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3 大陸の両端に離れて



  PhDへ進むことは決まったが、この選択により、わたしの当初の留学計画は大きく様変わりすることとなった。
  第一に、これまでの計画はもとの職場への復帰を前提としていたのだが、それを変更してさらに数年間でも延長してオーストラリアに滞在することは、日本の仕事への復帰を放棄することを意味し、わたしにとって事実上、留学の段階から移住の段階に入ったことを物語っていた。
 だが、こうした事実上の意味については当時、それほど明瞭に意識されていたわけでなく、むしろ、それをわたしに教えていたのは、わたしの漠然とした不安、つまりわたしの潜在意識だった。そうした潜在意識が、「日本への帰路を自ら断ってしまう」に等しい行為として、わたしを心理的不安におちいらせていたのだった。
  それに、大学院中は春子の努力と奨学金支給のおかげで、なにはともあれ経済的な困難と無縁でいられたばかりか、住居の問題まで一挙に解決できた。ところが、PhDコースは経済的な問題もすべて自分達の力で解決してゆく必要があった。
 さらに、PhDコースはすべて論文課程であり、授業やセミナーはない。通常三百ページほどにおよぶ分厚い論文を数年間にわたって、監督教員の助言はあるが、一人でもくもくと書き続ける孤独な作業である。しかも、そのテーマは、これまで世界中の誰もが対象としていない独自なものでなくてはならない。したがって、そのテーマはおのずから重箱の角をつつくような狭い対象のものとなることが多い。そうした特異な環境に数年間にわたって自らをさらし、たとえ狭かろうとそのテーマを厳密に追究してゆく、はるかに尋常を欠いた精神的負荷をしのいで行かなくてはならない作業だった。つまり、このコースは、この地球上でもっとも高いレベルに属する研究者の養成課程なのであった。
 正直なところ、わたしはこうした変化の意味を実際に充分認識してそう選択したわけではなかった。いわば、ことの行き掛かり上そうなっていた。そして、歩みはじめてようやく、そうした違いに気付いたというのが真実であった。ともあれ、わたしはそうした別の世界に足を踏み入れたのだった。
 わたしはそれまでに大学院コースを修了し、労使関係学についての一般的な体系は修得していた。その一般知識を、わたしなりの独自の研究対象に適用するのがPhD研究の目的であった。その研究テーマについては、わたしはやはり自分の経験にこだわりたかった。自分の生きざまを研究したかった。そこでわたしはテーマを、自分が携わってきた日本の技術者の労働組合組織とオーストラリアの相当組合組織との国際比較に定めた。
 一九八九年早々より始まったわたしのPhD研究の最初の仕事は、これから数年にわたって展開される研究の実行計画を立てることであった。それは、日程やテーマの決定ばかでなく、研究仮説の設定、研究の方法論、理論的枠組み、使用文献、論文構成、そしてそれぞれの段階にそったスケジュールなど、計画そのものに数ヵ月を要するものだった。
 この計画そのものにはさほど手は焼かされなかったが、わたしがまず苦労させられることになったのは理論だった。


 博士論文の場合、それぞれの学問分野で定着している理論との関連性が要求される。わたしは自分の傾向にのめり込み、理論に深入りしすぎてしまった。そして気が付いた時、わたしは理論の大森林の中で道に迷っていた。理論的な枠組みを余りに完璧なものにしようと意気込み過ぎ、その果てしのない体系の中で、自分の位置を見失っていた。時間ばかりが経過する割には何もできあがらない状況に、しだいにあせりが湧いてくるのだった。
 今になって思えば、わたしの場合のような社会科学に近い論述中心の論文の場合、理論は一種の導入部のようなものである。それを、わたしは何か新しい理論体系でも構築するかのような意気込みでいた。

  こうした理論のジャングルに迷うわたしを救ってくれたのは、監督教員のピーターのひとことだった。「何か具体的なところから手を付けた方がいい」。
わたしは取りかかりやすい日本の労働運動の歴史に手をつけた。どのみち書かなくてはならない一つの章になるはずのものであった。
 この作業はめきめき進んだ。成果が目に見えてあせりは消え去った。そして後になってだが、苦労した理論もその甲斐あって、ふくらみすぎた部分をざっくりと削って焦点を絞り込むことで、けっこういい「導入部」となって実ることとなった。


 奨学金が無くなった分、当然に稼ぎに費される時間は増していた。だが、幸いなことに、日本の経済はブーム状態を呈していた。そしてわたし達の住む南半球のその小都市にも日本の好景気の恩恵はおよび、日本企業による現地への直接投資が、日本関連の仕事を続々と生みだしていた。地下資源、不動産、観光開発などがその主な対象事業だった。

