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 連載

相互邂逅 第二部




 1989年は、僕が、とうとう、PhD(博士号)に挑み始めた年だ。
 とうとう、というのは、そもそも、僕の当初の計画のゴールは大学院の卒業で、それを成就したら、当然、帰国するはずのものだったからだ。
 それと同時に、僕はもとの職場から、3年間の長期休職をもらい、それを1年延長してきてはいたものの、それを、そうはずるずると延長を繰り返して行けるものでもなかった。それに、この4年間に日本の組合の側にも時代の変化は押し寄せてきており、僕が帰国したとしても、もとの仕事への復帰が難しくなってきている事情も、遠方からながら垣間見られていた。
 また、MIR という僕の採った大学院コースは、あくまでも、このオーストラリア行きを現実化させる “近似値” であった側面もあり、それが修了した場合でも、本来の目的が終わっていたわけではなかった。つまり、そうして、オーストラリアについての基本に明るくなるにつれ、いよいよ、自分の抱いている本来の疑問がにわかに頭をもたげてきていた。
 むろん、滞在を再延長すれば、もはや奨学金が期待できるものでもなく、完全に自力で切り盛りして行かなければならない事態の到来は自明だった。だが幸いに、翻訳のアルバイトにも慣れ、しかも安定して仕事が途切れることはなかった。また、妻が新たに始めたツアーガイドの仕事は、ウエイトレスのように3K的な仕事ではなく、日本人旅行者から感謝され、憧れられる仕事でもあって、本人はそれに満足し、誇りにも思い始めていた。そして、むしろ彼女の方がより積極的に、オーストラリアへのさらなる滞在を希望するようになってきていた。
 もともと僕らは、日本にある見切りをつけ、そうして脱出してきた身分であった。だが、後にしてきたはずの日本はバブル景気に沸き、その破竹の勢いはオーストラリア大陸のその西端の小都市にも波及していた。おかげで、そういう僕らにも、そのおこぼれが回ってきていたのだった。
 かくして、 「保険」 を必要としていた僕らのオーストラリア滞在の初期段階は過ぎ、自力で、それ以上の本格的滞在を決心するのかどうかの分れ目に来ていた。つまりは、旅行者から移住者へとその立場を移す、第二の時期に入ろうとしていた。PhD の開始とは、そういう跳躍の決定を意味していた。

 そうして取り組み始めた PhD というコースは、国際的水準の研究者を養成することを目的とする、最高位のアカデミック学位課程である。すなわち、その候補者は、この課程を通じ、模擬的ながら実際の研究生活に入る。つまり、その目的にそった論文作成作業を監督者の指導のもとで実施し、それにより、将来の世界に通用する研究者としての技能を鍛練される。授業は一切なく、論文作成のみのコースである。
 その課程にあっては、それまでに世界の誰もが扱わなかった独自なテーマについて、オリジナルな論文を完成させてゆく使命を負い、それを幾年も費やしながら全うしてゆく。だから、幸運な候補者は、そうして習作として書き上げた論文であっても、即、世界から――少なくともその言語圏から――注目され、出版される場合がある。逆に、うまくゆかなかった場合、その習作の完成はおろか、道半ばで、心身の健康を狂わせて脱落してしまうほどの危険も存在する訓練課程である。それはあるいは、その成功自体が正常な精神ではない証拠と、皮肉られかねない世界でもある。
 オーストラリアの場合、このコースは英国の伝統を受け継ぎ、アメリカ式の実用主義的なそれとは趣を異にする。より形式的とも権威的とも言える特徴をもつが、いずれにせよ、それは、一種の知識の職人を育てるギルド世界とも呼べるような、きわめて保守的な慣習を特色とする。したがってその候補者は、その監督者を直接の接点とするその権威の世界から、これでもか、これでもか、と打ちのめされ、威圧され、それでも立ち直って挑んで行きつつ、その伝統の作法を身につけさせられる。

