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第二章
  
原子爆弾
(その1)






                         広島(1)


 こうした詳細手順に従って、第509混合部隊の爆撃機は、17日間にわたり、トーペックス火薬
〔爆雷用の高性能爆薬〕を用いた奇妙な形をした“かぼちゃ”を、日本のいくつもの都市に投下した。日本の対空監視員は、三機編隊でやってきて一発の爆弾を落とすだけで大した被害のない、B29の機影に慣れてきていた。日本の無線工作員は、重要性と機密を鼻にかけていると第509混合部隊をなじる、テニアン島の米軍の地上員ののん気なおしゃべりを傍受していた。東京ローズ〔日本が流した対連合国軍宣伝のためのラジオ放送の女性アナウンサーに米国兵がつけた愛称〕は、同部隊が、アメリカのとっておきの策、「魔法」の訓練をやっている、と報じていた。
 1945年8月6日、第509混合部隊のエノラ・ゲイは、魔法でもかぼちゃでもなく、「リトルボーイ」――細長い容器で、中に、発火を待つ少量のウラン235を一端に、他端に多量のそれをもつ、つまり原子爆弾――を搭載していた。テニアン島を離陸して6時間半後の、日本時間の午前8時15分17秒、特製の爆弾倉の扉が開けられ、〔爆撃照準機と連動した自動投下装置でなく〕トグルスイッチにより、パラシュートの付いた爆弾が投下された。ポール・W・ティベッツ大佐は、爆撃航程パイロットのトーマス・W・フェアビー少佐から機の操縦を引き継ぎ、急旋回をおこない、全速力で帰還に入った。約二分後、24キロメートル離れたところで、エノラ・ゲイは、まるで野生馬のように跳び上がった。航行記録をつけていた機長のロバート・ルイスは、「我々が標的を爆撃するまでの間、ちょっとの休息があるだろう」と直前に記録していたが、今度は、「おお神よ」と、驚嘆のみをしるしていた。
 その爆弾は、晴れた青空の中、24万5千の人口をもつ市の、北西中心部、地上約450メートルで炸裂した。その瞬間、あたかも太陽の中心部のような、直径75メートルの火の玉が空中に出現、6万4千人の市民が瞬時に燃え上がり、あるいは木っ端微塵に粉砕された。さらに、2万6千人余りは、中性子とガンマ線が無数に体を刺し抜き、焼かれ、数分、数日、数週、あるいは数ヶ月以内に死亡した。
 その閃光は、160キロ先にまで届いた。爆発の衝撃波により、瞬時に6,820棟の建物がなぎ倒され、その音は16キロの彼方にもとどろいた。幅1.6キロの市の中心部全体が炎に包まれた。熱気と灰――建物や人間の灰――の巨大な気流が空中へと吹き上がり、キノコ型の雲となって広がった。その灼熱のキノコ雲の足元に生じた真空状態に向かって、冷たい空気がどっと流れ込み、爆発から2ないし3時間、次第に速度を増す時速48キロから64キロの突風が、街を焼く炎を煽った。その火の嵐の周辺部では、熱波の先端が燃えやすいもの全てを発火させ、あたかも炎の舌のように、地上をなめつくしていった。数時間のうちに、10平方キロが焼けつくされていた。
 大気に吹き上がった塵のとばりは空をおおい、燃える市街を暗闇につつんだ。市内の河川の水が蒸発して吸い上げられ、ひょうの大きさの泥水の粒となり、その雲のあちこちから、雨という形で降りそそいだ。電離化した大気は、稲妻の付近でにおう、あるいは溶接の火花がもたらすような、電気的においを広がらせた。その火の嵐の縁では小さな竜巻がおこり、廃墟を巻上げ、ようやくでも立ち残っていた木々を倒した。
 爆心近くの倒壊した建物からなんとか這いずり出れながらも呆然自失の人びとは、戸外にいてひどい火傷を負い、まだ生きていながらも幽霊のようにさまよっている人びとの列に加わった。火傷は中度でも放射線照射にさらされた人びとは、火の地獄と現世の境で、肉親を探していた。そうした人びとは、何かにつまずき、熱で皮膚をはがれたり、黒く炭化したり、いまだ泡噴いていたり、灰色の断片と化していたりした人の死体をその目で見、そのシーンを脳裏に焼け付けた。市の中心を流れる三つの川は、大人や、ことに、火傷を癒そうと水に入った子供たちの死体で埋まり、流れさえ止まっていた。
