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私共和国 第25回



自己否定


 私は外国にいて、断片的にしか伝えられない情報に接している限りなのですが、日本では、その時代から40年が過ぎ去り、ある意味の 「距離の効果」 が働いて、1968年に前後する若者たちの叛乱の時代が、いろいろに議論されてきているように見受けられます。
 私もその時代を、その若者の一人として生きた者でありますので、遠方ながらもことの成り行きには関心があり、小熊英二の 『1968』 の上下二巻を取り寄せて読んだりもしました。
 ちなみに、この 『1968』 に関して言えば、その著者のこれまでの仕事には関心を抱いてきていたのですが、彼のだんだんとその特徴が増す、一種の書き物 “物量主義” には、何か現代的なものを思わせる、物量をもって思想の網羅性に代えようとするような、ちょっと見当違いな姿勢が感じられ、彼もそういう 「権威主義」 か、といった気持にさせられています。

 やや飛躍とはなるのですが、 「1968」 を語るには、その時代を揺るがした一つのキーワードに触れないわけにはゆきません。
 私は自分の体験上、そのキーワードとは、タイトルにもあげた、 「自己否定」 という言葉だと確信します。
 私の解釈では、確かにその字面上の意味は 「自分の否定」 ではあるのですが、その要点は、限りない 「自己肯定」 あるいは 「自己への真摯さ」 であったと今でも理解しています。その土台をまっとうしようとすれば、どうしても、自分の現実の姿には否定的にならざるをえなく、そういうところの機微をめぐって、そのキーワードが当時の若者たちや、その周囲の人々の間で交わされていました。おそらく、今日の同世代の若者たちには、絶対といってもよいほどにそうすることが不可能である、しごくまともな自分の良心の声が、互いに胸襟をひらいて、大ぴらに議論されあった時代が 「1968」 でした。むろん当時に、 「 KY (空気が読めない)」 などと言った隠語は不必要でした。
 センセーションを好むマスコミは、当時のその一大騒動のリーダーたちが、その後、意外に、あるいは、隠れるように、普通の生活を送っていることに拍子抜けし、中には 「無責任」 を標榜する者や、物足りなさをぶつける者がいます。
 しかし、権力を維持する者や、その代弁者にとって、鼻ったれの小僧どもに、そんな核心を大っぴらに議論されては、はなはだ迷惑なわけです。その 「1968」 以来、教育現場にどのような管理が広がっていったのか、それを知る者には、そのメカニズムははっきりしていることと思います。
 つまり、その一大騒動のリーダーたちがその後、外見上の静かな私生活を送っているのは、まさに、その人としての責任を生きているからです。それを、その騒ぎの馬車馬に乗り続け、あたかも政治的指導者にでもなりうるはずだと信じれる “おめでた” な御仁たちこそ、相変わらずに、 「1968」 を飯のタネにしているのでしょう。

 そうした中、先日、私は友人のバエさんから、とても興味深い話を聞きました。
 それは、韓国の高麗大学の26歳の女子学生が、この3月10日、大学構内に自分の壁新聞を張り出し、「大学は人間の商品化の機関にすぎない。私は自分を商品にはしたくはない」 、との意の見解を表明し、即座に大学を退学――彼女の言葉では 「拒否」 ――したとの話です。
 韓国の主要メディアはこのニュースを黙殺しているようで、したがって、日本にも表立っては伝わっていないようですが、韓国社会では、ネット・メディアを通じて、その彼女(キム・イェスルさん)の行動に、支持、不支持の両論が高まっているといいます。
 私は、その彼女ならば、日本の 「1968」 の 「自己否定」 の真意をくみとってくれると思います。

 キムさん、この先、まだまだ長い道のりですが、元気でやってください。応援しますよ。

 (2010年3月22日)

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