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 連載

相互邂逅 第二部




 MIRを終え、PhDに進んだということは、僕にとっては、日本の元の仕事への復帰の余地を自ら摘み取り、いわば、退路を断って、ほぼ完全に、オーストラリアでの生活に重心を移すことを意味していた。それは里心に終止符を打つ進展ではあったものの、オーストラリアでの自力生活を確保せねばならないリスクを含む選択でもあった。ともあれ、1989年末、オーストラリア上陸後5年にして、そうした親離れならぬ “国離れ” の決心をし、さらに、結果的には2年間の準備期間となった西オーストラリア大でのPhD時代をへて、1992年初め、いよいよシドニーのNSW大へと舞台を移そうとしていた。
 それにそもそも、僕の留学という方法には、外国に滞在するという目的を近似値として実現するとりあえずの手段であったとの側面があった。その本来の目的は、自分を全面的に異国にさらす、そうした未知の体験にあった。そういう面では、いよいよの本番に移ってゆく局面であった。
 ただ、僕は、自分をPhDへと押し上げながら、そうした未知の世界への一歩をあゆみ始めていたのだが、そうした高所な鳥の視点は今ならではのもので、当時の僕は、一歩前進したところで出くわす新たな現実課題に視野を奪われ、地上をはいずる視点を維持するのがやっとだった。

 その場がどこであろうと、生きてゆくとは生活との戦いである。
 それまでの土台固めの数年を経て、こうしてその戦いの場をオーストラリアに定めた僕たちは、そうした地上の視野を覆う主要な課題として、先にもあげた二つの問題――僕は僕でシドニー移転、そして、妻は妻で労働時間制限に悩ませられながら、ツアーガイドの仕事と本格的に取り組み始めていた。
 そうして、僕がシドニー行きを準備している時だった。連邦政府移民省は、突如、僕らにとって20時間という制限ですら重大な障害であるのに、留学生家族の労働を一切認めない、と言い出したのであった。
 当時、オーストラリアの経済は不景気の底にあり、失業率は11パーセントにも達していた。労働党政府が、自国民の雇用を守ろうと外国人による労働に制限をかけるのは理解できたが、すでに入国し20時間制限はありながらもそれを前提にして生活している者までをも対象にするのは行き過ぎだった。お陰で、妻の不安感とストレス度は極度に高まってしまった。
 そこで僕は、地元の労働党議員を通じ、政府に手紙を送り、その新規制が実施されれば、自分たちの留学生生活が実施不可能になると訴えた。ただ、僕は、そう手紙を書いたものの、政府たるもの、一度言い出したことはそうはたやすく引っ込めないだろうと予想していた。しかし、それは誤りだった。しばらくして、政府はこの新規制に関し、大学院とPhD学生の家族は除外すると発表したのだった。この変更に、むろん、妻は大喜びだったが、僕は、自分の訴えがそう実現したことに、むしろ驚きさえ見出していた。
 この体験も、僕にとって、オーストラリアの政治が、国民と大いに密接であると感じさせられる、さらに新たな実例となった。
 そうして窮地を脱した彼女は、その後、そのガイドの仕事にめきめきと上達と自信のほどを示し、雇用先である僕の翻訳アルバイトの会社のガイド部門で、最初は現場に出るガイドそのものの仕事をしていたのだが、やがて幾人ものガイドを取りまとめる手配や管理の仕事をこなすようになっていった。ただ、いずれの仕事をするにしても、それは日本の大手旅行会社の下請けの仕事で、やってくる旅行客は、そうした旅行会社が送り込んでくるパック旅行の、おびただしい数の参加者たちだった。
 やがて彼女は、その働きぶりがその大手旅行会社の日本側にも伝わるようになり、同社の現地担当者より、その日本の会社に移ってこないかとの声もかけられるようになった。その引き合いは、彼女にとって願ってもないことだったのだが、そこで壁となって立ちはだかったのが、それでも存在している20時間の労働制限の問題だった。いくら働きぶりがよくとも、時間の制限があっては話は別であった。
 そのようにして、僕らには、学生としての身分をなんとかしなくてはならぬ必要がいよいよ切羽詰まったものとなってきていた。むろん、僕が取り組んでいるのはPhDで、最高位学位とはいえ、ビザ上は学生に違いなかったが、その目的を含めても、果たしてそれが本当に必要なものなのか、疑問に上るようになっていた。言い換えれば、僕は、自身と妻のふたつの課題を背負い、その二重に重い負担感から、だんだん、 “虻蜂取らず” となるよりいずれかを選択すべきではないのか、との現実的考えが頭をよぎるようになっていた。それに、修士学位はすでに得、永住ビザへの変更にはより有利となっており、ビザ問題という視点からでは、あえて深追いしてPhDに挑まずとも、それは断念してでも、永住ビザの取得を優先することが、現実性という面ではより賢明な判断にも見えたからであった。
 ただ、永住ビザの取得には、アルバイトとしてではなく、定職としての雇用関係の樹立が条件となっており、仮に、PhDを断念したからといって、即座にそうした雇用先が得られる保障があったわけでもなかった。ことに失業率が十パーセントを越えて高止まりしている状況で、仕事探しは困難を極めていた。H講師が探ってくれていた西オーストラリア政府関係の仕事についても、折悪く、州政府内部で政変が発生し、せっかくの話も潰れてしまうハプニングが生じていた。ともあれ、職を得るとは、PhDを断念しようとなかろうと、それに勝るとも劣らぬ難関であったことは確かだった。
 そのようにして、職の問題が困難であればあるほど、僕は、永住ビザかPhD学位かと、課題を二者択一の問題としてとらえるようになっていた。それが、時期として、シドニーへの移転とも重なっており、ましてや、比較研究としての論文の進捗でも、苦しい困難に遭遇してもいた。

