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       4 贈る言葉



 博士論文の提出と永住ビザの申請を終えて、わたしは、日常生活の上では燃え尽き症状におちいり、自意識の上ではよくやってきたと自分をなぐさめていた。そして、二重の意味でわたしは、自分が負う重圧と責務からともあれ解放され、「人為をつくして天命を待つ」晴ればれとした心境にあった。
 こうして自由な身と時間が得られるようになって、放たれたわたしの関心は、それまでの論文だのビザ申請だのといった味けのなかったものから、もっと人間味のあるものに向かおうとしていた。
 二月の末、わたしは論文の最終原稿を書き終え、監督教員の仕上げの検査を受けている間、友人にさそわれてタスマニアを訪れた。一週間かけて、島のほぼ北半分をドライブして回った。日本、ことに北海道を思わせるような気候と地形に出会い、オーストラリア本土では味わえない高冷地風の自然に触れることができた。幸運な好天のもとでアルペン気分を満喫できる登山もできて、心機一転した気分でシドニーにもどった。
 また、このころ、わたしはひとりの女性と友人になった。
 だが、この女性との最初の出会いを語るには、少々時間をさかのぼる必要がある。 それは、その前年の九月末のことだった。ヨセフが自分の家に居間を増築した時、バーベキューパーティーを開いてその完成のお披露目をした。
 当時わたしは、博士論文の完成目標をその年末に定めて、追い込みをかけていた。
 そのパーティーに、年の頃三十代半ばのひとりの日本女性が参加していた。ヨセフが前に世話になった日本人ガイドの友人で、ヨセフも初めて彼女を自分のパーティーにまねいていた。シドニーをベースに彼女も旅行ガイドをしていた。
 彼女についての第一印象はあまりよくなかった。その外見が、褐色に日焼けし、東南アジアの女性かと思わせる南方系の顔立ちで、また体つきもやせぎみでふくよかさを欠き、女っぽさをあまり感じさせなかった。それに、北米アクセントの英語でパーティー客らと流暢に話し、英会話コンプレックスのあるわたしには苦手なタイプであった。加えて、日本名がありながら、「ケリー」と自称していた。
 またその席で、わたしは論文が終わった後の永住ビザの取得法についてヨセフと相談するつもりだった。そんな時、ビザ問題を あえてぼかしたままフルタイムで働いている春子に特に同業者は疫病神同然だったため、この女性の存在は気掛かりだった。
 わたしは、こうしたデリケートな話をこうした席で話すのは避けたかったが、行きがかり上やむをえなかった。それにまずいことに、ヨセフはケリーに何か策がないかとも持ちかけてもいた。そうしたわけでわたしは、パーティーからの帰り、あえてケリーと一緒することにし、電車のなかで、春子のビザ問題については内密にしておいてほしいと、初対面の機会にしては少々立ち入った依頼をしたほどであった。
 こうして、わたしとケリーとの出会いはいわば否定的印象が一色で、それだけに、彼女に自分から接近しようと思う気持ちはおこらなかった。
 こうした経過を春子に電話で伝えると、彼女は語気をつよめて「業界の人との接触は慎重にしほしい」とわたしに念をおした。
 その後しばらくの間、ケリーとは何の連絡も取り合わないまま時がすぎていた。
 なによりも、わたしは論文の完成にかかりっきりとなっており、大学にも足しげく顔を出していた。わたしには、当面の目標達成以外に関心をそそぐ対象はなかった。
 だが、その当時、わたしと同じ学科で博士論文に取り組んでいる韓国人留学生がいた。いわばクラスメートというところだが、彼はわたしより一年遅れて始めており、隣国人同士ということもあったし、また、彼が韓国で労働運動に関わっていたことも手伝い、たがいに話す機会が増えていた。
 その年末の夏休みに入ってまもないころ、そうした彼と一服がてらに大学内のカフェテリアでコーヒーを飲んでいた時だった。彼が、さりげなくだが少々あらたまった態度で、自分は日本人女性が好みで交際相手を捜しているのだが、いい人がいたら紹介してくれないか、とわたしに頼んできた。わたしは普段、こうした取持ち役は好まないのだが、彼については、その誠実そうな人柄と、三十を少し回った年齢からそうした希望も当り前だろうと同情し、その仲介役を引き受けることにした。
 だが、そう安請負いはしたものの、わたしには、彼にふさわしい年格好の日本女性の知り合いは、シドニーはおろか日本にだってそうはいなかった。そこで思案の末、頭に浮かんだのが数ヵ月前に会ったケリーであった。大手の旅行会社である彼女の職場には、適齢な日本人女性たちが少なからずいるはずだった。さっそくヨセフに彼女の電話番号を聞き、連絡をとってその旨のお願いをした。
 さいわいケリーは快く引き受けてくれて、心当たりのある女性が一人いるという。ちょっと年上だがまあやってみようということで、わたしたちはふたりの「お見合い」をセットした。年は開けて九五年一月の中旬だった。だが、このマッチメーキングはみごとに失敗した。わたしはこうしたビジネスに首をつっこまないほうがいいと悟った。
 こうして友人のマッチメーキングには失敗した。だがその「ミイラとりがミイラ」になって、その後わたしは、時おり、カフェやパブあたりでケリーに会い、息ぬきがてらにとりとめのない話をするようになった。
 こうしたわたしの態度の変化には、博士論文と永住ビザの申請というふたつの大仕事を終えた大きな一区切りが、その背景として作用していたのは言うまでもない。
 そのようにしていざ話を聞いてみると、ケリーは根っからの旅人であった。
 ツアーガイドをしているのも、いわゆる趣味と実益をかねた類の仕事だった。一年を質素に暮らし、その代りに年に一度、たっぷりと日程をとって、自分の生きがいである旅行に出るという。オーストラリアにいるのもそうした旅人生の一環で、シドニーはそのためのベースキャンプにすぎないようだ。それまでにたずねた国は、あと二つで百ヵ国の目標に達するという。プロの旅人と言ったところだろうか。
 オーストラリア以外に、米国の永住ビザも持っているという。
 そうした彼女の経験談を聞くうちに、彼女が書いた旅行記を一度読んでほしいと頼まれた。わたしが日本で労働組合の新聞編集をしていた経験を話したからだった。
 数日後、最も新しいベトナム旅行とその前のアフリカ旅行について書かれた原稿を渡された。旅行関係の雑誌に投稿するつもりだという。必要なら校正もしてほしいという。
 ところが、わたしが読んだ限りでは、彼女には申し訳ないものの、あまり使えるものではないと思えた。旅のエッセイと旅行案内がまぜこぜになったような内容で、旅を描写したいのか詳細な記録を提供したいのか、焦点が定まっていなかった。それに、生きいきとした感動にも乏しかった
 わたしは手厳しい感想を彼女に伝えた。苦しい表情をしてわたしの話を聞いていたが、それ以降、そうした原稿がわたしに手渡されることはなかった。旅行ライターになる希望はあきらめてしまったようであった。
 わたしは彼女の才能の芽を摘んでしまったかもしれないと責任を感じたが、やむをえなかった。そうしてわたしは、そんな彼女の、あっさりと見切りを付けられる性格を発見していた。
 わたしは日本の中年男には珍しく、ゴルファー天国のようなオーストラリアに住みながら、ゴルフをしたことがなかった。むしろゴルフ嫌いといってもよかった。わたしはそんなへそ曲がりであったが、彼女がクラブセットを持っているというので、旅行記への酷評 の罪ほろぼしの気持ちも少々あって、彼女の手ほどきを受けることにした。論文を提出し終って、わたしの心理のドアに鍵を掛けておく必要はもうなくなっていた。
 ふたりで何度かコースに出て無様ながらゲームを重ねるうちに、わたしのゴルフ嫌いに変化は現れなかったが、わたしの彼女への関心に、ゆっくりだが、しだいに違いがでてくるようになった。その証拠に、ときどき共に夕食などもするようになっていた。
 この時期のわたしは、わたしの人生でもまれな、高揚と充実と開放とそしてそれがゆえの無秩序の中にあった。まるで、ふたたび迎えた青春のような、あるいは戦国時代の浪人武者ような、居どころ定まらぬ心境をたずさえて、カメレオンのごとく変幻自在に棲息していた。