 こうしたPhDコースに勇んで取り組み始めた僕は、案の定、待ち伏せていたひとつのトラップに引っかかった。
 というのは、その最初の数ヶ月、先にその就学許可のために提出していた研究計画概略を、実行計画に練り上げるため、構想を極めて詳細に検討し直す作業を行う。そして、それによって作り上げられた作業工程表は、最終的には、書きあげられた論文の事実上の目次ともなって形をなす。昔の建設時代に馴染んだ言葉でいえば、概略設計から詳細設計への進捗である。
 この詳細計画ができれば、あとは、それに基づいて、こつこつ、実作業を続けていくだけである。再び、昔の言葉でいえば、その設計通りに、工事を進め、完工させてゆくだけである。
 そして、そうと信じて、その工程表、つまり、目次の最初に位置するはずの、 「理論的枠組み」 の章に取り組み始めたのだが、実は、ここにそのトラップが潜んでいた。
 僕はそれまでの自分の生硬な経験から、理論は何よりも大事で先行するものと思いこんでいた。つまり、僕の疑問に解答を与える論説が世界のどこかに存在し、それを探し出し、それを適用することがその章の目的と信じていた。そして大いに力んであまたの理論書に取っ組み、その体系の秘密を解き明かそうと目論んでいた。しかし、そこで発見したことは、理論の森の中で道に迷った自分自身だった。完全に、自分がどこに居るのかさえ見失ってしまっていた。いうなれば、僕の頭は、理論と現実、つまり、抽象と具体とを逆転させてしまっていた。
 加えて、監督者であるH講師は、僕の詳細研究計画の完成を見とどけると、自分のサバティカル(研究休暇)に入り、海外に出かけて行ってしまった。その後半年間、むろん、手紙で連絡は取れるものの、今のようにメールでの瞬時のやり取りができる環境があるわけでもなく、僕は事実上の無監督状態に置かれ、一種の真空状態にさらされた。
 そうした数ヶ月間を過ごしてゆくと、行けども行けども、なんの成果も見出せない、堂々めぐりをしている自分を発見し、それに大いに焦った。何か、気が変になりそうな、そうした行き詰まり感、空無感だった。どうにかしなければ、と思った。
 そこで、その窮地から抜け出るため、どうせH講師が戻ってくるのは数ヶ月先だし、他の誰からもその期限を強いられているわけでもなく、何をやろうと僕次第と気を取り直し、僕は興味のそそられる、MIR時代の副産物である自前の文献カードシステムの改良作業に取り組み始めた。

 その詳細な説明に進む前に、ここで、PhD論文の “作法” について、少々説明を入れておく必要がある。
 その 「作法」 というのは、僕が 「他人の褌
(ふんどし)で相撲をとる」 と呼ぶ、議論進行上のルールである。それは、自分の考えを述べるにあたって、その展開を、既に誰かが述べた既存の論説を用いて――つまり、それが著名な人のものであればあるほど、自分の見解に権威付けができる――組み立て、その結論部分での最後の一味のみ、自分の意見を添えるという鉄則である。
 この 「他褌相撲」 は、最初、なんと面倒な作業かと思わされたのだが、そうした作業の繰り返しから、やがて、自分が考えていたことが世界の論述界のどこに位置するものであるかを認識する、 「学問的位置づけ」 を行っていたことと覚るようになった。いわば、アカデミック世界の地図上のどこに自分がいるのか、それが解ってくるようになる。これは言い換えれば、何がすでに論じられ、何がまだ論じられていないか、それに気付く作業でもある。アカデミック世界とは、そうした積み上げが、厳密に、かつ、延々となされてきた、煉瓦積構造体なのである。
 したがって、最初に研究計画を作る際、まっ先にしなければならないことが、自分の予定しているテーマが、これまでに世界の誰によっても論じられたことではないものであることを確認することである。であるが故に、PhD論文は、たとえば、「何々に関しての、何々の期間における、何々理論を適応した、何々的考察」、といったような、それこそ、重箱の隅をつっつく作業にならざるを得ない。
 そうして僕が選んだ論文のテーマは、自分の詳しい技術系の労働組合運動の、その日豪比較であった。ざっと調べてみても、こうした特殊な分野の労働組合運動どころか、日本の労働組合運動自体ですら、PhD論文によって取り上げられた形跡はなかった。それに僕は、そうした学問的オリジナリティーより、その比較を通し、日本の労働運動の弱みの根源を探ろうとする、あたかも病理学者的観点にのみ関心があった。