 火の手の拡大は、怪我を負い、倒壊した建物の下敷きとなっていたたくさんの人々を飲み込んだ。そこを通り過ぎる避難民は、幾人かを助けることはできたが、他の人々には目をつぶった。肉親を探していた男は、立ち止まりながらも、わが身を助けることを第一としなければならないことを詫びなければならなかった。市の何箇所かでは、公園や広場に避難した人々が、周囲を火で囲まれ、瀕死の状態にあった。そうしたにじみ寄る火との戦いにさらされた人びとは、破壊された水道管や流水からえた数杯の水を分配しながら、子供に話しかけ、何がおこったのかの推測を交換し、この先何が起こるかうわさを広げていた。一機の低空をとぶ飛行機が、機銃掃射の恐怖をもたらしていた。異様な雨は、最後のいけにえをつくるため、市にガソリンが撒かれたのだという声もあった。兵士たちは、アメリカの落下傘降下兵を捜索しようとしていた。
 最初の30時間、生存者は、瓦礫の中を掘り返して回って、知らないとはいえ、恐しい放射線輻射に身をさらしていた。電気は消え、水道管は7万箇所で壊れていた。45の病院のうち、3病院が破壊をまぬがれ、290人の医師のうちわずか28人が、1,780人の看護婦のうち126人が、無傷でいたのみであった。そのような状態でも、生命は生き続いていた。それは後日に発見されたのであるが、たとえ爆心地でも、地面からわずか十数センチ下では、みみずがうごめいていた。
 序々にではあるが、地上でも、表面的な秩序は復活していた。爆撃の翌日、県知事は、「被害を受けた市の復興と悪魔のようなアメリカ人を絶滅させるために、戦う精神の高揚」を呼びかけていた。軍隊は、すべてが未熟ながら、比較的、近代的で効率的な組織であり、救援体勢をとった。被災者は病院へと集められた。軍の食料および毛布の貯蔵が放出された。山をなす遺体は、ガソリンが撒かれて焼却された。火災は三日にわたって燃え続き、その残り火も、数日にわたりくすぶり続けた。
 六ヶ月後の最終的な集計では、9万人以上の民間人と、1万人の兵士が死亡していた。さらに、数千人余りが、白血症や他の放射線障害で、この先の十年で死に至ろうとしていた。


                       長崎(2)
 
 アメリカは、第二のタイプの原子爆弾、「ファットボーイ」を日本に投下する準備をととのえていた。その原型は、すでに、ニューメキシコの砂漠の試験塔の先端で爆発実験をすましていた。ファットボーイは、その威力を、核分裂性の極めて高い、プルトニウムという、自然には存在しない、ワシントン州のコロンビア・リバーの施設で人工的に製造された物質によった。プルトニウムの原子は、核反応を予防するため分離され、外側を通常火薬のつまった球状容器で囲まれた爆圧縮装置内にほぼ均等に配置されていた。火薬に点火され爆発がおこると、プルトニウム原子は内側へと吹き飛ばされて圧縮され、第二の部分と強く結合し、広島で使われたウラニウム爆弾のショットガン式のものより、いっそう大きな核分裂が発生した。実際、ファットボーイは、リトルボーイの少なくとも3倍の爆発力が期待されていた。
 ファットボーイは第二の原子爆弾であったので、その投下にかかわった誰もが、畏怖にたる歴史を作ろうとしていることを自認していた。広島に関しての犠牲者の見積もりもすでに公表されていた。ラジオ放送は、原子時代の幕開けの意義について、解説や憶測を報じていた。すなわち、日本はすぐに降伏するにちがいない。神風特攻隊員であっても、自国の都市が一つひとつ消滅させられてゆくのを、名誉と歯を食いしばってはいられまい。
 加えて、ソ連の戦車が、満州・ソ連国境に集結し、崩壊しつつある日本の帝国の大陸部分をもぎ取ろうとしていた。そして、ソ連の侵攻は、日本時間の8月8日の真夜中をもって開始された。トルーマン大統領は、その一時間後、その報告を受け、さらにそのニュースが報道された。早朝の離陸体勢に入っていた太平洋の爆撃部隊員は、コーヒーを飲みつつ、任務指示を受けていた。