  こうした波及効果はわたし達の生活ための仕事にも及んでいた。そもそも、わたし達に仕事を提供してくれていたワードサービスの会社が、日本語関連サービス専門だった。またこの会社の成長自体、こうした日本経済の盛況の波及なくしてはありえなかったろう。
 こうした状況に助けられ、わたしも春子も仕事にこと欠くことはまずなく、奨学金の支えはなくとも、それがわたし達の生活を決定的に困難にすることはなかった。春子はフルタイムで働き、わたしは週二日ほど翻訳のパートをした。いわば、妻を主としわたしが従となった共稼ぎで、毎日の生活がなんとか維持できていた。
 今から思い浮かべて興味深いのは、博士課程に入ってから、後にパースを離れてシドニーに移るまでの三年間、春子の心身の状態が一番落ち着いていたように思われることだ。
 この間、わたしは論文書き、春子はガイドの仕事といくらかの家事というふうに、ふたりのすべき使命は確立していた。贅沢はできないながらも自宅に住み、休日には、春子は庭で野菜づくりをし、わたしは芝刈りをするなど生活の幅もできた。つまり、かつて春子が望んだような、ふたりして助けあい、ふたりのそれぞれの役割が確立される生活が実現し、たがいの存在がそれなりにうまく支えられ合って毎日が送られていた。
 春子の仕事も、ツアーガイドをやるようになって、旅行者とともに観光地を巡る変化のある勤務が得られ、時にはお客さんから感謝されたり憧れられたりして、働き甲斐や喜びも感じられるようになってきていた。
そういう意味ではむしろわたしの方が、時に研究生活のトラップに囚われて落ち込むことが多く、生き生きとしてきた春子に励まされることも少なくなかった。
 ただし、相変わらずビザ問題は、わたし達自体では解決できない最大の悩みの種だった。そもそも、この問題こそが、留学の段階から移住の段階への移行に伴う、越えるべき現実上、制度上のハードルであった。
 そこでわたしは、このビザ問題が研究生活を脅かす大きな要因であると、監督のピーターにもくりかえし訴えていた。
 年末も迫るころ、ピーターから、地元の労働組合の幹部をつうじて、わたしを州政府の要人のアシスタントの仕事に紹介したいとの話があった。もしそれが成功すれば、わたしのフルタイムの雇用関係の成立により、永住ビザの獲得はほぼ確実と思われた。わたし達にしてみれば願ってもない話だった。
 ただ、もしその職が得られれば、当面わたしの研究には差し障りとはなるだろうが、いったん永住ビザさえ得ていれば、博士研究はオーストラリア人と同様なチャンスが保障され、いつでも再開できることであった。わたし達は、この話がうまく行くことを祈った。
 八〇年代が終り、一九九〇年が明けた。
日本からは、バブルの絶頂のなかで、今からでは信じられないような楽観的なニュースが伝わってきていた。ある記事によれば、日本のGNPは九〇年代の末には、米国のそれの一倍半に達するだろうと報じていた。二〇〇〇年現在の実態はまだ米国の半分である。
 こうした日本の好景気のおかげで、春子は年末年始のピークシーズン、日本からおしよせる旅行客のガイドでとびまわっていた。
 年末以来の州政府の職の話については、二月になって、運わるく、州政府首相の退陣劇が発生し、いっきょに労働党州政府の足場が不安定化した。こうした政変により、労働組合幹部と労働党をチャンネルとしていたピーターの目論見も、あまり期待は持ちえなくなりつつあった。
 わたしは、三月中に納めなくてはならぬ学費を用意するため、二月、三月とほとんどフルタイムでアルバイトに精をだした。
 また、研究作業が本格的になるにつれ、大学院時代に作ったコンピュータ化した文献カードシステムをバイリンガルなものへと発展させることが一層緊急の必要となっていた。
 三月から、ピーターはサバティカル(研究休暇)で、パプアニューギニアでの研究に入った。わたしには、時々、手紙で進行状況を問うてきたが、わたしは一人になったことを機会に、このカードシステムの改良の作業に入ることにした。
 五月、一台目のマックを身内に下取りしてもらい、二台目のコンピュータとしてマックSE/30を購入した。続いて英語のオペレーションシステムで日本語を入力できる特殊なプログラムを日本から取り寄せた。これには驚かされた。英語のプログラムに日本語を入力でき、その文字が印刷できたのである。わたしにはまるで手品のように思えた。
 この新しい武器を用いて、わたしは以前のカードシステムを日英両方で、検索もふくめて行なえるようにした。それに加え、その新システムをワープロと、さらに、わたしのように英語が苦手な人なら誰でも持っている、英単語・熟語・慣用表現集のノートをコンピュータ化した用語ダイレクトリーの三つを結びつけた。わたしはこれを「自動論文作成プログラム」と呼んだ。
 これを用いれば、あるテーマのもとの引用文献が自動的に選ばれ、それらが順に並らべられた一連の文章を自動的に作ることができた。もちろん、この文章はそのままでは使えないが、それをもとに再構成し、関連付ける文章を挿入して編集すれば、ある小テーマの一節ぐらいは容易に作れた。要は役立つ文献データが入力してあるかどうかであった。
 さらに、この「自動論文作成プログラム」の最後の改良として、引用文献リスト作りを自動化したプログラムもこれに付け加えた。引用文献リストは、それを手作業で作ると時間がかかるだけでなく、一度カード作りで入力した諸データを再度入力し直す重複作業を伴っていた。また当然に校正も必要である。こうした無駄な作業をはぶき、原本カードからのデータを写してそのリストに張り付けるようにしたので、再校正の必要もなかった。もちろん、すべての文献は簡単な操作だけで自動的にアルファベット順に並べられた。
 九月末から十二月始めまで、調査のため日本に帰った。十一月には友人夫妻と三人で、何十年かぶりに丹沢を縦走した。パースでは、ほぼ毎日のようにランニングしていたお陰で、まだまだ歩けたことで体力に自信を無くさないですんだ。
 また、この日本滞在中、わたしはもとの組合を尋ね、パースで準備してきたある計画を実行に移そうとした。それは、日本とオーストラリアの労働組合間の交流で、すでにパース側の地方評議会の承認は得ていた。話はスムーズにいき、二月の末に実施する計画として参加者を募集した。しかし、応募はわずか一名に終り、やむなく中止の憂き目をみた。二月はオーストラリア側には最適のシーズンだったが、日本側にとっては、年度末を前にした最多忙期だった。
 中止の経緯をパースに伝えると、地方評議会の書記長は、「また機会はあるさ、気にするな」とすこぶる大様だった。
 帰豪にあたって、わたしは組合より、退職金を前借りして持参し貯金した。当時でもオーストラリアは、一時ほどではないが比較的高金利が維持されていた。わたし達はその資金を銀行にあずけ、その利子をあてにした。


 わたしはなんとしても、自分たちのビザ問題を解決したいと考えていた。わたしは当面学生ビザで支障はなかったが、春子を含め今後のためには、学生ビザによるものではないオーストラリアでの制度的基盤の確保は不可欠だった。

