダム宣言にのっとって戦争を出来る限りすみやかに終わらせることは、自分の希望であると鈴木首相に伝えてもらいたい」(82)。予見や議論の域を越える難題を前に、裕仁は、敗戦の屈辱を和らげ、降伏への道をなだらかとする、日本の兵士たちの面子をたてる方策を考えていた。(83)
 裕仁がその命令を与えて六時間後の水曜日の夜、ウィスコンシン出身のアレキダンダー・ウイリー上院議員の言葉のように、原爆は、「道化者を場外へ追いやって」(84)いた。モスクワの佐藤大使は、東京時間の午後11時(モスクワ時間の午後5時)、モロトフ外相と面会することとなっていた(85)。同大使は、この会見で、ソ連が近衛を受け入れ、日本の降伏を手助けする手配がえられるものか、その返答を得ることを期待していた。だが、それに代わって、彼は、ソ連の宣戦布告を受け取ることとなった。モロトフは同大使に、日露不可侵条約は、日本のドイツ支援により、何年も前にすでに破棄となっていた、と冷ややかに説明した。ポツダムにおいて、スターリンはトルーマンに、太平洋戦争に加わる前に蒋介石と中国の将来について条約を結ぶ、と約束していた。また赤軍の参謀は、8月後半以前に、ソ連が日本に対する作戦を開始することはない、とポツダムで表明していた。だがいまや、予定を全面的に早めて、わずか二日間の準備のみで、ソ連軍は満州に進撃を開始した。裕仁の命の18時間後の翌朝、幸い小倉は免れたものの、長崎、浦上にさらなる原爆が投下された。日本人は、広島以来、3日間の時間的猶予を与えられていた。だが、米国人は誰も、天皇裕仁がポツダム宣言をすでに受け入れる決心をしていたとは知らなかった。
 8月9日、木曜日の朝、その二発目の原爆が、慈悲的にも3キロ標的を外した時、日本政府の六人の重臣たちは、皇居外部の防空壕に、首相を囲んで、無条件降伏を受諾するという天皇の意向について協議していた。彼らは前夜に召喚されていたが、うち何人かの軍人が参加不可能であった。しかしその夜、特高警察が流した、先に大阪郊外で撃墜されたB−29操縦士の「自白」のニュースによって、即座の行動への必要が生じていた。
 尋問者になぐられ、血まみれとなったマーカス・マックディルダ少佐は、原爆について知っていることを自白しなければ死ぬことになると脅迫されていた。何も知らなかった彼だが、ともかく洗いざらいを告白するしかなかった。彼はフロリダなまりでもって話はじめた。「ご存知のように、原子が分裂する時、たくさんの陽子と陰子が発生する。そこで、我々はそれを捕らえ、大きな容器に、鉛の壁でへだてて閉じ込めた。爆撃機からその容器が投下された時、その鉛の壁が溶け、陽子と陰子が交じり合う。その時、とてつもない落雷の稲光が生じ、都市をおおうすべての大気が吹き上げられる。そして、大気が再び戻ってきた際、すさまじい雷鳴をもたらし、その下のすべてのものを破壊しつくす」。
 そしてマックディルダはこう付け加えた。「次の二つの標的は京都と東京だと確信する。東京は、来る数日のうちに爆撃されるはずだ」。(86)
 陸軍大臣と二人の参謀本部の長官を含む六閣僚が、うだるような防空室で裕仁の要望を議論していた時、マックディルダの自白の情報を吟味し、東京や天皇、あるいは、京都や歴代天皇の墓がまもなく灰と化すことを考え、鎮痛な思いを抱いていた。そして同時に、戦争の終結を恐れてもいた。彼らはまだ、本土に残る250万人の戦闘部隊と、9,000機の特攻機を、思いのままに使用が可能であった。しかもそうした戦闘員は、降伏より死を選ぶように、長年にわたって教えられていた。そして最近の数ヶ月は、日本の海岸線での「最終決戦」さえ決意させられていた。その闘いは、敵にとって余りに犠牲の多いもので、後日の終戦交渉では、条件付降伏と名誉ある和平をえるはずのものであった。だが、闘うことなくこれらの戦闘員を降伏させることは、将来、例えば、通りがかりの将軍につばを吐きかけ、そうすることで自らの誇りを確かめようとする、ぼろをまとった元兵士が現れかねないといった、耐え難い不面目なシーンを想像させていた。(87)