 ファットボーイは、8月11日、日本に投下されるよう計画されていた。ソ連の進撃が開始される数時間前の8月8日の午後、ファットボーイ爆撃チームは、太平洋に「かぼちゃ」を投下する訓練をしていた。その夕方、「ボックス・カー」と命名されたB29が太平洋のテニアン島の空軍基地に着陸し、チームは、その夜すぐ再離陸できる準備をするようにとの突然の命令を受け取った。今回は本番であった。太平洋上では、台風が発生しようとしていた。日本南部は、翌日の天候は曇りで、その後四日間、雲で閉ざされることが予想されていた。どんな誤りをも避けるため、トルーマン大統領は、レーダーによらず目視によるファットボーイの投下を命令していた。二度目の原子爆弾をいつ投下するかの判断権を与えられていたテニアンの司令官、トーマス・ファーレル大将は、その日を、11日から繰り上げて、9日の朝とすることを決定した。ボックス・カーに随行飛行する写真撮影機に同乗していたニューヨークタイムスの科学担当記者、ウィリアム・ロレンスは、「ポツダムの全使命は〔訳注〕、この天気予報にかかっている」(3)と冷静に観察していた。
 しかし、ボックス・カーのチームは、その出だしから、悪運につきまとわれているようであった。未明の離陸に備えるためには、彼らは、2時間の睡眠しかとれなかった。午後11時に起床し、真夜中までに任務指令を受け、軽食をとり、爆弾の搭載を見とどけ、そして、複雑なすべての機器類のチェックを行った。だが、その最後の段階で、航空機関士は、補助燃料ポンプが働かず、長距離飛行の帰路に用いる2,300キロリットルの補助燃料が使えないことを発見した。ボックス・カーの操縦士、チャールス・スウィーニー少佐は、「地獄行き」を決断し、同機は、日本時間の午前1時56分、離陸した。
 1時間後、ボックス・カーの乗組員は、テニアン島の本部からの異例な無線沈黙の中断によって困惑させられた。随行する二機の写真撮影機の一機が、科学観測上不可欠な高速度カメラを操作するはずであった物理技士を乗せ忘れてきていた。無線を通じた全関係者を巻き込んだ30分のやり取りのため、日本の電波探索者により、その聞いたことのない名のカメラの操作方法を、盗聴されてしまった恐れがあった。さらにその一時間半後、ファット・ボーイを監視し制御するブラックボックスが赤いランプを点滅しはじめ、すべての点火回路が作動し始めたことを示していた。ただちに、同乗の電子技術担当の大尉がそのブラックボックスを精査しはじめ、その間、機の乗組員は、核分裂が起こるかもしれない緊迫した30分間を過ごさねばならなかった。だが、その点滅は、スイッチの欠陥によるもので、意味もない警告が発せられているだけであることが判明した。そしてその後1時間半は、仮眠と通常作業の時間に当てられた。午前8時12分、ボックス・カーは、日本の南方沖で、二機の写真撮影機の一機と落ち合った。一方、物理学者を乗せ忘れた第二の写真撮影機は、やや北側を、さらに高い高度で飛行していた。40分間、三機は互いを目視しようと旋回をつづけたが視界に入らなかった。8時56分、操縦士スウィーニーは、それ以上の探索は燃料の不足のため不可能と判断、標的に向けて北に航路をとった。先行する気象観測機からは、天候は良好との報告が入った。朝霧が晴れつつあり、青空が輝きはじめていた。
 当初の標的は、長崎ではなく、17万の人口をもつ、日本最南部の主要な島、九州北沿岸の工業都市、小倉であった。この都市は、それまでに小規模の爆撃はうけていたが、第一の標的であった。小倉は、平野地帯に位置し、戸畑、若松、八幡――後に四市は合併して北九州市という日本第五の大都市となった――という工業都市と隣り合わせていた。もしその朝、ボックス・カーがファットボーイを小倉に投下していたら、四市合計61万の人口のうち、30万人が死亡することが予想されていた。
 午前9時30分、小倉に接近した時、スウィーニー少佐は、天候は変わらず、空は晴れ上がり、視界が良好であることに安堵した(4)。しかし、機が標的上空にさしかかった時、爆撃手のカーミット・ビーハンは、照準地点として使うはずの兵器工場が目視できないと報告してきた。工場の煙突からの煙がそれを覆っていたからであった