 州政府の政変の後、大臣が変わり、わたしが紹介される先も変わった。それに連れて、わたしにはそうしたいわゆるコネ頼みの方法に可能性が薄いことが悟られるとともに、そうした他力本願な方法にも疑問が湧いてきた。わたしはそれまで、日本と同じようにオーストラリアでも政治的コネが働くと無自覚に考えていたが、何度か政治家やその秘書達と会ううちに、ある空気の違いを感ずるようになっていた。つまり、そうしたコネがないわけではないだろうが、政治家たちはわたし達の要望にきわめて親切だったものの、うんと慎重だった。つまり、選挙民や陳情を大事にはしていたが、政敵に弱点をつかまれないよう、大義名分はきちっと守っているようだった。
 わたしは、もっと地道で公正な方法に頼ろうと思った。
 ビザ問題の解決において何よりも問われるのは「エンプロイアビリティー」すなわち、雇用保障の有無の問題だった。つまり、政府にとってビザ発給は一種のビジネスで、永住ビザを授与できる相手は、この国で収入を得て、充分な税金を払う可能性のある人だけであった。つまり、就職はその必要条件だった。
 一方、そのころまでにわたしは、地区の労働組合代表者や労働党の議員などに多数会い、そうした経験からある印象を深めていた。つまり、日本の労働組合の情報がほとんど何も伝わっていないとの実感だった。
 そこでわたしは、日本の労働組合についての小さな英文新聞を発行したいと、研究休暇からもどった監督のピーターに相談してみた。その結果、彼はおおいに賛成であることと、大学から印刷と郵送の援助がえられそうなこともわかった。
 八月、わたしの四十五歳の誕生日を記念して、わたしはその小新聞の発行を開始した。創刊号はA4サイズ裏表二ページだけの紙面であったが、五十枚ほどをコピーし、世話になった組合役員や議員に大学をつうじて郵送し、残りは学内で配布した。
 実はこの新聞の発行にはもうひとつの隠された目的があった。微々たるものながら、わたしの売名である。すなわち、今後の永住ビザ獲得を有利に運ぶために、この新聞の発行を通じて、わたしがこうした公的活動をしている実績をつくり、またわたしの名前をこの界の関係者に知ってもらっておくことであった。
 ともあれ、創刊号はまあまあの評判をえ、わたしは毎月発行する決心をした。論文の制作をするなかでの毎月の作業であったが、わたしはそれほど億劫さは感じなかった。記事の量もそれほど多くなかったし、記事も論文用に集めている材料で充分役に立った。
 やがて発行部数とともに送付先も増え、オーストラリア全国から一部は少数だが欧米の労働組合組織にも送られるようになった。それはほんとに小さな新聞であったが、後にそれが予想をこえる効果をもつのであった。


 こうしてなんとかわたしの研究生活にリズムが出来はじめようとした十月、ピーターがシドニーの大学に移ることを決めたと言ってきた。そんな事態はわたしは予想もしていなかったので、正直なところ大ショックであった。

  博士論文作成は、学生と監督との一対一の人的信頼関係が基礎となる。それがうまく行っていないと作業全体に深刻に影響する。ことにわたしのような留学生の場合、監督に期待することは通常の師弟関係以上の諸事にわたることが多い。わたしは、情けないながら、なにか失恋でもしたかのような落胆にとらわれた。
 わたしはやむなく、代りにわたしの監督になってくれる教員に当たった。二、三の候補から一人に絞り込み、ある人にお願いしようと思った。高齢のため一線からは身を引いているがキャリアのある著名な非常勤講師だった。だがわたしはどうも親しみを持てず躊躇していた。結果的に、この講師には決めなかったが、この講師はその三ヵ月後、心臓病で急死してしまった。高齢だが熱心なスポーツ愛好家だったが、それが命取りとなった。
 わたしはその頃、シドニーにある魅力を感じ始めていた。と言うのは、それまで、パースというオーストラリアの州都ではいちばん隔離された都市で勉強してきた。それは、入門的な領域を学ぶには静謐で無難な場所であったが、政治、経済の中心は、なんといっても東部諸州であり、応用的な研究の段階にパースは不向きであった。しだいにオーストラリアの事情が判ってくれるにつれ、わたしは中心地への移動の必要を感じ始めていた。
 しかし、わたしと春子は、あくまでもパースで生活し論文を書くことを前提としてきた。家も買ったし、春子の仕事もなんとか定職らしいものができつつあった。そんなわれわれに、当時シドニーはまだまだ自分達の圏内ではなく、東にある遠くの大都市だった。
 十月になって、ピーターの移転先であるニュー・サウス・ウェールズ大学(UNSW)労使関係学科の主任教授がわれわれの大学を訪れた。わたしはピーターを通じて彼に紹介された。この教授はピーターが以前に博士号を取った時、彼の監督でもあった。

  この教授は、わたしが書き終えた日本の労働組合の歴史の章を読みたいという。わたしはさっそくそのコピーを彼にわたした。数日後、彼はこの歴史をモノグラフ(専攻論文)として出版する気はないかという。いきなりの話でわたしはびっくりするばかりであったが、もちろんそれはわたしを有頂天にするに充分な話だった。
 彼が言うには、UNSWの労使関係学科には出版部があっていろいろな研究成果を出版しているシリーズがある。その中でちょうどアジアに関するシリーズが始まる予定で、その第一号に最適な研究成果だという。確かに、アジア関連なら、日本ものはかならず必要であったろう。
 必ずしもこの出版の話につられたわけではなかったが、こうしたわたしへの勧誘は、漫然と論文を書き続けなければならないパースでの環境と比べ、大きく刺激的だった。そうしたよりアカデミックな雰囲気は、わたしを動かすものがあった。
 それにこの教授は、わたしの論文のテーマについても、国際比較より、日本に焦点を絞ることをすすめた。この助言はわたしには決定的だった。後に書くように、この助言でわたしの論文作成の見通しがぱっと開ける急展開をもたらしたのであった。
 わたしは、自分の論文作成に関する限り、シドニー行きを固めつつあった。
 わたしは春子から強い反対があるかと予想していた。だが、たしかに一人残されることへの不安は強かったようであるが、春子は意外に、特にひとつの理由をあげてシドニー行きをすすめてくれた。それは、シドニーで一人で生活した方が、英語、とくに会話がうまくなれるとの点であった。二人でいると、どうしても日本語で頼り合うところがあり、わたしのシャイな性格を知る春子は、冷水に飛び込むよう奨めていたのだった。
 今になって思い出そうとするのであるが、この別居という重要な決定を、わたしは自分達が意外にあっさりとそれを決めてしまったように感じている。もちろん、先になにが起こるか不安はあったし、四千キロというシドニーまでの距離が自分達にとって大きな物理的隔たりになることにも無知でいたわけではなかった。ただ、ずいぶんと実務的な検討が先に立ってその実行を決めてしまったように思う。いわば、体力の限界をかえりみることなく、勝利のために全力で競技にのぞんだ運動選手のように、わたし達は、自分達の絆の「体力」をあまり考慮することなく、ただ、目標達成のみを考えていたようであった。
 年末には、わたしはUNSWから受け入れを認める通知を受け取った。
なんだか、出版をえさにしてうまく釣られたような気がしなくもなかったが、うまいところを突くもんだとも思った。ともあれわたしはシドニー行きをそのようにして決めた。それは、ともかく博士論文をなんとか完成できる場所を確保したかったし、さらに、ビザの問題に関し、雇用の機会を作るのもシドニーがより有利であろうことも、その判断を後押したからであった。


