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添付論文

偶然の産物としての神

The Accidental God
y Paul Bloom,
December 23-27, 2005, Australian Financial Review

ポール・ブルームは、エール大学の心理学および言語学の教授。『Descartes’ Baby: How the Science of Child Development Explains What Makes Us Human』や、『How Children Learn the Meaning of Words』の著者。この記事は、『The Atlantic Monthly』から。
翻訳 松崎 元、小見出しは翻訳者。


私が十代の時、私のラビ(ユダヤ教の先生)は、ブルックリンのクラウン・ハイツに住む霊的指導者が救世主であると信じており、この世界が間もなく終るものと考えていた。彼は、地球が数千年の年齢で、化石はノアの洪水によってできたものと信じて疑わず、来世をえがくことができ、生徒達のヒットラーの魂の運命についての質問にも答えることができていた。
 といっても、私のラビは決して変人ではなく、知性もあり親しみのもてる先生でもあり、学者でもあった。しかし、彼は、私を驚かせたり、混乱すらさせる考えを持っていた。私にとっての宗教は、他の世俗的な人たちのように、魂、超越、寛容、愛、慈善、そして善行の根源となるものであった。人が少なくとも倫理的立場の根源として受け入れている、マーティン・ルサー・キング二世やダライ・ラマのとなえる信念に、誰が反対できるだろう。

なぜ宗教が必要なのか
 しかしながら、宗教が自然界について論じはじめる時、私は違和感をもちはじめた。自然を超える世界があるなら、黙ってひとりで存在していればいいというものだ。ステファン・ジェイ・グゥルドにならい、超自然的信仰を疑う人にとっては、科学と宗教の両方の尊厳を保つ最善の道は、「重複しない領域」、つまり、科学は事実にのみ関与し、宗教は価値にのみ関与する、との識別をもつことである。
 しかし、良かれ悪しかれ、宗教には、単なる倫理的原則や曖昧模糊たる超越性といったものを越えるところがある。民俗学者のエドワード・テイラーは、1871年に、「宗教のミニマムの定義」は、超自然界や霊的存在を信ずること、と指摘してこの点を明確にした。
 私のラビが抱いている考えは、私の育った環境では少数意見だったが、今日、何十億という人々がそう理解し実行しているように、宇宙の創造、世界の終り、魂のゆくえなどについてのその類の見方が、宗教の何たるかを決定している。
 超自然的信仰はひとつの文化的時代錯誤で、科学的発見や普遍的価値観の広がりによって、やがては消えゆくものと考える人たちにとって、ラビのような考えは当惑させられるもので、なぜ我々が宗教を信じるのかについて、新たな見方を必要としていた。つまりそれは、進化生物学や認知神経科学、そして発育心理学における研究を促進させるものでなければならないのである。

宗教アヘン説
 宗教の起源についての伝統的な見方のひとつは、人として存在することは苦難をともなうという観察に端を発した。つまり、この世には悪魔がはびこり、私たちが愛するものは全て死に、また、私たち自身も、遅かれ早かれ、おそらく苦しみながらやがては死ぬ。一部の幸運な人々を別として、誰にとっても人生とは痛ましく、過酷で、はかないものである。まして、私たちの人生に何か大きな意味があるかどうかなど、ほとんど考えも及ばないものであった。
 だから、マルクスが言ったように、宗教は、人生の苦痛を和らげるアヘンのように用いられてきている。哲学者のスザンヌ・K・ランガーが見たように、人間は「混沌を扱うことができない」。つまり、超自然的信仰が、こうした混沌に意味を与えることで、その問題に解決を与える。つまり、我々は、ただのものではなく、神によって、慈愛をこめて創造され、それに仕える存在である。良き行いは報われ、悪しき行いは罰せられるのがこの世であると、信仰が私たちに告げている。私たちの畏怖や死も信仰が取り扱うものである。フロイトは、それを、信仰心の「三つの仕事」とよび、「自然の恐怖を悪魔祓いを行い、運命の過酷さ、ことに死のそれを和らげ、そして、文明的生活につきものである、苦難や欠乏をつぐなう」と簡潔に整理した。
 宗教は、ともあれ、これらすべてのことに関与し、それが、部分的にせよ、宗教の存在理由となっている。神学者は、私たちが信仰を持つべき理由として、人が目的や意味や永遠の生命を持とうと望むなら、神以外のどこに求められるのか、と指摘するのも、もっともなことだろう。
 だが、こうした見方にはらむ問題は、認知心理学者のスティーブン・ピンカーが言うように、それが真実であるとは信じないという立場が、その人をことさらに不安にさらすというわけではないことだ。空腹な人は、たらふく食事をとったと信じることにより満足するのではない。一方、天国は、人々がそうした場所が存在すると信じることによってのみ、役に立つ考えである。つまりこうした信仰心がなぜおこるのかという疑問こそ、宗教についての諸説が、まず第一に説明しなければならないことなのである。
 宗教アヘン説は確かに、私たちには馴染み深い一神教について、もっとも適切な説明を与えてはいる。しかし、世界の多くの人々は、全能の一神のみを信じているのではない。そうした別の信仰をもつ人びとについてはどうなのか。
 そのどの社会も、霊的な存在を信じている。しかし、そうした存在は、時にひょうきん者で、わるさすら働く。また、多くの宗教は、形而上的あるいは目的論的疑問すらあつかっておらず、食物をどう確保するとか、死者をどう扱うかといった際に、八百万の神とか祖先とかが、そうした当座の問題への助太刀として呼び出されるにすぎない。まして、この世の全存在の意味を解明する必要が求められているわけではない。
 天国や正しさや救済などの必要性についても、そこに何らかの宗教的なものが関与はしている。しかし、それがすべてであるわけではない。(実際、我々がもっとも親しんでいる宗教でも、その効用が常に役立っているわけではない。私の知っている年配のキリスト教信者たちは、地獄に落ちるとの観念から子供のような惨めな目に会わされた。こうした場合、忘れてしまうことのほうが、はるかに好ましい対処であろう)。要するに、宗教アヘン説は、宗教の必要性を充分に説明しているわけではないということである。

