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第十一章
1931年3月
(その2)



宇垣の逡巡

 1930年12月末から翌年1月始めにかけて、3月クーデタの計画が練られている間、宇垣陸相は、反天皇連合に加わるようにとの西園寺の秘密提案を受入れるよう持ちかけられていた。彼はほとんど毎夜のように二つの主要政党の代表者と会食し、彼がその党首となるべきなのはいずれの党かを決めようとしていた。
 同じ数週間、幣原代行首相は、致命傷を負った前首相から引き継いだ予算の修正に多忙で、海軍用の5000万円(2500万ドル)の追加が組めないかと努めていた。彼は、裕仁の承認をえて、陸軍にその開発計画を削減するよう求めた。陸軍省軍務局軍務課長として、バーデン・バーデンの三羽烏の筆頭、永田大佐は、不本意ながら、機動部隊を長期的に拡大してゆく構想に備え資金を蓄えるよう、陸軍のいずれの師団からも人員削減するという不評な計画を練ることとなった。
 1931年1月の第二週、宇垣陸相は、政治家たちとの昼食会から自分の事務所に戻る途中、陸軍省の廊下で橋本欣五郎中佐――後の1937年、揚子江で米国海軍のパナイ号を沈没させる命令を発してアメリカ史に登場することとなる
〔第一章 パナイ号事件参照〕――から声をかけられた(45)。橋本は、トルコでの外交武官としての出張任務から戻ったところだった。彼は、小国におけるファシズムについての持論を持っていた。彼は宇垣に 「日本のケマル・アタチュ 〔トルコの将軍・政治家でトルコ共和国の初代大統領(1923-38)〕」 と言って敬礼し、宇垣は立ち止まって彼と話を交わした(46)。橋本は、挨拶もかね説明したいこともあるので陸軍省軍務局長の小磯国昭少将の事務室に立ち寄ってほしいと請うた(47)。小磯#4身分上は宇垣の部下であったが、彼は、元帥・閑院親王の昔からのお気に入りとしての周知の地位を生かし、軍務局内での権力をほしいままにしていた。
 数々の隠語を用いながら、小磯少将は、 「陸軍の玉心」 ――裕仁のこと――は、成し遂げるべき歴史的使命を持っておられる、と宇垣大将に言った。小磯はそうして、宇垣を一般幕僚本部の目に付きにくい付属庁舎に連れてゆき、第二部諜報部長である建川の事務室へと案内した。重厚で眠そうな目つきの建川――1928年に北京で張作霖殺害の後始末をつけて閑院親王の知恵袋となった 「名だたる腰ぎんちゃく」 ――は、宇垣に丁重にお茶を勧めながら、天皇裕仁は底なしに堕落した日本の政治にうんざりされ、国を浄化する時は来ており、もし宇垣が宮廷クーデタへと軍を率いるなら、裕仁は宇垣のような真正な将軍を受け入れられる用意をお持ちだ、と誘いをかけた。