 一九九二年二月二十二日の夜行便で、わたしはパースをたってシドニーへ向った。
 この出発がふたりの離別の第一歩になるとは、その時は夢にも思っていなかった。
 翌早朝、わたしはその先二週間を厄介になる友人のアパートをたずねた。シドニーの南西部の坂の多い街にそのアパートはあった。かれはパプアニューギニア出身の学生で、彼もわたしと同じピーターのもとで博士論文を書く予定にしていた。ピーターが徒歩で五分ほどの所に新居を定めていたことから、彼はその場所を選んでいた。
 到着の翌日、ニュー・サウス・ウェールズ大学をたずね、パースで会っていたブラウン主任教授と再び会い博士課程登録の詳細を相談した。受け入れはもう決定されていたので、手続きはただ所定のプロセスをふんでゆけばよいものであった。
 この大学を訪れ、わたしは少々がっかりとさせられた。当大学は、戦後に設立された比較的新しい大学で、西オーストラリア大学と比べ、歴史的にもそのたたずまいという点でも、大きく見劣りしていた。ことにそのキャンパスはシドニーの東部の市街地にあり、都会型とでも言うか、さほど広くないその敷地にビルが所狭しと立ち並び、潤いを感ずるような環境にも重厚な雰囲気にも乏しかった。ただ当大学は新興大学だけに、新しい実際的学問分野において充実しており、ことにビジネス関連の学部は他をリードしていた。
 この二週間中に、後にわたしのオーストラリア滞在に大きな影響をおよぼすことになる人物にめぐりあった。当時シドニー大学の教授であったボブ・ウッドライトとその教え子、ヨセフ・デービスであった。ふたりは親子ほどの年齢差があるが、オーストラリアの左翼運動のなかで世代をまたぐ幅広い影響力を形成し、一九八九年には共著で『 The Third Wave : Australian and Asian Capitalism   』 (邦語訳『日豪摩擦の新時代』)という本を出版していた。この本は、当時の日本経済のアジア太平洋地域における支配力に注目したもので、オーストラリアの運命を、英国、米国、そして日本という三大パワー関係の中において分析していた。
 こうした二人にシドニー大学の教職員クラブで会った時、わたしは彼等に面接試験されたも同然だった。彼等はわたしの小新聞の読者で、それのみを通じてわたしを知っていたが、わたしに会う機会を捜していた。当然に日本には強い関心を持っており、仕事を協同してできる日本人を求めていた。後で聞いたところによれば、この面接試験の結果は、「まさに求めている人物が現れた」という判断だったという。
 こうして面接に「合格」したわたしは、それ以降、かれらのプランにしだいに関わって行き、今日に至るオーストラリアでの生活の基盤を形成してゆくことになる。
 博士論文に関連する労働運動研究の面でも、ふたりを通じてさまざまな貴重な機会にめぐりあうこととなる。ふたりはオーストラリアの労働運動にも大きな影響力を持っていた。ふたりのお陰で、わたしは豪州の労働運動の指導的立場の人達と容易に接触でき、わたしの研究のよい刺激や材料となった。また、アルバイトの面でも、単に経済的収穫におわらぬ有意義な仕事に関わらせてもらうことになった。
 こうして、パースにいた時とくらべると、わたしの研究の環境は格段に動的かつ実際的なものとなり、その後の研究のための肥えた土壌となった。


 ブラウン主任教授からは、前年の暮れに会った時、論文のテーマについておおむねの助言をもらっていた。「比較より日本に絞りこんだ方がいい」との指摘であった。あらためて教授に面会してさっそく研究テーマの詳しい助言をもらった。
 それまでわたしは日本とオーストラリアの建設エンジニアリング産業における労働組合運動の比較論を書くつもりで準備してきていた。教授はこの計画に対し、「オーストラリアで英語で書くのなら、日本のことに焦点を絞った方がよい。その方が求められている」と要点をついて言った。
 わたしはそれを聞いて「これだ」と思った。というのは、それまで比較論に取り組んできていたが、どうしても両国の研究分析の深さに差が出てしまうことが悩みだった。わたしにはやはり日本の分析の方が強い。そこで、教授の助言にそって、主題を日本に絞ることにした。そして、対象は広がるが日本の建設産業全体の労働組合運動を歴史的に述べることをテーマにすることにした。
 この方向転換によって、わたしの頭にたれこめていた霧が晴れるように、やるべき作業の視界がみるみる得られるようになってきた。それと同時に、不思議なことに「やれる」気持ちがわいてきたのだった。
 わたしはこうして、ブラウン教授の評判の理由を発見していた。「名人はいるものだ」と思った。
 研究計画を練り直し、新たな実行計画をたてた。そしてこの計画のもとに、三月上旬より三ヵ月間日本に帰り、広がった対象にみあう資料収集、聞き取り調査を行なった。