 論文を書き終え、ビザ申請も提出し終った時、わたしはなによりも春子とふたりでこの到達をともに喜び合いたかった。

 いろんな起伏があったにせよ、このふたつのゴールはわたし達の共通の目標だったし、だからこそ、あえて二人がばらばらになってでも、それがなんとか達成できるよう、こうした方法をとってきたはずだった。 
 むろん、双方の結果が出されるのはまだ先のことであったが、たとえその結果がどうであれ、わたしはこれまでのふたりの頑張りを手に手をとってねぎらい合いたかった。
 五月の初めになって、春子がようやく、出張をかねてシドニーに出てきた。
 仕事のスケジュールをすべて終えた週末、彼女はわたしのアパートに泊まっていった。わたしの手料理を食べながら、彼女を追い回す電話のじゃまもなく、久しぶりにゆっくりとつもる話をかわした。心の通いあう対話だった。
 わたしは、こうしてようやく目標が達成されようとしているのだから、「これからどうする、もと通りになるのが筋だけど」と彼女にたずねた。
 春子は、自分で作った問題は自分で処理しなければといいながら、「でもこわいし、しんどいし、もう楽したい」とも言った。
 パースでの仕事の責任を頭に置いていたのだろうが、それに忙殺されたくないとの気持ちもあったようだ。だが単純にそれだけではない様子だった
 わたし達は確かなことは決められなかったが、「ふたりの仲は終わらせない」ということは、そこであらためて確認した共通の気持ちだった。
 ともあれ、「もと通り」になることについては、まだ先のこととして残された。パースを離れシドニーにくることには、春子に迷いと不安があるのは明らかだった。かといって、わたしがパースに戻ることも難しい選択だった。 週明け、帰途の乗換え空港の待合室で書いているという春子からの手紙が届いた。今度の話し合いで、わたしの「大きい深い愛情を感じ」たとあった。「手紙だからこんなことが言える」とのコメントが添えられてあった。

 話題はそれるのだが、春子が来る数日前、わたしは日本から一通の手紙を受け取っていた。わたしがリーダー役となり労災補償獲得のために支援し成功した、その被災者であるEさんが死亡したとの知らせであった。わたしはそれを読んで、なんと因縁深いふたつの出来事かと考えこんでしまった。
 あの画期的な労災補償認定から十一年。片やわたしはオーストラリアにわたり、十一年かけて自分の目標になんとかたどりついたところだった。片やEさんは、大量輸血によって発症した肝炎を患っていたが、同じ十一年間を闘病してきて、それが原因の静脈瘤破裂で亡くなったという。
 わたしはこの符合の意味するところを考えようとした。恐ろしいような重なり合いだと思った。人の人生にはいろいろあるが、この明と暗は、あまりにコントラストがありすぎるように思った。

遅々としたビザ審査に比べ、わたしの博士論文の審査はおおむね予定どおりに進んだ。
 六月中旬までに二人の審査の判定が戻ってきた。両者とも、無修正で合格であった。日本の教授からの審査が遅れていたが、八月の初めに、数箇所の字句の修正で合格と判定された。ほぼ完璧な合格である。かくして、八月十三日の高学位委員会の公式合格決定をへて、わたしの博士論文作成の努力は晴れて結実した。
 十月六日、わたしの属する経済学部の卒業式が大学記念ホールで行なわれた。学士、修士、そして博士をあわせての合同式典だった。
 博士号をとったのは、わたしを含めて二名のみだった。式場でとなり合わせたもう一人の「博士」に話しかけると、それまでに十年かかったという。わたしも、結果的に準備期間となった三年をふくめれば計六年を要したことになる。彼は、彼の写真を撮っているひょろっとした少年をさして、「わたしが始めた時は、彼はまだこんなだったよ」と、床から一メートル程の高さに手をかかげて言った。
 十月二十二日の日曜日には、ヨセフをはじめ仕事の仲間達がわたしの博士号獲得を祝ってパーティーを開いてくれた。いつものように、ヨセフの家でのバーベキューパーティーであったが、今回は、家族を連れた仕事仲間全員、ウッドライト教授をはじめ関連する人々や世話になった人、そしてヨセフの母親や妹家族もふくむ盛大なものであった。
 この席には春子もパースからかけつけて出席した。
 ケリーも参加していた。
 わたしは、この達成がわたし一人の努力のみでは決してやり遂げられなかったことを述べ、友人達やわたしの家族をふくむ大勢の人達の支援の結果と、思わず声をつまらせながら感謝をのべた。
 春子とケリーはここで初めて会ったのだが、ふたりの態度は対照的であった。
 春子は、初対面の人達がほとんどで緊張していたが、それでも、わたしの妻であることを意識してか悠々とふるまっていた。
 他方ケリーは、終始裏方にまわり、パーティー客にふるまわれる食べ物の用意や後片付けに徹して地味だった。わたしは外国生活の長いケリーのこうした行動に違和な感じをもった。わたしはそんな彼女に、親密さよりまだ隔たりを感じていた。
 あとになって知ったことだが、ケリーは若い頃、有名ホテルのレストランで働いていた経験があり、ことパーティーに関する限り、これを「昔取った杵柄」というのだろう、そのケイタリングに関わらなければいられないようなところがあった。
 このパーティーの二日後、わたしは二ヵ月半の滞在予定で日本に向けてたった。われわれの会社の東京事務所をわたし達のマンションにおくため、その改装工事を行なう必要があったからだ。