(#)。スウィーニー少佐は旋回し、二度目の爆撃航程に入った。しかし、再び、市が眼下に入り、川や他の目標物は明瞭に見えたが、兵器工場は相変わらず目視できなかった。再度、爆撃手ビーハンは、「投下せず」と呼号した。三度目の爆撃航程の際、乗組員は、日本の対空砲火が高度を捕らえ始め、また、日本の戦闘機が上昇してきていると不平を言った。三度目も、爆撃手ビーハンは照準器に標的を捕らえることができず、「投下せず」と叫んだ。旋回しながら市の上空の対空砲火の白い煙玉を観察し、スウィーニー少佐は、投下を断念し、第二の標的である140キロ南の長崎に向かうことを通知した。すでに、燃料は限界にきており、テニアンまで戻る可能性は無くなっていた。機は、硫黄島か、最近獲得した沖縄の飛行場で給油を受けるかのいずれしかなかった。
 ボックス・カーは、午前11時数分前、長崎に向け出力を上げた。いらいらした乗組員は前方の雲を見、レーダー投下を要望した。しかし、爆撃の全権を持つ海軍司令官、フレッド・アシュワースは即座にそれを拒否した。スウィーニー少佐は、「標的の300メートル以内に達する自信があります」と彼に確約した。それに、重い爆弾を沖縄まで運ぶ燃料は残っていなかったので、他にとり得る唯一の策は、ファットボーイを海に捨てることであった。一瞬のためらいの後、司令官アシュワースは、トルーマン大統領の命令を無視する決断を行い、その承諾を与えた。
 長崎は、V字型の湾の奥に位置していた。港にそう二本の大通りが市の中心で交差し、狭い谷間に伸びていた。識別の容易なX型の市は、レーダー画面でも明瞭に確認できた。爆心は、そのXの中心であるはずだった。しかし、ボックス・カーがそれに迫った時、爆撃手ビーハンは、雲の合間に運動競技場を捕らえた。それは、偵察写真で彼が見ていたものであった。「これをやる」と彼は叫んだ。彼は右方向への航路修正を求め、それがなされた。一分以内の午前10時58分、彼が爆弾を目視で投下すると、ファットボーイを爆撃倉から切り離した機体は突如浮き上がった。スウィーニー少佐は、自機を大きく傾かせ、沖縄での強制着陸を目指し、南方へと機首を向けた。
 機の背後では、パラシュートから吊り下げられたその「仕掛け」は、後で「ピカドン」と地上の人びとに呼ばれるようになるのだが、空中にただよっていた。それは、標的から300メートルどころか、3,000メートル以上も外れて投下されていた。それは、長崎の最も重要な軍需工場、三菱大砲製造所のある、浦上の鍋状の谷の上を降下していた。また、この谷にそって、もうひとつの重要な標的――その半島上の都市と他の日本とを結ぶ鉄道が走っていた。生き残り、元気になり、何かを書き残した数十人の日本人は、その時、青空を探して空を見上げていたことを思い出した。うち何人かは、機影を見、二人は爆弾とパラシュートを目撃していた。三菱の工場で、旋盤に付き、魚雷や小火器を製造していた労働者には、何も聞こえなかった。東洋で最大のローマカトリック教会である聖母マリア教会での金曜会合に集まっていた人びとは、何も見ていなかった。機械の轟音やステンドガラスの不透明さは、彼らを死へと向かう恐怖から救っていた。 
 投下から4分後、上空約450メートル、鉄道から60メートル東の地点で、爆弾は炸裂した。その直下では、その破壊は広島よりもさらに完璧で、死は即死であった。しかし、浦上の谷状地形は、長崎の他の部分への放射線の直撃をさえぎった。火災の嵐は生じず、泥の雨も降らなかった。谷間の3.2キロの大通りは、まったくのさら地と化せられた。その爆発音は周囲の山々に反響し、飛び去るボックスカーをとらえ、少なくとも5回の頭を殴られたような振動を与えた。6ヶ月後の集計では、39,214人の男、女、子供が死亡していた(##)



                   原子爆弾投下の決定