 日本での建設産業に関連する労働組合はいわばわが領土であったので、こうした調査は思いのほか順調にすすんだ。そればかりでなく、片寄らないバランスのとれた研究対象分野を得るため、左右の思想的対立を越えた広範囲な組合にアプローチした。
 こうした調査を行なううちに、この分野で大学教育、労働経験、組合運動、そして人脈をもち、しかもその分野を研究対象としようとしている人などそうはいないことに気付き、自分のやろうとしている仕事の独自さを実感した。そして同時に、この研究のアカデッミクな意義についても、自負のようなものが湧いてくるのを感じた。
 またこの日本滞在中に、モノグラフの印刷が終り、わたしにとっての初めての本が出版された。八十ページほどの薄く小さな本であったが、送られてきたその本を手にした時の感慨はひとしおだった。わたしにとって初めての本が英語での出版だったのは何とも面はゆい限りだった。その本は『Japanese business unionism : the historical development of a unique labour movement      』とのタイトルがつけられていた。


日本からシドニーに戻った後の緊急の必要は、それからの住居の確保だった。
 シドニーの住宅価格は、パースの二倍とまではいかなくとも、六、七割は高かった。わたしは日本の組合から退職金を前借りして持参していた。これに春子が非常用にと日本でへそくってあった資金を加えると、小さなアパートならなんとか買えそうだった。
 まもなく、ピーターの家から電車で二駅先に、駅からほんの二、三分の近さに、一部屋だけの小じんまりしたアパートをみつけた。

 さいわいピーターの奥さんが不動産事務弁護士をしていた。わたしに彼女を雇う余裕はなかったが、彼女から住宅取り引きの手続きを手ほどきしてもらい、このアパートの購入手続きをすべて自分でこなした。オーストラリアの法制度のしくみが解ってよい演習となった。その甲斐があって、八月の末までには引渡しの手続きがおわった。
 いったんパースにもどり、わたしの生活用品、衣服、研究資料、書籍などを荷作りして発送した。オーストラリア大陸を西から東まで横断する四千キロの引っ越しである。
 いざ荷物を発送し終わり、がらんとしたわたしの部屋を見ると、さすがに別離が実感となってこみあげてきた。
 そうしたパースでの最後の夜だったと思う。わたしは、別れの感慨に突き動かされて、もうしばらくはできなくなる最後の性交渉を春子に求めた。
 それまでのように、それ自体は「通常」のように行なわれた。しかし、それが最後の特別な機会でもあり、わたしは「通常」以上のなにかを期待していた。しかし、結果は期待通りには行かず、わたしは満たされないものを強く感じた。そして、つね日頃から胸にありながらも一度も口にしてこなかったことを、この夜、遂に言ってしまうこととなった。
 「いままで何回か聞こうと思ってもできなかったのだけれど、おまえは俺とのセックスを楽しんできたの?」
 春子はぎくっと身をこわばらせ、しばらく沈黙した後、表情をゆがめながら首を横に小さく振ってそれを否定した。
 「いつもではなかったけど、何回かはお前も楽しんでいるように俺には思えた。そうじゃなかったのか?」
 春子は「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返した後、何かを絞りだすかのように「わたしはあなたをだましてきたの」と顔をくしゃくしゃにして言った。
 それ以上何も言いたくなかったが、わたしをつき動かす力がさらに詰問していた。
 「それじゃあ、ぜんぶ、ふりをしていたということなのか?」「お前から求められたことは一度もないが、俺から求められた時はいつもいやだったのか?」
 いずれの問いにも、春子は声なくうなずいていた。とくに最後の、常にいやだったのかどうかについては、わたしは繰り返して確認した。
予感がなかったわけではないが、「いつもいやだった」とは強いショックがわたしをとらえた。
 さもしいものだが、わたしはセックスをあてにして、彼女が健康になるように努力してきたところがあったことは否めない。その日がいつかは来ると期待していた。
 そして、健康が回復した時のセックスとは、相互に働きかけ、求めあうものだと考えていた。ましてやいやいや受け入れるものなどではないはずだった。
 それまでに、春子の健康が目にみえて回復していたことは事実であったが、それがすこしも“彼女”を回復させていなかったというのは、わたしにはつらい発見だった。

  翌朝、わたしはシドニーへたった。
二日後、わたしを追っかけるように、春子からの手紙が届いた。涙のためと思われる文字のにじんだその手紙には、幾度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返されたあと、つぎのように続いていた。

 新居へのはじめての手紙がこんなになってしまいました。
十年も、二十年もいっしょに色々なことをしてきたのに、それが、いつわりだった、プリテンドだったなんて、なんて許されないことをしてきたのでしょう。
 プリテンドすべきと自分にいいきかせ、「もういやだ」「ヤメテ」と心でさけびながらも、私なりに必死になりながらも、だまし続けてきたのです。そうです、こんなにいい人、こんなに私を愛してくれているゴウちゃんを。
 ゴウちゃんも人間です。そして男です。わたしはそれを無視していたのでしょうか。そして私は女です。生きている女です。ごめんなさい。女でなければよかった。ごめんなさい。 

 シドニーで始まった研究者生活は直線的だったし、そうあるべきだった。
 そうとう衝撃であったはずの春子からの告白にもかかわらず、わたしはこの後、あたかも平静であるかのように過ごした。もちろん平静であるはずはなかったのだが、論文書きという責務は、わたしを修行僧のようにひたすら仕事に専念させた。わたしは、あたかも距離の囚人のごとく置かれており、その“格子のない牢獄”のなかで、ひたすら面会人を待つような思いで生活していた。
 だからこの後に、春子がシドニーに出張してきて、何回かわたしのアパートに泊まった折、わたしは彼女に、きっと腹の減った子供のようにだったろう、セックスを求めた。さらに、次の機会までの何か「つなぎ」のようなものがほしくて、一度、ポラロイドカメラを用意して、彼女とのセックスを写してみたこともあった。いずれの場合にも、春子はそれを拒否はしなかった。
 わたしは先の告白を忘れていたわけではなかったが、たとえ貧困にでも、未練がましくにでも、なんらかの湿り気を栄養源のように欲していた。
 こうしてシドニーでの論文作成の三年間、わたしは春子との肉体的な関係について、意識の上では、あえて便宜的にしか考えようとしなかった。また、無意識には、それまでがそうであったように、将来に問題解決をあずけようとしていた。そしてそれ以外のより重要と考えられる、精神的な絆や実際の心配事やその対処などに関心を集中していた。
 こうしたわたし達の別居による隔離効果は、あるいは計算されていたものかも知れない。後に彼女の口から聞いた言葉であるが、「この世になければいい」と思うほどにいまいましいものを、ほかでもないわたしから求められる板ばさみの中で、距離をとることは彼女の自然な選択であったろう。わたしのシドニー行きが意外とあっさりと決まったのも、そうした理由があったからかもしれない。