 九六年の新年早々、わたしはシドニーに戻ったが、あい変わらず移民省からは何の音沙汰もなかった。弁護士事務所に問い合わせても、いつとも断言しえないとの返答だった。
 春子からは毎日のように、審査状況について問う電話があった。
 わたしはケリーとの関係を春子に隠すつもりはなかったし、隠すようなものでもなかった。ヨセフのバーベキューパーティーで初めて会っていらいの経緯は、新しい知人を得たていどの感覚で、おおむね春子には伝えてきていた。
 ただ、春子はケリーのことについては極端にとも言えるほど警戒した。業界内でのあらぬうわさが立つことを恐れるからだと自分では言っていた。それも真実だったろうし、ジェラシーにも似ていた。また、置き去りされるかもしれないとの孤独への予感があったのかも知れぬ。
 わたしには、ケリーとの出会いでの印象が相変わらず残っていたので、春子に伝える話も、随分とロートーンなことばかりであった。博士号獲得祝いパーティーでのケリーの振る舞いもこうした印象を延命させていた。
 それになによりもわたしには、春子以外の女性との関係はたとえ友人関係であったにせよ春子への一種の遠慮を伴ったし、不必要な心配もかけたくないとの気持ちも強かった。
 今になって振り返ると、ともあれこの年の前半の数ヵ月は、わたし達にとって、じつに微妙で決定的な期間であったと改めて思い出される。
 わたしはわたしで大仕事の達成後の、春子は春子で毎日の味気のない酷忙さの中で、互いにたがいを必要としながら、自分達で築いてきた心理的、物理的距離にはばまれ、差し迫る現実にそれぞれ個別に選択を与えなければならなかった。
 そればかりでなく、そうした選択が場合によっては相手をどれだけ傷つける行為であるかがよく解っているだけに、決断しようにもできないフリーズ状態の中にいた。
 わたしは春子の性格からそう確信して疑わないのだが、ふたりは、たがいに相手を思いやるあまり、そうした配慮はしだいに「自分のために相手が動けない」と考えるように傾斜していったのだと思っている。そして、たがいに共倒れとならないために、相手を動きやすくしてやりたいとのつもりと自分のやむにやまれぬ必要とが、溶け合わないながらも混りあって、ある日、ある時、たがいが別個に行動をおこしていた。
 心理学的には、そうした発想や行動様式は、自らの罪悪感を緩和する合理化行為と言えるのかも知れない。だが、たとえそうであろうとも、憎悪し合うほどのものがあったわけでもないわたし達にとって、こうした心理的交錯は、形の変わった愛情交換であった。
 だが、そうでありながら、ある時ふたりは、たがいに相手がその決断をして動き、もう戻れないところにいることを知るのである。


 ケリーは、日本女性にしてはめずらしく、粘着質なところがなくさっぱりとし、それでいて義理堅い古風な日本人らしさもあった。そんなハイブリッドな印象がややこわもてに映るふるまいとも重なって意外さをつくりだし、わたしにまた次の予定の約束をさせるようなサイクルを作りだしていた。
 また、彼女の方でも、あとで聞いた話だが、同様な印象の反転があったらしい。
 最初ヨセフのところで会った時は、「何ととっつきにくい堅物なおっさんだろう」と思ったらしい。五十にもなって学生だというのも奇異だったようだ。それが何度か会ううちに、まあそう悪い感じの人ではないと思うようになってきたという。
 むろん彼女は、わたしがパースに妻をもつ「単身赴任者」であることは知っていたわけだし、わたしもそうした自分の事情をむしろ積極的に話題にしながら、二者のややぎこちないつきあいが動き始めていた。
 だからわたしは、ケリーとは公明正大な関係から外れないことを原則においていた。
 ゴルフをしたり、夕食を伴にすることがこの原則に反するとは考えなかったが、いわゆる友達関係以上に親しくなることは抑制するつもりでいたし、実際にそう行動していた。
 一方、その頃、わたしは、春子に男の友達がいることはそれとなく聞いており、ケリーとのバランスで、それはちょうどいいことだと思っていた。そして、わたしがケリーのことを否定的印象を強調して伝えてきたように、その彼の話もネガティブな話題に満ちていた。だから、相手に伝える内容と実際の気持ちとの間にはちょっとギャップがあるのを自分では感じながらそうしていた。ふたりともそうであったろう。相手を追い込みたくない気遣いのつもりだった。また、だからゆえに、相手の話がたがいの想像のなかで実態以上にふくらんだりすることもあっただろう。
 三月の初め、ふたたび春子がビジネスでシドニーにきた時だった。わたし達はそれまでの間にたがいに胸中に暖めてきた話を出し合った。
 その頃までにわたし達は、たがいに自分達が本当は何かを行動すべきなのだが動くにうごけない、きわどい静止状態の限度に至っていた。ほんのささいな風が椿の花を落とすように、わずかな重心の移動が、全体のバランスをかえようとしていた。
 わたしは、自分達の性的関係の持ち方に何らかの解決策を与えなければ、たがいを不幸にすると思っていた。一方が望まない以上、夫婦関係を無理強いして、苦痛でしかないものを、もうそれ以上与えたくはなかった。
 わたしはその晩、おたがいに相手を配慮しすぎて、互いがたがいを釘付けにしてしまう結果にならないようにしよう、と春子に提案した。いわば、互いの「交際行動の自由」を認め合おうとすすめていた。
 春子は春子でその晩、彼、ダニエルのことを、自分にとっては大切な人だとわたしに告げた。わたしは、春子のそうした正直な告白を受け入れた。そのように春子が心の内を語ってくれたことに、わたしは信頼関係を感じた。それは夫婦にとっては裏切りの類の告白であったのかも知れないが、不思議にそれにこだわる気持ちは少しもなかった。
 強いさびしさはあった。だが、そう告白する春子自身にむしろ人間を感じ、その発展を許そうと思った。いや、許すも許さないも、わたしの関与できる筋のものではないように思えた。
 わたし達はだが、そのようには話し合ったが、いわゆる離婚のことは話題にものぼらなかった。そもそもふたりは、それ以上に「別れる」気持ちはなかったし理由もなかった。ただ、だめなところだけを、はっきりさせておきたかった。
 一週間ほどして、春子から手紙がきた。

私は今、正しいことをしているのか、間違っていることをしているのかわかりません。
 Shirley Maclaine の本に Dont lie. And try not to hurt anyone. という言葉があります。でも、正直でいることが非常に人をきずつけることがあることを、両サイドから身をもって学びました。正直であることは、ある意味で自分へのゆるしであり、エスケープであることも学びました。
 今、ゴウちゃんが、どんなつらい思いをしているかも、よくわかります
 私自身、どうしたらいいのかわからないのです。もうエネルギーも底をついていますが、人から言われてではなく、私自身で、どうするか捜してみたいのです。もしかしたら、決して自分では見つけられないなさけない人間かもしれないけど、自分をためしてみたいのです。