宗教社会性説
 宗教についての別の説は社会的なものについてである。つまり、宗教は、人々を結びつけ、社会的結合を欠いている人に、そのきっかけを与える。この説明は、多くの場合、文化的脈絡において考察され、時に、遺伝子あるいは個人といったレベルではないものの、社会的集団といったレベルにおける適者生存という、進化論的視点を通じて考察されている。いずれにせよ、この見方は、宗教をもつ集団が、持たない集団に比べ、より成長がはやく、より長生きするというものである。
 この考えでは、宗教は、同胞心を育て、同類性を深める。同胞心が未経験の新人に忠誠心や献身を植え付けるために使われるように、宗教は、たとえば、ペニスの一部を切除するような、苦痛な入団儀式を行ったりする。また、多くの宗教にともなう不可解な特徴、たとえば、食事の制限とか特殊な衣服とかといったものも、集団の団結力を育てる道具という観点では、完璧な効用をもたらすものである。
 また、宗教社会性説は、ある宗教が、どうして、信仰を共有しない人々にそれほどに厳しく、背信者に特異な怒りを維持するのか、それを説明する。旧約聖書にある「不信仰を許さぬ神」は以下のように、これを明確に告げている。
 同じ母の子である兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友に、『あなたも先祖も知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか』とひそかに誘われても、その神々が近隣諸国の民の神々であっても、地の果てから果てに至る遠い国々の神々であっても、誘惑する者に同調して耳を貸したり、憐れみの目を注いで同情したり、かばったりしてはならない。このような者は必ず殺さねばならない。彼を殺すには、まずあなたが手を下し、次に、民が皆それに続く。あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出したあなたの神、主から離して迷わせようとしたのだから、彼を石で打ち殺さねばならない。」(申命記、第13章、7〜11)
 この宗教社会性説は、宗教についてのほとんど全てを、ただしその信仰心自体の部分を除いて、説明している。儀式や犠牲は、人々をまとまらせることができ、そうではない集団に対する有利さをもつことに役立つ。しかし、宗教がなぜ関与しなければならないのかは明瞭ではない。すなわち、なぜ、神や、魂や、来世や、奇跡や、宇宙の神的創造などが伴なわなければならないのか。この説は、この、超自然を信ずるという、最も興味あることについて、説明を提供していない。