 陸軍大臣の阿南大将は、配下の兵士を念頭に議論していた。天皇は降伏を望んでおり、日本は降伏しなければならなかった。だが、交渉なしで降伏することは、愚かしいことであった。彼にとって、日本は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、四項目を条件とする旨、表明すべきであった。その四項目とは、1.日本の国土は、占領軍部隊によって蹂躙されないこと、2.戦闘員は武装解除され、自らの将校によって解散されること、3.戦争犯罪人は、自らの法廷において裁かれること、そしてもっとも重要なこととして、4.天皇制は維持されること、であった。疑問の余地のない宗教的信念として、だれもが最後の条項には同意した。しかし、他の三条項については、参謀本部の二人だけが、阿南陸軍大臣に賛同した。首相、外相、海軍相は、一条件のみの無条件降伏は可能かもしれないが、四条件を付した無条件降伏は東京への原爆の投下をまねくのみであると主張した。3対3で議論は行詰り、午前11時30分頃、会議の場に長崎への原爆投下の報がもたらされた時でも、それは解けなかった。午後1時、鈴木首相は目を開き、茶碗を押しやり、葉巻を押し消して、会議を一時間、休会させた。
 阿南陸軍大臣は、午前中に何か重要なことが起こっていないか点検するため、自分の省にもどった。彼の最も過激な部下が彼を囲み、六閣僚の会議について尋ねた。大臣は当たり障りのないやり取りで彼らをかわし、断固とした立場をとると約束した。そうした部下一人である彼の義理の兄弟は、「もしポツダム宣言を受諾する積もりなら、むしろ腹を切れ」、と大声で彼に警告した。
 阿南陸相が車に戻る際、かれは自分の秘書にこう告げた。「内心を語れば、私のような六十になる老人にとって、腹切りほど容易なことはないことを、彼らは判っていない」。(88)秘書の目には、彼は疲れているように見え、その言葉のように、意気消沈していた。車は自分の官邸に向かい、その裏庭で彼は弓と的を用意し、自分の精神状態を確かめようとした。彼は17本の矢を放ち、うち5本が的中した。通常なら、10ないし11本が的中していた。彼は自身の緊張と限界に気付きつつ、ご飯と漬物の昼食を急いですまし、首相官邸へともどった。
 午後の協議のために、鈴木首相は、内閣の他の閣僚も呼び寄せていた。こうして、主要6閣僚を含め、14人の閣僚が審議にのぞんだ。最も厳格な条件をとなえる阿南陸相に2人が付いた。やや柔軟な対応をとる東郷外相を5人が支持し、そして、わずかな交渉の余地を残すもののいかなる意味でもの無条件降伏を受け入れる意見に5人が賛同した。協議は午後2時30分より5時30分まで続いた。そして夕食の後、6時30分に再開した。
 太陽が蓮池の上を移動し、丹念に手入れされた皇居の庭の樹木の陰が長く伸び始めていた。裕仁は皇居図書館で、すべての審議に終止符をうつ、天の命令を与える時を待ち受けていた。戦争疲れした人々に天啓の平和を与えることは彼の特権であったが、同時に、狂信派の名誉を留保する危険な職務もおびていた。午後の休憩の間、木戸内大臣は同図書館を訪れ、新たな確認としばらくの辛抱を裕仁に懇願した。その協議が全会一致の合意に達しないのは予定の内であったが、行詰り状態が譲歩されるとしても、各大臣たちは、それぞれの見解を徹底的に論ずる義務があった。そうした場合にのみ、彼らは天皇に意見を仰ぐことができ、鶴の一声を求めることが可能であった。
