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両生学講座 第8回(両生脳科学)
 



       作品としての脳


 かねてから予告してきました心脳問題に、いよいよ今回、取り組んでみます。
 まずこの 「心脳問題」 とは何かですが、これは、たんに物体である臓器としての脳に、なぜ、どのようにして、意識や心が発生するのか、という問題で、現代の脳科学の先端をゆく専門家にとっても、解明されていない難題であるようです。
 意識という、いわば私たちのもっとも身近で中心的焦点が、科学的には、ひとつのブラックボックス的存在であったとは、なんとも意外なことです。
 そのように解明されていないことなのですが、ところがむしろ、いま、そのように解っていないということが解ってきているということで、脳の果たしている機能の深みが、いっそう鮮明に浮かび上がってきているとは言えると思います。
 つまり、 「心脳問題」 という提起には、科学と、哲学とか倫理学とか芸術とかという科学以外の人間活動の成果とのギャップを、慎重に取り扱ってゆこうとすることを主眼とする姿勢がその背景にあります(そういう意味では、非−科学的であるわけですが)。
 私も、前回のエッセーで、「『自足自律機械』しかけの私」 というモデルをあげ、また前回講座では、「東と西の《唯識》」 とのタイトルで、この両分野にわたる思索を、そうとう私独自のスタイルで、両生宗教学という角度からまとめてみました。また、「両生」とは、そうした複眼的視点を意図しているのは、これまでにも述べてきた通りです。

 さて、そこで今回の議論についてですが、脳自体についての科学的議論については、ここでは直接立ち入らず、私が親しんだ文献の紹介のみにとどめます。その詳細を知りたい向きには、そうした文献――有田秀穂著 『セロトニン欠乏脳』 (生活人新書、NHK出版)、茂木健一郎著 『意識とはなにか』 (ちくま新書) ――に当たっていただきたいと思います。
 「両生的」 でもある 「心脳問題」 の分野で、私の関心を最も引いてきた文献は、もはやお馴染みになった感もある脳科学者、茂木健一郎のいくつかの著作です。
 彼は多才な人のようで、その著作は文学面にもおよんでいます。最近では小説も発表しているようで、まさに現代の寵児の感もあります。一昨年に発表された 『脳と仮想』 (新潮社) ――当講座第6回で述べたように、彼も同じく「デカルト的懐疑」(p.206-210)に立脚する必要を強調しています(執筆当時は未読)――は、昨年度の小林秀雄賞を受賞するという、文芸評論の分野での栄誉も獲得しています。
 そうした文学分野での活躍も私個人には大変興味深いのですが、ここではやむなく除外して、脳科学の分野の彼の著作として、『 「脳」 整理法』 (ちくま新書) をとりあげたいと思います。
 はじめにこの書名です。 『超○×整理法』 シリーズを知っている人には、またその手の売れ筋狙いか、と敬遠したくなるようなあやかった命名なのですが、内容はそうしたノウハウ本の次元をこえています。むしろ、自分の脳の正しい理解を通じた人間哲学の書とでもいってよい議論です。しかも非常に「人生論」的な語り方で。 
 では、まずはじめに、以下のような引用をもって、本論に入りましょう。

 ここでいう「世界知」とは、科学による探究によって得られた知識のことで、天体の運行や物質の構成など、世界はこうなっているとする、いわば冷たい知識のことです。これに対し「生活知」とは、一人の人間として生きてゆく中で、いきいきと充実した人生を送るために必要な知恵――熱い知識――のことです。
 そこで著者はこう提起します。

 そして著者が強調するのが、「一生に一度しか起こらない出来事の大切さ」です。つまり、こうした世界知による科学的データは統計的な意味を基礎にしていますが、私たちの人生は、統計的な平均をとってしまえば消えてしまうような、多様なニュアンスに満ちています。

