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 両生学講座 第4期 第6回


置き去りにされた皇国少年たち


 私は前回まで5回にわたる講座で、昭和10年前後の日本の社会の特徴を、それと個人の精神発達上のゆがみである 「二重人格」 症状との間の類似に着目して、 「二重国格」 状態という視界や歴史としての日本の精神分析を試みてきました。
 そこでは、国の人格に相当するその 「国格」 が、 「国体」 といった観念上の――今日の用語でいえば 「宗教原理主義的」 な―― 一体化とは裏腹に、そしてそれがゆえに、道理的にも政策的にも統合されたものとはなりえず、混乱あるいは振れを含む、二重に分化した国格が存在したことが観測できました。そういう脈絡でその国格を、 《未成年たる成年》 という病理的現象とも喩
(たと)えてそれを捉えました。しかもそこには、物理的な暴力が、決定的働きをなしてきたとも認識してきました。
 むろん、当の日本社会はそれを病相とは受け止めていません。そればかりか、それは敗戦というまたとない機会を得ながら、その治癒はなされませんでした。さらにその病相は、今度は米国の日本支配の隠された装置として注目され、巧妙にそれが継続されるという “再” 利用すらも図られました。すなわち、外敵の暴虐を知らずに形成されてきた 「万世一系」 の日本が、アメリカという初の征服者に膝
(ひざ)を屈しながらも、かろうじてその 「国体」 つまり天皇制の命乞いをえて、その病相の枠組みをリセット――属国化した国際的枠組みに編入され――して戦後体制の骨格としました。
 こうして生じた日本の戦後再出発とは、それほどもの厖大
(ぼうだい)な犠牲や苦難であがなった再興のはずが、その掛け替えのない教訓はかすめ取られ、かつ、 「自我の社会化」 に貧弱で、規範の “ずれ” や “ごまかし” に無頓着な国民性は維持されたままの 「再」 出発をとげたのでありました。
 こうなると、それは一見、新装なったかの体制でもその内実はあやしく、その体内での 「故国意識」 や 「やまと思想」 も、より重篤化しさらに捩
(ねじ)れたその病相によって変質させられた、矮弱(わいじゃく)な審美思想かノスタルジックな文化再発掘にも等しいものでありました。言い換えれば、過去からよみがえってくるはずの “古き良き” 伝統も、そのようにして自ら奇形化されてしまったのも同然でありました。今にして思えば、これは例えば、今日、様々な断面で気付かれ始めている、 「日本ガラパゴス列島化」 の起点であったとも言えましょう。
 繰り返しますが、そういうこの起点とは、昭和10年前後、日本が国際社会における 「自我の社会化」 にさらされながらもその形成につまずき、二重国格をわずらいながら辛くも通過してきた、国民の発達上の “健康” にかかわる分岐点でのそうした出発であったわけです。
 私はこの現象を、 《 「国民の 『王』 離れ」 の有無》 として捉えます。そしてこの 「 『王』 離れ」 とは、個人の 「 『親』 離れ」 に相当する考えを国規模に広げたもので、日本以外の国にも普遍化できるものでもありますので、 「王」 としました。日本の場合では、 「 『天皇』 離れ」 と言っても同じです。つまり、 「二重国格」 とは、 《 「国民の 『王』 離れ」 》 不全
(ふぜん)による発達障害ということです。
 私はこうした成長史を、あたかも、昔の自分の写真を “誰か” の形見をみるかのように見入らされ、いかにもいじらしく、また、何とも切ない気持ちを伴うかのように、受け止めさせられています。
 本稿の以下で私は、そうした 「誰か」 の実例でもある、二人の元 「皇国少年」 を採り上げ、そのふたつケースを見比べます。それは、そうした病相から真に立ち直ることがいかに茨
(いばら)の道であり、かつ、その回復に成功したかに見えながらも、その見づらい病相から今も無縁ではいられない、今日の日本の状況の診断書ともなってゆくはずです。