 審議の進行を調整し、議論がが長引き、疲労がゆえの妥協に達しないよう事態をはこぶ責任は、阿南陸相の双肩にかかっていた。彼はこの責務を、彼の部下の面子を維持する上でも好ましいものとして進んで引き受けていた。彼は、降伏推進者と理解されていたが、無条件降伏でよしとするものではなかった。彼はそれまでの数ヶ月、部下に対し、連合軍より名誉ある和平をもぎとるか、さもなくば死か、と公言してきていた。同様な誓いを、彼は天皇にもおこなっていた。
 1920年代初期より、裕仁に仕えた若手将校による秘密顧問団の一員であり、また、スマートでたくましい阿南は、もっとも献身的かつ忠実でもあり、武士道精神の完璧な模範であった(89)。彼は弓道にひいで、彼の心身の鍛錬をささえ、また剣道においても5段の腕をそなえていた。金銭を見下し、個人的享楽に無頓着な彼は、日本人が「腹のすわった」と表現する、落ち着いた心構えを備えていた。ただ彼は成績優秀というタイプではなく、陸軍大学への入試を二度すべっていた。しかし、彼は、人の導き方は心得ていた。戦闘においては、彼は、鋼鉄の神経の持ち主として知られていたものの、戦場から離れれば、その穏やかな気性、親しみのもてる話し方、そして大酒のみとして、人々から愛されていた。(90)
 朝香宮や、天皇のおじの東久邇宮とともに陸大をすごし、阿南は自然に、その経歴の初めから、宮中サークルに参加するようになり、以来、その一角を形成するようになった。彼は、宮中付武官として、1926年から1932年までを仕えた。1926年12月25日の裕仁の即位のその日、阿南は、東条や他の秘密顧問団との会議 (この会議で、満州の中国からの「解放」が決定された)に、宮中を代表して出席した。その後の多くの難しい任務をへて、阿南は1944年、ニューギニアにおいて、日本軍の守備隊が支援軍から分断されて孤立した際、奇跡的な成果を成し遂げた。同年12月、東京での情況が同じく危機的に至った時、裕仁は、二人のおじの薦めに従い、阿南を本国に呼び戻したのであった。
 第二の原爆が投下されて11時間後の午後10時、不屈の阿南は無条件降伏に反対する議論を繰り返していた。彼に反対する者たちは、議論そのものより自らの立場に悶着してきていたが、全員、疲れ切っていた。裕仁の老いた侍従である鈴木首相は、建て前上の十分な議論がなされたと判断した。そして休会を言いわたし、彼が宮中に向かっている間、他の閣僚に、彼の官邸での歓待を楽しませておいた。その夜は晴れていた。月はまだ出ていなかったが、東京は灯火管制がしかれていた。彼の車のヘッドランプは半ば覆われて薄暗く、皇居の遊歩道の両側の大木のつくる陰に圧倒されていた。
 その老いた海軍大将兼侍従首相は、宮中図書館で彼を待っていた裕仁が、座り直して姿勢を正すのを見た。鈴木首相は、議論が暗礁に乗り上げたことを報告し、事態打開のため、緊急の御前会議を招集するよう進言した。裕仁は即座に同意し、お付きの者に木戸内大臣に電話し、必要な準備をするよう命じた。鈴木は、木戸とのあらかじめの合意により、平沼〔騏一郎〕枢密院議長を御前会議に呼んでみてはいかがかと、天皇にたずねた。裕仁は動揺を見せたが、伏目がちにうなずいて同意した。日本では、この平沼ほど、真珠湾への道を改めるように裕仁に働きかけたものはなく、「だから言ったではないか」 と言えるものは彼以外にはいなかった。
