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       四川大地震を思う


 この地震の被害はまだその全貌が知られておらず、今後どこまで拡大してゆくのか、予断を許しません。私はいま、大変、気がかりな思いで、その報道に注目しています。
 というのは、私は六年前の12月、この地震の震源地に最も近い町、都江堰市に居たからです。
 
私がここを訪れたのは、この 「都江堰」 の名の由来、すなわち、紀元前3世紀に建設され、世界文化遺産にも登録されているその名の治水、水利施設がその町にあり、しかも現在でもまだ立派に使用されているというからでありました (詳しくは、司馬遼太郎の 「街道をゆく」 シリーズ20巻 『中国・蜀と雲南のみち』 の「古代のダム」を参照)。

 少なくとも、土木技術に携わってきたものの一人として、この2300年前の、しかも現役で活躍中であるという、その施設の現物を見ておきたかったからでした。
 ちなみに、この治水、水利施設のおかげで、四川盆地は穀倉地帯へと変じ、中国でも有数の多人口地域となりえたのでした。
 それに加え、六年前のその当時、その都江堰の上流に、ダム建設が計画されておりその反対運動も起こっているということを耳にし、私はその時、その実情を見ようと、さらに上流まで行ってみました。あいにく、それらしき現場は見当たらず、私の探究はそれまでとなりましたが、そのダム建設の反対の理由のひとつが、そのあたりには断層があり、ダムが危険を誘発するというものでありました。
 計画では、このダムは二つからなり、少なくとも上流側の紫坪舗ダムはもう完成しているはずです。今後、この地震の原因についての議論も起こるでしょうが、中国というお国柄、まさか国家事業のダムの建設が地震の引き金になったとは、公に認められることはないでしょう。
 
 私は、こうして6年前のその地を思い出すとともに、さらに13年前、神戸地方を襲った大地震をも思い浮かべています。この阪神大震災で、私は神戸に住んでいた伯母を亡くしました。そして、土木技術者のはしくれとして、その地震と、神戸地方をめぐる巨大な土木諸事業を、関連づけて連想させられることとなりました。
 私は小学生のころ、神戸に住んでいて、その海と山の両方に恵まれた土地が大変好きでした。それが後に、土木工学を学ぶ学生として、当時、神戸で行われていた、山を削り海を埋め立てる大プロジェクトを見学するいきさつとなりました。私が子供のころに楽しんだ浜辺はなくなり、薄暗い谷合いにあったはずのケーブルカーの駅も、山ひとつが丸々消えうせ、海まで一望のもとに見渡せる分譲用平地の一角に変貌していました。
 また、その海流の激しさのため、怖くて海には出られなかった須磨の浜先には、対岸の淡路島とを結ぶ巨大な吊橋が架設され、さらに、その淡路島は、関西空港という人工島を作るため、その一部がやはり削り取られて運び去られました。
 このようにして、大阪湾を囲むあちこちで、それまでの地形を大きく変える大工事が幾つも実施され、膨大な量の土砂が移動されました。
 私は、そうした巨大な重量の土砂の移動により、地殻をそれまで維持してきた微妙なバランスが崩されたのではないか、少なくとも、新たな歪みを作りだすなんらかの誘因となったのではないかと、阪神大地震を引き起こした断層活動の原因を想像したりもしました。
 友人の地質技術者にもそう聞いてみたのですが、彼の意見は、単位の桁が違う話ではないか、とすげないものでした。
 ともあれ、地震が起こったのは確かであり、その発生が、果たして完全に自然のものなのか、それとも、たとえば伯母の死が、そうした諸プロジェクトと絡んでいるものなのか、見過ごせないでいるのです。

 下の写真は、六年前、都江堰市を訪れた際の、都江堰公園への入り口の写真です。現在、この広場は被災者の避難場所にでもなっているのでしょうか。
    

 
 
右の写真は、都江堰を建設した親子二代の官吏を神として祭る 「仁王廟」 。果たしてこの建物も、被害なく残っているのでしょうか。 
 【追記 以下の報道によると、この建物は完全に倒壊し、「見るも無残な姿」となっているとのことです。(5月19日記)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/145367/


 (2008年5月15日)


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