 その提案を聞いた際の熱情家宇垣大将の反応は乗り気な風を見せたが、その後数日の深慮と調査の結果、用心と慎重さを深めざるを得なくなった。そして彼は小磯と建川に、自分が行動に出る前に、純正な国民的な支持があることの証拠を示してほしいと求めた。1931年1月29日、その求めに応じて、裕仁の文官による内部サークルである11クラブのメンバーとの昼食会が用意された。当日その会は、牧野内大臣の秘書で大兄の木戸侯爵と、西園寺のスパイ秘書である大兄の原田男爵によって主宰された。
 その昼食会で宇垣は、見た目は満足気ではあったが、その計画での彼の役目を受け入れることについては、あいまいな態度を維持していた。1931年2月の第一週、彼は小磯少将に、クーデタの実際の準備が整うまで待ちたいと言った。小磯は自分の最重要部署の長で三羽烏の筆頭、永田を呼んで言った。
 「永田さん、宇垣大将を天皇の将軍の地位につける軍部クーデタの作戦計画を書いてくれないか。その計画が出来あがらない限り、天皇を真の皇位につける計画について、満州においての我々の構想への政治家の支持は困難だ。」
 それに対し永田は、「その計画は本物の、それとも見せかけの?」 といぶかしげに尋ねた。
 「いかにも本物かのごとく書いてくれ」、と小磯は命じた。
 永田は首を振りながら、「権力奪取の方法として、それはアメリカ南部式のよろしくないやり方ですな」と言った。しかしそれから数日後、「これが貴殿が書けと言った小説です」 とからかい半分に言って、命令通りの一束の書類を小磯の机の上に置いた。(48)
 宇垣がその計画を明かされた時、彼は、どこから爆弾と一万人の愛国者の群れを得るのかすら疑問だった。建川少将は、その群衆は牧野内大臣の手下の大川博士の指揮下の黒龍会によって用意されると確約した。爆弾については、建川は自分が彼らに送り届けることを請け負った。そして彼は、千葉にある陸軍幼年学校の校長に、手紙を送り、使いの者に三百個の訓練用手榴弾を提供するように頼んだ。その使いの者とは、後にパナイ号沈没命令を下す、橋本中佐だった。その手榴弾は紙製ケースに入った大きな爆竹のようなもので、演習の際に模擬の戦闘場面を作り出すためのものだった。その手榴弾は、6フィート〔1.8メートル〕の煙を噴きだし、ライフルの銃声の四倍の音を出すべく製造されていた。橋本中佐はその手榴弾を東京の一般参謀本部に持ち帰り、諜報部長の建川の事務室にいったん保管し、二、三日後、民間人の扇動家に渡すために、大川博士の手下に届けられた。(49)
 そのクーデタが結局は火薬庫のなかに居るような危なっかしいものと見抜いた宇垣は、そのクーデタ計画の中で国会制圧を割り当てられていた突破第一部隊の司令官、真崎甚三郎中将#5に探りを入れてみた。すると驚くべきことに、宇垣は真崎より、国会を制圧するなどとのいかなる計画も聞いておらず、ましてや天皇の文書による直接の命令なくして、そのような 「違法行為」(50) に関与するつもりなどないと断言されたのであった
#6