 80歳の平沼は、日本の右翼国粋主義のうち、軍閥台頭以前の復古派を代表していた。彼は、古式蒼然たる華族や、やくざの親分や元親分をその背後に従えていた。1929年から1936年までは、資金豊富な国本社――米国で言えば、マフィア本部とニューヨーク・アスレティック・クラブの合わさったもの――を主宰していた。やくざ界との関係をつうじ、彼は労働者、ひいては、国民の代表を自認していた。裕仁即位の当初、平沼は、軍部の派閥のうち、ソ連への進攻を主張する北進派を支持していた。さらに、法務界の権威者として、名目的に自らそう公言する場合以外、天皇は超法規的存在であるべきでないとの立場をとっていた。長年の論争の後、1936年、軍部の北進派を私的ながら公然と逮捕し、中国へと舵を切った時、その法的地位を認めた。と同時に、平沼を理解し、毎週水曜の朝に開かれる枢密院議長に彼を指名した。ソ連への制限的な攻撃を試みた1939年のノモンハン事件をめぐっては、彼は首相として国を率いていた。この試みは大失敗に終わり、平沼は一時、政界を退いた。しかし、1941年、閣僚のひとりとして復帰し、米国との戦争への反対を公言する彼を殺そうと雇われた暗殺者の弾丸を受けながらも生き抜いた。それ以降、和平派を組織するため、近衛公をたすけた。(91)
 その電話の数分後、内大臣木戸が宮中図書館に到着し、平沼が問題を起こすことはないことを裕仁に確約した。平沼と木戸は、その前日、長い話し合いをし、相互の理解に達していた。裕仁はそれを感謝して、その確約にうなずいた。平沼は、鋭い法律感覚を持っていたうえ、彼は、反対者としてではあったが、天皇への息の長い忠誠を示してきていた。したがって、その場は、決定的貢献を示すべく、最終的機会以上の意味をもっていた。裕仁は、御前会議を開くため、彼らの到着を今か今かと待ち受けていた。午後11時、閣僚や軍最高司令官らの面々が集まり始めていた。木戸内大臣は、その各々の見解を得るため、忙しく駆け回っていた。侍従や御付武官たちが、宮廷防空室の入り口へと参列者を案内し、地下謁見室の控えの間へと続く、水平に20メートル、垂直に15メートルの階段へと導いていた。全員の案内と集合が終わったのは、午後11時20分を回ってからであった。(92)
 午後11時25分、天皇裕仁は、木戸との12分間の最後の話し合いを終え、特別のドアと階段をへて、会場へと向かった(93)。裕仁は、自分の子供や甥や姪が、じゅうたんやソファーの上で寝泊りしている地下の居間に立ち寄った。彼は侍従長と短い会話を交わした。彼は、皇后良子(ながこ)によるみなりの点検を受けた。午前零時10分前、天皇は、みるからに髪を乱し、目は異例に窪み、やつれた様子で、暑く湿ったその15坪ほどの防空室に入った。彼の乱れた姿が現れた時、人々の声は静まり、驚きのため息がもれた。彼は、菊の錦模様の布が掛けられた祭壇のようなテーブルに着席した。(94)
 裕仁の背後には、六つ折の金屏風が立てられていた。彼の前には、壁に沿う二台の細長い机に、11人の疲労困憊した人々が着席していた。うち、四人は民間人、四人は陸軍大将、三人が海軍大将であった。その顔ぶれは、裕仁の警察国家をそれぞれにつかさどってきた、権力構造のみごとな断面であった。そしてその全員が宮廷内派閥のメンバーで、1920年代末以来の数々の陰謀事件に関与していた。彼らすべてが、戦争という巨大な賭けが負けに瀕していることを知っていた。彼らの前途には、自殺か投獄が待っていた。その部屋の苦しくなるような空気は、参列者の一人の言葉のように、「死神が漂っている」ようであり、この世の終わりが宣告されているようであった。
 鈴木首相の書記官長、