 こうしたPhD論文の定石を念頭に、僕は研究を開始していたのだが、ここで話題を先の文献カードシステムの改良作業にもどすと、それが日豪間の比較ということから、当然に、その文献にも日本語のものが大量に登場せざるをえなかった。そして、そのほとんどは英訳などされていない極めて国内的なものだ。つまり、そのカードシステムはそうした日本語文献も扱えなければならなかった。いうなれば、そのバイリンガル化である。
 ここでさらに詳細に触れておきたいのだが、僕は、こうした作業を、マックのオリジナルプログラムである 「ハイパーカード」 を用いて行った。この汎用プログラムは専用の言語を持っており、大きさも内容も自由なカードを作れたばかりでなく、その言語を使って、様々な命令を実行できた。それは、簡略化されているとはいえ、事実上の一体系のコンピュータ言語だった。僕は、 「ハイパーカード」 に出会って、コンピュータをプログラムすることの面白さを知った。
 そこでの改良作業だが、そうした改良には、さらに是非加えたい他の機能があった。
 そのひとつは、僕にとって英語は第二言語で、相変わらず、英語で文章を書くことに四苦八苦していた。すなわち、この改良には、なんとか 「翻訳支援機能」 も盛り込ませたかった。幸い、それまでに、ノートにして数冊の、熟語集や論文に適した表現文例集を作ってきていた。しかし、それらも、それらの事例に出会った度に記録を繰り返したもので整理されておらず、いざという時、その必要なものを見つけ出すのに苦労していた。また、この面でも、この翻訳支援機能には、日英、両方の言葉が扱えなければ意味をなさなかった。
 ちょうどその頃、日本のあるベンチャー企業が、マックの英語環境のOSを使って、日本語を表示できるプログラムを売り出したことを知った。さっそくそれを取りよせ、自分のマック入れてみた。すると、それまでアルファベットしか表示しなかった外国製マックの画面に、なんと、日本語文字が出現したのだ。僕はまるで手品を見たように驚かされた。タイミングのよいこのプログラムの開発者に大いに感謝し、僕は、その日本語変換機能をフルに使って、僕のマックをバイリンガルにし始めた。ちなみに、それまで僕は、日本語をローマ字で入力し(引用文はやむなく、そのハードコピーをファイル化していた)、まがいもののバイリンガル化に甘んじていた。だがそれはいかにも陳腐で不満この上なかった。それがこの日本語表示プログラムによる本物のバイリンガル化である。それは僕にとってどれほど貴重な進歩であったことか。やがて僕は、その両国語を受け入れるマックに、あたかも自分の友であるかのごとく愛着を持っていることに気付いた。
 一方、論文の巻末には、その議論に用いられた参考文献のリストを付すのが必須で、通常、そのリストは膨大な数の文献や刊行物を扱う。僕の場合でも、それは数百冊にもおよんだ。それを、アルファベット順に、一冊、一冊、タイプし直す作業は実に時間を要する。僕は、MIR時代の論文作成でその苦労を体験していた。しかも、タイプし直した以上、その校正作業も当然に避けられない。
 そこで、そうした文献情報は、もともと、各々のカードを作る際に、一度は打ち込まれている内容であり、それらを、必要な順番にコピーし貼り付けることをコンピュータにやらせれば、その煩雑な作業を省力化できると考えた。しかも、それはコピーなので、もとの打ち込みさえ正しければ校正の必要もない。
 さらに、カード検索に使うアプローチ項目についても、重要な改良必要点があった。その雛型のプログラムには、著者名、書名、出版期日、キーワードなどの検索項目が備えられていた。だが、それだけでは、膨大な数になってきていたカードの検索には不十分だった。そこで僕は、図書館のあらゆる文献に付されている図書番号に注目した。
 これは、ディーウィ・デシマル・コード(DDC) と呼ばれる図書整理番号で、この世に存在するあらゆる知識を分類しそれに番号をふる方法であった。僕はこの分類体系を説明した書籍に目を通し、その網羅さとともに、そういう発想をもたらした文化――おそらく19世紀の英国――に、ある驚異を抱かされた。そして同時に、これは使い物になるとも覚った。そして、その分類法を僕のカードにも導入した。そして合わせて、このDDCでは、国別の表示は、歴史や地理に絡んで行われるものの、他の項目に国別の分類を与えるには不便だった。そこで、DDCの国別コードを、独立した検索項目としてカードに加えた。
 こうして、僕のカードシステムの検索には、合計6項目からのアプローチが可能となり、もはや、どんなカードであっても、事実上、その検索から取りこぼされ、死蔵されてしまわないようにした。だが他方、それが完璧であればあるほど、選び出されてくるカード数は多数におよぶ。そのため、検索には、互いに項目を重ねて絞り込むクロス検索機能も付けくわえた。こうすることにより、たとえばある特定なテーマについて、網羅されかつ、国別に分けた参考文献やその引用文が、たちどころに抽出できるようになった。
 こうして、僕の論文書きの作業は、その個々の議論の展開の際、この文献カードシステムが選び出してくれた、あるテーマに関連した幾つかの引用文、つまり、先の 「他褌相撲」 の諸ふんどしを、あとは、スムーズな議論になるようその順序を変え、また各引用文どうしのつなぎの文章を入れるなどし、そしてその最後に、自分がそうした議論の結論として述べたいことを 「小括」 として付け加えるのみとなった。
 こうして、論文書きの手作業部分を省力化し、それによって浮いた思考力を、全体の議論の構成や深化に振り向けることができるようになった。
 むろん、日本語文献の引用にはその翻訳も必要で、それも含む英文作成には、 「翻訳支援機能」 が僕の乏しい言語能力を大いに助けてくれた。おそらく、こうした 「翻訳支援機能」 が完璧に頭に入っている言語熟達者には、こうしたブログラムは滑稽なものにも見えたことだろう。