宇垣への誘惑

 宇垣陸相は、評判芳しくない大川博士はもはや宇垣を再度くどき落すしかないという真崎からの忠告を聞き、大いに身構えさせられていた。そういう大川は、1931年2月11日夕、宇垣を夜遊びに連れ出し、築地の待合、金龍亭で彼をもてなした。そこは東京でも最も高級な料亭のひとつで、牧野内大臣もその常連だった。だが、いまとなっては宇垣はそう易々とはその誘いに乗らなかった。宇垣は、そのクーデタ計画はまだつかみどころがなく、その計画への 「陸軍の玉心」 の御支持に確信が得られないと言った。そして大いに酒を飲んだ後、宇垣は帰宅し、慎重に事態を静観している自分に満足した。
 2月13日、大川のお膳立てで、宇垣は、自分のような、農家に生まれ年三千ドル
〔六千円〕で俸給生活をしている男を抱き込もうとたくらむ、宴会作戦にまみれることとなった。
彼には一日たりとも、裕仁と懇意な関係にあるとする世襲の地位にある者たちと、昼食や夕食を供にしない日はなかった。1月
〔ママ〕13日、宇垣はまず、バーデン・バーデンの三羽烏の三番目の岡村寧次大佐――もしペリーが来ていなかったら江戸城の守護奉行を引き継いでいた――が皮切りだった(51)。続いて2月14日、宇垣は鈴木中佐――裕仁が信頼を置いた蒋介石との仲介人――と昼食を共にした。その数日後、宇垣は、鈴木のパトロンであり、大兄の一人の侯爵、井上三郎大佐――大正天皇時代の桂首相の庶子――と夕食をとった。さらには、貴族院の裕仁派のリーダー、近衛親王の邸宅へ招待された。そしてその最後は、近衛を通じ、皇后の姻戚にあたる有馬伯爵邸での晩餐に参じていた。
 有馬伯爵は、今や1868年の維新を完成させ、天皇を民族社会主義国家の政権に着ける時であると、何ら伏せることなく明言した。
 そしてさらなる詰めのために、有馬伯爵は、酩酊し行方を失くしている宇垣を、「提起された三月事件の親玉」、徳川義親男爵――1600年から1868年までの日本を統治した偉大な将軍家族の子孫――に紹介した。徳川男爵は、裕福ではあったが富豪ではなかった。ではありながら、その三月計画のために、彼は十万ドル
〔二十万円〕の資金を、世界恐慌の真只中で用意するには巨額の金だと自ら告白しながら、提供した#7。宇垣陸相はその気概に賛同を示す外はなかった。(52)
 1931年2月26日、上流社会の生活から二週間後、宇垣は、大川博士と金龍亭の芸者と享楽の夜を再び過ごした。宇垣は大川博士にかねて以上の敬意を払ったが、疑問を呈することは止めなかった。大川が起草している綱領とは何か。大川が請け負った大規模な大衆的支持を実現するために何がなされたのか。それに答えて大川博士は宇垣に、綱領は執筆中であり、工作地下組織網が雨後のタケノコのように国民の間に広がっている、と断言した。その一方、もし宇垣大将がクーデタ政権の首領を約束したと大川博士がその成功を告げられるなら、それはその計画の準備における巨大な前進になろうとしていた。
  「私はその新政権のための現実政治上の計画と大衆的支持の証拠を見たいと望んできた。それらが確認できれば、私は貴殿に私の解答を与えましょう」 と宇垣は言った。
 宇垣はその夜、酒を飲み、芸者と遊び、そして、橋本中佐とともにその宴会に遅れてやってきた若い陸軍将校たちのグループと歓談した。夜明け前、芸者を膝枕にしながら、宇垣は、「もし我々の計画にへまがあって天皇が許可を与えなかった場合、俺は御前で切腹する覚悟だ」、と誇らしげに語る声を聞いた。宇垣は芸者の面前で、酔っぱらっていただけでなく、自ら全面的な罪に陥ろうとしていた。彼は天皇を当惑させようとしていた。それは大逆罪を働くことだった。それこそ、彼を政界から追放し、残る生涯に暗い影を落とすに足る、三月事件の画策者が必要としていることだった。(53)
 翌日、宇垣が二日酔いから覚めようとしている間に、裕仁に最も近い特務集団の一員たちが、その計画はその目的を達し間もなく中止されるだろうとの話をその手下たちの間に広げ始めていた。それと同時に、満州掌握を準備するための本物の国民的緊張を作り出そうと企む閑院親王の画策者たちは、その計画が消滅する前に、少なくとも小規模な大衆の叛乱を起こすように大川博士に命じた。(54)
 次の三日間、大川博士は金龍亭で落ち着きはらって酒を飲み続け、伝票には徳川男爵と署名した。3月2日の夕方、小磯軍務局長はその待合に立ち入り、大川を妾芸者の吉丸の腕から引きずり出して熱い風呂に入れさせ、そして静かな部屋に座らせて、翌日の午後、日比谷と上野の公園に群衆を動員するよう黒龍会のボスたちに指示する文書を書かせた。
 翌日の二つの公園に作り出された 「力の鼓舞」 はおそまつなものだった。一人50銭で雇われた三千人の労働者、浮浪者、酔っ払いが動員され、口先のみのありきたりな愛国的な演説を聞かされ、二、三の万歳をして終わった。(55)
 3月3日の朝、宇垣大将は小磯軍務局長に電話をかけ、遅まきながら、「この愚かな計画の一員となるいかなる理由も見出せない」、と表明した。宇垣が、「その計画が尋常なものではなく」(56)、自分が執拗に傷付けられ言いふらされていると気付いたのは、それから三日が過ぎてからだった。3月7日、彼は宮中に参上し、いかなる不敬の意図はなかったと自分の潔白を表わした。大川博士のパトロン、牧野内大臣は天皇の代理として彼と会い、寛大に処することに同意し、宇垣に、近々、辺境の地、朝鮮へと、面子を立てた配属が出されるだろうと断言した。(57)