 新しく引っ越したアパートは、小さいながら、わたしは気にいった。

 自分で捜し、自分で手続きして手に入れたことも愛着の理由だったが、四階建ての建物の最上階に位置して眺望がよく、窓も北、東、西の三方に開かれており、明るく日当りがいいだけでなく風通しも抜群だった。キッチンにある東側の窓からは、シドニー中心街のビル群も遠望できた。
 この部屋の中央に、事務家具店で買った中古の大型机を北向きにすえ、大きな窓を通して広々とした景色が眼前に見えるようにした。その背後には三つの本棚をうまく配置して入り口との間仕切りにした。椅子は、同じ店で見つけたドイツ製の背もたれの高いひじかけ付きにした。これも中古だったがいい値段がした。しかし、椅子はわたしがこれからの数年間の大半をその上ですごすのであるから、最もいいものを用意したかった。
 このアパートを決めたもうひとつの理由に、その立地の良さがあった。三分もしないでゆける駅には急行も止ったし、駅前からは、空港に行く急行バスも出ていた。商店街も近く、そのぶんやや騒音が気になったが、悩まされる程ではなかった。
さらにこの場所は、近くに流れる川沿いに遊歩道がもうけられていて、わたしには格好のジョギングコースとなった。また、近くに公設の五十メートルプールもあった。これは屋外ながら温水で、冬でも泳ぐことができた。料金も微々たるものだった。
 こうした公共施設を利用して、わたしはほとんど毎夕方、何らかの運動をするようになった。論文書きというのは、先述のようにアカデミックな「重箱の角つつき」で、毎日そればかりやっていると頭が正常ではいられなくなる。しかもそれを何年も続けるわけであるから、自己の健康管理が決定的に重要となる。パースではもっぱら走るのみだったが、このアパートを選んだおかげで運動のメニューを広げることができた。
 毎日三十分ほどのジョギングか水泳は、脳の中まで血液をどんどんと循環させ、脳の中にたまったその日の作業の疲労物質を押し流した。そして運動による身体疲労はわたしを不思議にすがすがしい気持ちにさせた。あたかも運動による疲労物質が、脳に「もういいよ、今日は良くやったよ」と思わせる、沈静効果を与えているようだった。
 もし、わたしがこうした運動効果を利用することなしにこの三年間を過ごしていたら、その途中できっと神経異常を発症していたことだろう。実際、博士論文に取り組んでいた学生が、途中で調子をくずして挫折したとの話をいくつか聞いた。
 博士号の修得とは、その論文のアカデミックな内容が問われるのは言うまでもなく必至だが、それ以前に、一種のサバイバルゲームとの一面も持っている。すなわち、その神経をすり減らす細密で孤独な作業過程を、心身の異常をきたさずに無事通過できるかどうかが試されるのである。要するに、そうしたトータルな自己管理能力が問われる、きわめて特異な試練である。あまりひとに奨められるものではない。


 十月に入ろうとする頃、大学の移転や引っ越し、そして単身生活がもたらした後遺症が、ようやく落ち着きはじめようとしていた。

 そうしたやさき、監督のピーターが、再び大学を移ると言い出した。翌年からの移転先の大学のめどがついたという。移る先はキャンベラのオーストラリア国立大学だという。前回は、わたしもシドニーへの移転にメリットを見い出して「同行」したが、今回はもう彼の移り気につきあうことはできなかった。
加えて、ブラウン教授も、この年を最後にわたしが後にしてきた西オーストラリア大学に移り、次年度から新設される経営大学院大学の主任教授になるという。わたしは、落ち着かないオーストラリアの教員事情にあいそをつかし、彼等には期待はあまり持たず、手続き上の必要と割り切ることにした。またそう考えられたのも、わたしの論文に、少し見通しができ始めていた証拠かも知れなかった。
 後任の監督は、失礼ながら何かを相談するにはもの足りないような人物だったが、わたしはかえってその方がいいと考えた。研究方針も順調に実行されてきていることだし、必要以上の指導はうるさいとも感じ、なんとか独自でやってゆけそうな気がしていた。
 それにわたしのテーマはなんと言っても日本の労働組合運動である。わたしよりそれに詳しい人物はその大学にはいなかった。わたしのうとい、論文形式上の指導をもらうだけで十分だった。
 わたしはこうして、ころがりはじめた車輪のような、自動運動する作業を続けながら、他方で、春子がパースで経験している苦労のことが気になっていた。
 彼女は、ワードサービスの会社のガイド部門の責任を担うまでになり、実態にはそぐわないながら、「部長」などといういかめしい肩書きをもらうほどになっていた。
 ガイドを現場でやっていた頃は、日本の旅行者とともに旅先をまわる仕事であったので、それなりの変化やお客さんとの親しげな接触があったりして、苦労のしがいも体験できた。それが一転してオフィスワークとなり、多くのガイドを机上で手配、管理する立場となった。それだけに、ストレスの多い、しかもあらゆる緊急事態に対応しなくてはならない、事実上、勤務時間に終りのないような仕事の責任を負うことになっていた。
 わたしは、ようやくなんとか元気を回復してきた春子を、またもとの病苦の暗闇になど戻らせたくはなかった。しかし、パースとシドニーとに別れ、しかも電話で連絡しあう程度では何もかももどかし過ぎた。春子に疲労がたまってゆく様子は、日ごとにぶっきらぼうで事務的となってゆく電話のやりとりからでもよく解った。何とか仕事を休ませたかったが、春子の強い責任感はそれでも彼女を仕事にかり立てていた。
 その頃、わたしは春子から電話がある度に、彼女の訴えや聞き取った状況をノートにメモしていた。後日、もし彼女が病気にでも倒れるようなこととなったとき、何かの役に立つだろうと考えたからであった。
 くわえて、相変わらず、ビザ問題がつきまとっていた。
先にパースからシドニーに移ろうとしていた直前には、留学生の家族への就労制限の問題が発生していた。政府の方針により、留学生の同伴家族に週二十時間の上限が新たに課されるというものだった。以前にはそうした規制はなく無制限だった。わたし達は「妻のフルタイムの仕事を予定して現在の研究生活をしている我々にこの制限が適用されれば、それ以降の研究継続は経済的に不可能となる。適用は新規の留学生家族のみにしてほしい」と政府に陳情した。その結果、制限は行なうが、大学院と博士コースの留学生の家族はその対象から除外するとの政府回答をえて、春子はほっと胸をなぜおろしていた。
 こうして就労時間そのものの問題はなんとか回避したのだが、ところがフルタイムの雇用の際、大半の雇用主は、身分として永住ビザ所有者を求めた。春子は、身分以外の違いはなかったので、あえて聞かれない限り永住ビザをもっていないことは隠していた。そのうしろめたさが春子のストレスをさらに増やし、また雇用主にはその弱みが利点だった。
 春子はそれに、その会社での仕事に見切りをつけたいようだった。日本人を見下すような雇用主の傲慢さが我慢ならないまでになっていた。加えて、春子の働きぶりを認め、そちらに来ないかとさそってくれている日本の旅行会社があった。
 そこでもしこの誘いに乗ろうとするならば、身分問題の再燃は必至だった。春子はあえてその点を尋ねてはいなかったが、正規な職につこうと望む以上、おそかれ早かれこの問題にきちんと対応し、豪州社会の“正式な”メンバーになることが問われていた。
 わたしはそれまで、論文作成に第一の優先順位を与えてきた。留学生である以上それは当然であった。だが、こうした制度的問題が春子を追い詰め、健康にさえ支障を与えはじめていると考えると、もはやそういう悠長な事態でもないのではないかと、優先順位の転換が必要と考えはじめていた。大学院の目標も達成したことだし、何も博士でなくとも永住ビザの獲得がまったく不可能というわけでもなかった。わたしは、移民コンサルタントなどをたずね、正攻法による可能性を探りはじめた。