 わたしは深い孤独感にとらわれていたが、春子が決意をもってあゆみ始めたことを尊重しようと思った。それを自分勝手とも思わなかったし裏切られたとも受け止めなかった。なんと言うか、学業をおえて「卒業」してゆく、たがいの悲しさのように思えた。
 だがたしかに、この告白は、この後しばらく、わたしを心理的な苦痛のるつぼに閉じ込めた。しかし、この場で必要だったのは、両者がすくみ合っていることではなかった。


 三月二十一日、まるでわたし達が行動を起こすのを見計らっていたかのように、待望の永住ビザが下りた。ただちに春子に連絡した。彼女はもちろん大喜びであった。
 こうして、オーストラリア「上陸」以来十一年半にして、わたし達の「手段」獲得のためのたたかいは完了した。わたし達を悩みになやませてきた疫病神もこうして死んだ。もうこれで、春子は何の拘束もプレッシャーも感じずに、大手を振ってどんな仕事にもつける。わたしは春子に対する大任を果したかの気持ちだった。
 「無制限の滞在を許す」と明記された新しいビザをわたされて、わたしはひとつの時期が終わったことをしみじみと実感した。
 留学の時期が終り、移民の段階にはいったのだった。
 ただわたしは、これほどまでに苦労させられてきた永住ビザが、パスポートに張られたたった一枚のシールであったことに唖然とさせられた。たったこれっぽっちのことかと、少々腹立たしかった。と言うのも、もともとビザ問題とは、政府にとって、労働力の調節弁のようなところがあり、労働市場の逼迫度に合わせて、その人数枠が猫の目のように変えられた。わたしの場合も、年齢のちょっとの違いでより厳しい条件が適用されていた。いわば、そんな問題に過ぎないことで苦労させられてきたことへの憤懣であった。
 ともあれ、博士号と永住権の両関門を無事通過したわたしは、確かにいろいろ苦労はさせられたが、必要のために行なったに過ぎないその結果に、おごりを持つようなことになってはならないと思っていた。
 アメリカにはドクターあるいはロウヤー症候群という言葉があるそうだ。長い間ターゲットとして取り組んできた博士や弁護士の資格をとったとたんに、そのまぶしい身分につられる人達の中に新しい相手をみつけ、それまで縁の下で協力してきたもとのパートナーとの関係が破綻する現象であるようだ。
 その一方、東アジアには「糟糠の妻」という言葉がある。貧乏をしていた下積み時代に苦労をかけた妻を、出世したあとは、奥座敷から出る必要もないほどに大事にしたという中国の故事に由来する言葉である。
 わたしは前者の例におちいるまいと考えていた。
 しかし、しだいしだいに至りつこうとしている結果から言えば、そうなってはならないはずの道に迷い込んでいないとは断言できなかった。そうならぬよう、そうならぬようにと心掛け、努力してきた積もりだったのだが、そう意図すればするほど、なおさら逆の方向にことが運ばれきてしまった。
加えて、永住ビザを獲得した結果、そのビザは個々の所有となる。かくして、わたしたちをいやでも結びつける効果をはたしてきたビザ獲得のための「共闘」関係も、もう不必要となった。戦争が終り平和が訪れれば、それはもう思い出となる。わたし達は、ひとつの思い出を共有する戦友同士になろうとしていた。


 東京のマンションの改装は四月までには完了し、事務家具もそろえられて東京事務所開設の準備が整った。
 四月二十日には、オーストラリアからわたしも含む四人が参加し、開設祝いのパーティがもたれた。春子もパースから、日程の無理を押して参加した。
 わたしは、身内や友人に二つの達成を報告した。誇らしい気持ちがあったのは言うまでもないが、ことに身内の影での支援には、なにはさておき、お礼と感謝を伝えたかった。
 そうした「達成報告」をしている中で、わたしは思わぬ反発をこしらえてしまった。
 春子の姉妹家族に、わたし達が新たな関係になりつつある話をした時であった。わたしは純粋に春子への尊敬のつもりで、「わたしより先に男の友達をもっている」と話したことが、春子はふしだらな妻で、わたしはかわいそうな夫という話に曲解されてしまった。
 これがその後、姉妹達の春子に対するきつい反発行動を生んだことから、その原因を作ったわたしに対する春子の怒りに火がついた。加えて、これは全くわたしの軽率だったのだが、思い余って春子の姉と同調して春子を責めるような言動をしたことから、春子のわたしへの信用は地に落ちてしまうことになった。
 こうしてわたしは、自分のことは棚におき妻のことばかりに言及するズルイ男ということになり、わたしが春子のことを誰かに話す際、ことに春子の身内に話す際には、本人の同席しないところでは一切まかりならぬ、という通告をされる事態となってしまった。
 これにはさらに事後談があって、そうした通告のため、こんどはわたしがケリーのことを、その後ずっと春子の身内には話さないで通していた。わたしにとっては、春子との関係の変化の説明ぬきでは、彼女のことを語っても無意味だったからだ。これがまた、わたしは隠しだてする不誠実な人という受け止め方となってしまった。
 たしかに、男女の問題は、誤解やスキャンダルが生まれやすい事柄ではあるが、それがわたし達の場合、わたしの姿勢があまりに直線的すぎるからか、ますます事態をややこしくしてしまい、わたしはほとほと手を焼いてしまった。


 いっぽう、春子に親しい男友達がいるとの告白を受けた後、わたしは、頭ではそれを受け入れようとしていたにも拘わらず、自分のさみしさがしだいに苦痛に変わって、しかもそれが日に日に増幅してゆくのを噛みしめていた。
 さらに、春子がシドニーにはもうこないだろうとの予感も強まり、いったい何のためにここまで頑張ってきたのか、自問すればするほどその傷口に塩をすりこむ結果となった。
 理性では確かに彼女の行動を理解しようとはしているのだったが、感情がどうしようもなく波立ってしまって、自分ではどうにもならないのだった。
 まして、春子とダニエルとの関係が肉体関係にまで進んでいると聞いた時、わたしは、思わず「なぜ、彼とはできて、俺とはできないのか」と尋問していた。
 春子が苦しげに答えるには、わたしは彼女にとって、そういうイメージがわかない人であるという。わたしは、彼女の「兄」であり「先生」でもあるという。自分の生々しい苦しさとは噛み合わぬその返答に、わたしはいっそう煩悶のるつぼに落ち込んだ。
 そうして発生した負のエネルギーは、わたしを飲み込んで感情の暴風雨になろうとしていた。わたしは、そんな感情の渦に巻き込まれている自分が信じられなかった。わたしは、自分達の関係が、こんなことが原因で崩壊してゆくのは耐えられなかった。これまで、わたし達がいろんな苦労や工夫を積んで築いてきたものは、こうした事態でも持ちこたえられるはずのものであった。
 わたしは、春子が「そんなものなければいい」とうらんだように、自分が陥っているそのるつぼを壊してしまおうと思った。わたしは、できるかどうかは判らないが、心身の分離を考えていた。上半身と下半身を別々にしようとも考えていた。
 わたしが事務所開きで東京に滞在していた頃は、そんな混迷の最中であった。表面では「達成報告」を誇らしげに語りつつ、内にはそうした苦痛がうずいていたのであった。


