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 老いへの一歩》シリーズ


第7回    「魅力」 という情報    


 私にはいま、しだいに増大してきている、ちょっと荒唐無稽なアイデアがあります。
 それは、すでにカウントダウンに入ったと覚悟すべきいまだからこそ、自分で準備しておきたい、そして間違いなく、いまでなくては成し得ないプロジェクトでしょう。
 そういうプロジェクトに、 “二段構え” で取組み始めています。そしてその 「二段」 とは、そのプロジェクトがまず、どういう経緯から生じているのかという 《必要上の構え》 と、次に、ならばそのために、何を作り出すのかという 《目標上の構え》 の、そうした 「二段構え」 です。
 本シリーズの今回では、その 「第一段部」 について述べ、 「第二段部」 については、次回で議論するつもりです。

 ではその 《必要上の構え》 についてですが、それは、先ごろの友人の死を目の当りにし、それによって想起させられてきていることです。
 すなわちそれは、維持不能までに冒された彼の身体の滅亡に対し、その死の間際まで鮮明を保っていた彼の精神――臓器的に言えば彼の脳――という、一対の鮮明なコントラストをまざまざと見せつけられたことに端を発しています。そして、もし自分が同じ最期を体験することとなったら、さぞかし無念な思い――彼のように、もはや手記にしか頼れない窮地に陥って――にかられるに違いないと予想され、それがゆえ、なにやら執拗な、未練じみかつ不憫な気持ちにさらされてきています。
 そしてそこで、その未練と不憫という感傷的なものが、ある理知的なものとシナプスして、これこそ、その 「手付かずの分野」 の “啓示” なのではないかと、姿勢を改めているところです。
 そうして浮上してきた考えが、彼の逝去に伴う二つの死、すなわち、身体の死と精神の死に関し、後者は前者に道連れにされたも同然の死で、まるで “無理心中” じゃないか、という思いです。どうやらこうした思いが、その無理強いされて連れて行かれた彼の精神への、無念な思いや未練感を起こさせていた震源であるようです。
 ちなみに、ここで、この二つの死を、「身体死」 と 「脳死」 という風に分離して考えると、この友人の場合、そうした健全な脳への “身体移植” といった “未来的治療法” も導かれてきそうです。
 ただし、私の関心はそういうところにはありません。むしろ、それに似かよった死は、多分、私にもおとずれてくるだろうとの予測のもとに、そういう 《無念感》 を何とか軽減したい、あるいは、その防備の準備をしたいという 「生活の知恵」 が、私の関心事です (同じドクターでも、私の場合はメディカル・ドクターではありませんので)。

 そういう生活上の有様としてふりかえってみますと、、私と死んだ友人との間の 「友情」 の大半は、彼の “司令部” たる脳の働きとしての彼自身の彼たるところをめぐったものあって、その他の身体的な彼には、ほとんど全くといってよいほど、関心や愛着はなかった――いわんや彼の地位やら所有などは全くの圏外だった――ことでした。
 そういう 「彼自身の彼たるところ」 を、私にとっての 《彼の魅力》 として捉え直してみますと、私に未練として残り続けているものは、その 《魅力》 が存続していて欲しかったということに尽きます。
 私と彼は、ほぼ毎週、二、三時間の昼食を交えた会話を共にし、毎回、尽きない話題を交換してきました。周囲からは、毎週々々、よくも話題に事欠かないものだと感心もされていました。
 つまり、その彼の 《魅力》 とは、そういう形で、広い意味での 《情報》 として私に到達してきていたものでした。それに私たちは、そうした会話に加えて、私が自分のサイトに掲載する記事についても、そういう 《情報》 の重要な部分でした。つまり彼は、私のサイトの、おそらく、この世で最も熱心な読者の一人でした。だから私も、いわば、彼という貴重な読者が一人でもいるならばと、それに励まされ、それに緊張させられながら、サイトを更新し続けてきました。
 すなわち、そこに交わされていたものは、言葉や文字でありました。ことに、私たちの場合は、真の友人関係として、互いの言葉や文字に、虚偽や虚飾はもはやありませんでしたので、その行き交う 《情報》 は、何の割引も不必要な、文字通り、信頼に値しうるものでした。

 結局、人生二周目の私たちが、最期に向かって何よりも大切にしたいと願っているものは、人間関係における、相手や自分の、こうした 《魅力》 の維持なのではないのかと思われます。
 もちろん、こうした 《魅力》 を発揮するものは、言葉や文字に限らず、音楽、歌、踊り、絵画、彫刻、あるいはその人柄そのもの等々、さまざまな表現分野におよびます。でも、いずれも、広義での情報には違いありません。そしてその広義の情報において、私の場合はやはり、その最も得手とする自分の土俵は、言葉や文字の世界である、ということになります。
 つまり、そういう領域の情報交換をなんとか意図的に開発すれば、私の身体的存亡とは別次元の、私の私たるものを表せるのではないか、と思うのです。つまり、私の身体的滅亡の後、それでも、非身体的に 《生き続ける》 なにかになるのではないかと思うのです。
 これこそ、本シリーズで、入力体から出力体へ 「タナトス→エロス」 と再逆転する異次元の “生殖行為” と追究してきた分野であり、まさに、そのカウントダウン期にふさわしい領域であります。そしてこの 「手付かず」 水域に、なんとか自船をこぎ出してゆけるのではないか、と構想しているところです。

 次回では、その航海法を、もう少し踏み込んで具体的に論じてみる予定です。

 
 (2013年4月6日)
 
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