 二発の原子爆弾は、合わせて14万人の生命を奪った。8年前の南京強奪は、おおむね同数の犠牲者を生んだ。日本によるアジアの征服は、惨劇に始まり、惨劇に終わった。目には目を、歯には歯を、といったむき出しの敵意は、戦争による巨大な破壊以外には何ももたらさなかった。ただ、南京と違って、原爆は、歴史においても、最も完璧に資料化された出来事となった。未知であった放射線の恐怖、火炎による死の恐ろしさ、何週間もの苦悶をへて死に至った犠牲者など、すべてが絡み合って、世界中の人道的な人びとに、解きがたい善悪の観念を残した。そしてそこに、復讐行為、あるいは、冷酷な人種差別が行われたのではないかと、多くの人びとをいぶからせる原因があった。英国の数学者で政治思想家であるバートランド・ラッセルは、広島を「無茶苦茶な大量殺人行為」と呼んだ。広島や長崎の遺骨と、冷静に向き合うことは難しい。疑念をいだく何人かの博士が、広島・長崎の原爆投下へ至った作戦決定過程をめぐる文書を丹念に調査したが、これといった確証は見出せないでいる。
 原爆投下が決定されようとする頃、〔米、日、ソの〕三国の政治家は、その三角形の交渉において、国家機密と国益のとばりを通して、互いにつばぜり合いを演じていた。米国の指導者にとっての関心事は、戦争終結後、日本の文化を変革し、浸透した武士道精神と天皇崇拝を根絶やしにし、東アジアに廃墟を広がらせようとした日本を矯正するという降伏方針をいかに実施するかにあった。天皇とそれを取り囲む人々は、狭隘な意図をもっていた。そうした人々は、自らを、戦争犯罪人としての処刑や投獄から守るため、とりわけ、近代神道をもって日本人の精神生活をそれと一蓮托生のものにさせた天皇家制度を、できる限り維持しようとしていた。この降伏方針をめぐる争いの第三の立場にあったのが、スターリン率いるソ連であった。スターリンの目には、ソビエト連邦の国益は、共産主義の浸透という視点において、出来るだけ広い地域とできるだけ多くの影響力を得るということのみにかかていった。
 その各々の目的を達成するため、三国にあっては、ある国がそれを鼓舞する力が、他の国にはそれを禁忌すべき恐れとなっていた。米国は、日本に侵略し完璧に粉砕する力を持っていたが、日本国民と、ことにそのリーダーであり神である天皇の協力ぬきには、日本の統治の改革は不可能であった。それゆえ、米国は、代理者として天皇の維持を必要としただけでなく、その将来の地位への疑念を残し、天皇を有用な代理者にしたてようとしていた。一方、ソ連の懸念は、ソ連軍が、日本の巨大な帝国の大陸部分を、国際法上の合法性のいかんを問わず手中にしうる領土に対し、米国が制裁を発動して動くかどうかにあった。米国はまた、中国沿岸に軍を上陸させることをもって、中国政府が、共産主義者の毛沢東に組せず、蒋介石に戻ってくるよう圧力をかける力をもっていた。
 米兵の命を25万から100万も奪うかも知れぬ、山から山、洞窟から洞窟へと繰り広げられる狂信的玉砕戦を命ずるかどうかにかかっていた日本の指導者の力は、日本を滅亡させようとしており、かつ来る時代において、米国の政策から、戦後アジアにおいてありうる可能性の最も高い、最も安定しかつ進歩的な国を、排除しようとしていた。さらに、日本は、最後の手段として、満州、朝鮮、中国の大部分を、無抵抗のままソ連に譲渡し、その見返りに、〔ソ連の〕中立の継続と侵入する米国と戦う軍事物資をえることができた。
 ソ連にとって、その歴戦の精鋭軍隊は、毛沢東軍の協力のもとに、満州と中国のほとんどを共産主義の宝庫とするにたる、粗暴な力を保有していた。ソ連は、この成果を、たいした犠牲なしで、しかも、ファシスト日本と何らかの密約を結ぶとの不名誉もなく、まして、その戦争が長期化しても、英米の力の支援をえられる可能性すら存在していた。ただ大陸の日本軍は、枯渇したとはいえ、まだまだ危険であった。その日本軍を打破することは、戦争で荒廃した西部ロシアが求める人力を必要としていた。その上に、1946年まで有効な日ソ相互不可侵条約も存在していた。また、日本と取引を行うことは、世界中の共産主義者の反発を引き起こし、米英の即座の敵愾心をまねく恐れがあった。つまり、ソ連は、事実上、自身で何かを願っても、何もなすことはできなかった。だが、抜け目のない政策次第では、失うものなく、大きな獲得が可能であった。だからこそ、1945年5月にベルリンが陥落した時、ソ連は赤軍を東へと移動させ、日本帝国のとば口で、新たな展開を凝視していたのである。