 東京での事務所開きをすませて、わたしは二ヵ月ぶりにシドニーに戻った。
 そうしたわたしが、ケリーとセックスがとりもつ親密な関係に発展するまでには、そうは時間を要しなかった。
 戻った翌日、さっそくわたしはケリーと会うのだが、それまでに、性的な関係へのさそい、あるいはそうと受け止められるしぐさは、わたしにしてみれば、たいてい彼女から示されてきていた。
 最初はほんのさりげのない彼女の手のやり場であった。ニュートラルベイの彼女のアパートを訪れた時だった。居間のソファーで、彼女はわたしの横に座った。その際、会話の合間にそれとなく、その手をわたしのひざに置いたままにしていた。
 次のさそいは、三月の彼女の誕生日に、別の友人カップルと共に夕食に招待された時だった。彼女のアパートのダイニングで食事の最中、テーブルの下でとなりに座った彼女の足がわたしの足に意味ありげに触れたり押し付けられた。さらにはわたしの太ももに彼女の手がおかれたりした。
 いずれのさそいにも、わたしは高まる興奮を感じながらも冷静をよそおい、受け入れる様子はみせないでいた。だが、拒絶のしぐさまではしないでいた。
 後で聞いた話だが、ケリーはこうしたわたしのふるまいを無言の受諾と見て、彼女なりのエスカレート作戦を考えていたようだ。
 決定的なさそいは、東京の事務所開きからもどった翌日、共に外で夕食をすませた後だった。さらにバーを二軒ほどはしごし、最後の店ではちょっと強いカクテルを飲んだ。
 彼女をバスターミナルまで送りに行った時だった。別れぎわのほんのわずかな一瞬をぬすんで、彼女はわたしの唇にすばやいキスをした。少し酔っていたのでわたしの動作は緩慢だった。それにくらべ、彼女の動作は野性の小動物のようなすばやさだった。
 意表をつかれて棒立ちになっているわたしを置き去りにして、彼女ははずむようにバスの方へ駆けていった。
 その夜は、軽い酔いがわたしを陽気にさせ、気軽に腕組みなどもしながら、意気投合してシドニーの繁華街をふらついた。だがそれは酔いのせいだけではなかった。彼女の行動を誘うどこか緩んだわたしのかんぬきを、彼女はそのように、どんと蹴破ったのだった。
 その夜以来、わたしの心理の時計がぐるっと回った。
 彼女の思惑どおりに、わたしはその重なるさそいに応えたい気持ちとなった。
 いや、むしろ、わたしがなにもしないでいることの方が、春子を苦しめると思った。
 わたしは、長年閉じてきたダムの水門を、もういちど開く時がきていると思った。
 その夜から数日後の晩、今度はわたしが彼女をわたしのアパートの近くのレストランに誘った。それは韓国料理店で、後になって思えばやや配慮を欠いた選択だったが、まあ二人して同じ料理を食べていればその臭いもおあいこだった。
 食事後、お茶でもどうかと、さしたる細工もなしに彼女をわたしのアパートへと誘った。ためらいも見せずに、彼女は素直にわたしの事務室のようなアパートの客となった。
 キッチンと居間を仕切るカウンターに向い合わせで座り、ふたりはコーヒーを飲んだ。
 最上階にあるわたしの部屋の窓からは、夜とはいえ付近の家並みが遠くまで見渡せた。
 わたしは居間の窓辺に立ち「夜景がきれいだよ」と、彼女をさそった。
 立ちあがり近寄ってきた彼女は、窓に向いたままのわたしに背後からそっと抱きつき、わたしの背中に自分のほおをうずめた。
 わたしはそうした彼女に「俺が好きなのか」とややぶっきらぼうに聞いた。
 その答えを聞いてから、次にわたしは「泊まっていくか」とも聞いた。
 漠然と考えていたシナリオだったが、目算通りのことの運びであった。
 その夜、わたしが仕事部屋とする一室のみの狭いアパートで生じたケリーとの初体験は、わたしには甘美な驚異だった。
 彼女は恥じらう風もなく、自分をわたしのするがままにまかせていた。わたしの指先のわずかな接触や動きにも彼女は過敏なほどに反応し、大胆すぎるほどに喜びを表わした。
 それは、彼女のしだいに高まるあえぎ声に、わたしはおもわずその口を手でふさぐほどだった。全身をもって性の歓喜をあじわい、表現している彼女に、わたしは新鮮に驚かされ、動かされていた。それまでに経験したことのない生きいきとした手応えだった。
 それは自分が味わう悦楽というより、喜びを与える喜びであった。
一人称のセックスから二人称のセックスへと、次元が移ってゆく舞台設定の転換のはじまりであり、それはセックスのみでは終わらない一連の変化のはじまりだった。


 わたしはこうして、閉じられてきたままであったゲートを開けた。
 開かれたゲートの先には、確かに、新たな興味ある世界がひろがっていた。
 しかし、そうして大きく動いたケリーとの関係について、わたしはひどくアンバランスなものを感じざるをえなかった。当然であるのだが、それがわたしが考えていた「心身の分離」の結果だった。むろんケリーは、それをあたかも本能で嗅ぎ出すかのように敏感に感じ取っていた。
 そうして彼女は肉体関係は許したのだが、それが愛情をともなったものかどうかを確かめる質問を、関係をもつたびに子供のような粘りつく仕草でわたしにたずねた。
 わたしはそんな子供じみた反応を無視してつれなく返答した。そんなわたしの反応に、彼女はしたたかな大人の女だと思うのだが、少女のようによく涙を流した。独身の女ならば大人であっても当然だといえばその通りかも知れないが、わたしにしてみれば、どのみちセックスを交した後なのだから、後の祭ではないのかと思えた。なぜ事前にそれを確認してから始めないのか、順序が逆のように思えた。
 むろんそれはわたしには都合のよいことであったし、よしんば事前にたずねられたとしても、事後にそう答えているように、おそらく、できるだけあいまいな風に、でも否定するようにではなく、関係がつづけられるように返答したであろう。
 いや、むしろ、関係を続けたいと思いはじめていることが、すでに誰かの作戦にうまく乗せられている証拠ともいってよかった。後の祭どころか、わたしの御輿はもう上手に担がれており、祭はまさに始まったばかりであった。
 ともあれ、わたしは彼女に愛情を感じたから関係をもち始めたのではなかった。出された据え膳をいただいただけだった。考え通り、下半身だけが活動を始めていたのだった。
 それでも、もう五十を越えた分別あるはずの男がこんなことで良いのかとわたしは自問した。しかしその一方で、高校生の交際じゃあるまいし、成熟した男と女の関係なんてこんなふうに始まるものさと自答する声もあった。
 こうして、るつぼの底で煩悶してきたわたしは、まったくタイプのちがう女性にもろに遭遇し、閉ざされていたわたしの半球に光と水を与えることになったのである。