 僕のこの一連の 「副作業」 は、文献カードのコンピュータ化を目的としたものであったのだが、それをプログラム化する――ことにDDC文献整理システムなどと出会う――作業を進めるうちに、思いがけないことに、世界の知識の全体系がどういうものなのか、その何がしかを見渡せるようになった。と同時に、それまで、論文書きとは、すばらしく頭脳明晰な人が、その頭脳の駆使によって、そしてそれのみによって完成できる稀有な産物と信じてきていた。だが、その作業過程をそう分化、技術化することによって、つまりは、その明晰な頭脳が果たすだろう働きの一部をコンピュータを代用することによって、そういう論文書きに、僕にでも迫りうるのではないかと元気付けられてきた。いうなれば、中年になって衰えた頭の働きも――少なくともコンピュータは物忘れしない――、このプログラムで補完できるのではないか、と考えるようになった。
 こうして僕が 「自動論文書きシステム」 と呼ぶひと組のプログラムは形をなし、何とか自分の実用には耐えうるほどのものとなった。
 そうして、確かにこの 「自動論文書きシステム」 は有効で、僕のPhD論文は完成に至るのだが、それは、だからと言って 「自動的」 に成し遂げられたのでは決してない。
 それは、それでもなお、あるいは、むそろそうであるがゆえに、人間にしかできない、そして、僕がなさなければならない働きを、明瞭に浮上させることとなった。
 また、それ以前に、こうして 「副作業」 に成果があったとしても、僕が理論の森の中で、まだ道に迷ったままでいることには、何らの変化も前進も生じていなかった。

 つづく
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