 このパワーポリティックスの三角形の中で原爆が爆発した時、政治駆け引きの方程式をも爆破してしまった。日本の指導者は、広島が8月に核攻撃されるまで、その危険を察知していなかった。一方、スターリンはかなりの情報を得ていた。1945年初めの段階で、ソ連の諜報筋は、彼に原子爆弾プロジェクトの存在を報告しており、彼はそれが、完成間近とは知っていた。ソ連軍が、ドイツの核研究所を捕獲したとき、その目的の報告を受け、原爆の今後の軍事的重要性について告げられていた。しかし、その後の出来事が示すように、スターリンはそれが使用されるまで、その新兵器の真価を充分には認識していなかったようである。彼にとって、それは、より大型の爆弾でしかなかった。それに、彼が生涯に目撃してきたことは、爆弾の威力が、キログラム単位のものからトン単位のものへと拡大したことだけで、それは、国家関係の力学バランスを変えるほどのものではなかった。
 原爆を製造した国際的物理学者集団の庇護者であり資金筋として、米国の指導者は、その新兵器の意味について、最初に頭を悩ませていた。先見の明のあった陸軍省長官のヘンリー・スティムソンは、1945年4月25日、新大統領ハリー・S・トルーマンに次のように告げた。「技術的発達に比べ、現在ほどの倫理的発展程度であるこの世界は、最終的には、そうした兵器のなすがままとなるであろう。つまり、近代文明は根本的に破壊されよう」(8)。これに対し、トルーマンは、スティムソンは「歴史を形成してゆく上での原爆の役割について、少なくとも、この戦争を短期におわらせる方法として受け止めているようである」(9)、とその回顧録に記している。
 4月7日、日本では、新内閣が組織された。〔米〕国務省はそれを「平和内閣」と分析したが、平和への提案をしたとはいまだに聞いていない。5月1日、戦前、米国日本駐在大使であったジョセフ・C・グリュー政務次官は、陸海軍両長官と会い(10)、交渉を始めるにたるきっかけを作るように命じた。スティムソンと海軍省長官ジェームス・フォレスタルはそれに前向きだった。「どれくらい徹底的に、日本をたたくつもりなのか」とフォレスタルはたずねた。日本を充分に法に従う国にすることというのがその答えであったが、その回答の意味するたたくとはどれほどのものなのかは、誰も確かではなかった。元大使のグリューは、日本は天皇を維持することができることを保証しようとしたが、国務省の他の高官、たとえば副長官のディーン・アチソンや、詩人のアーチボールド・マックリースらは、日本の病弊は、天皇がたとえ名前だけのものであったとしても、それが存在し続けるかぎり、治癒は不可能であると主張した。
 5月1日のグリューとスティムソンおよびフォレスタルとの会談のあと、トルーマン大統領は、日本の頑強な好戦性に直面しつつ、5月8日、米国は「日本の陸海軍がその武力を無条件で放棄するまで」戦う、と報道陣に語った。そして、「日本を現在の悲惨さの淵にまで引き込んだ戦争指導者の影響の根絶」を求めた。また、合衆国は「日本国民の皆殺しも奴隷化も」望んでおらず、「兵士を彼らの家族、農地、職業に返す」ことのみを望んでいると公約した。(11) 彼の言葉は、当然に、ラジオを通じて日本向けにも流されたが、日本の権力者は、それを単なる宣伝としか受け取らなかった。数日語、大統領は自分の家族に次のような手紙を送っている。
 5月中、人道的なトルーマンは、日本からの何らかの返答を待ったが、その甲斐はなかった。5月28日、モスクワでは、スターリンは大統領公使ハリー・ホプキンスと会い、日本の条件付降伏を受け入れる余地があり、日本占領後、米国の要求の厳しさを段階的に強化する、すなわち、ホプキンスによると、「穏やかな平和条項は認めるものの、いったんソ連が日本に入った場合には、日本人に一切合財を与える」、と示唆した(13)