 こうしたわたしとケリーとの間の発展を、幾日もおかず、わたしは春子に告げた。
 ところが、わたしのこの告白が彼女を決心させたのか、春子はそれから何日もたたないうちに、ダニエルが鉱物資源技師として働くアフリカ、ガーナの僻地に向けて旅立った。シンガポール、チューリッヒを経て、片道だけでおよそ五十時間を要する大旅行である。ほんの一日、二日の休暇すら遠慮してとらなかった今までの春子からは想像もできない、それは驚くような飛躍だった。
 東京で味わったわたしへの不信、さらに加わるこの告白。それらは結果的に、春子をして自分自身の道をたどらせるに充分な推進剤となった。体の不調につきまとわれている彼女に通常ではありえない、弾けるような決断だった。
 話はさかのぼるのだが、その二年ほど前の一九九四年の八月、春子の体に、それまでの健康の回復の方向に逆らう、不穏な兆しが現れていた。
 それは、その先のビザ問題などを話し合うため、わたしがパースを訪れた時だった。春子はびっこを引きひき歩いていた。右足付根に強い痛みがあるからだと言っていた。
 昔、春子が職業病を発病した際、ある医師が彼女の背骨の側湾曲を指摘したことがあった。その時も足の付根の異常を訴えていた。わたしはその時のことを思い出し、何かいやな予感がした。
 それ以降、春子はたびたびそして数々の、身体の不調を訴えはじめた。
わたしはシドニーにいるので、いつ、どのようにそうした異常がおこってきたのか、詳しいいきさつは判らない。大きな異常のあった時のみ、後で電話などで知るだけだった。
 そうした限られた情報でも、体の不調の話は毎回の話題のようになって行った。
足の痛みで眠れなかった、原因不明の腹痛がする、胃が痛む、腸に異常がある、膵臓の異常かもしれない等などいろいろ思い出されるが、わたしはそれらの順を追って正確には書き表わせない。
 九六年三月初め、ビザが取れる寸前によこした手紙には、「かなしみ、苦しみ、不安は、人間の体をダメにし、病気にすることを体験しました」と書いて来ていた。
 ことにその二月には、子宮ガンの手術を受けていた。接合処置の失敗もともない、大出血したとも聞いた。わたしはその時、東マレーシア、ボルネオ島のジャングルにおり、帰国後その知らせを聞いた。
 そうでなくともわたしは大陸の反対側にいて、いざという場合に何の助けにもならない。こうした緊急の際、ダニエルが彼なりに春子の世話をやいてきてくれたらしい。春子はいつもの口調でダニエルのことにも点数が辛い。しかし、深夜、苦痛に悶絶しているとき、そばに誰かいるのといないのとは大きな違いだった。
 そうした、いわば爆弾を抱えたような体となった春子の、アフリカへの大旅行だった。
 チュリッヒに向かう機中だという暗い気配の漂う手紙に、春子はこう書いていた。

 二十数年の戦いでした。人間にどうしてそんな欲があったのか、何十回も、何百回も、その欲を人間に植えつけたことをうらみました。このことがなかったら、私達の人生ももっとスムーズだったのです。ゴウちゃんについてシドニーに行かなかったもう一つの理由です。おたがいのあの苦しさ。私にはとてもつらかったのです。
 行くと決めたので、行ってきます。
 今の私の気持ちは、旅行を楽しむことより、何より、元気でオーストラリアへ帰りたいということです。
 人生は長くはないのです。楽しんでください。


 それから幾月かたったある日、その前夜は早くからベッドに入ったためか、わたしは未明から目が覚めて眠れなくなっていた。眠れないばかりか、考えごとが頭を駆け巡り、すっかりと目がさえてしまっていた。
 セックスの疲れからか、それとも仕事の疲れからか、軽いいびきをかきながらケリーはわたしの横で眠っていた。その彼女の裸体の体温がわたしの肌に伝わっていた。
 目がさえればさえるほど、わたしはケリーと春子に分裂したわたしの身と心の復讐を受けなければならなかった。それは、単なる倫理観がそう導いているとは思えなかったが、何かわたしを引き戻すものがあって、わたしは春子にひどくみれんを感ずるのであった。
 空が白み始める頃、ケリーを無理やり目ざめさせるようにして、わたしは話し始めた。
 ケリーをほしいと思う気持ちは強いが、それは愛情ではない。このままの関係を続けても、わたしの亀裂感は増すだけだ。こんな分裂した自分を率いて、この先やってゆけるとは思えない。そんな意味のことを並べたてた後、「自分を納得させられるところまで戻りたい。もう終りにしよう」と言った。
 こうした別れ話はこれが最初ではなかった。いつもわたしが切り出した。ケリーから言われたことは一度もない。
 前に言い出した時、あれも、小旅行先のモテルかどこかの、ベッドの中であった。
切り出された別れ話に、ケリーはひどく落ち着いて、まるで母親が子供をなだめるように、それはいい考えではないとわたしをさとした。わたしは義務感でそうしようとしている。もし無理して別れようとしているのなら、それはいい結果にはならない。無理しなくても、それがうまくゆかない関係ならそうした時はくる。もし彼女を嫌いになったのならそう言ってほしい。でもそうでないなら別れてはいけない。そう、わたしは言いふくめられたのだった。
 今回は、そうした前の轍はふまず、わたしは自分の納得の問題として切り出したのだったが、これを聞いたケリーは、前回とはがらっと違った態度を表わした。
 「そんな自分勝手な理由でわたしを捨てるのなら、わたしには考えがある。その責任をとって、慰謝料を払ってもらう。それだけじゃない。あなたがちゃんと責任を果たすように、あなたのそんなに大事なパースの人に、毎日、電話をしてやる。悪いのはあなたよ。その責任を取らせてやる」。そうわたしに反撃を加えてきたのだった。
 日頃から思っていたのだが、彼女はけんかをふっかけるのがうまかった。子供のころ大家族でたくさんの喰い盛りの子供の一人として育ったからか、それとも、職業がら交渉沙汰に強いからなのか、ともかく、もめごとにはなかなかの手腕の持ち主だった。
 わたしはこうしたおどしを聞きながら、そのやり方に感心させられると同時に、そのけんまくに彼女の怒りの大きさを見ていた。だが、おどしには乗らずに、やれるならやってみろと、強気で押し返した。
 彼女は実際にパースに電話を始めた。その時は日曜の朝だったので、わたしは春子にゆっくりと休養をとらせたいと思っていた。そうしたわたしの弱みを知ってか、ケリーはためらわず電話した。言葉使いはていねいだったが、わたしから突然の別れ話が出ていることを春子につげ、双方に責任があるかに言っていた。わたしは好きにさせておいた。
 おどしの文句は次から次へと詳細におよんで、慰謝料の具体的な金額にまでも至って、わたしの感心はなおさら深まった。
 だが、顛末は、わたしの不動な態度のためか、彼女は突然に方向を転換し、涙をながしてわたしとの仲直りをこうてきた。
 こうした彼女の硬軟両面にわたる攻勢が終り、わたしはほっとするとともに、自分の突然で勝手な言い草にわたし自身の罪を思った。そして、彼女の方向転換をうけいれ、自分の突然の別れ話も撤回した。
 女を怒らせた時のこわさをかいま見たようなひと幕だったが、わたしはその一方で、彼女におけるわたしの重さの程度を計りえたような結果に、悪い気はしていなかった。
 こうしたわたしとケリーとの重なる別れ話とその後の悶着は、しだいに春子への未練を自分でそぎ落とす効果をはたした。下半身のしでかした不始末を上半身が面倒をみて、わたしの負のエネルギーはようやく一身のうちに収まりつつあった。そして、「もとのさや」におさまりたい乳離れしない心理からも、それとともに自立していった。
 