 こうした、なかば規則的で、半ば偶然でもあるという一回性の出来事を、著者は 「偶有性」 とよび、そうした遇有性に満ちた人生の体験を大切に刻印し、整理していくことが脳の働きといい、それが、私たちの人生をつくっていくと説きます。つまり、脳とは、コンピュータのような世界知の体内装置なのではなく、遇有性に満ちた私たちの人生がつくり上げる、まことにも人間的な被造物のようであるのです。
 私は、最近まで、人間の脳のほうがまだ優るとはいえ、脳とコンピュータとは、あらかじめ規定された特定の能力を備えた、機能的には同類のものかと誤解してきており、自分の頭のコンピュータ的でないところを、頭の悪いやつだと思い込んできました。しかし、人の脳とは、どうもそういうものでもないものと思いはじめていたところに、上記のような、茂木のいう、「世界知」と「生活知」という区別と出会い、私の頭は、前者向きではなくとも、少なくとも、後者向きには出来ているな、との思いを確かにしている次第です (我田引水ですが、「両生」の概念そのものの出発点も、そうした生活者としての視点がもつ学的知性との齟齬感に根ざしています)。
 つまりは、脳をコンピュータかのごとく考え、そのようにトレーニングし、そのように使うというのは、まさに誤用であって、脳の健康にもよくないと言えるでしょう。
 茂木は言います――日常生活の中の環境との相互作用を受け、人間の脳の中の神経細胞の結合パターンは、つねに変化し続けており、私たちの「心」を作り出している神経細胞の結合様式は、決して同じままにとどまることはありません。このような「インフラ」を通して、脳は自らの体験の中の遇有的要素を整理し、変化に富んだ時代にも適応していくことができます。
 ここから先は私見ですが、以上の見解に立てば、脳は、まだ子供の時期ならいざ知らず、私のような年齢に達した場合には、その脳のもつ特徴は、その人の身体の特徴とも合わせて、自分の人生の産物ともいえるもので、いわば、「作品」と称してよいものではないでしょうか。
 ひるがえって言えば、今日、高血圧や心臓病などを、生活習慣病と呼ぶことがあるように、ある種の精神神経疾患やメンタルな不健康も、おなじく、生活習慣病とか、ライフスタイル病とかと定義することも可能なのではないかと思います。
 例えば、私の父は、ヘルニアの入院を境に、急速にボケを発症し、重い認知障害を患いながら84歳で亡くなったのですが、そのボケて行く過程は、何か、あえて記憶をなくすることを自選してゆくような、人格つまり脳活動の脆弱さのようなものが感じられました。
 この脆弱さを、こう結びつけるのも飛躍と思う部分もないわけではないのですが、父は中国大陸の戦地から、生きて帰った軍人の一人でしたが、戦争の体験については、まったくといっていいほど、口を閉ざしていました (黄河上流の丘陵地における戦闘場面についての短い描写を唯一の例外として)。
 そのかたくなな沈黙が、関連する特定の記憶をあえて忘れ去ろうとする孤独な努力と重なっていたと見るのは自然で、20歳代の後半というもっとも脳活動の活発な時期の、そうした特定の記憶の回路を抹殺する長年にわたる「習慣」という、一種の脳への刺激の長年にわたる欠如を引き金に、ボケを誘発させる何らかの脳内環境をつくったのではないか、と推測するものです。何かを覚えていたいとする意欲が記憶能力を発達させるように、また、使わない筋肉が衰えるように、刺激の有無がその結果に直結することは、脳においても同様ではないのではないか。
 
 上記の亡父のケースは、遇有性がネガティブに作用した場合と見れるものですが、それがポジティブに作用する場合、「遇有性との行き交いの中、脳の中で体験が徐云に整理されていくプロセスは、新しいものが生み出されるブロセスとほとんど同義です」 と、茂木は論じます。そして、

 こうした茂木の議論は、私事ながら、筆者の体験とも重なり合います。
 これまで、私は、博士論文を書きながら、あるいは、こうした 「両生空間」 向けの文章を書きながら、それまで星雲状に混沌としていた数々の体験記憶が、ある日、ある時、一瞬にして形あるアイデアとなって脳裏を走る、そうした現象をいく度も体験し、そしてむしろ積極的に、そうして現れたアイデアをそれらの仕事の内容の核心とし取り上げてきました。また、人生の節目の、いくつかの重要な意思決定を行う場合も、そうしたひらめきがそうした決定を助けた実例といえます。それはまさに、遇有性により、脳内神経細胞に無秩序に蓄積されていた結合が、ある時一瞬にして、ユニークな意味をもつ結合を形成する――とでも表現できるような、「ユリイカ」の瞬間です。
 それは時には、のなかの一種の “お告げ” のような形で現れてくることもありました。この、夢としての現れも、脳は、眠っている時にも、記憶の整理を行っているという、脳科学の説明にも合致します。
 こうした一連の現れを、茂木は脳の生成作用といいますが、この生成こそ、人の行う創造のひとつ、ひとつであると思います。

 最後に、茂木は、今後、脳科学や認知科学に限らず広い領域にインパクトをあたえるであろうという、「セレンディピティ」という概念を提示しています。これは、「偶然の幸運に出会う能力」 (週刊誌などでは「素敵な恋人に出会う能力」などと用いられている場合もある) と訳されるもので、「偶然を必然にしたい」という願望が外界との遇有的な体験を整理し、そこから創造的なプロセスを立ち上げることをしてゆく脳の能力であると説明しています。
 ただ、この成果をうるには、三つの条件があると彼は言います。その第一は、とにかく何か具体的行動を起こすことが肝心で、その 《行動》 によって、世界の中を移動するからこそ、異質な他者や、自分がもっていなかったような「外部性」との出会いもあるわけです。
 第二は、偶然の出会いがあったときに、その出会い自体に 《気付く》 ことが大事です。この気付くことは、自分の外でおこっていることや、自分が心の中で感じていることに対する注意深い観察力があって、はじめて可能となります。
 第三は、さまざまな通説にこだわらずに、素直にその意外なものを受け入れることです。つまり 《受容》 です。知識の中にある既存の考えをダイナミックに修正し、それを自己の中に受容することができてこそ、私たちは体験からの学習を完成させることができるのです。
 この、《行動》、《気付き》、《受容》 が、偶然を必然にするセレンディピティを高めるために必要な三条件です。

 今回あわせて発行のエッセイに、私はひとつのプロジェクトに取り組み始めていると書きました。私は、この取り組みによって、ここで言う 「セレンディピティ」 の能力が試されているのだな、と位置づけたいと考えています。

 (松崎 元、2006年3月20日)
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