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 私共和国 第38回


「人徳循環」と現代



 前回の訳読 『ボケずに生きる』 第8章では、認知症の予防には、身体的、精神的、社会的に活発な生活が重要な三要素であると強調され、それをまとめて著者のヴァレンズエラ医師は、 「人徳循環」 と表現しています。
 この 「人徳」 という言葉は、東洋的なひびきをもつ言葉で、訳すにあたってそれが適当かどうか悩みました。原文では virturous となっていて、その語は、辞書にも「有徳の、人徳のある」 とかとなっており、結局、上記のような訳に落ち着きました。
 東洋的なことかどうかは別としても、私はここに、科学という分析的、細分的手法が、ある統合的境地へと達しつつある一つの事例を感じます。

 また、上記の三要素のうちの 「社会的」 活動についてですが、原文ではそれは、socially active とか、 social component という表現となっています。
 そこでこの、social なんですが、辞書には、その日本語の意味として、A 「社会の、社会的な」 という意味と、B 「社交的な、交際上手な」 との意味の、二分が見られます。そこで 「社会的」 か 「社交的」 かといった問題が発生します。
 そこでなのですが、人間という存在は、食物とか、水とか、空気とか、土とか、太陽とかと、明らかに、誰もに共通する基本的な必須諸要素ぬきにはありえない存在です。むろん、その摂取は “個人的” に行う構造とはなっていますが、個別にではあっても、誰もが同じ行為をし、同じ恩恵にあずかっているはずです。逆に言えば、同じ商品が、何千、何万、何億と売れるのも、万人の持つ、そういう共通要素があるがゆえです。
 つまり、人間は、そのように個的かつ社会的な、あえて言いますが、二重拘束的存在で、そのいずれかへの偏りは、片手落ちなやり方ということとなります。
 そこで飛躍を覚悟でいえば、 「社交的」 か 「社会的」 かの違いは、人類の歴史がひきずってきている、 《自由市場主義か、社会主義か》 の問題にもゆきつきそうです。
 さらに視点をジャンプさせれば、現在、ヨーロッパを襲っている国家債務、国債危機問題――EUが崩壊するかいなか――は、問題の解決を社会主義的な発想で行おうとしている陣営と、そうはさせじとする自由市場主義陣営との攻防戦に見えます。

 人間についての科学や医学は、すくなくともこの 『ボケずに生きる』 の訳読が示してきているような分野では、いまや、 「人徳」 や 「社会的活動」 の領域に達してきているのです。
 個別、自分勝手主義への偏りが行き詰まるのは自明です。

 それでは、最新訳読の 『ボケずに生きる』 第9章へは、こちらから、どうぞ。

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