リタイアメント・オーストラリア

「未来邂逅」というビジョン

《「人生二周目」独想記》第34号

20年ほど前、「相互邂逅」という半自伝を書いた。それは、自分が十代末から書き残してきた二十数冊のノートを数十年ぶりに読み直す機会があり、そのあたかも今の自分が若き自分と再会しているかのような、思いもよらぬ体験について綴ったものである。

それらのノートは、それが記されたその時点では、数十年後の自分が、まさかそれを手に取って開きそして読むなんてことは想像すらされておらず、あくまでもその時の自分の胸中を独白したものだ。他に何の意図もない、「一人称」の書残しである。 詳細記事

リタイアメント・オーストラリア

8月の「日平均訪問者数」(グラフ中の赤線)は、7月の1,986人からさらに185人減少して1,801人へと落ち、夏枯れの様相を示しています。

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私共和国
No.361

《健康道》のすすめ

「健康って何だろう」シリーズ(その4)

これまでに、「健康って何だろう」をテーマに3回健康って何だろう続・健康って何だろう続々・健康って何だろうにわたって考えてきた

本稿はそうした考察の延長だが、その「健康」度合いを見る社会的な尺度としてよく用いられるのが、政府統計上の数値である。

たとえば、二種の寿命、すなわち、介護が必要となる年齢と定義される「健康寿命」(2024年で、日本人男72歳、女74歳)と「平均寿命」(男81歳、女87歳)との間の「要介護」期間(男9年間、女13年間)がある。

そこでだが、統計によるこの「要介護」期間年齢にあっても、実際面では、その「健康寿命」の年齢を過ぎてもまだ「介護不要」の場合とか、反対に、それより前に介護を必要とする場合も当然にいろいろありうるわけだ。

そうした統計と実際のかけ離れの一例として、私はそのうちの前者である「健康寿命」後「介護不要」者の一人であり、それどころか、もう「平均寿命」にすら近いと言ってもよい。

つまりそうした統計数値から言えば、私のケースは顕著に例外的なようで、たしかに自分でも、主観上は当然視できている一方、そのうちに悪い宣告が下るのではないかと、一種の綱渡り感は否めない。

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8月22〈金

今日も雨。二日も運動抜きで、フラストレーション気味。そこで、泳ぎなら、雨は気にならない。問題は、行き帰りの自転車での濡れ具合。行きは雨の切れ目をねらえたたが、帰りは少々、降られた。二日抜いたあと、1000メートルを完泳。ただしタイムは29分57秒とほとんど30分。つまり、1ラップが3分ということ。昔、1500メートルで30分を切っていた往時の5割増しだ。

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