 翌年の一九九三年の二月、春子の母親が入院した。緊急手術の結果、そうとう進んだ胃ガンであるとの診断で、あと六ヵ月の命との連絡であった。春子の母は、以前から体の不調を訴えてはいたのだが、かかりつけの医者が風邪だろうとの程度にしか考えず、早期発見が見逃されてしまった結末だった。

 そのあまりに急な悲報に、春子は、穴のあけれない仕事をともかく算段し、急いで日本に向かおうとした。ところがここで思わぬ事件がおこった。彼女がパース空港を出発しようとした際、通関職員からパスポートにビザがないと指摘されたのだ。というのは、その直前にパスポートを更新した際、春子は新しいパスポートにもビザを添付する必要があるのを知らずにいた。そのまま出国してしまえば、ビザを取り直さない限り再入国はできない。だがその職員からは日本でもその再取得は可能だと説明されたので、ともあれ春子はオーストラリアを離れた。本人のミスだが、なんともビザは厄介ばかり起こした。
 ところが、いざ日本でビザの再発行を申請したところ、それには何ヵ月もかかると聞き、春子はあわててわたしに連絡してきた。パースの古いパスポートのビザを移民局に提示して、ともかく早く再発行されるようなんとかしてほしいとの話だった。
 しかし、あいにくにその頃はわたしにとっても動きがとれない時だった。ことにわたしは学籍再登録をしなければならなかったのだが、それが本人以外による登録を受け付けておらず、それを済ませてからでなくては、わたしは行動できなかった。
 さいわい、パースにはわたしの新聞の読者である州政府の議員がいた。わたしはさっそくその人に連絡を入れて事情を話した。ただちに調査をしてくれて、そうした事情なら本人が日本で再発行手続きする際、大使館で便宜をはかってもらえそうだという返答がもらえた。わたしは学籍手続きを済ませた足で、ちょうど買ったばかりだったファックス機を持ってパースに飛んだ。古いパスポートのビザや書類を東京にファクスするなどして緊急の手続きをとり、ともかく一週間ほどで再発行までこぎつけたのだった。
 五月半ば、春子は、誘われていた日本の旅行会社に、身分問題はあいまいのまま、なんとか転職に成功した。前の会社の社長からは転職を難しくする圧力を終始受けたが、それになんとか耐えて、ようやく春子は、一歩、自分の希望に向かって前進できた。
 ところが、それはやりがいのある仕事ではあったが、春子には負荷の多すぎる仕事でもあった。というのも、最初の仕事は、その会社の事務所そのものをパースに初めて開設することで、しかもなにもかにもを一人でやらなければならないことだった。さらに開設まもない月末に、日本から大勢の団体ツアーをむかえなければならない予定となっていた。
 新事務所の開設と受け入れ準備を同時にしなくてはならない初仕事に飛びこんだのだったが、一人ではどうあっても無理に見えた。わたしはふたたびパースへと飛んだ。事務所を借りる交渉、手続き、そなえる事務家具の選択、注文、そしてその組み立て、設置、シドニーから到着した事務機器の配置、電気配線、文具の購入、挨拶状の印刷、発送などなど、これらを、通常の仕事と平行してしなければならなかった。わたしは結局十日程滞在して、事務所立ち上げの裏方役をして帰ってきたのであった。
 こうして、息も絶えだえの感じでともかく新事務所が店開きし、日本からの旅行者の受け入れが始まったのだった。
 そうしてなんとか仕事がころがり始めたのも束の間、八月半ば、夏休みを利用してパースを訪れていた一家四人連れが交通事故に遭遇、両親が死亡、二人の子供が重傷を負う事件が発生した。春子にとっては、もちろん想定すらもしていない大事件だった。
 春子は現地での会社代表として矢表に立たされた。日本から到着した近親者を空港に出迎えた時の心境を、「地獄」と表現して春子はわたしに知らせてきていた。
春子はこの対応に文字通り寝食のいとまも削って奔走し、両親を亡くし負傷して入院している姉妹への付き添いから、葬儀の段取り、執り行いまで、被災者を思いやった行動をとりながらも、全く初めてである何からなにまでも自力でやりとげたのであった。
 彼女の献身的な振舞いには、当初強い不信を持っていた被災親族も、最後にはその態度を和らげて感謝の念すら表わしてくれるまでにもなった。東京の本社は、模範的な対応であったと、春子の働きを世界中の支店に報告するほどであった。
 非常事態とはいえ、そうした通常の域をはるかに越える過酷な仕事を、春子は母の安否にはせる思いを胸に秘めながら行なってきていた。そうした仕事がひとまず落ち着こうとする頃、こんどは日本から、春子の母親の病状の悪化の報が伝えられた。