利益むさぼる大川周明

 牧野内大臣の面前からの面目を失う宇垣の退去をもって、三月事件の国家的目的はここに達成された。しかし、大川博士にとってのその個人的目的は、それから数カ月を経るまで、終わることはなかった。その狡猾な博士は、自分の地位は当てにならず、彼の脅迫材料は、まだ彼の手中にあり有効なうちに使わなければならないことを認識していた。黒龍会の首領、頭山は面子を失い、その埋め合わせを必要としていた。陸軍内の閑院親王の手下たちは、大山の行いにうんざりさせられ、反発すらいだいていた。大川博士は、パトロンの牧野内大臣と手紙で交信した後、手元にある300発の模擬手榴弾を、陸軍を当惑させるために用い、また、彼が費やした支払いを、共に仕事をしてきた黒龍と金龍の二つの組織のやり手どもに払わせようと決心した。
 三月の第三週まで、大川は、3月20日に国会に爆弾をしかける計画の実行を企んでいた。小磯軍務局長と建川参謀本部諜報部長は、陸軍内の爆弾を仕掛ける役割が公共に暴露されるのではないかとの怖れを日増しに強めていた。そして最後には、退役した河本大作大佐――バーデン・バーデンの一人で張作霖を爆殺した橋梁爆破専門家――の仲介を通じて、大川博士は、爆破計画を止める代りに、実に百万円(五十万ドル)という順当な費用を受け取るということでどうかともちかけた。三月事件の資金提供者の徳川男爵は、「こうしたごたごたは不愉快なことだ」、と受け止めていた。
 河本の仲介によって、3月18日の午後、徳川は東京下町の東拓ビルで大川と会い、20万円(10万ドル)と大きく値下げはされたものの、法外な解決に合意した。この取引きには、徳川男爵の資産管理人や大川博士の子分頭が立ちあっていた。徳川側は、その20万円を四回の月賦で支払い、子分頭は、「憂国の思いにかられつつ」、国会への攻撃を取りやめることを確約した。
 その合意によると、大川はその金が支払われるまで、爆弾を保証として保管するとされた。その夜、大川の手下は、密かにその手榴弾を彼の彼女の家から東京北西部の運送屋の倉庫へと運んだ。そこにそれはさらに一年間保管され、三月事件がいつでも再現されると、陸軍高官たちえの警告として利用された。徳川男爵は、莫大な脅迫金を支払ってその尊厳を維持し、裕仁との親密な関係を継続した。大川博士は黒龍会とも和解し、金龍亭の請求書にも支払いを済ませ、そして、裕仁の首席顧問、牧野内大臣のために、いっそうの非道な任務を遂行し続けていった。(58)
 その合意の日の夕方、大兄の筆頭で牧野伯爵の秘書、木戸侯爵は、汽車で興津の西園寺の別邸へと出むき、その老公に、首尾よく 「その芽が摘まれた」 ばかりの「宇垣大将のクーデタ」について報告した(59)。西園寺は、敗北を認識しつつも、我関せずの風を装った。しかし、夕方になると、ベルサイユ講和会議での牧野内大臣についての重々しい追憶が頭を満たし、苦い思いを否定することができなかった。数年後、獄中にあって 「三月事件を・・・闇から闇へと・・・葬った」 と日記を綴りながら、木戸は牧野内大臣の手際の良さに感嘆していた(60)
 陸軍内の右翼北進派と、西園寺周辺の不侵攻を旨とする立憲主義者の双方ともに、〔そうした謀略によって〕操られていた。宇垣大将は餌に食いつき、自分の政治生命を失くすまでに至った。多くの主要人物たちは、そうした計略に気付いており、かろうじて、日本の政治の深海のあぶくとなって表面へと浮かびあがった(61)。そして一年もたたないうちに、裕仁は、陰謀の主役、小磯少将を、陸軍次官の地位に任命した。



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