 昭和戦前時代当時の社会精神は、国体明徴論の浸透によって、生きた神たる天皇を親としてその頂点にいただく、家族をモデルとして一体化したカルト思想が――擬制
(ぎせい)の立憲君主制度を隠れ蓑(みの)に――その構造の実質的骨格を形成していました。そして、そのカルト構造が、無垢な自身の精神構造に叩き込まれていたのが、その当時に初等あるいは中等教育を受けた、いわゆる皇国少年たちでした。
 もちろん、どの皇国少年にも、実際の親がいるのですが、それがその一体化したカルト構造がゆえ、実の親と観念上の親である天皇という、二人の庇護者をその心中に埋め込んでいました。したがって、その両者の価値感や行動に基本的ずれがない場合、その皇国少年の心理に混乱は生じません。しかし実際の生活では、そういう一体化はむしろまれで、一人の皇国少年にとっては、現実の親は少なからぬ不満の対象や狡知の主とされていたことでしょう。
 ただ、その当時の社会通念では、ことに国家の建前たる国体明徴論が強力に押し広められた環境下にあっては、そうした二重の親の間のギャップは表面上存在せず、形式としての国体という大家族――大方は、実の親の地位が後退あるいは軽視される形で――に吸収されていました。そうした一体度感の純度にまさる皇国少年たちは、ことに、その少年が学業上の優等生であればあるほど、その教えられたものの飲み込みが早く正確で、よりすぐれた皇国少年であったことでしょう。
 むろん、その一体化した国とは、これまでの分析のように、 「二重国格」 たる 「国体」 であったのですが、本人たちはそれを知るよしもなく、まして誰もその真実を教えてくれません。そもそも近代国家において、子供たちとは、常に、こうした時の国家政策上の鋳型
(いがた)によるもろの産物であります。まさに、 《 「国民の 『王』 離れ」 》 不全の押し付けです。
 ここで重要なのは、そういう二重化状態は、強力な教育の効果によって、むしろその二重性があいまいに隠され、その隠蔽状態が広く常態として受止められていたことです。もちろんそうした教育が、前回に述べた漢字・仮名併用という日本語の特色で彩られていたものであったのは、言うまでもありません。そこでは、そうした隠蔽に気付く誰かがいたとしても、そういう人たち――たとえば実の親や身の回りの人たちは――、その皇国度の足らぬ姿勢が批判されるという形で、その一体性が優先して維持されました。いずれにせよ、未熟な少年の心にとって、そういう環境においてのみ違和感や不快感を感知することが、その自我意識の出発点であったことです。言うなれば、そういう初期条件が与えられていたことです。
 そういう教育による、 「二重国格」 たる国体の子供たちの心中への浸透は、いわばその病的二重性の移植でもあり、自我の成長過程――個の成長にともなう親への依存と親からの自立願望とのジレンマを体験する中で、自然に親離れを遂げて完全に自立してゆく過程――を混乱、あるいは、歪
(ひず)ませる効果を果たしていたでしょう。言い換えれば、個的には親から自立しえたとしても、社会念上は 「大父」 たる天皇に絶対的に依存することが強いられていたわけです。ここに、強い自意識と素朴な国家帰属意識の共存がひとつのモデルとされて、ある特異な人格が培(つちか)われやすい環境があったと言えましょう。
 しかし、そういう皇国少年たちは、1945年8月15日をもって、その彼を支え、強く一体化していた根源の 「国体」 が崩壊するという、重大な環境異変を経験します。いわば、病相の実益面の消滅と、その毒性のみの残存です。かくして、皇国少年たちは、その毒性伴う真空状態に、ひとり置き去りにされてしまうこととなりました。