宗教偶然説
 科学者たちによる努力は、きわめて異なった見方をもたらしてきている。すなわち、宗教は、目的に仕えるためにではなく、偶然に発生してきたというものである。つまり、価値への判断をもたらすものではない。生活における良いことの多くは、進化論的観点から見て、偶然のなすものである。
 人々はよく、会ったこともない遠国の人を助けようとして、お金や、労力や、時には血液さえも与えることがある。人の遺伝子的観点から見ると、これは破滅的なことで、無益なことへの自殺的浪費である。しかし、その起こりは不可解なことではない。つまり、距離をへだてた愛他主義は、同情とか抽象化された理由といった、より汎用的特性による産物なのである。
 こうした特性は、私たちが絵画や映画から得られる楽しみと同様に、再生産的な効用はない。それは、私たちの目や脳が、現実界の三次元的事象について、キャンバスやスクリーンという二次元的平面に、そのように起こす反応にすぎない。
 超自然への信仰も、同様な説明が可能かも知れない。これは、宗教偶然説といってもいいもので、私の研究や、スコット・アトラン、パスカル・ボイヤー、ジャスティン・バレット、デボラ・ケレメンといった認知科学者たちによる研究成果がもたらした見解である。
 この説は、物理的ということと、心理的ということを識別することが、人間の思考において根源的なものである、という考えに端を発する。
 石や木といった、純粋に物理的なことは、冷徹なニュートンの法則の対象である。投げられた石は特定の軌道をえがいて空を飛ぶ。地上に置かれた木の枝は、消えてしまったり、動き回ったり、空に舞い上がったりはしない。
 一方、心理的なこととは、人がもつ、心や、志向や、信仰や、目的や欲求である。人は、意欲や好みに応じて、気ままな動きをおこし、また、追っかけたり、逃げ去ったりもする。こうした現象は、倫理的な差異でも同じで、石は邪悪だったり親切だったりしないが、人間はそれらのいずれかになりうる。
 そうであるなら、物理的なものと心理的なものの区別は、何によってなされるのであろうか。それは、私たちが経験によって学ぶものなのか、それとも、私たちの脳に予め内蔵されているものなのか。

赤ちゃんの研究
 これを解明するひとつの方法は、赤ちゃんの研究にある。ただ、赤ちゃんが何を考えているのかを知ることは極めて困難で、それは、赤ちゃんは喋ることができず、自分の体のコントロールも、ほとんどできないことからも容易に想像できる。(赤ちゃんは、迷路を走ったり、レバーを動かしたりできず、ネズミやハトなどより遥かにテストしにくい。)
 しかし、近年になって、研究者は、赤ちゃんにさまざまな出来事を見せ、それをどれだけ長く見つめているかを記録するという技法を用いて、赤ちゃんが、大人と同じく、異状なことや奇妙なことを見つけるとより長く見つめているという現象について、研究を続けてきている。
 こうした研究は、一連の驚くべき発見をもたらしている。六ヶ月の乳児は、物体が重力に従うことを理解している。たとえば、テーブルの上に物を置いて、そのテーブルをどけてみるが、その物は(見えない糸でつるされているので)下に落ちない。すると乳児は驚く。つまり、落ちることを予想しているのである。
 赤ちゃんは、物体が動かないことも予想しており、いくつかの心理学の授業でいまだに教えられていることに反して、物体が、もし隠されていても、それがその間そこに存在し続けていると理解している。(赤ちゃんにある物体を見せ、それをスクリーンで隠してみる。しばらくしてその物体をスクリーンの背後で取り除いてみる。スクリーンをとったとき、その物体がなくなっていると、赤ちゃんは驚きを見せる。)
 六ヶ月の乳児は、簡単な算数さえおこなえ、最初にひとつの物を置き、スクリーンの背後でもうひとつを加えてみせる。スクリーンを取り除いたとき、ひとつでも、三つでもなく、二つでなければならないことを認識している。同じような算術的理解は、別の実験を通じ、人間以外でも、猿などの霊長類や犬でも発見されている。
 同様にして、こうした早熟な能力は、幼児の社会的領域の理解においても発見されている。新生児は、だれの顔を見るのも好むのだが、もっとも好む声は人間の、ことに、母親の声である。新生児は、怒りや、怖さ、嬉しさといった、異なった感情をすばやく認識するようなり、それぞれにふさわしく対応する。
 一歳になるまでに、赤ちゃんは、大人の注目の的となることを知るようになり、誰かの感情の注目をえることを修得する。つまり、赤ちゃんは、危ないかも知れない所へとはってゆき、大人が、危ながる表情をするが、その赤ちゃんは、その危険から充分離れていることを通常理解している。
 こうした説に疑問をもつ者は、こうした社会的能力は、一連の初歩的反応ではないかと指摘するが、より深い理解の反映とするにたるいくつかの証拠がある。例えば、12ヶ月児がある物体を目で追っている時、捕まえることを目的として追っており、それはその動きを理解しているかに見える。すなわち、赤ちゃんは、目標物の行き先をそのままの方向に動き続けることと期待しており、それが異なった方向に行くと、驚きをみせるのである。
 私が、二人の心理学者、クイーンズ大学のバレリー・クルメイヤーとエール大学のカレン・ウインとともに行った調査では、赤ちゃんが、ひとりがある人物を助け、他の人がその人物を傷つける映画を見せた時、その後赤ちゃんは、助けた人にその人物が近づき、傷つけた人を避けることを期待していることを発見した。
 以上のような、物理的世界の理解と、社会的世界の理解とは、赤ちゃんの脳の中の二つの異なったコンピューターがあるかのように見え、それぞれ、違ったプログラムを動かし、違った仕事をつかさどっているようである。
 そうした理解は、その成長の程度に差がある。つまり、社会的理解は、物理的理解より、いくらか遅れて発生する。そうした理解は、我々の前史の中で、それらがちがった段階にかかわっていたことによる。つまり、我々の物理的理解は、多くの(動物)種によっても共有されているが、我々の社会的理解は、発達史的には最近の適応によるもので、いくつかの点で、人間特有のものである。
 これらのふたつのシステムが峻別されているということは、ことに自閉症(一種の発育障害で、その主な特徴は、社会性の理解の不足である)に明らかに見られる。自閉症をもつ子供は、会話や(そのおよそ三分の一は全く会話ができない)、想像力(想像劇ができない傾向がある)、そしてその全員に社会性に障害がみられる。
 こうした子供は、他人との交わりを楽しんでいるようには見えず、ハグができず、手を差し伸べることもほとんどしない。もっとも極端なケースでは、自閉症の子供は人をまるで物のように見ており、その「物」が予想できない動きをし、予想しない音を出すので、それを怖がりさえする。自閉症児の他者の心を理解する能力は乏しいのだが、物理的なそれは完璧である。
 これまでの説明の段階では、宗教偶然説は、超自然を信ずることについて、何も説明していない。赤ちゃんは、予想や理解の助けとなる、冷血なほど合理的に働く二つのシステムをもっており、そして成長するに従い、物理的面と社会的面を操作できるようになる。つまり、こうした二つのシステムは、人が物や人々を扱うにあたって不可欠なスタートの時期に発生する、生物学的な適応過程である。

