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両生学講座 第11回(両生生理学)
 



       自転車通い(補講



 いよいよシドニーにも本格的冬が到来し、先週は、ほぼ丸一週間、寒い南東の風がもたらす、つまり、南氷洋から吹いてくる湿った寒風がもたらす、冷えこむ雨模様の日が続きました。

 そうした惨めな天候のもと、さすがに自転車での通勤は無理と断念、車で通う日が続きました。そうした一週間を過ごした結果の、自転車通勤なしによる、「逆効果」 らしい体験です。

 私の仮説通り、自転車通勤がないことによる結果は、ふさいだ感じの、頭の重い日の連続でした。気分が今ひとつ前向きにならないまま職場に入り、仕事にのぞむので、そのできばえもさえません。また、当然、失敗もしたりして、なおさら気分は暗くなります。人との関係もうっとおしくなります。睡眠も、たびたび目が覚めたりして熟睡ができず、目覚めもすっきりしていません。要するに、自転車通勤による 「軽快化」 と反対向きの効果、すなわち、うつ偏向です。

 さて、今回の生理学的な議論は以上で、天候によって強いられた予期せぬ実験が、私の仮説を、さらに実証してくれました。

 さて、そこでなのですが、ここから先はその「補講」、つまり、生理学的領域ではなく、哲学あるいは芸術の分野の話となります。

 以上のように、自転車通勤、つまり、エクササイズの効果が、うつ偏向を除去するために明らかだとすると、ここに、二つの議論がおこりえます。

 ひとつは、依存としてのエクササイズ。つまり、薬依存とか、アルコール依存とかと並んで、その効果が欲しいためにそれに頼ってしまう、あらたな “病的” 状態があるといった視点です。もうひとつは、先 (両生学講座 第三回 (両生精神医学) うつ病論"仮説") でも論じましたが、うつ偏向が、いわば「芸術家の習性」でもあることです。つまり、うつ偏向が生み出す神経の繊細鋭利さが、芸術性のみなもとでもあるという視点です。

 ところが、このふたつの議論は、それぞれ断片的な視点からではそうなのですが、 《環境の被造物である人間》 という視点で捉えると、環境か人間かという、興味深いアプローチが見えてきます。。

 すなわち、「依存」 との議論は、環境を動かしがたい固定したものと捉えた場合、それに適応する方法についての良し悪し論です。「良し」 という角度では、前回の私の 「軽快化」 の手段としての自転車通勤となります。「悪し」 という角度では、それを 「依存」 として捉えるということになります。

 他方、「芸術」 の方の議論は、はっきりと人間を中心にすえ、環境の側を、変数としないまでも、対象としてとらえる観点です。人間の歴史に、もし、この働きがおこっていなかったとすると、それは何と平板で、退屈なものであったでしょう。

 そもそも芸術家は、そうした適応に無頓着だからこそ芸術家であり、他方、人間の生存は、幅はあれども、適応あっての結果です。一本立ちできぬ凡庸な芸術家、あるいは、脇見の多い生活者にとって、こうした二足わらじ、いや、二元性と威厳つけさせてもらいましょう、は、不可避の原則ということとなります。

 半日でも芸術に親しんですごし、半日を生活者としてすごす、こうした方法論の発見に60年を費やしました。

 晴輪雨筆。二輪半生の始まりです。

 (松崎 元、2006年6月14日)
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