 今から思えば、そうして幾重にも入り組んだ課題を抱えつつ、そうとう苦しい思いの中で、シドニーへの移転の決断が迫られていた。確かに、論文遂行上の観点からは、その選択は固かったのだが、私生活の上では、その基盤を揺るがす重大な問題だった。なにしろそれは、少なくともその先の数年間、四千キロも離れた大陸の両端に離れて、夫婦別々の生活を強いられるのであり、さすがに僕も決断ができないでいた。そして、その思いは妻も同じはずで、彼女にも同様な迷いがあるのではないかと思えたからだった。
 だが、そうした僕の予想に反して、妻の反応は意外にあっさりとしたものだった。つまり、シドニー行きをむしろ賛成してくれて、しかも、僕にとって、そうした冷水に飛び込むような選択は必要ではないか、とむしろ激励するようにいうのである。それは確かにそうなのだが、それでは済まぬ、情の問題があった。
 僕は今だに、妻のこの時の予想外の態度に、それがどうしてそんなにきっぱりとしたものであれたのか、一種の謎の思いを抱いてきている。それを以前は、それこそ地上を這う小動物の視点で、あれこれと分析もしてきた。だが、こうして自分の過去を、むしろ鳥の視点で大枠から眺め直してきてみると、個人としての各々が持つ成長環境上の、僕と彼女の間の違いが見えてくる。
 むろん、動物の視点での理由も外れてはいなかったろう。だが、それはそれとして、そこで見落としていたものがある。つまり、人が負う、個々の生命に与えられている設定の違いが、物の見方、生き方、選択の差となって、人の人生を個々に彩る。そうした長い眼でこそ見られる今ならではの視界がある。
 それによれば、その僕にとっては意外な妻の対応も、むしろ、それまでに僕が彼女に見せてきた、僕の側の対応が、彼女には意外な態度の連続であったのではないか、との視点も生む。そしてそれが繰り返されることによって、彼女の側に、僕に対する、ある種の見切りの決断を次第々々に発達させてきていたのではなかったのか。むろん、生活基盤が互いに依存し合っている状態では、そうした決断の実行は困難であろう。しかし、それぞれに自活の自信ができ始めたとなれば、それすら可能となる。
 僕らがそのような微妙な環境にあったその頃、僕らの間に何かについての議論があった後など、彼女がよく口にした言葉がある。
  「あなたはいつも正しく、いつも私が悪人」 。
 むろん、このシドニー行きに際した彼女の対応は、彼女にとっても、そうとはっきり意識できた上での選択ではなかったろう。そうした個人の意識を越えた、潜在的な選択、意識外の選択、とでも言えるような何かが、気がついてみるとそうした道を選ばせていた、という選択であったのではなかろうか。それに、健康の面でも、それまで幾年も長引いてきた病気の後遺症に決別でき、さらに、仕事の面でも、自分を生かしうる対象を見つけつつある際、自立できる自分自身を現実として射程に収め始めていたのではないだろうか。
 そういう意味で、今にして思えば、彼女と僕とには、その頃、それ以上を、対として、共に歩んでゆく可能性が、尽きかけようとしていたのかもしれない。