二重性の体験
 こうした二重のシステムは、しかしながら、宗教の基礎を形作る上で重要な、二つのひねくれた道をすすむ。
 第一に、私たちは、物質の世界を、心の世界とは根本的に異なったものとして受け入れ、精神なき肉体と、肉体なき精神をそれぞれにイメージすることを可能にさせている。これが、なぜ私たちが神や来世を信じるかを解明する手掛かりとなる。
 第二は、後述のように、私たちの社会性を理解するシステムは、時に度をすぎて、存在していない目的や欲求を空想してしまう。これが、心霊信仰や創世主信仰を生み出すと考えられる。
 我々、自閉症的ではない人たちは、これらの二つのメカニズムの分離を、ひとつは物的世界の理解に、他は社会性の理解にと使い分け、重複した体験を重ねてゆく。私たちは、物質の世界を目的や欲求の世界とは分離したものとして体験している。これは、我々が自分自身と他者とを理解する仕方において不可欠な、最も重要な過程である。
 かくして私たちは二重性を常に持ち続け、物的身体と心や魂という意識の世界とが本質的に分かれていることを、直観的に当然なものとしている。私たちは、自分が自分の身体であるとは思わず、むしろ、自分が自分の身体を占有し所有し主であると思っているのである。
 この二重性は、私たちの空想の世界においても明らかである。なぜなら、私たちは、人をその身体とは分離したものとして見、人の身体が著しく変化していても、その人となりはまったく変っていない状況を容易に理解することができる。
 カフカは、ひとりの男が巨大な虫に変化した物語を書いたし、ホーマーは、人がブタに変貌する約束を描いた。「シュレック2」では、鬼が人間に変わり、ロバが馬に変った。「スタートレック」では、エンタープライズの指揮を乗っ取るために、狡猾な悪党が司令官カークの身体を占拠した。「身体泥棒物語」では、アン・ライスが吸血鬼と人間が一日、身体を交換する話を語ったし、「サドンリー30」では、ひとりのティーンエイジャーが、目を覚ますと30歳のジェニファー・ガーナーであった。
 私たちは、これらの物語を実話とはもちろん思わないが、それらは完璧に理解可能で、人が自分の身体から分離することが、私たちにとって直観的に意味を成し、世界中の宗教においても、同様な変換が見られるのである。
 だが、霊的な魂が身体から分離可能であるという考えは、科学的な考えとたちどころに衝突する。心理学者や神経科学者にとって、脳は精神生活のみなもとであり、私たちの意識、感情、そして意志は、神経活動の生産物である。したがって、よく、心は脳がつくるもの、といわれるのである。
 ただ、私はここで、行きすぎた主張をしたくはなく、厳密に言って、どうそれがおこるかについて、共有された見解があるわけではなく、学者によっては、そうした説についてすら懐疑的である人もいる。しかし、科学者の中の誰も、思考が脳とは無関係とする、デカルト的懐疑の仮説をまじめに主張する者はいない。それを否定するたくさんの反証があるからである。
 【訳注】 :絶対的真理に到達するために、まずすべてを疑ってみる方法的懐疑。