 ふたりはそれぞれシドニーとパースより日本に駆けつけた。さいわい死に際の母親には会えたものの、仕事のため葬儀には参列できず、後ろ髪を引かれる思いで日本を離れた。
 わたしには、春子と母親の間には他の姉妹弟たちにはない独特の絆があったように思える。その性格が母親に似ていたためか、父親が友人の借金の保証人となっため一家が破産の憂き目をみた際、小学生の春子はその一家の災難に奮闘する母親に大いに影響された。それ以来なのだろうか、春子は母親のおしえを忠実にまもり、また反面、母親の注目を得んがために懸命に努力するといった子供になった。成人してからも、彼女における母親の姿は常に自分の規範であるようだった。
 そうした春子にとっての人生の拠り所であった母親が早死したのだった。加えてその葬式にも出られなかったと自分の親不幸を悔やんで、春子はその後 ながく、深くふさぎ込んだ日々を送っていた。
 わたしは彼女のそうした母親との結び付きの強さに、正負両面を伴う母娘関係をみた。一面、春子は母の意思の強さと厳しいほどに現実的なものの見方をよく引き継いでいた。だが他方、母の影響が大きすぎ、自身の生き方が飲込まれているような側面もあった。そうした母と子であっただけに、その支柱を無くした春子の喪失感は相当なものだった。
 わたしは失意にくれる春子を癒そうと思い、「お母ちゃんはお前に魔法の呪文をかけたまま、その解き方を教えないで行ってしまった」と自説をといた。なんとかその落ち込みから立ち直る糸口を与えたかった。
 十月も末となってふたたびジャカランダの季節を迎えた。
 いくつもの困難を克服して、春子は自分の仕事に自信をつけてきたかのように見えたが、わたしは、過労による春子の健康への影響が終始きがかりとなっていた。
そんな折、春子がシドニーの支社に申請していた人員増加の要求が認められ、パートながら一人態勢の改善が少々すすむこととなった。二人までにはいかぬ一人半態勢だった。

 翌一九九四年の一月、シドニーは酷暑にみまわれ、乾燥しきった周辺の森林からブッシュファイアーが発生、窓からみまわすとあちこちの方角から煙が上がって、一時はまるで戦場のような騒然とした雰囲気となった。
 論文の制作は、この年に入るころにはようやく全体像が見え始め、それまでの紆余曲折した経過とくらべると奇蹟とでも言えるような、論文書き作業への集中と、それがゆえの目に見える成果があげられるようになっていた。
 こうした快進撃は、今から思い起こすと、春子への懸念は続いていたが、この年はわたしの父の老人ボケが始まったぐらいの心配事があった程度で、身辺に大きな問題が生じていなかったことが幸いしていたのだろう。そして八月頃には、その年末までになんとか論文を完成させられそうな見通しができるまでにもなっていた。
 そうした三月末からおよそ三ヵ月、わたしは仕上げの現地調査で日本にいた。
 ぼけ始めた父の世話で母の家事は増えていたが、でもそれ以外はほぼ平穏だった。
 この日本滞在中の六月半ば、ヨセフが日本を訪れ、二人で顧客の企業を訪問したり人に会ったりした。彼の日本訪問は初めてではなかったが、わたしと共の滞在は最初のことだった。そのため、彼にはわたしの実家に滞在してもらい、両親にも紹介した。
 当時七十六才であったわたしの母は、英語などわかるはずもないのに、彼との初対面に少しも気おくれしないどころか、親しげにそして堂々と日本語で話しかけた。何というか、息子の親しい友達ならなに人だろうが、いつものように迎えればいいと、信じて疑っていない風だった。また、そういう気丈夫な母をヨセフもおおいに気に入ってくれた。
 博士論文は、目算からやや遅れたものの、新年度が始まる前の二月末までに完成し、それを印刷、製本して、三月七日、大学の高学位委員会に提出した。
 思えば、英語学校の入学から十年と四ヵ月。年月はかかったものの、当初の目標をはるかに上回るレベルである博士論文の提出まで、無事とは言えないながら、なにはともあれこぎつけることができたのであった。完成した論文のタイトルは『Construction Industry Unionism in Japan』だった。
 こうしてわたしは大仕事を終えてともあれほっと安堵した。後は「まな板の上の鯉」同然に、すべてを審査にまかせてただ待つしか方法はなかった。
 また、もうひとつの懸案であった永住ビザ問題も、前年の八月末、移民問題専門の法律事務所に相談し、十一月までには、わたしの場合は確実にとれるケースであるとの見通しをもらっていた。またわたしに永住ビザが授与されれば、春子にも自動的に与えられるとの弁護士の見解もわたし達を力づけていた。
 そこで五千五百ドルという大きな弁護士費用だったが、将来のための必要投資として費やすことに決めた。
 そして、さらに弁護士の助言にもとずき、申請の方策として、ヨセフ達と始めていた会社にわたしを雇わせる方法により、この会社がわたしの申請に雇用保障を提供する態勢を整えることとした。
 そしてこの年末までに、ヨセフは会社の設立登録をすませた。これにより、申請の必要用件であるエンプロイアビリティーを満足させる段取りも整った。
 博士論文提出から三週間後の三月二十六日、遂にこの申請も終了した。これには、わたしの新聞発行の実績や審査中である博士号資格をはじめ、わたしに永住権を与えることがいかにオーストラリアを利するかを立証する諸資料を添付した。かくして、ビザ問題の面でも、後はただ移民省の決定をひたすら待つだけの状況となった。
 このようにして、わたし達のオーストラリア留学期の総仕上げともなるべき二つの重大任務を、一九九五年の三月、ようやくにして完了しえたのであった。
 

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