迫水久常は、彼自身や同室の人々があの世に迷い込んだかのような、不気味な感じを抱いていた。天皇を後光が包んでいるかのようであった。迫水の隣に着席していた吉積正雄軍務局長は、ちょうど十年前、裕仁の二人の伯父、朝香宮と東久邇宮がはなった暗殺者に刺し殺された当時の軍務局長、永田鉄山の場合に重なり合うものを発見しており、まさに、永田がいまそこにいるかに感じていた。彼は暗殺される一ヶ月前まで、天皇の軍事顧問団のリーダーであったが、中国との戦争計画をめぐって裕仁と対立し、また、機密情報の漏洩で裕仁を怒らせていた。彼は、自分を守るため、辞職するか休暇をとるかとの選択を迫られていたが、そのいずれでもなく、現職を維持することを選択し、自らその犠牲者となっていた。
 その部屋へのあたかもの永田の霊の出現は、迫水書記官長の意識を強くとらえ、そのあり様は、数年へた後でも、彼が鈴木貫太郎記念館に献上した最後の御前会議の場面を描いた絵画にも表われているほどであった。その絵では、迫水のあごは強調され、その唇は肉付きよく描かれ、それを描いた画家が、永田の死の直前の1935年、会議の席上で見た彼に、いかにもそっくりに再現していた。迫水に向かい合って座っている列席者は彼を心配げに見ているが、彼の眼は彼らを見てはおらず、閉じているようである。そして、彼の唇には冷ややかな笑みが浮かべられ、それは自嘲的な充足からくる淡い嘲笑を表しているようである。毎年、何千人もの人々が鈴木貫太郎記念館をおとずれ、その絵の前に列を成しているのである。(95)
 1945年8月9日の夜、絵ではなく現実のその地下室では、冷笑的で個性の強い迫水書記官長は、それまでのあらゆる激しい議論が儀式的に朗読される、不吉な開会の進行をみつめていた。裕仁はそれを黙って聞き、金屏風の祭壇に向かって不動のままであった。東郷外務大臣と米内海軍大臣は、無条件降伏が避けられない理由を説明した。阿南陸軍大臣と梅津参謀総長は、生くる者、死する者の名誉にかけて、最終戦をたかかうことを訴えた。
 鈴木首相が、80歳の法律家、平沼枢密院議長を指名すると、室内にさざ波が走り、なぜ平沼が発言すべきであり、そもそも、なぜそこに列席しているのか、互いにささやきあった。だが彼らはまもなく、それを理解することとなった。平沼は、日本を代弁する告発者としてそこにあった。彼は、裕仁をも含む列席者たちに、その責任、その無責任を知らしめようとしていた。そしてその老人が立ち上がった時、彼の面長な顔は無表情で、眼を細め、いかにも司法官のごとく、話し始めた。
 「貴殿は、ソ連に対し、具体的な提起をしたことがおありか」と、彼は東郷外相にその反論を求めた。また、「こうした爆弾投下に可能な防御方は」と、阿南陸相に質問し、さらに「敵はやりたい放題であり、敵の空襲にまったく何の反撃もないように見受けられる」とも付け加えた。一方、海軍相と海軍参謀総長には、「海軍は、敵の機動艦隊に対する何らかの対抗艦隊をおもちか」と尋ねた。それに対して豊田海軍参謀総長は、そうした艦艇はなく、新型の神風攻撃機について、弁解気味に触れたのみであった。そこに平沼は鋭く畳み込むように、「現在のわが国におけるかくのごときあらゆる状況の悪化にてらし、この戦争の継続はいっそうの国情の破滅をもたらし、しかるに我々は、当戦争の終結を決断すべきである」、と迫った。
 最後に、平沼は天皇裕仁に眼を移し、「連合国に送られた制限条件の文言は改めなければなりますまい。つまり、『国家諸法にもとづく天皇の地位の変更へのいかなる要求も含まないとの理解をもって』ポツダム宣言を受諾する、というのは不適切であります。天皇の主権は国家法によっても、憲法によっても規定されておりません。ただ、憲法が言及しているのみです。もしその文言が、『当該の宣言は、主権者たる天皇の不可侵特権に関するいかなる要求もふくまない』と解釈する、とのように変更されるなら、私は何の異論もございません。」