六歳児「マックス」の反応
 そうではあるが、宗教的教育を受けた人でなくとも、また、小さい子供であっても、心身の分離は正しいと感じる。これは、ある夜、私にとってさらに明瞭なものとなった。
 それは、私の6歳になる息子マックスと話をしていた時のことだった。私が彼に寝る時間だと言うと、彼は、「お父さんは、僕をベッドへ行かせることはできても、僕を眠らせることはできないよ。それは僕の脳だから。」と言った。これが私の関心を引き、脳は何ができ、何ができないか、彼に質問を始めた。彼の返事は、興味深い分離を示していた。彼は、脳は見たり、聞いたり、味わったり、臭ったりの感覚を感じることをしていると言い、それが考えることに関係していると強く主張した。しかし彼は、脳は、夢を見ることや、悲しく感じることや、兄弟を愛することとは、あまり関係がないと言う。「脳は助けてくれるかもしれないけれど、それは僕がしていること」とマックスは言ったのだった。
 マックスは特別な子ではない。私たちの文化における子供たちは、脳が思考に関与していると教えられている。しかし、子供たちは、それを、問題を解く考え方とか勉強上の意識とかと連想し、狭い意味で理解している。だが、彼らは、脳が意識上の経験の源であるとは感じておらず、それが、自分自身と同じであるとは気付いていない。子供たちにとって、脳は認識上の義足のようなもので、ここにマックスという人がおり、ここに彼の脳があり、あたかもコンピューターを使うかのように、それを問題を解くために使っているのである。こうした常識的受け止め方として脳があり、スティーブン・ピンカーが言うように、それは「精神のためのポケットPC」なのである。

精神なき身体、身体なき精神
 もし、身体と精神が分離していると考えられるなら、精神のない身体もありうる。死体は、かって精神をもっていた身体とみなされる。椅子や、コップや、木などの大半のものは、精神をもっていない。それらは、意志や意識ももっていない。少なくとも、おおくの、人間以外の動物も、デカルトが「動物機械」あるいは複雑自動機械と表現したように、同様な存在である。工業ロボットや、ハイチのゾンビや、ユダヤのゴーレムのような人工装置は、精神なき存在とされ、自由意志や倫理感情をもっていない。
 一方、身体なき精神も考えうる。私が知るおおくの人は、宇宙を創造し、奇跡を起こし、祈りを聞きとげる、神を信じている。神は全知全能で、永遠のやさしさ、正しさ、慈悲を持っている。しかし、それは、いかなる意味においても、身体というものを持っていない。
 おおくの人はまた、より不確かな非身体的存在、すなわち、一時的に身体の形をとったり、人間や動物に宿ったり、天使や幽霊、ポルターガイスト(音だけの幽霊)、サキュービ(女夢魔)、ダイバックス(ユダヤの悪霊)などや、イエスが頻繁に人の身体から引き出した悪魔、のようなものも信じている。
 こうした信仰の形は、私たち自身にも、その身体が死んだ後も生き延びる可能性に道を開く。多くの人は、身体が滅んだ時でも、魂は生きていることを信じている。それは、天国に昇るかもしれないし、地獄に落ちるかもしれない。あるいは、それらに良く似た世界に行くのかもしれないし、人なり動物なり、何かの身体に宿るかもしれない。
 また、先祖の霊(身体の死を通して開放された人々の魂たち)でいっぱいの世界への信仰は、あらゆる文化にも共通していることである。
 私たちは、自分の身体が滅ろび、脳が働きを停止し、骨が粉々に砕けること、すなわち、自分の存在の終りを想像することが可能である。つまり、身体なき精神という考えは、私たちにとって、意味を成すことなのである。