 それは、サメと紳士の会合ともいうべきだが、5月31日と6月1日、米国の指導的政治戦略家は同国の最先端の科学者たちと会い、ロス・アルモス
〔ニューメキシコ州北部の原子力研究の中心地〕で完成しつつある新型爆弾について討論を交わした(14)。そのグループは暫定委員会と命名され、政治家側では、大統領特使ジェイムス・バイアーンズ、陸軍省長官スティムソン、参謀総長ジョージ・C・マーシャル、原子爆弾プロジェクト長官レスリー・R・グラブス大将、そして、海軍および国務両省の代表者によって構成されていた。
 他方、科学者側のグループは、ヴァネヴァー・ブッシュ、ジェイムス・コナント、カール・コンプトンからなるもので、三人のノーベル賞受賞者、カールの弟のアーサー・コンプトン、エンリコ・ファーミ、サイクロトロンをつくったアーネスト・O・ロレンスの専門家が証言し彼らに助言を与えた。これら三人の助言者は、核分裂、連鎖反応など核研究のパイオニアたちで、1930年代初め以来、原子爆弾のもつ漠然とした思考上の恐怖とともに過ごしてきていた。彼らとともにあったのは、物理学者のJ・ロバート・オッペンハイマーで、彼の人を引き付ける人柄と政治的能力は、将校や科学者や製造者を結集させて原爆の生産に向かわせた。
 白髪のスティムソン陸軍省長官は、1931年の日本の満州占領以来、米国の東洋政策の樹立にたずさわってきていたが、その燃えるような目でこの会議への参加者を見渡し、その目的についてこう語った。 
 このスティムソンの皮切りの発言に続いて、いくつかの技術的質問が出された。まだ実験はされていないものの、その爆弾が有効であることが確信されていた。8月初めには二つの爆弾が使用可能であった。その後は、数週間毎に、新たな爆弾の配備が可能であった。
 午前中の会議は、その爆弾の使用を前提に進められた。昼食の際、アーサー・コンプトンは、それが標的に実行使用される前に、その効果を日本人に公開して見せる方が人道的ではないかとの見方を表した。スティムソン長官もそれに賛同した。しかし、食後のデザートが終わる頃、その考えは、それをいかに実行するかについての多々の困難に遭遇した。誰も殺さず、どの都市も破壊しないで、どのような米国内での公開が日本の将官たちの観測に影響を与えられるのか。メーサ〔米国南西部のテーブル状の台地〕やソールトフラット〔塩水の蒸発で沈殿した塩の層でおおわれた平地〕の上で、その巨大なかんしゃく玉でびっくりさせられるとしても、地形への目に見える損害は大したものではなかろう。そうした将官たちに、いかに距離を実感させ、風速計や地震計のデータを学ばせ、通常爆弾とこの爆弾との違いを計算させることが可能か。それが、大仕掛けのアメリカ人好みの見世物の類ではないことを、いかにして彼らに分らせることができるのか。
 あるいは、あらかじめ通告の上で、日本の無人地帯でその公開を実行するとしても、無益で空想的な努力に終わりかねなかった。加えて、交戦中の状態では、その爆弾が不発に終わるとか、その爆弾の搭載機が捕捉されてしまうとかと言うように、計画が予想外に展開する恐れもあった。ジェイムス・バイアーンズ大統領特使はまた、もし事前に通告されていた場合、日本軍が、米英の捕虜を召集し、その公開実演の見物や犠牲に引っ張り出すかもしれないことを恐れていた。
 この会議に出席している政治家にとっては、時期が重要であった。もし、科学者がその産物を実際に供給しえるなら、それは、ソ連が中国を餌食にする前に、日本を降伏に持ち込めることが望ましかった。通常爆弾による日本人の毎日の犠牲は――3月10日の東京への焼夷弾空襲だけで8万人に達していた――終戦をもたらすかも知れなかった。原爆は、チャーチルの言葉を借りれば、「一、二度の巨大なショックで、戦争を完璧に終わらせ」、また、スティムソンの言葉では、「犠牲となりうる米日双方の生命を、その何倍も救う」可能性を含んでいた。