 ここで、冒頭の予告にそい、そうして置き去りになった、二人の元皇国少年を 《想像》 してみたいと思います。その二人は実在の人たちですが、もちろん私は彼らの生活のその場に立ち会ったわけでもなく、彼らをこうして採り上げることは、私の想像上の行為にほかなりません。
 その一人ですが、彼は、その名を 「星友良夫」 という、終戦当時14歳の少年です。ただし、この日本名は 「創氏改名」 による名で、彼は朝鮮半島の日本の植民地に生まれ育った人です。
 もう一人については、次回で詳しく論じたいと思います。この人の場合、終戦時20歳――この年齢なら皇国 “青年” と呼ぶべきかも知れません――で、日本で生まれ育った “純正” の日本人です。

 この 「星友良夫」 という名については、読者も記憶があると思います。というのは、2005年の本サイトで 「「星友 良夫」 だった人について」 とのタイトルで、彼について述べたことがあります。また最近でも度々話題にする、1931年生まれの在豪韓国人の友人とは、その彼のことです。
 その彼にとっての8月15日とは、むろん、皇国時代の予期なき突然の終結であったのですが、そこにはもっと、深く、ねじれた含みを伴っていました。
 つまり、彼にとって、8月15日を境にやってきたものは、それがまさか崩壊するとは文字通り夢にさえ思っていなかった、神国たる 「皇国」 日本の崩壊であると同時に、被殖民地でありかつ自分の民族の祖国である朝鮮の予想すらしていなかった回帰でした。
 彼は、日本の植民地で生まれ、彼の父親は日本を、故国と比べ先進的な文化や社会をもつとして敬愛する、深い日本びいきな人でした。つまり、彼にとってそれまでの生活環境は、社会、家庭環境ともども、日本人そのもので、植民地の学校でも、日本人にまじってさえ、日本人より優れた成績――ことに 「国語」 で――を示して、毎年、級長に選ばれるほどでした。
 そういう彼が8月15日を境に発見したものは、そういう自分が、朝鮮という祖国への、意図して行ったことでは決してないにせよ、事実としての “裏切り者” であったことでした。つまり、自分が祖国と信じていた 「皇国」 日本の喪失
(そうしつ)であるばかりか、民族上の実の祖国の “敵” でもあった自分を発見せねばならなかったことでした。言い換えれば、終戦を契機とする彼の喪失とは、ゼロ状態に転落したのではなく、計量すら困難なマイナスの地の底に置き去りにされたも同然の喪失でした。それこそ、 「二重国格」 という病相がその消滅においてすら残してゆく、その強い毒気による “後遺症” でした。
 ちなみに、将来のいつの日か、日本が彼国への “属国” を終えた時、それまでの “属国少年”、“属国成人”、“属国政治家” たちが、この “裏切り者” 意識にどれほど苛
(さいな)まれるのか。おおいに苛まれてほしいとも希望するのですが、おそらく、苛まれるどころか、それに気付くことすら、極めてまれなことではないのか。
 それはともあれ、この元星友氏は、かくして自分に刻印された負のイメージを、一生背負ってゆきます。
 想像ですが、それまでの彼が、毎年の級長として、いわば身辺社会の模範的少年であっただけに、その優越心も誇りも消え去ったその喪失感とギャップの深さは、一体、どれほどであったでしょう。それはゆえに、まさしく、 「 『王』 離れ」 するに充分すぎる衝撃であったことでしょう。
 そのようにして、強制された神たる大親と自然の実の親という二重の親を持った彼は、日本の敗戦により、その強制側の神たる親を失いました。これが、自然な親のもとにただ戻るだけを意味するなら、実の親からの自立過程を、遅ればせながらも追い求めれば、何とかそのダメージからの回復の道は残されていたでしょう。
 ところが彼の場合、その父親も日本びいきであり、寄る辺を求めようにも、その実の親との関係にもひびが入らざるをえず、孤独に、その負の地底をさまよわなければならないものでありました。
 だからこそ、その後、ある時、彼は父親に、「若い時代には特高につきまとわれるほどに日本通だったあなたが、日本が負けることを、少しも予想できていなかったのですか。なぜ、何も教えてくれなかったのですか」、と食ってかかったことがあったといいます。