死後の世界―認識発達の副産物
 私たちは、二重性があるがために来世を信じているのではなく、私たちが来世を信じたいがために二重性をもっている、と主張する人たちがいる。これは、フロイドの立場で、死の問題への解決法として、「魂の論理」を考え出した。すなわち、もし、魂というものが存在するなら、意識としての経験は終わる必要はない。
 あるいは、来世を信ずることへの動機が文化的なものであるとすると、私たちがそう信ずるのは、おそらく、天国へのアメと地獄へのムチをもって大衆を支配しようとする、権力を握る指導者たちの利害に貢献するがゆえ、宗教的権威がそのように私たちに告げるからゆえなのかも知れない。だが、宗教偶然説は、それを支持する理由を提供している。
 ある注目される研究のなかで、心理学者のアーカンサス大学のジェシー・ベアリングと、フロリダ・アトランティック大学のデビッド・ヒョルクルンドは、幼児たちに、悲劇で終わる、ワニとネズミの話を聞かせた。「あぁ、ワニさんは、ネズミ君を見ると、捕まえようとやってきた。」(子供たちは、ワニがネズミを食べている絵を見せられている)。「ネズミ君は、ワニさんに食べられてしまった。ネズミ君は、もう生きていない」。
 この実験は、子供たちに、例えば、「さあ、ネズミ君はもう死んでしまったけれど、彼はもうトイレに行かなくてもいいのかな?」とか、「彼の耳はまだ聞こえているのかな?」とか、「彼の脳はまだ働いているのかな?」といった、ネズミの生物的分野についてや、あるいは、「さあ、ネズミ君はもう死んでしまったけれど、彼はまだお腹が空いているのかな?」とか、「彼はワニさんのことをまだ考えているのかな?」とか、「彼はまだお家に帰りたいのかな?」といった、ネズミの心理的分野について、一連の質問を与えることにある。
 生物的分野についての質問には、予想通り、子供たちは、死の結果を認識し、もうトイレに行かなくてもいいとか、耳は聞こえないとか、脳はもう働いていないとかと答えている。ネズミの身体は死んでしまったのである。
 ところが、心理的分野について質問されると、子供たちの半分以上が、死んだネズミはまだお腹が空いているとか、考えているとか、欲求を持っているとかと答え、そうした世界がまだ続いていることを示している。つまり、魂はまだ死んでいないのである。
 この、子供は大人より信じやすいことが示唆しているのは、人がどの特定の来世(天国とか、生まれ代わりとか、心霊の世界とか)を信じるかについては、私たちは、その文化の中で習わなければならないものの、死後の命が可能であるとの考えについては、まったく習われなくともありうる、ということである。つまり死後の命というものは、私たちが、この世界を自然に考える際の、その副産物なのである。

「設計主」はだれ?
 以上は、しかし、ストーリーのまだ半分である。私たちの二重性が、超自然なものや出来事について考えることを可能にし、それにより、超自然なことが意味をなすことに貢献している。しかし、それらを受け入れることを強いたり、止められなくしたりする、また別の要素も存在している。つまり、民俗学者のパスカル・ボイヤーが「社会認識の肥大」と呼ぶ要素で、私たちは、それが存在していなくとも、目的や、意図や、設計すらも、見出すのである。
 1944年、社会心理学者のフリッツ・ハイダーとメアリー・アン・シメルは、ある物語を伝えるために、円とか四角とか三角とかの幾何学図形が、システマティックに動く、簡単な映画を作った。この映画を見た時、人々は、そうした図形があたかも、意図や欲求を持った特定のタイプの人(いじめっ子、犠牲者、英雄)であるかのようだと直感的に表現し、そして、心理学者たちが告げようとしていたこととほとんど同様な物語をそこに見た。そして、さらに研究が深められた結果、心理学者は、動きまわる個々の図形は不必要ですらあることを発見した。つまり、人は、「役者たち」が個別の物ではなく、例えば小さな四角の群れのような、動く集団である画面に、ほとんど同じ効果をみいだしていたのであった。
 フォーダム大学の民族学者のスチュワート・ギュサリーは、宗教的考えの説明について、こうした現象の重要性に注目した最初の近代的学者であった。彼の著書『雲のなかの顔』で、彼は、人々が、自転車、ビン、雲、火、葉っぱ、雨、火山、風といった現実界の物象がなすある顕著な形象に、人間的特徴をなぞらえていることを示した。つまり、私たちは、何らかの代理物に示された兆候に極めて過敏で、その余りに、ただの偶然やだましでしかないものに、何かの意図を見出してしまうのである。ギュサリーが言うように、それは、ただの服(王様のものでも何でもない)でしかないのに、そうなのである。
 こうして、物事にすばやく目的を嗅ぎ取り過ぎる私たちは、意図的な設計といった考えも受け入れる。人々は、無作為さについて、敏感な感覚を持っている。つまり、もし、あなたが、無作為の番号発生装置により作られる数字の羅列に、何らかの傾向をこめようなら、彼らは、それを不自然と考えるにちがいない。つまり、それは彼らには、余りに整然としていると見えるのである。
 2001年9月11日、世界貿易センターから吹き出す煙に、サタンを見たと主張している人々がいる。それ以前でも、アナン・バンによって操られた人々は、焼けた商品に、マザー・テレサに不気味に似た兆候を発見していた。また、2004年11月には、誰かがeBay の競売に、聖母マリアに見える十年前の焼いたチーズサンドイッチを出品し、それは28,000ドルで落札された。
 また、ラジオや他のエレクトロニック装置の電波障害音を聞いて、そこに死者の声を聞こうとしている人たちもいる。その典型例は、マイケル・キートンの映画「ホワイト・ノイズ」で、まじめに取り扱っている。
 いろいろなところで、明らかに、無作為でないばかりか、機能的な設計の兆候が発見されている。私たちは、あたかも誰かに見られていることを想定しているかのように、葉っぱ上の虫が葉っぱの色に似せているよう見える、いろいろな事例を知っている。進化論生物学者のリチャード・ドウキンスは、『盲目の時計屋』を以下のように切り出して、この点について認めている。「生物学は目的に合わせて設計された姿が与えられた、複雑巧妙な事柄についての学問である」。そしてドウキンスはさらに、それは、神を信じなかったダーウィン以前の人には、関心の的とはならなかった、と指摘している。