 春子の、あたかも身魂を削るような生活は、いちどは回復した彼女の健康をふたたび病魔の世界へひきずり戻しつつあった。
 一人半態勢の春子の事務所は、その小人数にもかかわらず、その数倍の陣容をもつ競合会社のパース支店と、同等規模、あるいはそれ以上の旅客扱い数を維持していた。
 春子の健康悪化の再来は、何のためのこれまでの苦労だったのか、見捨てておける話ではなかった。わたしがまず第一にすべきことは、現在のその過剰な責任負担から彼女を解きはなつことであった。新婚当初の、職業病の発病の時を思い出していた。
 わたしは繰り返し、その仕事を辞めるよう説得した。
 春子の返答はいつも、「次の仕事が決まらないかぎり、わたしはやめれない」だった。彼女の性格からして、彼女らしい言い分であった。だがわたしは実にじれったかった。
わたしが仲間と始めた仕事は、まあ順調に進んでおり、シドニーオリンピックを前にして、多くの職が人を求めていた。わたしは仲間に春子の能力を売り込み、いわば彼女を将来の人材候補として考えさせるところまでは持って行った。問題は、具体的な仕事だった。
 ある時、オリンピック関係の仕事で、日本人のマネジャーを求めている話があった。
 自分達の会社内でのポストではなかったが、かえって外部のほうが必要な距離がとれて適当と思われた。わたしは春子にそれを紹介したが、結局この話はうまくゆかなかった。
 われわれの提供できたその職の情報が充分具体的でなかっためと、たとえ可能な仕事であれ、春子には、ケリーがすむシドニーにやってくるには抵抗があるためであった。
 したがって、わたしが春子に対してできることは、精神的な支えは言うまでもないが、経済的なプレッシャーを減らして、転職の壁を低くすることか、充分な支援をもって彼女をパースで自由にさせることだった。ただ、わたしにはまだ後者が与えられるほどの財力はない。それに、彼女はなにもしないで毎日を過ごせる人でもない。
 「お前のおむつの世話は俺がしてやる」とも言っているが、シドニーからパースまではわたしの手は届かない。
 永住ビザが下りた翌年(九七年)の六月、わたしはシドニーでのその後の長期的な生活を考えて、二寝室と居間、食堂を持つアパートに引っ越した。銀行からローンを借りて購入した。前のアパートの近所で、それを売った資金を頭金に当てた。
 このアパートを捜した際、その条件のひとつは、日当りのいいことだった。わたしがそれを好むのも理由のひとつだが、それに、もし誰か病人がそのアパートの一室で長患いするとしたら、明るいサニーな部屋に寝かしてやりたかった。
 さいわい、今その部屋に住人はいないので、その部屋は客室用にあけて来客を待っている。もちろん、春子がシドニーに来た時には、この部屋のお客となってもらっている。
 このふたつ目のアパートも、その所有権は春子と半々にした。その半分の所有権で、わたしはその全部を使用している。だから、そのローンはわたしが全額返済しているが、半分の使用料として、春子に毎月、半額相当の家賃を送っている。東京事務所の家賃も会社から割引額ながらとっているが、その半分も春子に送っている。いずれも、わたし達の共有の財産であり、春子にその権利がある。


 このふたつ目のアパートに引っ越した時、ケリーがこまめに手伝ってくれた。
それ以来、ケリーは定期的にここを訪れ、泊まってゆく。
 彼女は、生活の清潔感がわたしより上だ。したがって、家の掃除や洗濯も、わたしより気になるようだ。よく、わたしの働きが足りないと言ってわたしに代ってやってくれる。
 わたしはケリーがこうした「通い」関係を実際のところどう思っているのか、彼女もそれに触れないので真実のところは判らないが、わたしはそれを楽しんでいる。毎日彼女と顔を合わせなくてはならない生活では、きっと、衝突をおこしてしまわざるをえないだろうと確信している。自分勝手だと思うが、一人暮らしを長年してきたため、もう、一人のほうが日常的には普通となり、なじみ過ぎてしまった。
 料理は、そのためわたしの特技となってしまった。もちろん、必要に迫られて身につけた我流だが、ケリーはわたしの作った料理も楽しみで、このアパートに足繁く通ってきている。
 彼女の話によると、わたしのところに来ると落ち着くのだそうだ。いろんな疲れがすうっと消えてリラックスできるという。旅人生では得られない安らぎの感覚だろう。
 彼女は、人当たりが強く自流に忠実でありながら、それでいてわたしにはけっこう気を使い、細やかに対応している。計算はしているのだろうが、両面をちゃんとやってのけられるコントラストは、わたしにとっては不思議のひとつだ。
 また、よく観察していると、人にきさくな思いやりがある。彼女をよく知る人は、彼女の口のかたい信頼性や一貫した裏表のなさをあげる。愛嬌ていどのおっちょこちょいでもある。
 いわゆる育ちのいい上品さはないが、高級ホテルなどにわたしを連れだし、エレガントな雰囲気の楽しみ方をわたしにコーチするような気概はもっている。
 とくにわたしが感心させられるのは、たとえ白人だろうがアジア人だろうが、外国人に分け隔てなく気楽に話しかけられるオープンな性格である。わたしは引っ込み思案で、そうした行動を取る前に、あれこれ余計なことを考えてしまってタイミングを失ってしまう。公園などで、よちよち歩きの外人の子供に親しげによびかけて、その親とも即座に溶け込めていっている彼女をみると、下町風の爽快な性格を見る気持ちがする。
 

