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 老いへの一歩》シリーズ


   第1回   「変調」 のささやき      


 写真のように、今年もジャカランダの季節がやってきて、僕のオーストラリア滞在の暦を、もう一枚、めくりました。
 僕はこの淡紫色の花を、オーストラリアの春をつげる 「オージーサクラ」 と呼んでいるのですが、この紫霞が街をおおうと、僕のオーストラリア年齢が一つ、年取るのです。
我家近所の自称 「ジャカランダ通り」
 28年前の1984年10月末、僕はオーストラリアに 「上陸」 しました。38歳でした。それからもう、ほとんど30年。歳も66歳を越えました。
 これまで、このジャカランダの季節を迎えるたびに、誕生日とはまた一味違う、かっちりとした節目を感じてきました。誕生日はむろん生来のものですが、この 「上陸記念日」 は、成人し、しかも、そろそろ四十路にもなろうという、人生航路中間地点での “冒険” によるものでした。それだけに、ひとサイクルの重みや感慨もひとしおなのです。
 そうだったのですが、その 「ひと目盛り進む」 との感覚が、今年は例年とどこか違うのです。何といいましょうか、昨年までのそれは、ひとつ数字が加わったという、ほぼ数量的なひと目盛りにすぎなかったのですが、今年のそれは、何か質的にでも違ったものが動いた、そんな感があるのです。
 そういう次第で、いよいよ始まるものが始まったかとの予感があって、本稿も、本来なら、これまでの 「両生学講座」 の単純延長として期を改め、第5期とすべきなのですが、どうもそれでは済まないところがあります。
 そこで、両生学の一部ではあるのですが、ひとつの分岐を試みて、「 《老いへの一歩》 シリーズ」 としてみることにしました。
 今回はその第1回として、 「 『変調』 のささやき」 です。
  
 さてその 「変調」 なのですが、これは主に身体的なものがその原点にあるものです。むろん、心身はつながっていますので心理への連動はありますが、その根源にあるのは身体の変調です。
 むろん、これまでにも、そうした変調と呼べるようなものはありました。ただそうしたものが、いつの間にかピークを越えて下り坂に入ったなといった感覚で、それなりにスムーズなものでした。それが、 「量的」 な変化の感覚でした。それが、今回は違うのです。
 もう二十年以上にもなりますか、僕は運動のための日課として、ジョギングか水泳、時には自転車乗りをやってきています。そしてそのどの運動でもほぼその都度、タイムをとってきています。その記録を見ると、中年になって始めたそうした運動でも、五十歳代の初めごろまでは、その向上があったのですが、それ以降、どれもなだらかな下降傾向が続いています。むろん、日によっての上がり下がりはあっての平均的な傾向です。
 そうした 「量的変化」 が、おおむね、今年の半ばごろを境に、 「質的」 とでも呼ばねばならない、特異な変化を示してきています。
 たとえば、ジョギングですが、それがいま現在、下り坂どころか、ほとんどできない状態になっています。原因は、両足、ことに左足大腿部におこる、鈍い、変な痛みのためです。
 医学的には、坐骨神経痛と呼ぶものらしいのですが、こちらの医者の診断では、腰痛の結果で、脊髄からの神経が圧迫されていることによるといいます。
 治療問題はここでは立ち入りませんが、ともあれ、そういう変調がいよいよ始まってきたという身体的事実がここにあります。
 この足の痛みは、ひどい時では、歩くことにも影響し、痛みを我慢しながらのこととなります。まだ、立ち止まって休むほどではありませんが、歩行にも支障を与えているのは確かです。
 幸い、水泳や自転車には、いずれも体重を足にかけない運動のためか、そうした痛みは起こらず、今のところ、ただのそのタイム上の下降線をたどっているだけです。
 他の面では、これは数的計量はできませんが、確実に後退している、思い出し速度の遅れがあります。これも、次第しだいなものだったのですが、そうした量の蓄積も、だんだんと質への影響をもたらしているのは間違いありません。たとえば、昔は、自分流ですが、通訳じみた仕事もしましたが、今では、会話の速度に反応がついてゆけません。
 医学上に、quality of life (QL) 訳せば 「生活の質」 という用語があります。つまり、身体上の何らかの障害が、その人の生活の質に影響を与える、ということをいうものす。むろん、若いころの病気や負傷も、QLに影響は与えますが、そういう言い方はあまりしません。つまり、それは一時的な症状だったからです。つまりQLとは、慢性的な症状による障害を言います。ことに、加齢によるさまざまな障害が、その人の日々の生活内容を変えさせてゆく、そういう時に、このQLが使われます。
 要するに、僕もいよいよ、このQL上の問題に影響されるようになったということです。

 さて、そこでなのですが、医学上では、このQLの問題とは、あくまでも、喪失、即ち、失しなわれてゆくものとしての捉え方です。つまりそれは、回復不能なのはいうまでもなく、せめて、遅らせることに専念しようとする姿勢です。そして、そこで出てくる発想が、アンチ・エイジングという取組みです。
 しかし、僕は、それを、どうもどこか違うといった風に考え始めています。むろん、アンチ・エイジングの考えも取り入れますが、いずれ経験せねばならない問題でもあり、また、平均寿命から逆算しても、あと20年ほどは避けては通れない道でもあり、それを、ただ、喪失としてだけの角度からは扱いたくないとする発想があります。
 すなわち、このQLの次第な喪失に伴う問題自体を、もっと肯定的に受け止めたいとする姿勢です。
 この人生最後のステージに起こってくる事々の意味を、積極的につきつめてみたいとする願望です。
 いうなれば、そのように僕の身体に生じてきている 《「変調」 のささやき》 に耳をかたむけ、その声から、何かをつかみとろう、との試みです。
 今回は、イントロとしての以上の感慨を述べました。次回から、その各論として、もっと具体的思いや発想に触れてゆきたいと思っています。

 (2012年12月20日)
 
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