進化説の衝撃
 ダーウィンは、一切を変えてしまった。彼の偉大な洞察は、神的な設計者を前提とすることなく、複雑でうまく適用された設計を説明したことである。
 自然淘汰は、コンピュータでシミュレーションができる。実際、模擬的な自然淘汰である遺伝子演算法は、追跡不能な計算上の問題を解決するために用いられる。そして、私たちは、自然淘汰が世界中の事例研究において、実際に使用されていることを確認できる。そうした事例は、ガラパゴスのフィンチのくちばしの寸法の進化から、軍備競争や、ワクチンに適応して反応するくせもののビールスに至るまでにわたる。

 ドウキンスが、自然淘汰説を我々の種の成し遂げた最高の業績のひとつと表現したことは、恐らく正しい。それは、知性的に満足しうるばかりか、経験的にも、我々が支持しうるものである。
 しかし、多くの人がそれを信じようとはしない。ある調査によれば、アメリカの大学生の三分の一以上が、エデンの園が最初の人類が現れた場所と信じている。そして、ダーウィンの進化説を支持する人でさえ、それをそれぞれに捻じ曲げ、時には、不思議な内部力が種を完璧に向かわせている、とすら見るのである。(ドウキンスは、あたかも「人間の脳が、ダーウィン説を誤解するよう特別に設計されている」かのようだ、と書いている。)
 だが、ダーウィンの問題とは何なのか。彼の進化説は、多くの人たちがすでに保持している宗教的信仰と真っ向から衝突した。ユダヤ人やキリスト教徒にとって、神がこの世界やその他の事物を、六日間で作り上げた。そのほかの宗教は、創造の一部の物理的過程を、例えば、嘔吐とか、出産とか、マスターベーションとか、粘土で成形したとか、と断定している。ここには、無作為の変化とかといった、別の誕生過程が入り込む隙間などはない。
 ともあれ、自然淘汰説の実際上の問題は、それが直観的意味を含んでいないことである。それはまるで量子力学のようであり、私たちは、それが理知的には把握が可能でも、感覚的に正しいとは感じられないのである。
 私たちが複雑巧妙な生物を見たとき、私たちはそれを、信仰とか、目的とか、欲求が介在しないものとは見られないのである。私たちの理解の社会的要素は、それ以外に意味付けることが困難なのである。そこで私たちの直感は、そうした設計には、設計者を必要とし、ダーウィンに反対する人たちが自前で開発した事実を、必要としてしまうのである。
 こうしたことは、いわば当前のことでもあり、初歩的な創造主的見方は、子供たちにも見られる。四歳児は、すべて目的をもっていると主張する。たとえば、ライオンは「動物園にゆく」ために、雲は「雨を降らす」ためなのである。なぜ、尖った石があるのか、との質問には、大人は物理的説明を好むのだが、子供は、たとえば、「体がかゆい時、動物がそれでかくことができるように」といった、機能的答えを選ぶのである。
 また、人や動物の始まりをたずねられると、子供は、たとえ大人がそうでないと教えても、意図的創造者のかかわりを好む傾向がある。つまり、創造主や神を信じることは、私たちの成長過程に織り込まれているのである。