 1992年2月22日の深夜、僕は、バース発シドニー行きの夜行便の機中にあった。
 かくして、いろいろな伏流が合流して、流れはシドニー行きへと動いていた。そして、その移動を下準備するため、ひとまず二週間の予定で、僕はシドニーへと向かっていた。
 当時、H講師が監督するもう一人のPhD候補生が、やはりシドニー行きを強いられ、僕より先に移転して、H講師の新居近くのアパートに住み始めていた。僕はそこに居候させてもらいながら、新たな所属大学となるNSW大学をたずね、再会するMIRコースの主任教授に、僕の研究の今後を相談する手筈だった。
 実は、このP主任教授からは、先にパースで会った際、僕の研究テーマについて、ある助言をもらっていた。それについて、僕はより詳細で具体的指導をもらいたかった。つまり、P教授は、僕の研究について、比較研究より、テーマを日本のみに絞るべきだというのである。彼によると、どうせ英語で書くのであるから、日本のことを詳しく述べる方がより望まれている、という。確かに、不慣れな外国人が、英語上ではすでに研究し尽くされているだろうオーストラリア側の対象に、寸足らずな見解を並べて比較したものより、英語上では触れられたことのない外国側の対象を詳細に述べることの方が、英語圏の学問上での貢献としては、より大であるとはいえる。
 それに、P教授のその助言は、行き詰まりかけていた僕の比較研究に、実に有効な突破口を開いてくれた。というのは、僕にとっては、日本のことなら、それこそ、P教授にすら引けをとらない自信はあった。つまり、テーマを日本に絞り込めるのなら、僕は自分の論文の完成に一挙に見通しが持てそうな気がしていた。そこで、教授と相談の上、僕は、論文のテーマを、 「日本の建設産業労働運動の歴史」 と改め、比較研究を捨てた。この変更はしかし、日本側については、 「建設エンジニアリング産業の労働運動」 としていたものから、建設産業全体のそれへと、対象が大きく拡大するものではあった。その拡大は、それまでの準備を不十分なものとさせ、無駄となるオーストラリア側の調査結を生んだが、ともあれ、日本の建設産業のことなら、何とでも料理できる自信はあった。
 このテーマ変更によって、なによりも、漠然とはしながらも 「やれる」 といった確信と見通しが湧いてきたのは決定的に大きかった。何しろ、そのテーマ変更をきっかけとして、急に気分が明るくなれたのである。止まりかけていたエンジンが、再び、勢いよく動き始めたのである。そして、僕は、そうしたP教授の助言をもらいながら、学生指導の名人はいるものだな、と思った。先のモノグラム出版の話といい、このテーマ変更といい、学生に、意欲を引き出させ、料理可能な材料を適格に与えうるその技量において、彼は確かに名人だった。

 つづく
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