 加えて、彼に親しんだ人なら誰でも、彼のもつ優れた資質を発見しないでいられることはまずありえません。したがって、敗戦直後の混乱した朝鮮時代でも、あるいは、朝鮮戦争後の独立国となった韓国社会にあっても、彼は、その彼の能力を認めた先輩、上司、あるいは時の権力者らから、成長や出世のチャンスを彼に与えたい――あるいは、そういう彼を活用したい――と、特別の配慮や扱いを提供されたことも、一度や二度のことではなかったようです。
 もし彼がそのひとつでも、その推薦のままに応じていたら、きわめて高い確率で、彼はその後、韓国社会のそうとうな地位にまで至っていたと確信できます。そうなれば、彼の人生は全く違ったものとなっていたはずです。むろんそうした場合、シドニーの下町の一角の、とあるアパートの隣人同士として、私と出会うことなぞには決してならなかったでしょう。
 そうした推薦話のいずれもに、彼が 「折角ながら結構です」 という断りの返答ばかりをしたのはなぜなのか。あるいは、そういうどんな好条件な機会にも、彼が積極的にそれを受け入れる方向へとは向かわせなかったものは何なのか。
 私は、それを、いわゆるトラウマ症候
(しょうこう)群とも痛手がゆえの病的消極性とも考えません。ましてや、侵略国日本の敗戦による、 “売国奴的” 元皇国少年の虚脱状態――身から出た錆――の反映なぞとはけっして見ません。(もしその程度のことであったのなら、こうした有利な推薦話のどれか一つに、食いつけていけたことでしょう。)
 そうではなく、彼がそう絶対孤独な喪失を体験した以上、ましてそのように聡明な少年であっただけに、それなくしては見えてこなかった何かにも触れえていたはずです。それはたとえば、彼をそれほどまでに操っていた巨大な嘘の存在への気付きであり、ひるがえって、何をもって真実と見るか、その鑑識眼への開眼があったことと推察します。たとえ当初、つかみどころのない、おぼろげなものであったとしても。これこそ、 「 『王』 離れ」 の、しかもあまりに劇的な実体験とその果実であったと言えましょう。
 ここで私は、そうした彼の絶対孤独な喪失が、 「日本人である皇国少年」 にもやってきていた場合を 「想像」 します。しかも、こうした想定は、さほど 「想像上」 のものでもありません。戦争終結にあたり、君主である天皇の戦争責任を、たとえ声高にではなくとも、様々な形をもって、それを追求した人たちは少なからずいました。
 そこで、その元星友氏の経験です。私は、そういう元星友氏の一連の断りは、一人の若い命が、もっとも過酷な逆境の底にある自分を見つめることで得た、社会の本質を嗅
(か)ぎ分ける感覚と、そして、人間のよって立つもっとも深い自尊心の表れだと見ます。おそらく、そうした有利な誘いを断ることで、ほのかなものではありながら、どこからとも湧き上ってくる、ある 《勝利の美味》 の手掛かりを味わっていたと確信します。これこそ、真正な 「自我の社会的確立」 です。
 私が進学や就職に際して体験した自分の選択は、決して世間常識的に賢い判断ではありませんでしたが、それが背伸びを排し、自分の身の丈
(たけ)に合った判断であったがゆえに、今日の自分の基盤となりえました。同じように――と言っても、私と彼が置かれた両状況の違いは較べ物にはなりませんが――、彼のその一見否定的な選択も、そうした地の底という 「身の丈」 であり社会の “丈” を知ったがゆえの、適切で健康な判断であったと思います。
 そういう絡
(から)みでは、ここシドニーの下町の一角とは、互いのそうした 「身の丈」 精神が収斂(しゅうれん)できる、不思議な聖地であるかのようです。
 私は、日本人の皇国少年のだれもが、彼と同様な深い孤独を背負って8月15日、すなわち 「 『王』 離れ」 と、それ以後を体験した場合を想像します。そして、今日の日本人がいつの日か、同じ孤独を味わう時が来るだろうことも。

 (2012年7月22日)
 
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