東洋の宗教観
 こうした、超自然的信仰にもとづく宗教の分析は、しかし、非西洋的信仰には適用できないとする見方がある。神経科学者のサム・ハリスは、近著、『The End of Faith (信念の終焉)』において、宗教について、主にキリスト教とイスラム教を対象に、愚かな事実の主張とグロテスクな倫理的見解と指摘して、厳しい批判を行っている。
 しかし、仏教に視点が移ると、彼の論調は賞賛に転じる。すなわち、仏教は、「意識の本質的自由を発見するための、他のいかなる教義にもまさる、我々がえた最も完璧な方法論である」とする。確かに、仏教は、それを宗教と呼ぶなら、それは、子供時代に根ざす、二重性や創造主視点には基盤を置いていない。
 興味深い見方である。しかし、仏教は、教義的な面では確かにそうであろうが、身体と精神の二重性や心霊力をもつ非物質的存在を明快に否定していながら、実際の仏教徒たちはそれを信じている。(ハリス自身は、何百万人もの仏教徒が、ブッダをあたかもキリストのようにあつかっていることをもって、そう見た)。
 そうであるのだが、ちなみに、多くのキリスト教神学者は、進化的生物学を認めようと望んでおり、また、ローマ法王ジョン・ポール二世が、ダーウィンの進化論は正しいかも知れないと認めたことが、正式な一面のニュースにもなっているのだが、そうだからといって、私たちが、多くのキリスト教徒が進化説を信じていることを、否定できるわけではない。

科学と宗教の接近
 死の際、魂が身体から抜け出るという考えを考察してみよう。
 旧約聖書に、そうした考えの暗示がほんのわずかだがある。しかしそれは後に、ユダヤ教となってしまった。新約聖書は、来世についてはおそろしくあいまいで、キリスト教神学者でも、たとえば、パウロのコリント人への手紙を根拠に、魂が天国に昇るとの考えは聖書の趣旨と食い違う、と論ずる人もいるほどである。ローマ法王も、1999年、天国を信ずる人々に向け、それは存在の形として現実の世界ではなく、むしろ、神に関係するところとして受け止めるよう、と注意をうながした。
 それでもなお、大半のユダヤ人やキリスト教徒は、先述のように、来世を信じ、また、無宗教と自認する人々でさえ、実際の生活ではそれを信じている。
 私たちの来世への信仰は、『天国で会う五人の人々と天国への旅行ガイド』といったポピュラーな本に明瞭に著されている。また、この本が言うように、「天国は生き生きとしており、興奮と躍動で沸きかえっている。天国は、至高の遊園地であり、純粋に我々の楽しみのために、楽しみとは何かを知りぬいた誰か、つまり、神によって創造されたものである。それは、ディズニーワールド、ハワイ、パリ、ローマそしてニューヨークが一体となったものだ。もちろんそれは永遠である。天国は、まさしく、永久に終わらないバケーションの地なのである」。(私には、これはまるで地獄のように聞こえる。だがそれは、明らかに、多くの人々の趣向には合っているのである。)
 宗教権威者や学者たちは、ローマ法王による進化説の容認や、ダライ・ラマの神経科学への言及から、しばしば、科学への探求や到達に人々を導こうとしている。彼らは、一方では、彼らの世界を、他の人々の口に合うようにする目的で、また、他方では、科学的発見との衝突の事態への懸念のためから、こうしたことをすすめている。正直な人なら、教義的に矛盾する主張にたつ立場を守るのはいやだろう。したがって、宗教人や学者たちは、たとえば、周知となった地球の年齢に合わせて聖書を解釈するといった、和解に向けた努力を行ってきている。
 もし、人々が、その宗教心を、こうした教会権威者たちから得てきたとするなら、上記のような努力は、宗教を超自然性から遠ざけてしまうであろうし、科学的見方は、宗教界にも浸透してゆくだろう。超自然への信仰心は、神学的正しさが現世界の見解としだいに融合するにしたがって、消滅してゆかざるをえないだろう。ステファン・ジェイ・グゥルドが望むように、宗教は、科学のご機嫌をそこねるようなことは、やめるべきなのでる。
 しかし、こうした方向は、超自然的な考えの出所にについて、誤った根拠を前提としており、その効果は疑わしい。誰しも、人類の発生の場はエデンの園であるとか、人の魂は受胎の時に体内に入るとか、あるいは、受難者は何人もの処女への性的接近によって報われる、といった考えを持って生まれるわけではない。しかし、私たちがもつ本来の信仰心は、そうした宗教的教えとは違ったものなのだ。
 多くの宗教的考えは教わったものである。しかし、宗教の普遍的テーマは、教わるものではない。それは、私たちの精神構造がもたらす偶然の産物なのであり、人間性の一部なのである。

(2005年12月28日)
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