 裕仁がうなずいて、降伏文書にある天皇の権力と責任の定義を受け入れたい旨を、東郷外相に示した時、平沼は、「祖先より継承されてきた遺産にそえば、陛下はこの国を不安に陥らさせぬ責任をもお持ちのはずです。私は、陛下に、この点をご考慮のうえ、ご判断をなされたく、進言致したく存じます」と述べて、彼の主張を締めくくった。
 平沼枢密院議長は着席した。海軍参謀総長が起立して短い見解を述べた。鈴木首相は、「我々はすでに4時間にわたり議論してきたが、いまだ結論を見ていない。我々はもはや一分たりとも、時を浪費すべきではない。私は、陛下のご見解をあおぐよう、ここに提案いたしたい。陛下のご意思により、この件を解決せねばなりません」と、平沼の意見を後押しした。
 裕仁は着席したまま、国家的宣言のために特別に用いられるかの、その甲高い、古びて抑揚のない宮廷調の声でそれに応えた。「私の見解を述べます。私は、外務大臣に同意します。その理由は以下の通りです。私は、この戦争の継続は、本国の破壊をもたらすのみであると結論しました。私は、無垢な国民がこれ以上の惨禍を体験することは耐えられません。さる六月、陸軍参謀総長より、九十九里浜の防衛線が完成中と告げられました。八月となった今、そうした防衛線はいまだ完成していません。その新設の部隊は完全に武装されたとの公式報告を受けました。しかし、彼らは、銃剣すら支給されていない状態です。本土での決戦を主張するものもいます。しかし、私の経験から言って、作戦計画とその成果には、食い違いが生じます。私は、現在の状況から言って、日本国民が破滅にさらされているのではないかと恐れます。しかし、私は日本の国を子孫へと引き継いで行きたい。私は、できる限り多くの国民が生き残り、再び立ち上がることを望みます。遠く祖国を離れた戦場で死傷した忠誠な兵士や、本土空襲で何もかもを失った家庭のことを思うと、いたたまれぬ苦痛を感じます。私の勇敢で忠義ある兵士たちに武装解除を願うのは辛いことです。また、私の献身的な家臣が戦争犯罪人とされるのも、耐え難いことです。しかし、耐えがたきを耐える時がきています。私に何がおころうとも、それは問題ではありません。私は、戦争を終結させることを決心しました。それが、外務大臣の提案に同意する理由です。」
 防空室に列席していた人々はだれもが涙を流していた。裕仁は立ち上がった。鈴木首相はただちに言った。「天皇のご決定が成された今、本会議の結論も導かれた。本会を散会する。」
 午前2時20分であった。裕仁は、その会議の開催中立ち続けていた侍従長によって開かれたドアに向かった。天皇がその部屋から姿を消した時、首脳たちは吹上庭園に通ずる階段に向かっていた。彼らが地下にいる間に月が昇り、月光に照らし出された庭園の美が、彼らの失意に鋭気を取り戻させた。裕仁は、皇后と木戸内大臣に短い報告をした。飲食物が用意された首相官邸に移されていた内閣は、その長く苦痛な日の、四度目で最後の会議を開き、全会一致で、天皇の決定を承認した。内閣が解散され、彼らが帰宅したのは午前4時であった。外務大臣の東郷が、一条件をふした日本の無条件降伏を通告する外交文書を、スウェーデンとスイスに向け正式に暗号化し打電し終わったのは午前7時であった。(96)
 

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