 その暫定委員会は、最終的に、参加した科学者の全員も含め、その爆弾の公開実演に反対し、軍事的使用に賛成した。そして同時に、スティムソンは科学者に、さらに深く検討することを求め、「戦争を終結するために、人命を標的としてこの爆弾を使うのではなく、他の方法がないかどうかを報告できるようさらに検討するように」と付け加えた。そしてこの要望への科学者による報告は、6月16日に提出された。それによると、ことにスティムソンが注目した箇所は、「我々は、戦争を終結に向かわせる可能性ある公開の技術的方法を提供できず、直接の軍事的使用以外の方法は見出せない」(15)、というものであった。
 この暫定委員会には参加しなかったものの、この爆弾に関与してきたこれも著名科学者のグループは、この決定に猛烈に不賛成を表した。ノーベル賞受賞者でシカゴ大学のジェイムス・O・フランクが開催した一連の会議は、フランク報告とよばれる文書を作成、その爆弾を軍事的に使用しないよう、きわめて理念的な嘆願を行った。この申し立ては、ワシントンに提出されはしたものの政府の上層部に届くことはなかったが、戦略的、倫理的、政治的含みを提示していた。彼らは、「真珠湾級の悲劇が主要都市ではその数千倍の深刻さとなって繰り返される」、「旅行かばん
〔携帯爆弾のことか〕戦争」の可能性を予想していた。そして、米国政府は、国際連合の代表の前でその爆弾を公開して見せ、そしてそれを国際管理委員に託すべきであると提唱した。その爆弾は、そうした公開の後なら、国際連合による制裁措置として日本に対して用いられてもよい、と彼らは主張した。(16)
 国際連合はまだ組織されたばかりで、かつ、ソ連がその戦後の姿勢を見せ始めつつある時、原爆の国際管理化は、米国の政治家を納得させるような考えではなかった。また、その爆弾を日本の指導者たちに公開するにあたって、論点となってきた実務的疑問点も、そのフランク報告では触れられていなかった。その報告は、おそらく、もっと深く考察されるべき余地があった。
 例の長年の政治的孤独漢で、後の水素爆弾計画の立案者、エドワード・テラーは、以下のように主張しきている。「事前に流血のない公開を行わずに原爆を投下するという誤ちをおかしたことを、私は、当時も今も否定しがたい。我々は、この爆弾を、事前の警告なく、東京のはるか上空で夜間に爆発させることで、惨事を生むことなく、戦争を終わらせることができただろう。高度600メートルではなく、6,000メートルで爆発していたなら、それは、もしあったとしても最低の犠牲しか生まず、建物への被害もほとんど生せずに、しかし、とてつもない音と光の効果を生んでいた。そして、我々は日本の指導者たちにこう告げればよかった。『これが原子爆弾である。つぎの原爆がどこかの都市を破壊しうる。降伏か、破滅か。』」(17)
 そうした公開使用は、うまく効果を果たしたかもしれない。実際、地方都市の広島の消滅以上に、東京にいる指導者たちに衝撃を与えていたかもしれない。そうした高高度での爆発から飛び去る技術的問題もすでに解決されていた。夜襲による不確実な要素は、事前通告のない場合、微々たるものであったろう。だが、この提案は、政府内ではまったく取り上げられなかった。
 同暫定委員会が6月1日の会議で、原爆の軍事的使用が決められた後、その決定は変更されなかった。しかし、その可能性は残されていた。それに続く六週間、トルーマン大統領はスターリンとチャーチルとの軍事会議を準備していた。それは、ドイツの東側のポツダムで開かれた。そこで、原爆使用の決断は最終段階に達していただろう。ぎりぎりまで、トルーマンは日本を観察していた。無線傍受や暗号解読を通じ、トルーマンは、東京と中立国の日本大使館との間で交わされるあらゆる交信をつかんでいた。さらに彼は、陸軍、海軍、そして諜報部の報告に内々的に関与していた。まだ、こうした情報のすべてが公開されてはいないが、当時、東京で実際に行われていた審議は戦争の持続とみせかけのみで、トルーマンにとって、日本が無条件降伏を受け入れる可能性をみいだせるものではなかった。


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