 寒さに向いつつあったこの五月、その夜は、夕食時に飲んだワインの酔いが軽く残って、ケリーとわたしの気持ちはたがいにスムーズだった。
 いっしょに早めのシャワーをあび、寒さで自由な行為がさまたげられないよう室を暖め、明るすぎないスタンドをともし、ふたりは裸のままベッドに入った。
 ケリーは足に軽くキルトをかけて、ベッドの上に仰向きになった。 
その夜わたしはシャワーをあびながら、その日の彼女の肌が、いつになく白くきめこまかく、微妙にソフトなことに気付いていた。なぜそうした変化が現れるのかはわからなかったが、なにかが働いて、そうした女らしさの変化が彼女の体にあらわれていた。
 わたしは以前、彼女の女っけのなさに興味を減じられていたが、そうした外見に反し、衣服の下にこうした秘められた女を発見して、過去の印象を大きく訂正していた。
 わたしはベッドの上に彼女に並んで半身で横になった。
 ほお杖をついて頭を支え、目で彼女を鑑賞しながら、右手を彼女のふっくらとした腹部におき、手の平でその肌の感触を味わった。やわかな弾力が指先を通じてわたしに伝わり、そのしっとりとなめらかな肌触わりと解け合って、わたしをおだやかな気持ちでみたした。
 その感触にほおずりしてみたくなり、わたしは上半身を動かしてほほをその腹部に当てた。またくちびるでその肌に軽くふれてその感触をいっそう微細に味わった。そしてそのまま頭をそのやわからかなクッションに休めた。
 彼女はわたしをするがままにまかせ、まるで小児を扱うかのように、その片手をわたしの頭に置き髪を優しくなぜていた。
 わたしが動こうとすると、彼女は両膝を立て、おおきく股を開きながら言った。
 「わたしを見て、近くで見て」
 わたしは開かれた両足の間に身を移し、腹ばいになって彼女のもっとも秘密の部分に顔をよせた。
 彼女は毛深くないしその毛も軟らかだ。濃すぎも薄すぎもしない繁みぐあいがあいらしい。
 両手で恥丘の草むらを軽く触れるようになぜる。シャワーのせいかまだ少し湿っている恥毛を分け、秘部の全体を現わせる。彼女のその匂いがふっとただよう。
 そのままではそこはまだほの暗いのだが、ふっくらと厚みをもちはじめた左右の唇を両手の人さし指と中指の先でそっとつまんで開くと、そこには鮮やかな赤いピンクのあかりをともしたような、わたしに見られたい彼女が待っていた。
 舌先でそのつやつやとかがやく彼女にふれ、ほのすっぱい味をあじわいながら、恥丘の草むらごしに彼女の表情をうかがった。
 両目は閉じられていたが、おだやかな微笑みのなかにわたしへのサインを感じる。
 わたしが「入りたい」と伝えると、彼女は身を起こし、ベッドの脇にある安楽椅子にわたしをさそって座らせた。そして自分はわたしをまたいで上になった。
 ふだん、自分が上の体位をあまり好まない彼女だが、その夜はそうではなかった。 彼女は上からわたしをその潤った彼女自身のなかにくるみ込んだ。
 ずんずんと彼女は自分の体をわたしの上に落とす。そのたびに、わたしの先端が彼女の子宮の根元にとどいて、彼女は声をあげた。
 「行きたくないか」と、ふたたびベッドの上に移動する。
 彼女が仰向きになり、両足を持ち上げる体位をとる。
 彼女は呼吸をしだいに荒々しく早めながら、両手でわたしの尻をわしづかみに強く引き付けていう。
 「奥をついて、強くついて」。
 わたしは激しく腰を運動させて登り詰め、最後のタイミングを、求められるように彼女の最深部に到達したところでむかえる。
 ピークをともに味わい合ったあとは、そのまま横にたおれ、交接したままわたしのウエストを彼女の両膝がはさんだ姿勢で、ゆるやかにリラックスしてゆく。彼女の心の余韻が収縮となって、つながったままの部分を介してわたしに伝達される。
 わたしは彼女の肩に腕をまわし、彼女はその腕を枕に、ふたりともしだいにやってくるけだるく快い眠りにすべり落ちてゆく。
 もう、彼女は涙を流してわたしの愛をこう必要はない。
 彼女の体つきが女らしくなってきたのも、その肌が微妙にきめ細かくなってきたのも、みな、同じころから始まったように思われる。


 春子は、身体中のいたるところに発生する症状により、自分の命がこの先そう長くはないと信じはじめている。
 今年六月のある日、わたしは春子からの封書を受け取った。
 封を切ってみると、「わたしの遺書」と題された文書が入っていた。
 その遺書は、次のような前文によって始まっていた。

私が死亡した場合に備え、豪を全面的に信用して、以下の処理を託します。

 この「遺書」と題された文書は、所定の手続きによっていないため、法的有効力をもつものではない。ただ春子の希望をメモしただけのものにすぎない。しかし、彼女は意外に早く来るかもしれない自分の死を、そうであるだけに、最後まできちっと自分らしく終らせたいと考えている。そのための管財人を非公式でもわたしに指名していた。
 春子のこうした準備のよさは、わたしには老婆心とうつる。だが、いつか、もしその必要が生じた時は、そのようにわたしが選ばれたことを、わたしはわたしの人生の最も悲嘆で、だが感謝したいこととして、彼女の委託にこたえたいと思う。
 わたし達は法律上はまだ夫婦であるが、わたしはこの委託行為に、わたしとの絆への彼女の期待と、そして孤独をみてしまう。

 わたしは、このように経験してきたわたし達の人生の現象を「卒婚」と呼ぼうとした。
 春子は、それに対し「失婚」だという。

 六月の末、春子がシドニーに来た際、春子はわたしに聞いてほしいと、海援隊の『贈る言葉』のカセットを残していった。
 繰り返し、わたしはその曲をかけ、春子が託そうとした思いを聞いた。

暮れなずむ街の
光と影の中

り行くあなたへ
贈る言葉
悲しみをこらえてほほ笑むよりも
涙枯れるまで泣くほうがいい
人は悲しみが多いほど
人には優しくできるのだから
さよならだけでは
淋しすぎるから

愛するあなたへ
贈る言葉

夕暮れの風に

とぎれたけれど
終りまで聞いて
贈る言葉
信じられぬと嘆くよりも
人を信じて傷つく方がいい
求めないで優しさなんか
臆病者の言い訳だから
はじめて愛した
あなたのために
飾りをつけずに
贈る言葉

これから始まる暮らしの中で
誰かがあなたを愛するでしょう
だけど私ほどあなたのことを
深く愛したやつはいない

遠去かる影が
人ごみに消えた
もうとどかない

贈る言葉


                         (完)



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